1話:ノイズの向こうへ
教室の空気には、ときどき人を息苦しくさせる何かが混じる。
朝霧ヒロは、最近ずっとそう思っていた。
放課後の教室には、まだ昼の熱が少しだけ残っている。
窓の外では運動部の掛け声が響き、廊下の向こうでは誰かが笑っていた。
どこにでもある高校の、どこにでもある夕方だった。
その中で。
ヒロの鞄だけが床に転がっていた。
男子生徒A「拾えよ、朝霧」
男子生徒がつま先で鞄を軽く蹴る。
ヒロは何も言わずにしゃがんだ。
だが、手が届く前に別の足が横から鞄を弾いた。
男子生徒B「女子には愛想いいくせに、俺らには無視かよ」
男子生徒C「モテる男は大変だなあ」
教室に笑い声が広がる。
ヒロは俯いたまま、もう一度鞄へ手を伸ばした。
言い返せば面倒になる。
言い返さなくても面倒になる。
だったら、少しでも早く終わる方がいい。
そんなふうに考えるようになったのは、いつからだっただろう。
昔の自分なら、もう少し笑って受け流せた気がする。
冗談を返すくらいはできた気がする。
でも今は違う。
母が亡くなってから。
少しずつクラスで居場所がなくなってから。
そして。
昔みたいに、何でも話せる相手がいなくなってから。
男子生徒A「おい、聞いてんのかよ」
肩を押される。
バランスを崩したヒロの背中が教室の扉へぶつかった。
その拍子に、廊下へ視線が向く。
そこにいたのは、
黒瀬ミナト。
幼馴染だった。
少し着崩した制服。
高めの身長。
鋭い目つき。
そして近寄りがたい雰囲気。
友達も多く、運動もできる。
ヤンキーっぽいが、面倒見は悪くない。
昔からヒロとは正反対だった。
それでも。
昔は毎日のように一緒にいた。
夕方まで遊び、家へ帰っても終わらない。
夜になれば互いの部屋でトランシーバーを握り、眠くなるまでくだらない話を続けていた。
そんな相手だった。
ミナトと目が合う。
一瞬だけ。
ヒロの胸に期待がよぎる。
もしかしたら。
昔みたいに、
「何やってんだ」
そう言って止めてくれるかもしれない。
だが。
ミナトは足を止めた。
教室の中を見渡し、僅かに眉をひそめる。
今にも入ってきそうだった。
その時だった。
教師「お前ら! 何してる!」
廊下の向こうから教師が駆け込んできた。
男子たちは慌てて距離を取る。
ミナトはその様子を見て、静かに踵を返し、その場を離れた。
その背中を見送ったヒロは、小さく目を伏せる。
助けてくれなかった。
その事実だけが胸に残った。
教師「朝霧、大丈夫か?」
ヒロ「……はい」
教師「本当にか?」
ヒロ「大丈夫です」
それ以上話す気力はなかった。
ヒロは鞄を抱え、教室を後にした。
◇
家へ帰ると、玄関には段ボールが積まれていた。
引っ越し準備。
父の仕事の都合で、この街を離れることになっている。
ヒロに反対する理由はなかった。
学校にも。
クラスにも。
もう未練はない。
それでも。
何かを置いていくような寂しさだけは残っていた。
ヒロ「ただいま」
返事はない。
家には今日も誰もいなかった。
ヒロは制服のままキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開き、残り物で簡単な夕食を作る。
料理。
洗い物。
片付け。
それはもう日課になっていた。
母が亡くなって二年。
家事は自然と自分の役目になった。
母がいた頃、台所はもっと賑やかだった。
料理をしながら映画の話をする母。
その隣で味見をするヒロ。
SF。
冒険。
サバイバル。
パニック映画。
母は映画が大好きだった。
母が亡くなってからも、ヒロは映画だけは見続けている。
極限状態で生き抜こうとする主人公たちを見ると、自分まで少しだけ前を向ける気がしたからだ。
食器を片付け終えたヒロは、自室へ戻る。
部屋の隅には引っ越し用の段ボール。
ヒロ「……やるか」
教科書、参考書、映画のパンフレット。
段ボールへ詰めていくたびに、自分の部屋が少しずつ他人の部屋みたいになっていく。
母と一緒に観た映画の半券まで出てきて、ヒロの手が止まった。
懐かしいタイトルだった。
映画が終わったあと、母はいつも感想を聞いてきた。
母『ヒロなら、あの状況でどうする?』
ヒロ『絶対逃げる』
母『主人公なのに?』
ヒロ『死んだら終わりじゃん』
母『現実的ねえ』
笑っていた母の声を思い出し、ヒロは半券を捨てられない箱へ入れた。
荷物整理が進まない。
そのことに小さく息を吐きながら、押し入れの奥へ手を伸ばす。
指先が、固いものに触れた。
ヒロ「なんだ、これ」
