■ 第5話:チート能力と、奪われたルサンチマン
地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、絶望的な真実がもたらす重圧によって、まるで深海の底のような息苦しさに包まれていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……とフィルターの限界を告げる音を鳴らしている。
理不尽な死すらも「異世界への救済」として受け入れさせる、国家による死生観のハッキング。
七海悠太は、自分の両腕を抱きかかえ、恐怖でガタガタと震え続けていた。もはや外に出て、道路を走るトラックを見るのすら恐ろしい。
「……確かに、死を救済と錯覚させる洗脳モデルとしては完璧です。ですが、御子柴さん」
氷室司が、冷めきったブラックコーヒーの紙コップをテーブルに置き、銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。
彼は手元のタブレットを操作し、巨大モニターに新たなデータ群を投射する。
「異世界に転生した『後』の物語構造において、政府が介入しているという明確な証拠がありません」
氷室の指先がタブレットを滑り、アニメの視聴率や、Web小説の「読者の離脱率」を示す折れ線グラフが大写しになる。
「現代の異世界モノにおける最大の特徴。それは、主人公が転生した直後に神様から与えられる【チート能力】です。最初から最強であり、一切の努力を必要としない。……私のデータによれば、主人公が地道に努力する『修行パート』が存在する作品は、読者からのアクセスが激減し、即座に打ち切られる傾向にあります」
氷室は、冷徹な視線で御子柴を見据えた。
「これは『タイムパフォーマンス(タイパ)』を極端に重視する、現代の若者たちの消費行動そのものです。努力する過程など見たくない、結果だけを今すぐ味わいたい。……チート能力の蔓延は、単なる『効率化を求める市場のニーズ』であり、国家のプロパガンダと結びつけるのは論理の飛躍です」
データに基づく、氷室の鋭いカウンター。
努力を嫌い、効率を求める現代人の怠慢が、チート能力という設定を生み出しただけだ、と。
「……氷室さん。あなたは本当に、人間の【魂の絶望】というものがデータでしか測れないのね」
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈の哀れむような声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、透き通るような白い指先で、モニターに映る『チート能力で無双する主人公』のイラストをそっとなぞった。
「タイパ重視? 効率化? 違うわ。若者たちが『努力の過程』を忌み嫌うようになった本当の理由。それはね、現代の日本において【努力は決して報われない】という残酷な真実を、骨の髄まで思い知らされているからよ」
「努力が、報われない……」
氷室が、怪訝な顔で眉をひそめる。
「ええ」
烏丸は、妖しい瞳で会議室の全員を見回した。
「どんなに真面目に勉強しても、どんなに身を粉にして働いても、最初から莫大な資産を持つ富裕層には絶対に勝てない。現代社会は【親ガチャ】という言葉に象徴されるように、生まれながらの『資本』と『特権』がすべてを決定する、完全に固定化された階級社会よ」
烏丸は、ふふっ、と悲しげな笑みを浮かべる。
「若者たちは知っているの。現実の世界に『逆転のチャンス』なんて存在しないことを。……だからこそ、彼らは物語の中で【チート能力(神からの特権)】を求めるのよ。現世の努力では絶対に覆せない壁を、来世で与えられる『絶対的な特権』によって飛び越えようとしているの」
「軍事的な観点から見ても、烏丸の言う通りだ」
轟大吾が、分厚い両腕を組みながら、地を這うような低い声で唸った。
彼の巨体を包む黒のタクティカルジャケットが、怒りでギュッと軋む音を立てる。
「【チート能力】……こいつは軍事用語で言えば、戦術や戦略を完全に無意味にする『非対称戦力(絶対兵器)』だ」
「絶対兵器……」
七海が、ごくりと生唾を飲み込む。
「ああ。相手が核兵器を持っているなら、こちらがどれだけ歩兵を鍛え上げ、血のにじむような訓練(努力)を積んだところで、ボタン一つで消し飛ばされる。……圧倒的な力の前では、弱者の努力も、団結も、すべてが無駄になるんだ」
轟は、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「いいか氷室! アニメの中で『努力せず、生まれながらのチート能力で無双する主人公』を礼賛するということは、裏を返せば【持たざる者の努力や連帯を、無価値なものとして嘲笑う】ことと同義なんだよ!!」
「……っ!!」
氷室の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、烏丸! 轟! これで奴らの【真の洗脳プログラム】の全貌が暴かれたぜ!!」
御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『努力』『労働組合』『デモ』と書き殴り、そのすべてを激しいバツ印で消し去った。
「氷室! お前はタイパのせいだと言ったな! 違う!! 国家が若者たちに【チート能力】という毒林檎を食わせているのは、現実社会で体制に抗おうとする【ルサンチマン(怒り)】を完全に無力化するためだ!!」
「ルサンチマンの、無力化……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。
「そうだ!!」
御子柴は、バツ印で消した文字の横に、新しく『神からのチート(特権)』と大きく書き殴った。
「現実の社会を変えようと思ったら、どうする? 仲間を集めて労働組合を作り、デモを起こし、血と汗を流して権力者と闘う(努力する)しかねえ!! だが政府は、エンタメを通じて若者たちにこう刷り込んだ!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「『泥臭い努力なんてダサい』『仲間と団結するなんて無駄だ』! 『そんなことをするよりも、死んで神様からチート能力をもらう方が、ずっと賢くて気持ちいいぞ』ってな!!」
「……っ!! 現実を変えるための【連帯と努力】を……エンタメの力で『ダサいもの』へと貶めた……!」
轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「そうだ!! だから誰も現実で闘おうとしない!!」
御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。
「若者たちは毎晩ベッドの中で、自分がチート能力をもらって無双する妄想に浸る! その強烈な【カタルシス】によって、現実の理不尽に対する怒りは綺麗サッパリ消化され、ガス抜きされちまうんだ!!」
御子柴は、悪魔のような笑みを浮かべて、絶望的な事実を叩きつけた。
「怒りを力に変えて体制に牙を剥くはずだった若者たちが、今や『早く俺にもチート能力が降ってこないかな』と、存在しない奇跡を口を開けて待つだけの【従順な家畜】に成り下がっている!! これが、国家がエンタメを使って仕掛けた、究極の【ルサンチマンの無害化】だ!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「俺……! バイト先のブラックな環境を変えようって、最初はみんなで店長に直談判しようって言ってたのに……!」
七海の脳裏に、いつしかその計画が「どうせ無駄だ」と立ち消えになり、家に帰って異世界アニメを見るだけの日々に逃げ込んだ記憶がフラッシュバックする。
「俺は……現実で闘うのが怖くて、面倒くさくて……! ただ『誰かが俺にすげえ能力をくれないかな』って、妄想の世界に逃げ込んで、満足した気になってただけだったんだ!!」
怒りを奪われ、努力を放棄させられ、存在しない「神からの特権」を待ち続けるだけの人生。
それは、支配する側にとって、これ以上ないほどに都合の良い「永遠に逆らわない奴隷」の完成を意味していた。
「俺の怒りは……! 俺が自分の人生を変えるためのエネルギーは、全部アニメに吸い取られて、骨抜きにされてたって言うのかよ……!!」
現実を変えるための牙を、心地よい妄想によって一本残らず抜かれていく絶望。
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
無機質な空調のモーター音が、まるで日本中から吸い上げられた若者たちの「怒り」を、どこか遠い特権階級の部屋へと排気し続けるように、低く、重苦しく回り続けていた。




