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■ 第4話:トラックという名の「救済装置」と、死生観のハッキング

 地下の第4会議室は、濃密な紫煙と、逃げ場のない絶望感によって、まるで巨大な密閉容器のような息苦しさに支配されていた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……とフィルターの限界を告げるように鳴り続けている。

 現実の理不尽に対する若者たちの怒り(ルサンチマン)を、異世界の妄想によって完全に「ガス抜き」し、暴動の火種を消し去るという国家の陰謀。

 七海悠太は、パイプ椅子に深く沈み込み、焦点の合わない目で天井の蛍光灯を見つめていた。

「……待ってください。御子柴さん、あなたの推論は確かに恐ろしい。ですが」

 氷室司が、手元のタブレットの液晶画面をマイクロファイバーの布で執拗に磨きながら、冷え切った声で沈黙を破った。

 彼は銀縁眼鏡を押し上げ、曇りのない瞳でリーダーを真っ直ぐに見据える。

「もし政府の目的が『ルサンチマンのガス抜き』だけであるならば、なぜわざわざ【転生(死)】を前提としたジャンルを推奨するのですか?」

 氷室はタブレットを操作し、巨大モニターに最新のIT市場の予測データを投射した。

「現在、政府は国家予算を投じてWeb3.0やフルダイブ型の【VR(仮想現実)】、そして【メタバース空間】の開発を推進しています。現実逃避をさせるなら、仕事終わりにVRゴーグルを被らせて、仮想空間で無双させればいいだけの話だ。……わざわざ主人公が『一度死ぬ』というプロセスを踏ませる必要など、どこにもないはずです」

「軍事と経済の観点から見ても、氷室の言う通りだ」

 轟大吾が、分厚い両腕を組みながら、重々しく頷いた。

 彼の巨体を包む黒のタクティカルジャケットが、呼吸のたびに軋む音を立てる。

「国家にとって、国民は税金を納める『兵力』であり『労働力』だ。エンタメの中で【死】を美化し、万が一にも自殺者や事故死者が増加すれば、国家の根幹である労働人口そのものが減少してしまう。……暴動を防ぐために国力を物理的に削ぎ落とすなど、本末転倒も甚だしい!」

 データと軍事、絶対的な唯物論による理詰めの反論。

 VRでガス抜きできるのに、なぜ「死」をトリガーにする異世界転生でなければならなかったのか。

 しかし。

 紫煙の向こう側から、烏丸玲奈のひんやりとした笑い声が漏れた。

「ふふっ……。氷室さんも、轟さんも。人間の【魂の構造】というものを、全く分かっていないのね」

「魂の構造、だと?」

 轟が、険しい顔で眉をひそめる。

「ええ」

 烏丸は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、透き通るような白い指先で、モニターに映るVRゴーグルの画像をそっとなぞった。

「VRやメタバースの最大の欠点は何かしら? それは、どんなに仮想空間で神様になれても、ゴーグルを外せば【必ず、この地獄のような現世リアルに引き戻されてしまう】ということよ」

「……っ!!」

 氷室の持つタブレットが、ピクリと揺れた。

「毎晩VRで無双しても、朝になれば満員電車に乗り、理不尽な上司に頭を下げなければならない。……その落差は、逆に現世への絶望と怒り(ルサンチマン)を何倍にも増幅させてしまうわ」

 烏丸は、妖しい瞳で会議室の全員を見回した。

「だから黒幕たちは、現世への未練を完全に断ち切らせるための【絶対的な切断処理】を物語に組み込む必要があった。ゴーグルを外すことのない、永遠の逃避行。……それこそが【死】よ」

「永遠の、逃避行……」

 七海が、乾いた唇を震わせて呟く。

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、御子柴健が天を仰ぎ、狂気と歓喜が入り混じった高笑いを爆発させた。

 彼は咥えていた煙草を携帯灰皿に吐き捨て、よれよれのスーツのポケットに手を突っ込んだまま、ホワイトボードの前に立ちはだかる。

「見事だ、烏丸! 奴らはVRなんていう生ぬるいオモチャじゃ満足しねえ! 国民の【死生観】そのものを根底からハッキングしてやがるんだ!!」

「死生観の……ハッキング!?」

 氷室が弾かれたように身を乗り出す。

「そうだ!! 七海! お前、毎日異世界モノを読んでるって言ったな!」

 御子柴の血走った眼光が、パーカー姿の青年を射抜く。

「は、はい……」

「思い出してみろ! 異世界転生モノの主人公たちは、一体【どうやって】現世での命を落としている!?」

「どうやってって……」

 七海は、少し記憶を巡らせてから、戸惑いながら答えた。

「大体は……交通事故です。交差点で子供を助けようとしたり、あるいは夜道で突然、猛スピードで突っ込んできた【トラック】に轢かれて死ぬパターンが、圧倒的に多いですけど……」