引っ張り出したのは、埃を被った小さな箱だった。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、古いトランシーバーだった。
黒い本体。
擦れて白くなった角。
アンテナの根元には、子どもの頃に貼った星形のシールが半分だけ残っている。
ヒロはしばらく動けなかった。
忘れていたわけではない。
ただ、思い出さないようにしていただけだ。
小学生の頃、ヒロとミナトは毎日のように遊んでいた。
家が近かったから、夕方になればそれぞれの家へ帰る。
けれど、それで一日が終わるわけではなかった。
夜になると、二人は部屋の窓辺でトランシーバーを握った。
ミナト『聞こえるかー、ヒロ』
ヒロ『聞こえてる。声でかいって』
ミナト『明日、秘密基地の続きを作るぞ』
ヒロ『明日、雨じゃなかった?』
ミナト『雨でもやる』
ヒロ『バカじゃん』
ミナト『お前も来るんだから共犯な』
ヒロ『勝手に巻き込むなよ』
秘密基地。
学校で起きたこと。
好きな映画。
どうでもいい話を、眠くなるまで続けた。
話題が尽きても、どちらかが通信を切るまでは黙ったまま繋いでいたことさえある。
今なら、それがどれだけ近い関係だったのか分かる。
けれど中学へ上がる頃には、二人の居場所は少しずつ離れていった。
ミナトの周りには自然と人が集まった。
一方のヒロは、母を亡くしたことをきっかけに、以前のように話せなくなっていった。
決定的な何かがあったわけではない。
ただ、話さない日が増えた。
目が合っても声をかけないことが増えた。
そうして気づけば、何を話せばいいのかさえ分からなくなっていた。
放課後、教室の外にいたミナトの背中が蘇る。
教師が来たから、何もしなかったのかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
どちらにしても、ミナトは自分に何も言わなかった。
ヒロ「……なんで今さら出てくるんだよ」
トランシーバーへ問いかけても、答えが返るはずはない。
電池は何年も替えていない。
もう動くはずもなかった。
使い道もない。
それでも捨てる気にはなれず、ヒロは机の上へそっと置いた。
◇
その夜。
窓の外では、夕方から降り始めた雨が激しさを増していた。
雨粒が窓を絶え間なく叩き、遠くでは低い雷鳴が響いている。
荷物整理を終えたヒロは、ベッドへ腰掛けてスマートフォンを眺めていた。
天気予報には、強い雷雨への注意を促す表示が出ている。
画面を閉じ、充電器に繋いだスマートフォンをベッド脇へ置いた。
そのとき。
夜空が白く染まった。
遅れて、地面を揺らすような轟音が響く。
ヒロ「うわっ……」
あまりの近さに、窓ガラスがびりびりと震えた。
雷は一度では終わらなかった。
青白い閃光が窓の外を走るたびに、暗い部屋の中が昼間のように浮かび上がる。
机。
積み重ねた段ボール。
そして、古いトランシーバー。
ゴロゴロという音が、空の奥から迫ってくる。
次の瞬間。
まるで家の真上へ落ちたような雷鳴が弾けた。
ピシャァァァン――!
ヒロは反射的に肩をすくめた。
同時に、部屋の照明が激しく明滅する。
一度。
二度。
そして。
ブツン、と音を立てて家中の明かりが消えた。
ヒロ「……停電?」
部屋が真っ暗になる。
充電器に繋いでいたスマートフォンの画面も消えていた。電源ボタンを押してみるが反応しない。
ヒロ「なんでスマホまで……」
窓の外へ目を向ける。
周囲の家々からも明かりが消えている。街全体が停電しているらしい。
雷光が走るたび、濡れた住宅街が一瞬だけ白く浮かび上がった。
けれど、その景色には妙な違和感があった。
雨は降っている。
雷も鳴っている。
それなのに、雷鳴と雷鳴の間だけ、異様なほど静かだった。
車の音もない。
人の声もない。
まるで街全体から、雨以外の音だけが消えてしまったようだった。
その静けさの中で。
不意に、別の音が鳴った。
ザーッ。
ザーッ。
ヒロはゆっくりと振り返る。
机の上に置いたトランシーバーが、鳴っていた。
ヒロ「……嘘だろ」
何年も使っていない。
電池なんて、とっくに切れているはずだ。
なのに、本体の小さなランプが淡く点滅している。
ザーッ。
ザザッ。
スピーカーから、あり得ないほどはっきりとノイズが流れていた。
ヒロ「誰かの電波を拾ってるのか……?」
雷の影響で、一時的に動いたのかもしれない。
そんな理屈を考えてみる。
けれど、電池の切れたトランシーバーが雷雨で動き出すなんて、聞いたことがない。
再び、空が白く光った。
その瞬間、トランシーバーのノイズが大きく歪む。
ザザザザッ――!
