エピローグ
いつもありがとうございます。
部屋に戻ると、音無氏は八代を連れて出かけていった。
私はシャワーを浴びて、服を着替え、アザミさんといっしょにお茶を楽しむ。
窓の外が騒がしいと思ったら、今日もまた、幸彦君の件で、マスコミが押しかけてきているらしい。
「幸彦君、元気になるといいね」
私はアザミさんにそういうと、目の前のアザミさんの顔が突然、引きつった。
「そうだね」
不意に。私の背後に人の気配が現れて、男の声がした。
振り返ると、知らない男性が立っていた。四十代くらい。山男のようないかつい体で、ひげも髪も伸びている。
「なんのようです?」
アザミさんが、さっと私とその男の前に立つ。とりあえず、男の目は穏やかで、敵意を今のところ感じないせいか、不思議とそれほど怖いとは思わなかった。昨日の今日で、感情がマヒしているだけかもしれない。
「102の芦屋です。以降、お見知りおきを」
「えっと」
問いたいことはいろいろあるが、何から聞くべきかわからない。
「さすが、地龍に気に入られたお嬢さんだ。霊波は天女のようですな」
ふむふむと芦屋は私を見て頷いた。そして、無言の圧力で、アザミさんを制しながら、私の手を取って、騎士のようにキスをする。
「何かありましたら、いつでもお呼びください。音無のガキより、よほど役に立ちますよ」
「へ?」
頭からハテナマークが消えない。何を言っているのだろう、このひとは。
アザミさんの顔から、緊張が消えないのがわかる。たぶん、このひとは相当強いのだ。
「安心しろ。今、音無とコトを構える気はない。特にこのお嬢さんを敵に回すつもりはさらさらない」
芦屋はそう言って、ニヤリと笑った。
「音無に伝えろ。八代の件は好きにしていい」
アザミさんは、緊張した面持ちで静かに頷いた。
「それでは、お嬢さん、また、お目にかかりましょう」
芝居のようなしぐさで、頭を下げると、芦屋はすーっと宙に消えた。
アザミさんと私は、音無氏が戻ってくるまで、しばらくそのまま宙を見つめ続けていた。
そのあとの数日間は、ラップ音くらいはあったものの、霊的にはなにごともなかった。
しかし、裏野ハイツは忙しかった。
まず。
沢田幸彦君の『お見舞い』をご近所で取りまとめようと思い立った『八代』さんが、201の『田室』さんの家を訪ねたら、返事がなかった。ベランダの窓が開いていることを不審に思った『八代』さんは、大家の裏野セツさんに連絡。
夕刻、セツさんの代理で訪れた息子さんが、『田室』さんがベッドで心肺停止状態になっているのを発見。病院に搬送され、死亡が確定した。
その後。田室さんは解剖の結果、心臓発作であることがわかり、病院に通院していたこともあって、病死とされた。
田室さんは、自らの死を予測していたらしく、親族がいないこと、自分が死んだ後の葬儀や財産の処分など、事細かに記したことをノートにまとめていた。まさしくたつ鳥後を濁さず、といった感じだ。
喪主は、田室さんと親しかった(ことになっている)八代さんがとりしきり、近所の人間だけでひっそりと葬儀をおこなった。
一部の新聞では、孤独死とか言われて、『かわいそう』な最期だと書かれていたが、田室さんの楽しそうに踊る笑顔を思うと、彼女は幸せに逝けたのだ、と、私は信じる。
田室さんのお見送りが終わるのを待って、私は音無氏と一緒に、沢田幸彦君の見舞いに訪れた。
一般病棟には移ったものの、幸彦君はまだ、げっそりとしていて、点滴をしたままだった。
「これは、少ないですが、みんなからのお見舞いです」
音無氏が、ご近所連盟の、お見舞いを沢田さんの奥さんに渡すと、彼女はそっと涙を拭いた。
「田室さんがあんなことになって……幸彦のこと、とても心配して下さっていたの」
「……今思えば、安心なさったのだと思いますよ。田室さん。幸彦君が見つかって、とても喜んでいらっしゃったから」
私の言葉に、彼女は頷き、私たちの持っていった花を活けに病室を出て行った。
幸彦君は、私と音無氏を見て。
「ありがとう」
声に力はないけれど、はっきりとそう言った。
私が、彼の細い手を握ると、彼は嬉しそうに笑った。
「また、来るね」
私はそう告げ、音無氏と病室を後にした。
そして。
私と音無研究所の契約が終わり……私は、裏野ハイツを出た。
今日は、給料日。
私は音無研究所を訪れた。
いろいろあったけれど、音無氏と会うことはないのかな、と寂しい気持ちになる。
そもそも。最初の一日以外、私と音無氏は一つ屋根の下で夜を過ごしたのであるが、多少の接触過多はあったものの、キスすらかわすこともなかった。
もちろん、夜、ラップ音が鳴り響く中、色っぽい気持ちになれるかといえば微妙ではあるけれど、音無氏くらい美形であれば、女性に不自由はしないだろうから、私など眼中になくて当然だろう。
私はドアフォンを押して「有野礼香です」と名乗る。
ガチャリ、と音がして、迎えてくれたのは、アザミさんではなく、音無氏だった。
「そこに、座って」
音無氏は、応接セットのソファに座るようにすすめ、麦茶と、書類をテーブルに置いた。
「アザミさんは?」
私の問いに、音無氏は少し不機嫌そうな顔をしたが、何も言わずに私の前にトンと書類とペンを置いた。
「これにサインして」
私は、名前を書いてから……書類の内容を読み、慌てて音無氏の顔を見る。
「あの? これ、塚田ホテルに一週間泊まるって、書いてありますが?」
「ああ。そうだけど?」
音無氏は、しれっとそう答えた。
「新しい契約書だよ。俺、君を手放す気はないから」
詐欺師のように音無氏はそう言って、嬉しそうに私から書類を取り上げ、そのまま私を抱き寄せた。
了
お読みいただき、ありがとうございました。
101号室だけ、書けませんでした(ごめんなさい)
本格ホラーとは言い難い作品ですが、楽しんでいただければ幸いです。




