最終回 墜落、それでおしまい
両腕を広げてみる。
鳥のように。
自分が人間であると、風がひっぱたいて教えてくれた。
上空12、000メートル。低層雲がかき消える高度。
風が固体のような、確かな形を持ってぶつかってくる。呼吸のために空気を飲み込む事もできない。少しでも落下速度を落とすために両腕両足をすこしずつ伸ばし、空気抵抗を大きくしてみる。身体を起こして姿勢を重力に対して直角にしてみる。そして、自分の周囲が透き通った青ばかりに埋め尽くされている事に初めて気付いた。
雲もない空の高み。
自分との距離を比べるものが何もない空の果て。それだけに自分がどれくらいの速度で落下しているのかわからない。風の強さがプラウタを上空へと押し上げている錯覚さえ感じる。しかし眼下には白い雲の大海が彼を待受けている。あと何十秒もたてばあの雲に突っ込み、そして雲を突き抜ければそのまま海に、それとも島に、叩き付けられる。
まあ、いいか。
何もかも自分の決断が招いた結果だ。いまさらどう思った所、この落下中にできる事など何も無い。
風圧に腕がきしむ。痛みに身体の側に引き寄せると風の抵抗が一気に変わった。頭を真下にして急降下していく。慌ててプラウタは脚を開く。両足がぐいと空に向かって引っ張られる。プラウタは頭を逆に胸に近付け、ぐるり、空中で身体を回転させた。腕の痛みにこらえてもう一度両腕をいっぱいに広げ、回転を始めた姿勢を止め、滑空する海鳥のように両腕両足を翼にみたてて落下の体制を整えた。
そして、ふと思った。
いま、僕は空を飛んでいる。
飛行機と言う機械の力を借りず、大空にたった一人で飛んでいる。
両腕を身体の側に寄せ、膝を曲げて空気に当たる面積を小さくすれば落下速度は速くなり、頭の向きを変えて落下の方向を変える事ができる。斜め下に勢いを増して飛び、腕を身体から引き離して膝下に力を込めれば落下速度が弱まり思うままに姿勢を整える事ができる。
僕は空を飛んでいるんだ。
雲の海がだいぶ近付いて来た。この短い飛行ももう終わりか。
プラウタは両腕を頭の前で組み、脚を揃えて真っ直ぐに伸ばした。頭を少し下げ、首と肩に力を込める。風圧でままならない呼吸も、ぐっと空気のかたまりを飲み込んで胸に溜め込む。飛行機でも空中から雲に突入する時に、波に押し返される船のような衝撃を感じる。今のプラウタは、彼を守ってくれる飛行機もない状態で空にいる。
雲が間近に来た。
水に飛び込んだような強い衝撃がプラウタを飲み込む。空気とは違う空間に放り込まれたプラウタは身体の勝手が効かず、踊るように揉まれ、ヘルメットがもぎ取られた。
自分の身体がまるで自由に動かず、頭が激しく揺らされて意識が飛びそうになる。ヘルメットが剥ぎ取られ目も開けられない。口からは雲が流れ込み呼吸もできなくなる。風を切る音も聞こえなくなり、低くくぐもった音が耳にねじこまれる。プラウタは雲に包み込まれた。誰かに抱きとめられているような、奇妙なあたたかささえ感じた。
ふっと身体が軽くなる。風の音が帰ってきた。雲を抜けたのか。後少しで、この飛行も終わる。
プラウタは目を開けた。海か、島か。できれば、海の方がいいな。
しかし目の前は真っ白だった。雲の海を抜けたのにも関わらず、プラウタの目の前にはまだ雲があり、プラウタの身体には誰かに抱きかかえられている感覚があった。
「……や、やあ」
思わずそんな声がでてしまった。
プラウタの目の前に笑顔があった。雲の真っ白さに黒く丸い点が二つとすっと柔らかな曲線が一本。雲が暖かな笑顔を見せてプラウタを抱き締めていた。
雲を突き抜けて頭を真下に落下しながら、ごわついたフライトジャケットを着込んだプラウタを少女のような形をした雲が抱き締めている。彼女の髪が流れるように雲がなびき、口元に引かれた曲線がさらににこっと両端が吊り上がる。
「ひさしぶり。元気してたか?」
落下中だと言うのに自分でも奇妙な安心感が湧いて来た。マナクモだった。少女の形をした雲のようなもの。自分の意志で動き、笑い、雲を泳ぐ少女のカタチ。プラウタの空の古い友達だ。
マナクモはプラウタの両腕を取り、ダンスでも踊るようにプラウタから少しだけ離れた。黒く丸い二つの点が細められ、くるくるとプラウタとともに回る。
マナクモが手を引いてくれているせいか、落下の速度が弱まって来た。風を切る音が小さくなる。プラウタの顔面をなでつける空気の塊も少し柔らかくなった。
彼女は微笑みながらプラウタと踊る。頭を真下に向けて海に墜落しながら、何もない空で二人彼女はステップを踏んだ。すらりとした曲線の脚が交差し、風にちぎれるように小さな雲のかけらとなって伸びていく。プラウタの両手を握りしめる彼女の小さな手。プラウタは確かな力を感じた。真正面にある優しそうに笑う目と口。長い髪が空に咲く花のように風に広がっている。
「ずっと見てたのか?」
プラウタは彼女に話し続けた。マナクモがしゃべれるかどうかわからない。ただ、いまプラウタにできる事はこの空中のダンスのパートナーになる事だけだ。
「心配させちゃったかな」
