第1話 沈む心の輪郭
いきなり女性との話で始まりますが、エピソード0はBLです。
佐伯誠は、結婚生活の最後の一年を思い返すことができなかった。
思い返そうとすると、胸の奥がきゅっと縮むような痛みが走るからだ。
妻の美咲は、穏やかで優しい人だった。
怒鳴ることも、感情をぶつけることもない。
静かに笑い、静かに話し、静かに寄り添う。
周囲からは「理想の夫婦」と言われた。
佐伯自身も、その言葉を否定できなかった。
ただ──子供の話題になると、胸の奥が軋んだ。
美咲は自然に「子供が欲しい」と言った。
その声は柔らかくて、未来を信じている響きだった。
佐伯も「そうだね」と答えた。
そのたびに、心の奥で何かが沈んだ。
沈んだものは、嘘だった。
佐伯は、自分の本質を隠して生きてきた。
自分は同性のパートナーを求めていたこと。
でも、同性のパートナーを到底探せない、当然選べないこと。
その弱さを、結婚生活の中でずっと押し殺していた。
美咲の前では「夫」でいられた。
仕事では「課長」でいられた。
家族の前では「長男」でいられた。
でも──誰の前でも「自分」でいられなかった。
嘘を抱えて生きると、心は少しずつ沈んでいく。
沈んだ心は、ある日ふと、浮かび上がれなくなる。
ある夜、美咲が静かに言った。
「誠くん……
あなたの心がどこにあるのか、
時々わからなくなるの。
……とても苦しそうに見える。」
その声は、
責める響きではなかった。
ただ、佐伯の苦悩に気づいた人間の、誠実な問いだった。
佐伯は返事ができなかった。
美咲は続けた。
「私ね、誠くんのことが好きだよ。
でも……
あなたの心が、
私に向いていない気がするの。
それが、怖いの。」
佐伯は、
胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
美咲は泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、静かに真実を見ていた。
「誠くんは、私を
嫌いになったわけじゃないよね?」
「……違うよ。」
「じゃあ……
誠くんの心は、どこにあるの?」
その問いは、
佐伯の嘘を静かにほどいた。
自分の心はどこにも向けないまま、
ただ「夫」という役割を演じていた。
美咲は、佐伯の沈黙を見て、
ゆっくりと息を吸った。
「……誠くん。
私、あなたの心を縛りたくないの。
あなたが苦しそうにしているのを
見るのが、一番つらい。」
その言葉が、佐伯の胸に深く刺さった。
壊れていない幸せを壊すことになると分かっていた。
美咲を傷つけたくなかった。
自分が悪者になることも分かっていた。
それでも──
自分の心がどこにも向けないまま
生き続けることが、もう限界だった。
離婚は穏やかに進んだ。
争いはなかった。
ただ静かに、
終わった。
美咲は
最後まで優しかった。
「誠くんが悪いわけじゃないよ。
でも……
あなたの心が
どこか遠くにあるように感じて、
私、どうしていいかわからなかったの。」
佐伯は何も言えなかった。
壊れていない幸せを壊した罪悪感が、胸の奥に沈んだ。
その罪悪感は、
離婚届に判を押した瞬間、
静かに形を持った。
佐伯の心は、その瞬間、静かに崩れた。




