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無能と呼ばれた代理店営業が異世界転生して、ボロ台帳ひとつで七種族同盟をまとめ世界を救った件  作者: もしものべりすと


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第一章 君の台帳に価値はない

午後十時を過ぎたオフィスは、蛍光灯のジー、という音だけが、やけに、響いた。


 その音は、誰もいないフロアの、隅々まで、染み込んでいる。


 空調の風が、机の端の、領収書の山を、かすかに、揺らしている。


 俺はまた、書いていた。


 手のひらサイズの、黒い表紙のノート。三年使い込んでいる。


 角は反り返っていて、表紙の革は、汗と手脂で、独特の匂いを、放ち始めていた。


 古い本のような、湿った紙の、匂い。


『十五日。シェルライズ商事・木下部長。お子さんの大学合格祝い。日本酒は辛口好み。次回訪問時にお祝いの一言を入れる』


 誰にも頼まれていない。誰も読まない。


 それでも書く。


 パートナー台帳。俺が一人でつけている、四十八社分の手書きのノートだ。


 誕生日。家族構成。過去にこぼした愚痴。前回の会議で出た、小さな約束ごと。


 全部、書く。


 書きながら、ふと思う。


 これは仕事、なのだろうか。それとも、ただの趣味、なのだろうか。


 たぶん、半々、だ。


 書いていないと、自分が、ただ、与えられた数字を、消化しているだけの、機械みたいに思えてくる、からだ。


 書くと、四十八社のうしろの、一人ひとりの顔が、見えてくる。


 見えてくると不思議と、提案の中身も、変わる。


 少なくとも、俺は、そう信じて、続けてきた。


 評価面談で、台帳のことを、上司に話したのは、三年で、二回だけ、だった。


 二回とも、上司は、笑った。


 藤崎は、真面目で、いいねえ、と。


 それは、誉め言葉、では、なかった。


 誰でもできることを、続けているだけだ、という、別の意味の、つるりとした、口調、だった。


 俺は、それを、わかっていて、それでも、やめなかった。


 やめたら、自分が、何のために、ここに来ているのか、わからなくなる、と、思ったから、だった。


「藤崎、まだいたのか」


 顔を上げると、黒田課長が、立っていた。


 いつもの、薄い、笑み。


 ノーネクタイのワイシャツの、襟元のボタンを、一つだけ、外している。


 鞄を肩にかけたまま、俺の手元を、覗き込んだ。


 彼の口から、缶コーヒーの甘い、人工的な匂いが、漏れた。


 その匂いは、嗅いだ瞬間に、わかる。


 自販機の、いちばん安い、微糖の、缶コーヒー。


 黒田課長は、あれを、毎日、四本、飲む。


 台帳に、それも、書いてあった。書く必要のない情報まで、つい、書いてしまう、俺の癖、だった。


「何だそれ。日記か?」


「あ、いえ……担当パートナーの、記録です」


「ふーん」


 黒田課長はそう言いながら、俺の机の、一番下の引き出しを、勝手に、開けた。


 止める間も、なかった。


 引き出しの、レールが、軋む音。


 中には、来月の月次レポートの、草稿が、入っていた。


 シェルライズ商事の、大型受注の、見込み。


 俺が半年かけて、何度も、足を運んで、木下部長との、信頼を、一段ずつ、積み上げて、ようやく、組み上げた話だった。


 最初は、紙コップのコーヒーすら、出てこなかった応接間。


 半年後、最後に訪問したとき、奥様が手作りのカステラを、薄く切って、出してくださった。


 そのカステラのふわりとした、卵の甘い匂いが、まだ、俺の記憶に、残っている。


 そこに、たどり着くまでに、何度、断られたか、自分でも、覚えていない。


 最初の三回は、受付で、止められた。四回目は、十分だけ、面会できた。五回目は、雑談だけで、終わった。


 六回目で、初めて、本題に、入れた。


「お、これいい情報だな」


 黒田課長は、草稿を、抜き取って、自分の鞄に、入れた。


「次の役員会で、俺から報告しとくよ。お前、口下手だろ。資料だけで、通る話じゃない」


「あ、いえ、それは……」


「なあ、藤崎」


 黒田課長は、俺の肩を、ぽん、と、叩いた。


 その手は、思ったより、重かった。


「お前みたいな、台帳マニアに、営業の華は、ないんだよ」


「俺たちみたいに前に出るやつが、結果を持ってくる。お前は、陰でメモでも、書いてればいい」


 俺は、黙っていた。


 言い返したい言葉が、何個か、喉のあたりに、引っかかった。


 でも、どれも、口に出す前に、自分で、飲み込んだ。


 黒田課長に、言ってみたところで。


 彼が、何かを、変えるはずも、なかった。