ヒロはベッドから立ち上がった。
怖い。
触らない方がいい。
頭のどこかで、そう警告する声がした。
それでも視線を逸らせなかった。
まるでトランシーバーの方から、自分を呼んでいるような気がした。
ヒロ「……ミナト?」
思わず、幼馴染の名前が口からこぼれる。
返事はない。
聞こえるのはノイズだけだった。
ヒロはゆっくりと机へ近づいた。
半ば反射的に、トランシーバーへ手を伸ばす。
指先が黒い本体へ触れた、その瞬間。
窓の外で、今までとは比べものにならないほど強い雷が落ちた。
視界が真っ白になる。
同時に、トランシーバーのノイズが爆発した。
ザザッ――!
世界が反転した。
床が抜けたわけではない。
天井が崩れたわけでもない。
ただ、自分を取り囲む空間そのものが、裏返った。
壁が遠ざかる。
机が歪む。
窓の外の雷光が、細い線になって渦を巻く。
ヒロ「なっ……!」
声が出ない。
胃が浮き、呼吸が止まる。
何か巨大なものに掴まれ、暗闇の底へ引きずり込まれていく。
ヒロは咄嗟にトランシーバーを握り締めた。
持ち出せたのは、それだけだった。
スマートフォンも。
財布も。
鞄も。
すべてが部屋へ置き去りになる。
最後まで掌に残っていたのは、冷たいプラスチックの感触だった。
次の瞬間。
ヒロの意識は、完全な暗闇へ呑み込まれた。
次にヒロが目を開けたとき、頬に触れていたのは冷たく湿った石の床だった。
ヒロ「……っ」
鈍い頭痛と吐き気に耐えながら、ヒロはゆっくりと身体を起こす。
目の前に広がっていたのは、見覚えのない景色だった。
崩れた柱。
苔むした壁。
ひび割れた石床。
天井は大きく崩れ、その隙間から青白い月明かりが差し込んでいる。
ヒロ「どこ……だよ、ここ」
声がかすれる。
部屋でもない。
学校でもない。
壁には見たことのない紋様が刻まれ、奥には祭壇のような石台がある。
蔦が絡まり、朽ちた神像の残骸が転がっていた。
どう見ても、遺跡だった。
ヒロ「夢……じゃ、ないよな」
頬をつねる。
痛い。
嫌になるほど現実だった。
頭に浮かぶ言葉は一つ。
異世界転移。
映画や小説で何度も見た展開だ。
だが、実際に自分がそんな状況になるなんて考えたこともなかった。
ヒロは自分の姿を見下ろく。
制服姿のまま。
そして右手には、古いトランシーバーだけが握られていた。
ヒロ「……これだけ?」
ポケットを探る。
スマートフォンはない。
財布もない。
鞄もない。
家から持ってきた物は何一つなく、トランシーバーだけが手元に残っていた。
意味が分からない。
トランシーバーを見ると、小さなランプがかすかに点灯している。
ヒロ「動いてる……?」
思わず電源ボタンを押す。
ザーッ……
弱々しいノイズだけが返ってきた。
ヒロ「おい……聞こえるか」
返事はない。
ヒロ「誰か……」
その瞬間だった。
ガリッ。
奥の暗闇から石を砕くような音が響く。
ヒロの身体が硬直する。
低いうなり声。
暗闇の中で二つの赤い光が浮かび上がった。
ゆっくりと姿を現したそれを見て、ヒロは息を呑む。
狼に似ている。
だが狼ではない。
肩から背中にかけて岩のような甲殻。
異様に長い牙。
赤黒く濁った瞳。
全身から獣とは思えない威圧感を放っていた。
ヒロ「……魔物」
そんな言葉しか出てこなかった。
魔物は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
爪が石床を削る音が遺跡へ響いた。
逃げろ。
本能が叫ぶ。
パニック映画なら、立ち止まった奴から死ぬ。
ヒロは出口を探す。
崩れた壁の向こうに外へ続く隙間が見えた。
だが瓦礫で半分塞がっている。
