六話 ジェームズ・ケア・ハーディ
悲しい、ああ実に悲しい。
彼は不幸だった。
辺境の爺、ああ旦那様、が山深くへ潜るにあたって代理を務めることになっていた彼。
監視役の使用人が懐柔されていないか二重に監視することになっていた彼。
この地で妻を娶り子をなした彼。迷惑をかけたくないとぼやいていた彼。
そんな彼がこんなところで亡くなってしまうだなんて。
ああ、実に悲しい。
組織のことを考えれば、油断などしてはいけないというのに。
あんなにも酒に呑まれてしまって。
ああ、実に嘆かわしい。
ああ、ああ、
「ああ!実に、実に可哀想だ!何故、何故彼はこんなところで死ななければならないのか!」
酒に誘ったのも私だ。涼みに出ようと誘ったのも、私だ。
そして、よろけた先に崖があるのも、引き留めようと手を伸ばして押し出してしまったのも偶然だ。
「いやはや偶然、偶然とは実に恐ろしい。彼のような行いの良いものがああどうして!」
長く息を吐いた。夜が静かさを取り戻す。
「さて、彼への悼みは十分でしょう。旦那様が山へ出向かれてしまう前に急いで出立しないと。」
ようやく、山へ近づける。その自由を掴むだけの資本は持てた。
逸る気持ちを抑えきれずこのような結果になってしまったが、まぁ仕方ない。必要なことだ。
山には羽の生えた人間が居る。
そんな話を聴いたのは、猟師である父からだ。
父も、実際に見たわけではなく、父の父からの口伝だと聞いた。
雄大な空を鷲よりも大きな翼を広げて飛ぶ彼らを想像した時、まさしく天使のようではないかと。
ただ、その感覚はステンドグラスの光が差し込む自称敬虔な彼らには受け入れがたかったようで、父と母は磔にされた。
私は、恰幅のよい温和なマザーに導かれて父と母に向かって石を投げた。
その時の両親の顔は、憎しみと悲しみの混じった相貌は今でも忘れられない。
私はそれを悲しいとは感じなかったが、マザーからは再三と悲しかったでしょうと同情を受けた。
なるほど、悲しさとは他人の倫理観で表現するものなのだと理解できた。
驚くほど人は単純で、相手の望む感情を出せば相手は納得するのだ。
最初は面白いように動く彼らに面白みを感じたが、次第につまらなくなっていった。
その中で、私は彼らに、聖書通りであれば天使かあるいはハルピュイアか、に理解できないものを求めるようになった。
だが、全てを捨ててまで追いかける気はなかった。彼らに出会えた時、何も持たないようでは無力感に苛まれるだろうことは想像に難くない。
今回ようやく、ようやく彼らに一歩近づくのだと思うと心が踊った。
馬車は2週間後の朝についた。
僻地だとは知っていたが、代わり映えしない景色を日がな一日見ていると流石にうんざりする。
デリーからこんな離れた地に商館を建てようと思ったものだ。近くで硝石でも掘れるのか。
商館は一階建ての赤レンガ造りと小さく、隣の倉庫の四分の一ほどしかない。
長手のみの行と、小口のみの行が交互に組み合わさった壁面を見ると祖国を思い出せる。
玄関と商館の四隅に添えられた白い石柱が赤レンガの色をより映えさせている。
屋上と玄関に装飾された国旗をみて間違いないと判断する。
獣が咥えたノッカーを鳴らして待つこと一煙。
「どちら様でしょうか。」
褐色の使用人が顔を出す。記憶に間違いがなければこいつがスニルのはずだ。
「この商館を引き継ぐジェームズだ。ウィリアム老はおられるか。」
「はい、"大変"お待ちしておりました。」
含みのある言葉に彼を見ると疲れの色が浮かんでいた。
私は煙を灰に入れてからゆっくりと吐く。
「…到着が明日にならなかった幸福を祝おう。案内してくれ。」
「恐れながら、旦那様は煙草を嫌います。吸い終わるまでお待ちしておりますので煙を、火を中に入れぬようご注意下さい。」
思わず舌打ちする。忘れていた。
この爺は煙草の煙に対し、得られた研究結果に不確定要素を不用意に持ち込むな!とわけのわからない理由で文句をつけてくるのだ。
仕方ない。もう一口と口が寂しがるのを無視して踏み消した。
商館の中は非常に静かで落ち着いている。
正面に飾られた絵も、薄く揺れるランプも、それなりの値打ち品だろう。
少し過度な落ち着きに合わせてくすんでいる調度品は主人を顕すようだ。
赤い絨毯を踏みしめながら馬車に待たせた使用人への仕事を考える。
こんな客も来ない商館には三人もいらないだろうと思っていたが、そうでもなさそうだ。
何度か廊下を曲がった先にある扉の前で使用人が立ち止まる。彼はノックを二回行った。
「旦那様、商館の代理を務めますジェームズ様がお越しになりました。」
「遅い!一体何をしていた!」
トイレに用はないが、使用人に導かれて執務室へ入る。
正面に爺が座っている。遅いと宣っておきながら、視線を目の前の瓶から外そうとしない。
中はどうやら植物のようで、ブツブツ独り言を言いながら筆を走らせている。
部屋は瓶の棚が並び、採取年月日がラベルされている。部屋全体は薄暗く、手元と爺の顔が光に浮かんでいる。
「ご無沙汰しております、ウィリアム老。この度代理を務めることになりました、ジェームズです。」
そう言ってから少しして爺が顔をあげる。
「知らんな。どこのジェームズかね。」
「ジェームズ・ケア・ハーディです、ウィリアム老。祖国では会合の場で何度か拝見させて頂きました。」
「そうだったか、覚えとらんな。そんなことよりも、何故こんなにも遅くなったのか釈明したまえ。」
そんなこととは何か。これだから手につけた職だけでのし上がってきた連中は嫌いなんだ。
「デリーより参りましたもので。これでも最大限拙速に努めた次第です。」
「ふん、大方私の辞書と君の辞書では意味が違うのだろう。祖国の若者はとうとう羊の真似をするようになったのかね。」
「老のような最先端を駆ける方から見ればのどかに眠っている羊かもしれませんが、これでも狼に駆り立てられたように走っておりますのでどうかご容赦を。」
「くだらん、行動の伴わぬ精神論など羊の餌にもならんわ。」
「これはこれはお厳しい。一若輩者として羊の餌になれるよう精進してまいります。」
「私はお前の遅れを取り戻さねばならん。いいか、よく聞け。引き継ぎに必要なことはここにまとめた。使用人へはそこのスニルが教える。私とスニルは明日早朝にここを立つ。以上だ。」
何枚かまとめた紙を座ったまま突きつけてくる。
「畏まりました。確認し、作業に移ります。…この部屋を使ってもよろしいので?」
ここは執務室だ。植物倉庫じゃあない
「良いわけ無いだろうが!くれぐれもここにある植物達を動かすんじゃあないぞ!」
もちろん、机の上も葉やら土やら顕微鏡やらととても書類を書ける環境じゃない。
「…承知しました。早速屋敷内の確認と使用人への指導を行います。」
「分かったならもういいだろう。出て行け。作業の邪魔だ。」
「…失礼しました。」
軽く頭を下げたが、既に爺はこちらを見ていなかった。
ああ、非常に腹立たしい。
だがこれも両日の我慢だ。
この暇そうな商館で思った以上に仕事が多そうなことは果たして良いことなのか悪いことなのか。
少なくとも植物棚の撤去は最優先事項だ。
強く握りすぎた手をほぐしながら使用人を呼びに外へ向かった。