 俺の三年間が、彼にとって、どれだけ、薄っぺらく、見えているか、それを確認するだけ、だった。


 それに、もし、ここで、声を荒らげて、シェルライズの担当を、奪い合うことになったら。


 その混乱で、迷惑するのは、最後は、木下部長と、奥様だった。


 俺の体は、その想像で、勝手に、力を、抜いた。


 ぱたんと、引き出しが、閉じる音。


 黒田課長は、機嫌よく、口笛を、吹きながら、エレベーターに、消えた。


 残された俺はノートを、閉じた。


 革のような、表紙の、角を、指で、撫でた。


 奪われた草稿のことより、来月、木下部長が、誰の顔を、見ることになるのか、それが、気になった。


 俺じゃない、知らない男が、お祝いの一言も、なしに、数字だけ並べて、ふんぞり返って、帰っていく。


 それが、俺の三年間の、続きとして、起こる。


 胸の奥が、じくり、と、痛んだ。


 怒りでは、なかった。


 悔しさでも、なかった。


 もっと、薄くて、もっと、長く続いてきた、何か、だった。


 たぶん、自分の仕事に、意味があるのか、ないのか、それを、自分でも、信じきれていない、ということ、だった。


 俺は、立ち上がって、コートを、着た。


 窓の外、ビルの隙間に、小さな神社の、屋根が、見えた。


 通勤路で、いつも、横を、通る、忘れられたような、神社、だった。


 あの神社の、御神木の根元が、いつも、雨上がりみたいに湿っているのを、思い出した。


 終電までは、少し、間がある。


 遠回りして、帰ろうと、思った。


 もう、何も、考えたくなかった。


 ビルを出ると、湿った、夜風が、頬に、当たった。


 梅雨の、明け切らない、六月の、夜。


 通りを歩く人はほとんど、いなかった。


 居酒屋の前を、通った。窓越しに、誰かの、笑い声が、漏れていた。


 俺の、知らない、世界の、笑い声、だった。


 神社の石段の、前で、足が、止まった。


 石は、古くて、苔が、湿っていた。雨は、降っていない。


 石段の脇に、小さな、灯篭が、立っていた。


 灯篭の中で、消えかかった炎のような、橙の光が、ふっ、ふっと揺れていた。


 誰かが、油を、注ぎに来ているのだろう。


 社務所の、人の気配は、なかった。


 石段の、下から、二段目で、俺の革靴は、ふときしむ音を立てた。


 降っていないのに、踏んだ瞬間、ぬるりと、滑った。


「あ──」


 短い息が、漏れた。


 空が、回った。


 街灯の光が、ぐるぐる、回って、やがて、消えた。


 俺は、石段を、落ちながら、なぜか、台帳のことだけを、考えていた。


 あれを、誰かが、見たら、笑うだろうか。


 それとも──少しだけ、何かを、思うだろうか。


 頭のどこかに、小さな衝撃が走った。


 意識が、黒に、沈む、その直前。


 遠くで、誰かが、俺の名前を、呼んだ気が、した。


 知らない、女の声で。


 水のような、けれど、低く芯のある、声、だった。


「あなたを呼ぶ声が、たしかに、届いた。──〈調停者〉どの」


 ばさっと、布のような何かが、頭の上に、降りてきた。


 俺は、まだ、何も、見えていなかった。


 ただ、頬に当たる、風が、東京のものでは、なくなっていた。


 草と土と知らない花の湿った香り。


 遠くで、聞いたことのない、種類の鳥が、長く尾を引いて、鳴いた。


 その鳴き声を、俺は、なぜか、知っている、ような気が、した。


 たぶん、夢の中で、ずっと、聞いていたのかも、しれなかった。


 胸ポケットの中で、ボロボロのノートがことり、と、動いた、気が、した。


 そんな馬鹿なこと、ある、はずがない、のに。


 俺は、薄れていく意識の、最後の隅で、ノートに向かって、心の中で、呟いた。


 お前も、来たんだな、と。


 書くものが、ない世界に、行くのは、たぶん、嫌だったから、だろう。


 俺の手は、知らない誰かの、温かい手のひらに、握られていた。


 その手は、人間のものより、わずかに、骨が、細く、指が、長かった。


 女の人の、指、らしかった。


 爪は、短く、整えられていた。


 爪の付け根が、わずかに、淡い、緑色に、光っていたような、気がした。


 もちろん、人間の指で、緑色の光を放つことなんて、ない。


 たぶん、これは、もう、夢の領域に、入っているのだ、と、俺は、思った。


 俺の意識の中で、無音の幻が、遠ざかった。


 オフィスの蛍光灯の、ジー、という音が、最後に、一瞬だけ、戻ってきた。


 そして、それも、消えた。


 代わりに、誰かの、低く優しい呼吸が、俺の耳のすぐ近くで、聞こえた。


 俺は、それきり、夢にも、現実にも、属さない、深い、深い、眠りに、落ちていった。

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