マナクモはふるふると首を振った。プラウタと両手を握り合い、ゆっくりと回り続ける。風が彼女の身体を少しずつ細切れにしていく。少しずつ、少しずつ、小さくなっていく彼女。
「もういいよ、君は雲に戻らなきゃ。僕はもう十分飛んだから」
マナクモは笑顔のままもう一度首を振った。彼女の髪が風に剥ぎ取られるように短くなっていく。プラウタは頭上を、自分が落ちて行く方向を見上げた。海が見える。まだ遠いが、すぐに目の前に迫ってくるだろう。
「君の身体が消えてしまう。もう戻るべきだ」
それでもマナクモは手を離してくれなかった。プラウタの落下速度がどんどん遅くなって行く。マナクモがパラシュートのように風を受け、プラウタを受け止めている。その代わりに彼女の身体は徐々に削り取られていた。
そしてプラウタはマナクモが初めて自分から視線を反らした事に気付いた。大きな黒い点がプラウタの背後を見るように少し上を向く。何かあるのか。くるり、ダンスを踊りプラウタと彼女の位置が入れ代わった時、プラウタはこちらに近付いてくる大きな影を見つけた。マナクモはあれを見ていたのか。
そうか、マナクモはこの広い空にひとりぼっちじゃなかったのか。空を飛ぶものすべてが、彼女の友達だったのか。
甲高いような、野太いような、何種類もの管楽器をいっせいに吹き鳴らしたような鳴き声が響いた。プラウタの視線の先に巨大な鳥が翼を広げて滑空していた。
乳白色の巨体が陽の光をいっぱいに受けてきらきらと輝いて見える。そしてその少し先を飛ぶ小さな鳥の姿も見つける事ができた。プラウタが助けたムクムクの夫婦がもう一度プラウタに声をかけてきた。
メスのムクムクがプラウタとマナクモにまるで添い寝をするように大きな翼を折り畳んで急降下を始めた。マナクモがプラウタの腕をムクムクの背中へと誘う。プラウタの手の上からムクムクの羽を強く掴む。
何かを呟くように、彼女の口元の緩やかな曲線が動いた。唇を動かすように短い言葉を形作った。
「……うん。またな」
マナクモがプラウタの両手を離す。だいぶ身体が欠けて小さくなった彼女はゆっくりとプラウタから離れ、空に昇っていく。太陽に溶けていくように小さくなっていく。やがて見えなくなるまで、プラウタはずっと上空を見つめていた。
ムクムクが飛行姿勢を戻す。急降下から翼を広げて速度を落し、再び空を滑空する姿勢を取る。プラウタはムクムクの広い背中に横たわり大の字になった。
「ありがとう」
空は透き通り、どこまでも青い。見渡す限りに広がり、地上の何もかもを覆い尽くしている。あんな遠くまで飛んでいたのか。
ムクムクの鳴き声に混じって、懐かしい音も聞こえて来た。今までずっとジェットエンジン音を耳にしてきたので、このやたらのんきなリズムの音がすごく頼りなく思える。それでも十分だ。プラウタには十分なリズムだ。
5機の蒸気飛行機がぽんぽんとリズムにのって煙りを吐きながらムクムクに近付いて来た。蒸気飛行愛好会の老人達だ。
ムクムクのオスを先頭に編隊を組む鳥と飛行機。ゆっくりと下降しながら、プラウタは隣を飛ぶ蒸気飛行機のコクピットに目を凝らした。そして、その顔を見つけて胸の奥がじわりと暖かくなった。後部座席にフウの顔があった。キャノピーに顔をおしつけて、何かを叫んでいる。
そこで初めて、プラウタは自分が生きて帰って来た事を思い出した。
浜辺。ムクムクのメスはプラウタを背から降ろすと、沖に向かって泳ぎだし、上手に波にのって海から飛び上がった。海面すれすれに低く飛び続け風を捕まえて巨体を一気に上昇させる。一声、大きく鳴く。プラウタはムクムクの夫婦の姿が見えなくなるまで見送った。
遠くから名前を呼ばれ、膝まで海につかったまま振り返る。着水し、浜辺に機体を降ろしていた蒸気飛行機からフウが飛び出して来た。
「……プラウタ!」
フウはもう一度大きく声の限りに叫び、波打ち際まで走り寄ってきた。プラウタは遥か上空を見上げた。もう、十分飛んだ。空の友達とも会えた。しばらくは地面を歩き回るのもいいか。
フウを見つめる。彼女の顔を見るだけでも、生きて帰って来た意味がある。
「フウ!」
彼女が海に飛び込んで来た。ばしゃばしゃと派手に水しぶきをあげて駆け寄ってくる。砂浜には蒸気飛行愛好会の老人達が集まっていた。
空で戦うジェットエンジン機を見つけてフウが彼等を呼んでくれたのか。プラウタがそれを理解した時、フウはもう近くにいた。
彼女の目が涙に潤んでいるのがわかるくらい近くに。彼女の吐息が聞こえるくらい側に。プラウタは両腕を広げた。彼女を抱き締めるために。
と、膝まで波にかぶって海を走るフウのステップが変化した。
身体を横に開き、重心を低く後ろに反らす。左脚がすらりと振り上げられた。右脚片足で飛び跳ねるように走り、右腕を、ぶるん、振りかぶる。
え? と、愛しいフウを抱きとめようと思っていたプラウタが違和感を感じたその瞬間。
「このおおっ!」
吹き上がる水しぶき。高い声で叫ぶフウ。固まるプラウタ。目をつぶる老人達。
フウの渾身の右ストレートがプラウタの顔面にクリーンヒット。
おしまい
『12,000メートル』これでおしまいです。
楽しんでいただけたら、これ幸いです。
感想お待ちしております。




