境界の向こう側
その夜、レイナは何度寝返りを打っても眠りへ落ちることができなかった。
部屋の天井をぼんやりと見つめるたび、昼間の教室が脳裏へ浮かぶ。
昨日より増えた空の机。
誰も触れることのなくなった椅子。
そこに座っていた生徒たちの笑い声だけが、まるで遠い記憶のように胸の奥で反響していた。
クロエは「まだ助けられる」と言った。
その言葉だけが唯一の救いだった。
生きている。
それなら助けに行ける。
そう思う一方で、心のどこかでは不安も膨らみ続けていた。
もし自分たちまで戻れなくなったら。
きっとクロエがまた能力を使うことになるだろう。
能力を使うたび、彼女は大切な記憶を失っていく。
その代償を知っているからこそ、レイナは素直に「行こう」と言い切ることができなかった。
静かな部屋へ時計の針だけが規則正しく響く。
やがてレイナは小さく息を吐き、布団から身体を起こした。
眠れないなら、少し水でも飲もう。
そう思って部屋を出る。
階段を下りると、リビングから淡い明かりが漏れていた。
扉を開ける。
「……クロエ」
ソファにはクロエが座っていた。
湯気の消えたマグカップを両手で包み込み、窓の外を静かに眺めている。
気配に気付いたクロエが振り返り、小さく微笑んだ。
「起こしちゃった?」
「ううん。眠れなくて」
「私も」
それだけで十分だった。
二人とも同じことを考えている。
言葉にしなくても分かった。
レイナはクロエの隣へ腰を下ろす。
しばらく無言の時間が流れた。
夜の住宅街は静かだった。
時折風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。
「……今日も、あの声は聞こえるの?」
レイナが静かに尋ねる。
クロエは窓の外を見つめたまま頷いた。
「昼より少しだけ」
「どんな声?」
「帰りたいって」
少し間を置いて、クロエは続けた。
「お母さんに会いたいって言ってる子もいた」
レイナは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
きっと、自分たちと同じくらいの年齢だ。
突然知らない場所へ閉じ込められて、不安じゃないはずがない。
「……助けよう」
レイナはゆっくりと言った。
「まだ場所は分からないけど、絶対に助けよう」
クロエは驚いたようにレイナを見る。
その瞳には迷いがなかった。
「私一人じゃ無理でも、二人ならきっと何とかなる」
優しく笑う。
「そう信じたい」
クロエも少しだけ笑った。
「うん」
その一言は、とても小さかった。
けれど確かに力があった。
◇
深夜零時。
二人は制服ではなく動きやすい私服へ着替え、静かに家を出た。
夜風は思ったより冷たい。
住宅街を抜ける頃には、人影はほとんどなくなっていた。
街灯だけが一定の間隔で道路を照らしている。
「学校までなら歩いて十分くらいかな」
レイナが小声で言う。
「……うん」
クロエは短く返事をする。
歩きながらも周囲を何度も見回していた。
影が揺れるたび、肩がわずかに強張る。
レイナはそんな様子を見て、小さく歩幅を合わせた。
やがて学校が見えてくる。
昼間は生徒で賑わう校門も、今は静まり返っていた。
門は閉ざされている。
校舎の窓にも灯りはない。
「……やっぱり」
クロエが立ち止まった。
「見える?」
レイナが尋ねる。
クロエは静かに頷く。
「昼より濃くなってる」
レイナには見えない。
けれど胸の奥がざわつく。
校舎へ近付くほど空気が重くなるような
感覚があった。
「行こう」
レイナはフェンスへ手を掛けた。
「無理だけはしないでね」
その言葉にクロエは少しだけ困ったように笑う。
「レイナも」
二人は人気のない場所から校内へ入った。
夜の校庭は不気味なほど静かだった。
風が吹いても木々はほとんど揺れない。
虫の鳴き声さえ聞こえない。
まるで世界そのものが息を潜めているようだった。
校舎裏へ向かう。
例の倉庫が見えてくる。
昼間は何もなかったはずの地面へ、黒い線が一本、ゆっくりと浮かび上がった。
「レイナ」
クロエの声が少し低くなる。
レイナも息を呑んだ。
黒い線は円を描き、さらに複雑な紋様を形作っていく。
まるで誰かが見えない筆で地面へ描いているようだった。
やがて巨大な紋様が完成する。
その中心が水面のように静かに波打つ。
いや。
空間そのものが揺らいでいる。
『適性個体……確認』
低い声が響いた。
人の声ではない。
どこか機械的で、それでいて感情のようなものも混じっている。
レイナの背筋を冷たいものが走った。
クロエは紋様を見つめたまま唇を噛む。
「この声……」
聞き覚えがある。
遠い記憶。
思い出そうとすると頭の奥が痛む。
『接続開始』
紋様が強く脈打った。
黒い光が夜の校庭を染め上げる。
地面が割れたのではない。
世界そのものへ亀裂が走った。
その向こうには、光の一切届かない闇が広がっている。
そしてその奥から。
『助けて』
『帰りたい』
『怖い』
いくつもの声が重なった。
レイナは思わず一歩前へ出る。
「……聞こえた」
今度はレイナにも聞こえた。
小さな声。
泣きそうな声。
確かに生きている誰かの声だった。
クロエが静かに頷く。
「この先にいる」
レイナは拳を握る。
恐怖は消えない。
それでも。
ここで立ち止まることだけはできなかった。
「迎えに行こう」
その声は静かだった。
けれど揺るがない決意が込められていた。
クロエはその横顔を見つめ、小さく微笑む。
「うん」
二人は並んで闇へ足を踏み入れた。
