後編:クリスティーナの幸せ
「アラン殿下は、今朝、北部へ向けて出立されたそうだね」
温室で優雅に紅茶を楽しんでいると、婚約者となったノアがそんなことを口にした。
けれど、もう私には関係のない人だ。
アラン殿下との間に、信頼関係はあったと思う。
しかし、それは彼が良き王になるために努力していた頃の話だ。今の殿下は、もう私が尊敬できる人ではない。
…正直、もう興味もなかった。
とはいえ、婚約者との会話なのだから、無視するわけにもいかない。
「そう…」
私が紅茶を口に含みながら、すました顔でそう答えると、ノアは肩をすくめた。
「パール嬢のことが分かった時点で対処していれば、ここまで大ごとにはならなかったんじゃないかな。
…いったい、どこまでが君の計画だったの?」
「あら…。心外ね。
彼女を殿下が側妃にするおつもりだと、アナタから報告を聞いたときは、お父様も私も、本当にそれでいいと思ったのよ。だって、私には殿下を愛することはできないもの」
——けれども。
私はクッキーをつまみながら、これまでのことを思い返していた。
彼女を側妃にするための方法は、悪手だった。
それから、私との婚約解消の仕方も。
そして何より、あんな無能たちを側近候補に据えたことも。
…今思えば、どれもこれも、あまりにも残念な判断だった。だから、国の未来を考え、表舞台から消えていただいた。
それだけのことだ。
——それに。
私は、ノアの顔を見てにっこり微笑んだ。
「それに、こうしてようやくアナタと婚約できたわ」
そう。私たちは、本来ならずっと昔に婚約するはずだったのだ。
同じ家格で、同い年。
幼い頃から顔を合わせる機会も多く、ノアと過ごす時間は、とても楽しかった。
気が付けば、お互いに惹かれ合っていた。
まだ幼かったこともあり、正式に婚約を結ぶことはなかったけれど、いずれ私たちが婚約することは、貴族たちの間では周知の事実だった。
なのに…そこに王家の横槍が入った。
王家から持ちかけられた婚約は、ほとんど決定事項だった。
ここで、断ったら王家に泥を塗ることになる…こちらに断る余地など、ほとんど残されていなかった。
王家が私との婚約を望んだのは、王族として、やや傲慢なところのあるアラン殿下の手綱を、私に握ってほしいということだったのだろう。
——ノブレス・オブリージュ。
貴族に生まれたからには、義務が伴うことは理解していた。だから、この婚約は、仕方のないことだと割り切った。
なにより、あの頃のアラン殿下は、まだまともだった。
私の言葉にも耳を傾けてくれたし、王族としての責務を果たそうと努力もしていた。
だからこそ私は、この国のために生きていこう、と覚悟を決めたのだ。
ノアは、そんな私の覚悟を汲み取って、自分から殿下の側近候補になった。
——正直、嬉しかった。
もう、ノアと手を取り合って生きていくことはできない。
それでも…形は違うけれど、私は王妃として、ノアは殿下の側近として、国を支えていく。
まだ同じ未来を目指して、共に歩んでいけると思えたことが、心の支えになった。
だから、まさか、こんな形で、ノアとの穏やかな未来が私のもとへ戻ってくることになるなんて、思いもしなかった。そういう意味では、アラン殿下とパール嬢には感謝しなければならない。
しかも、ノアは、公爵家の嫡男であるにもかかわらず、長年、婚約者を作らなかった。
ノアのご両親は、そんな息子の気持ちを理解していたようで、無理に婚約を勧めることもなく、ただ静かに見守ってくれていたらしい。
私との婚約が調ったときには、ノアのご両親からも大変喜ばれた。
そのことを思い出すと、思わず表情が緩んでしまった。
「…そんな君の可愛い顔、僕以外には見せないでね」
不意に、ノアがそんなことを言ってきた。
「え…?」
思わず目を瞬かせる。
するとノアは、少しだけ照れたように笑いながら、私を見つめていた。
「クリスティーナの、そういう可愛いところを知っているのは…俺だけがいいんだ」
その言葉に、鼓動が高鳴り、頬がじわじわと熱を持つのを感じた。
「あ、ほら。そういう顔もね」
そう言って、ノアは楽しそうに笑うと、私の頬をつんつんとつついてくる。
「…もう。ノアったら」
恥ずかしくなって顔を隠そうとすると、ノアはそんな私を見て、さらに嬉しそうに目を細めた。なんだか、その様子が悔しくて、私もノアを揶揄ってみたくなった。
私は顔を上げると、ノアの瞳を真っすぐに見つめた。
「…ノア、愛しているわ」
その瞬間、ノアは驚いたように一瞬だけ目を見開いた。けれど、すぐに蕩けるような笑みを浮かべると、私をそっと抱き寄せた。
そして、私のおでこに優しく口づけを落とした。
「唇は、結婚式まで取っておくよ」
そう言って、ノアは意地悪そうに笑った。
…もう。仕返しをしたつもりだったのに。
私は、高鳴る鼓動を抑えきれず、恥ずかしさを隠すようにノアの胸に顔を埋めた。
——これからは。
ノアとともに、穏やかで幸せな日々を送っていける。
そんな確かな未来を想像して、胸の奥がじんわりと温かくなった。
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