走り抜けられるか分からない。
魔物が身体を低く沈めた。
飛びかかる構えだった。
ヒロ「くそっ!」
ヒロは走った。
直後。
背後で風が裂ける。
魔物の爪が石柱を砕き、飛び散った石片が頬をかすめた。
ヒロは瓦礫の陰へ飛び込み、必死によじ登る。
手のひらが切れる。
膝を打つ。
それでも止まれない。
背後から唸り声が迫る。
ヒロは握り締めたトランシーバーを見た。
意味なんてない。
分かっている。
それでも、今頼れるものはこれしかなかった。
送信ボタンを強く押し込む。
ヒロ「誰か! 助けてくれ!」
声が神殿中へ響く。
ヒロ「聞こえてるなら返事しろ! 頼む!」
ザーッ……
返ってくるのはノイズだけ。
それでも叫ぶ。
ヒロ「ミナト! 聞こえるか!?」
ヒロ「俺、変なところにいて……!」
ヒロ「助けてくれ!!」
返事はない。
魔物が瓦礫を飛び越えた。
赤い瞳が目前まで迫る。
終わった。
そう思った、その瞬間。
???「伏せろ!!」
鋭い女の声が響く。
反射的にヒロは身を伏せた。
次の瞬間。
轟音と共に青白い雷が神殿を貫いた。
雷撃は一直線に魔物へ命中し、石の甲殻を砕きながら吹き飛ばす。
ヒロは目を見開いた。
崩れた入口に、一人の女騎士が立っていた。
短い青髪。
白銀の鎧。
細剣の切っ先から雷が弾けている。
その後ろから数人の騎士が駆け込んできた。
騎士「生存者一名確認!」
騎士「魔物はまだ動きます!」
魔物が起き上がろうとした、その前へ大柄な男が歩み出る。
巨大なロングソードを肩へ担いだ四十代ほどの男だった。
???「おうおう、元気な獣だな」
男は一気に踏み込む。
剣が振り下ろされる。
轟音。
魔物の甲殻が真っ二つに砕けた。
よろめいた魔物へ、青髪の女騎士が一瞬で肉薄する。
速い。
ヒロの目には青い閃光にしか見えなかった。
細剣が魔物の首元を貫く。
直後、内部で雷が炸裂した。
魔物は悲鳴を上げ、同時に肉片が辺りへ飛び散った。
静寂が戻った。
ヒロはその場へ座り込んだまま、大きく息を吐く。
女騎士が近付いてきた。
鋭い表情のまま、ヒロの前へ膝をつく。
アリア「怪我は?」
ヒロは口を開く。
だが声にならない。
喉が張り付き、息だけが漏れた。
女騎士は小さく眉を寄せる。
アリア「……かなり怯えているな。無理に話すな」
厳しい口調だった。
それでも、不思議と安心できる声だった。
大柄な男が横から覗き込む。
バルド「少年。名前は言えるか?」
ヒロ「……ヒロ」
バルド「ヒロ、か」
男は大きく頷いた。
バルド「俺はバルド。王都から派遣されているレヴァンティア王国騎士団の団長だ」
アリア「私は副団長、アリア」
騎士団。
王国。
魔物。
雷を操る女騎士。
すべてが現実だった。
ヒロは手の中のトランシーバーを見下ろく。
さっきまでノイズを返していたそれは、再び沈黙していた。
ランプの光も今にも消えそうなくらい弱い。
あれだけ叫んだのに。
誰からも返事は返ってこなかった。
届かなかったのか。
それとも、誰かが聞いていたのか。
分からない。
それでも、自分は確かに叫んだ。
助けてくれ、と。
その声に応えたのは、元の世界ではなく、この異世界の騎士たちだった。
バルド「周辺を警戒しろ! まだ他にもいるかもしれん!」
騎士たち「はっ!」
騎士たちが散っていく。
アリアがヒロの腕を支えた。
アリア「立てるか?」
ヒロは頷こうとしたが、身体に力が入らない。
膝が崩れ、そのまま意識が遠のいていく。
バルド「おい、ヒロ!」
最後に見えたのは、
崩れた神殿の天井の向こうに浮かぶ、大きな満月だった。
その光は、もう元の世界には戻れないと告げているようだった。