世界がゆっくりと反転し、視界は静かな黒へと溶けていった。
◇
視界がゆっくりと戻ってくる。
レイナはゆっくりと目を開いた。
視界いっぱいに広がっていたのは、灰色の空だった。
雲ではない。
空全体を覆う、ゆっくりと脈打つ黒い靄。
その奥では無数の光が瞬いている。
星にも見える。
けれど、それらは一定の間隔で脈打ち、生き物の鼓動のように明滅を繰り返していた。
どこか不自然で、見ているだけで胸の奥がざわつく。
「……ここが」
レイナはゆっくりと身体を起こした。
足元には黒い石畳がどこまでも続いている。
だが近くで見ると、それは石ではなかった。
まるで無数の影を幾重にも押し固めたような材質で、微かに揺らぎ続けている。
その揺らぎに合わせるように、大地そのものが小さく脈打っていた。
「レイナ」
すぐ隣から聞き慣れた声がする。
振り向くと、クロエがいた。
目が合う。
二人とも無事だったことに、自然と表情が和らぐ。
「怪我はない?」
レイナが問い掛ける。
クロエは腕や足を軽く動かし、小さく頷いた。
「大丈夫。レイナは?」
「うん。少し頭がぼんやりするくらい」
それ以上の異常は感じない。
だが安心するには早かった。
二人は改めて周囲へ目を向ける。
そこは街だった。
確かに街なのだ。
道路があり、建物が並び、信号機まで立っている。
しかし、何かがおかしい。
建物はどれも歪み、窓の位置がずれている。
壁が途中でねじ曲がり、屋上が横向きについている建物もあった。
道路は真っ直ぐ伸びているように見えながら、少し先で空中へ浮かび、そのまま闇へ消えている。
現実を誰かが曖昧な記憶だけで再現したような世界。
その異様さが肌へまとわりつく。
「……嫌な感じ」
レイナは小さく息を吐いた。
目に映る景色だけではない。
この世界には、人の感情が満ちている。
寂しさ。
悲しみ。
後悔。
押し潰されそうな孤独。
それらが空気へ溶け込み、呼吸をするだけで胸の奥へ流れ込んでくるようだった。
クロエは静かに目を閉じる。
耳を澄ませるように。
数秒後、その瞳がゆっくり開いた。
「……聞こえる」
「やっぱり?」
「うん」
クロエは遠くを見つめる。
「みんな、生きてる」
その言葉だけで十分だった。
レイナの胸から少しだけ力が抜ける。
助けられる。
まだ間に合う。
「行こう」
レイナは静かに歩き始めた。
「急ぎたい気持ちはあるけど、何があるか分からないから」
「うん」
二人は並んで街を進む。
辺りは静まり返っていた。
風も吹かない。
人の姿も見えない。
足音だけが妙に大きく響く。
しばらく歩くと、一軒のコンビニが見えてきた。
看板は途中で文字が欠けている。
ガラスは割れていない。
だが店内は真っ暗だった。
レイナは店内を覗き込む。
「誰も……」
その時だった。
店の奥で何かが動いた。
二人は同時に身構える。
ゆっくりと近付く。
すると、棚の陰から一人の男子生徒が姿を現した。
制服は見覚えがあった。
同じ学校の生徒だ。
失踪した生徒の一人。
「よかった……!」
レイナは思わず駆け寄った。
「無事だったんだね」
男子生徒はゆっくり顔を上げる。
その目には生気がなかった。
焦点も合っていない。
「帰らなきゃ」
ぽつりと呟く。
「お母さんが待ってる」
レイナは優しく肩へ手を置いた。
「大丈夫。迎えに来たから」
しかし返事はない。
「帰らなきゃ」
「帰らなきゃ」
同じ言葉だけを繰り返す。
まるで壊れた録音機のように。
クロエが静かに近付いた。
男子生徒の胸元へそっと手をかざす。
その瞬間、微かな黒い靄が身体から立ち上る。
「……やっぱり」
「どうしたの?」
「心が少しずつ削られてる」
クロエの表情が曇る。
「この世界に長くいると、自分が自分じゃなくなっていく」
レイナは唇を噛んだ。
急がなければならない。
ここへ残された生徒たちは、今も少しずつ侵食され続けている。
「ここから出よう」
男子生徒へ手を差し伸べる。
その時だった。
男子生徒の身体がぴくりと震えた。
視線がゆっくりとレイナの後ろへ向く。
その顔から表情が消えた。
いや、恐怖だけが浮かんでいる。
「……逃げて」
初めて違う言葉を口にした。
震える声。
「早く……逃げて」
レイナは振り返る。
そこには誰もいない。
崩れかけたビル。
静かな道路。
それだけだった。
けれどクロエは違った。
その瞳が鋭く細められる。
「レイナ」
小さな声。
「後ろ」
レイナはゆっくりと振り向いた。
建物の影。
黒い闇が揺れている。
いや、影ではない。
人の形をした何か。
輪郭は曖昧で、全身が黒い霧に覆われている。
一体、また一体と建物の陰から静かに姿を現していく。
足音もなく、呼吸音もない。
ただ、赤黒い瞳だけが二人を見つめていた。
クロエは静かに一歩前へ出る。
足元の影がゆらりと揺れた。
黒い粒子が集まり、右手へ流れ込んでいく。
影が凝縮し、一振りの黒い剣を形作る。
影装冥滅具現陣。
静かに刀身を握るクロエへ、レイナは横目を向けた。
「……無理だけはしないで」
クロエは小さく笑う。
「約束する」
次の瞬間。
最も近くにいた影が、音もなく地面を蹴った。
第29話を読んでいただきありがとうございました。
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話ごとのタイトルが浮かばなくて更新できない今日このごろですが夏休みに入るので頑張って更新していきます!
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それでは、また次話で。




