心力の無い子
「あなたのお子さんには、心力がありません」
白い部屋で、その言葉だけが妙に大きく聞こえた。
僕は母の隣に座っていた。
目の前にいる男は、白衣を着ている。医者というわけではない。学校や役所などで心力を測定する資格を持った人間らしい。
僕には、まだよく分からなかった。
「ありません、って?シマに?」
母が聞き返した。
「はい」
男は手元の紙を見ながら答えた。
「正確には、心力の増加が確認できません」
「……増加が?」
「生まれたときから現在まで、ほとんど変化がないようです」
僕は母の顔を見た。
母は笑っていた。
いつもの笑い方だった。
「そうですか」
「珍しいことではあります」
「珍しいだけですよね?」
母の声が少しだけ強くなった。
男は一瞬だけ黙った。
「……はい。珍しいことです」
その返事を聞いて、母はようやく安心したように息を吐いた。
父は何も言わなかった。
ずっと机の上の紙を見ていた。
僕はその紙を覗き込んだ。
そこには、自分の名前と、その下に大きく数字が書かれていた。
0
それだけだった。
「僕、心力ないの?」
聞いてみた。
「そんなことないわよ」
母がすぐに答えた。
「大丈夫。シマは何も心配しなくていいの」
「でも、0って書いてあるよ」
「今は、ね」
母は僕の頭を撫でた。
「これから増えるわ」
僕はその言葉を信じた。
だって、母が言ったのだから。
それから十年が経った。
僕の心力は、増えなかった。
五歳になっても。
七歳になっても。
十歳になっても。
十五歳になった今も。
ずっと、0だった。
僕は毎朝、神に祈った。
父と母がそうしていたからだ。
朝起きる。
顔を洗う。
食事をする。
そして、神に祈る。
僕にとっては、それが当たり前だった。
僕の両親は歴史研究家だった。
特に宗教史を専門にしていて、家には古い本が山ほどあった。
僕も小さい頃から、それらを読んできた。
神がどのように人々を導いてきたのか。
どのような奇跡が起こったのか。
昔の人々が、どのように神を信仰していたのか。
僕はそれを知るのが好きだった。
神を信じることも、嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
だから毎日祈った。
もっと信仰すれば、心力が増えると思った。
十歳の頃には、毎晩欠かさず祈った。
十一歳になったら、聖典を読むようになった。
十二歳になると、学校の宗教史の授業では先生より詳しいこともあった。
それでも。
僕の心力は、
0。
「おかしいよな」
そう言われたのは、何度目だっただろう。
教室の隅にある測定器を見ながら、男子生徒が笑った。
「お前、まだ0なの?」
「うん」
「神様に嫌われてんじゃね?」
周りが笑った。
僕も笑った。
「そうかもね」
別に傷ついていない。
……そう思うことにしていた。
「おーい」
放課後。
机に突っ伏していた僕の頭を、誰かが軽く叩いた。
「痛い」
「生きてた?」
「寝てただけ」
「同じじゃん」
顔を上げる。
僕の唯一の親友だった。
名前はヤナセ。
こいつは、とにかく適当な人間だった。
宿題は忘れる。
授業中は寝る。
先生に怒られても笑っている。
なのに、なぜか成績は悪くない。
「帰ろうぜ」
「まだ勉強する」
「真面目だねえ」
「お前が不真面目すぎるんだよ」
「そう?」
「そうだよ」
彼は僕の机に座った。
「なあ」
「何?」
「お前、神って信じてる?」
「急に何?」
「いや、なんとなく」
「信じてるよ」
「ふーん」
興味なさそうに返した。
「じゃあ、俺のことは?」
「何でお前を信じるんだよ」
「ひどくね?」
笑った。
いつものことだった。
僕は鞄に教科書を詰めた。
そのときだった。
「……あ」
彼が僕の机を見た。
「どうした?」
「こいつ、うるさいって」
「……は?」
彼は机に手を置いた。
「毎日鉛筆で叩かれるのが嫌なんだって」
「何言ってんの?」
「いや、こいつが言ってる」
「机が?」
「うん」
僕はしばらく黙った。
「……冗談?」
「違うよ」
彼は笑った。
いつものヘラヘラした笑い方だった。
「俺、物の声が聞こえるんだよ」
窓から夕日が差し込んでいた。
彼の顔だけが、妙に赤く染まっていた。
「能力者?」
「そう」
「……心力は?」
「3000ちょい」
「……」
僕は言葉が出なかった。
3000。
僕が一度も到達したことのない数字。
いや。
僕は0から一歩も動いていない。
「すごいな」
「そう?」
「すごいよ」
「別に」
彼は鞄を持ち上げた。
「興味ないし」
「何に?」
「力とか、権力とか」
彼はあくびをした。
「面倒じゃん」
僕は彼を見た。
心力3000以上。
固有能力持ち。
それなのに、本人は何も欲しがっていない。
僕は逆だった。
力が欲しいわけじゃない。
ただ、
どうして自分だけ増えないのか知りたかった。
「帰ろうぜ」
「うん」
教室を出ようとした。
そのとき。
「なあ」
彼が言った。
「今日、家出しようぜ」
「……は?」
「家出」
「なんで?」
「なんとなく」
「理由になってないだろ」
「じゃあ、理由は今から考えよう」
「考えてから言えよ」
僕は呆れて笑った。
でも。
その日の帰り道。
家の玄関を開けた僕は、笑えなくなった。
両親の声が聞こえたからだ。
「……あの子は、もう十五だ」
父の声だった。
「分かってるわ」
母が答えた。
「でも、まだ――」
そこで二人は黙った。
僕が帰ってきたことに気づいたのだろう。
「おかえり」
母が振り返った。
いつもの笑顔。
いつもの声。
でも。
僕は初めて思った。
この人たちは、僕に何かを隠している。
「……ただいま」
僕はそう答えた。
その夜。
僕は眠れなかった。
机の上には、昔の心力測定の記録が並んでいる。
全部、
0。
そして、その横には今日の記録。
やっぱり、
0。
スマートフォンが震えた。
親友からだった。
『駅いる』
続けて、もう一通。
『家出する?』
僕は画面を見つめた。
馬鹿げていると思った。
そんなことをして何になる。
でも――。
僕は机の引き出しを開けた。
財布を入れた。
上着を取った。
玄関に向かった。
そして、誰にも何も言わずに家を出た。
扉を閉める直前。
僕は一度だけ振り返った。
二階の窓。
そこに、父と母が立っていた。
僕を見ている。
なのに、
追ってこなかった。
その瞬間、僕は確信した。
――やっぱり。
僕の両親は、何かを知っている。
そして僕は、まだ知らない。
この家出が、
自分の信じてきた「神」そのものを疑う旅の始まりになることを。