「それだ!!」

 御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードに『トラック』と巨大な文字を書き殴った。

 ダンッ!!と叩きつける乾いた音が、地下室の空気を震わせる。

「氷室! データ至上主義のお前に聞く! なぜ病死でもなく、老衰でもなく、自殺でもなく、こぞって【トラックに轢かれる】というテンプレが使われているんだ!?」

「それは……作劇上の都合、いわゆる『デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)』的な手法です」

 氷室が、眼鏡のブリッジを押し上げながら即答する。

「主人公の未練を断ち切り、読者に悲壮感を与えずに一瞬で別の世界へ場面転換させるためには、病気のような時間のかかる死因や、倫理的に問題のある自殺は使えません。突発的で、不可抗力な【交通事故】が、物語の装置として最も効率が良いだけです」

「手軽な装置だからだと!? 笑わせるな!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮した。

「いいか氷室! 【トラック】ってのはな、現代の物流、経済の血液、つまり【資本主義の巨大な歯車そのもの】の象徴なんだよ!!」

「……っ!!」

 轟の巨体が、ビクンと大きく震えた。

「気付いたようだな、轟!」

 御子柴が、ホワイトボードの『トラック』という文字を、赤いマーカーで幾重にも丸く囲む。

「道を歩いていて、突然巨大な鉄の塊に轢き肉にされる! 現実の社会でこんなことが起きれば、それは悲惨極まりない『理不尽な死』だ! 残された家族は絶望し、社会の交通システムに怒りをぶつけるはずだ!」

 御子柴の目が、狂気的な光を帯びて見開かれる。

「だが、政府はエンタメを通じて、若者たちの脳髄に恐るべき【認識の書き換え】を行った!! 『トラックに轢き殺されることは、悲劇ではない』『それは、地獄の現世から抜け出し、剣と魔法の素晴らしい世界へ旅立つための【救済の儀式】なのだ』と!!!」

「理不尽な死を……救済のトリガーに、変換した……!?」

 氷室の顔面から、完全に血の気が引いた。

「ええ、極めて洗練されたマインドコントロールよ」

 烏丸が、自らの両腕を抱きしめるようにして、恍惚と囁く。

「人間にとって最大の恐怖は『死』。そして現代社会において、最も身近にある『理不尽な死の象徴』が、巨大なトラックの暴走よ。……でも、もしその恐怖の対象が、『自分を異世界へ連れて行ってくれる迎えの馬車』だと思い込まされたらどうなるかしら?」

「……死への恐怖が、消滅する……!」

 轟が、タクティカルジャケットの胸ぐらを強く握りしめ、顔面を蒼白にして呻いた。

 歴戦の武闘派である彼にとって、それは軍隊の洗脳すらも遥かに凌駕する、最悪の精神改造だった。

「軍事において、兵士の生存本能(死への恐怖)は、最後のストッパーだ。それが失われれば、人間はただの肉の機械になる。……奴らは、社会の理不尽な暴力によって殺されることへの【恐怖と怒り】を、エンタメの力で完全に麻痺させたんだ!!」

「そうだ!!」

 御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩く。

「だから過労死寸前まで働かされても! 社会の歯車として使い潰されても! 若者たちは誰も怒らねえし、暴動も起こさねえ!! なぜなら心の奥底で、『もしこのまま理不尽に死んだとしても、それは異世界へのチケットなんだ』と、狂ったカタルシスを抱き抱えさせられているからだ!!」

 御子柴の血を吐くような叫びが、密室の壁に叩きつけられる。

「トラックという名の【救済装置デウス・エクス・マキナ】!! 奴らは、国民が社会の理不尽によって殺されることすらも肯定し、笑顔で死を受け入れるように、一億人の死生観を完全に書き換えやがったんだよ!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。

「俺……! 疲れてフラフラで横断歩道を歩いてる時……猛スピードで走ってくるトラックを見て、一瞬『轢かれたら、楽になれるのかな』『あっちの世界に行けるのかな』って……本気で想像したことがあった……!!」

 青年が無意識に抱いていた、現実逃避の行き着く先。

 それは単なる疲れではなく、国家によって脳のヒダの奥深くにまで刻み込まれた、恐るべき「自己破壊のプログラム」だったのだ。

「俺の生存本能まで……! 死ぬのが怖いっていう当たり前の感情まで、アニメや小説にハッキングされてたって言うのかよ……!!」

 生きるための怒りを奪われ、理不尽に殺されることすら「救済」だと錯覚させられる社会。

 それは、権力者にとってこれ以上ないほどに都合の良い、究極の「家畜の群れ」の完成を意味していた。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 自分の命すらもシステムの一部に組み込まれていたという絶望。

 七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の空気を激しく震わせた。

 無機質な空調のモーター音が、まるで現代の極楽浄土へと向かう巨大なトラックのエンジン音のように、低く、重苦しく、彼らの耳元で唸り続けていた。

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