三十七話 灰かぶり姫
腕が、頭が重い。
表面だけ乾いた腕は、まるで借り物のようで。
清い水場があれば全身を隈なく洗い流したい。
張り付いた灰が、体を少し動かすだけでぱりぱりと剥がれて落ちる。
久々の空気に驚く肌が全身から不快感を伝えてくる。
服は中途半端に体温と水を吸って体を這う。
結局この洞の主、と呼ぶべきかは分からないが、ウルムは戻ってこなかった。
人間のことなど結局のところよく知らないが、こうも財を残して去るものだろうか。
都合よく捉えるなら、この空にこれ以上灰を捨てるなと伝えに出払っている、
いやいや―
ああ、頭に靄がかかっているような、そんな感覚だけが支配している。
何か考えたところで、それの正しさなんてわからないだろうと思えてしまうほど。
虚ろに、また寝ていたのかとも判断できないほど浮いた時間を感じながら。
ゆっくりと黒い水たまりから体を起こす。
唇についた灰の違和感を舌が誘われるように舐め取って苦汁を運んでくれる。
おかげで喉が、乾いた。
木を薄くしたもので組み上げられた四角いそれには透明な容器が並んでいた。
草が入っているもの、濁った水の入っているもの。
ウルムは怒るかもしれないけど、その時は謝ろう。
謝ってどうにかなるなんて、分からないのに。
根拠もなくそう考えてしまうことが少しおかしかった。
低い位置にある透明な容器はまだ簡単に掴めた。
それでも枠の中に納められた容器を取ることはなんとも難しく、足を出そうとすれば傾く上半身が煩わしかった。
爪先が引っかかって出てきた波打つそれの端を咥えて岩のくぼみに落とす。
川に浮かぶ泡のように透明なそれは泡ほども、私の想像ほども柔く脆くなく、割れない。
一度容器を置いて、壁沿いにこぼれ落ちた岩の破片を咥えてくぼみの底に置く。
右足で容器を掴んで何度も、何度も叩きつけると半分に割れて中身がくぼみに溜まった。
緑色の少し粘性がありそうなその水は、匂いからすると濡れた草に近い。
元の見た目が分からないから、いや、見栄をはった。
あまり、彼女たちほど学がないから、毒草かどうか分からない。
喉の渇きが、毒草ではないだろう、大丈夫だろう、問題ないだろう、早く、早くと急かしてくる。
少し舐めてみる、特に舌先では痛みを感じない。
すこし待ってみても痺れる感じもない。
もう少し舐めてみる、大丈夫そうだろうか。
この苦味はちっとも大丈夫じゃないけれど、灰よりはずっと美味しい。
喉に苦味が張り付いて渇きを忘れさせてくれてる。
いつまでも横たわってはいられない。
胃に入った苦味が少しばかりの気力と強い空腹を訴えてくる。
頭も体も重く、ろくに飛べもせず、洞から覗く空はいつものように暗く。
よく覚えてない洞周りに木の実の一つもあったろうかと。
飛べない私一人など貂でも狩れそうだ。
洞の入り口までゆるやかな傾斜があるとか、引っ掛けて倒したのか、元々倒れていたのかも分からない小さい木組みとか。
そんなことばかり気になって。
洞の外に出れば、どうやって越えてきたのかと自問するような森が眼下に広がっていて。
最寄りの岩肌には実をつけそうな豊かな木はなく、皆私同様に灰化粧していて。
その森は前と何も変わらずにそこに広がるばかりなのに、どこかの影から私を狙っているようで。
とても近寄る気にはなれずにゆったりと斜面を登り始める。
ついつい重い腕を広げてはばたきたくなる衝動をなんとかこらえて歩く。
私は都合よく誰かの助けを求める気なんだろうか。
一人ではよしんば腕を動かせても満足に狩りもできず、肉を噛み切れもせず。
食べれる木の実も、見たことはあれどどんな木にどんな場所にあってどうやって取るかなんて。
これだけ自然に寄り添っていても自然の中で生きていたわけじゃなかったのだと。
今更になって知って、私の想いも同じくして軽くなるようで無性に悲しかった。
まだ諦めたくはないけれど、どうにもならなかったとしても声だけは山に、誰かに、ウルムに届けたい。
意地を張った結果がこれなのかと悔しくて、それだけを踏みしめて足を押し出す。
早くも熱した体に呼吸が速くなるのを感じながら稜線から眼を逸らさずに、一歩一歩。




