44.1 「リン様が――リン様がいらっしゃらないのです!」
アンジーは皇室宮殿のメイドだ。
彼女はトレスポンダ爵の屋敷の面接で落とされた後、ベリルで臨時のメイドを募っているのを知って応募した。
ここで、リン様という幼い少女の身の回りの世話をすることになったわけだ。
リンという少女は何者なのか。
宮殿に隠れ住んでいるくらいだから皇室の縁者なのだろうが、どうも怪しい。
ほんの少し前までは難しい病で寝たきりであったらしい。
そうとは思えないほど元気で、外の世界にも明るい。
お世辞にもお行儀がよいとは言えず、料理とお金が大好き。
ふわっと、あっけらかんとした言動には皇室らしい少女らしさ――というか非現実感を感じることもあるけども、料理の、とりわけ原価となると異様な執着というか生活感を丸出しにすることもあって掴み切れない。
皇室一家――中でも浮世離れした皇女ミハエラとは全く別の種類の人間に見えた。
(先代の隠し子で、ずっと外で育てられたとかかしら――)
日々想像を逞しくしていたアンジーであったが――ここ三日ほどリンの元気がないことには気付いていた。
食事も喉を通らない。
話しかけても頷くばかりで、その甲高い声を聴いていない。
日に日に影が薄くなってゆくというか、そんな感じだった。
何やら物騒な戦術部隊が、キング・ミステスという船でブリタシアへ向かった日からだ。
リンは、ロウやセスという捜査官に懐いていたし、きっと寂しいのだろうと思った。
(今日はリン様のお好きなチーズオムレットなのに)
ベッドサイドに腰かけ、彼女はトレイに向き合っているが――今日も食べないかも知れない。
他のメイドの出す夜食は食べているのだろうか。
また病気とやらが悪くなっているのではあるまいか。
その後ろを見て、アンジーはふと妙なことに気付いた。
リンの姿が透けていたのだ。
***
「皇女陛下! ご報告いたします!」
宮殿の長い廊下を、ミハエラとカーライル、そしてマーリーンが歩いていた。
そこに走って追いついてきたのはアンジーだ。
「お待ちください! 皇女陛下!」
カーライルがその先に身を滑りこませ、「不敬だぞ。私を経由しろ」と遮る。
――誰でもいい。とにかく報せないと。
「リン様が――リン様がいらっしゃらないのです!」
「自室にいらっしゃらないのか。最後に見たのはいつだ」
「――いえ、自室にはずっといらっしゃるのです」
いるのにいない。
自分で言っていて何を言っているのか判らない。
「整理して話せ。リン様はお部屋にいらっしゃるのか、いらっしゃらないのか」
「じ、実体はいらっしゃいません――おそらくここ三日ほど」
実体がない。おそらくそれが最も適切な表現だった。
大賢者は卒倒しそうなほどに目を剥いた。
どうして気付かなかった! とカーライルはアンジーを怒鳴り付ける。
「それが――今も、お姿だけはお部屋にいらっしゃるのですが――その、幻のようで」
光魔術の幻影か――と大賢者はポツリと言った。
皇女が、珍しく慌てた様子でカーライルに命じた。
「カーライル! キング・ミステスに連絡をなさい! 船内を捜索するのです!」
***
ロンディアを離れたオレたちは、連絡橋を渡ってフルシの病院に向かった。
ジャックは出血が酷く、大量の輸血と主要な血管の傷を塞ぐ手術をし――バリィさんの隣のベッドに寝かされた。
「――なんだよ。見るなよ」
ジャックは不機嫌そうに文句を言っている。
「また会うとはなあ」
バリィさんはそう、何やら楽しそうに言うが、もう一人――アルドゥイーノはそうじゃなさそうだった。
アルドゥイーノはうんざりしたような顔でオレを見る。
「どうしてこうなるんだ。借りは返したはずだろ」
「アルドゥイーノこそ、どうしてまだここにいるんだ」
そうは訊いたが、アルドゥイーノたちと別れてまだ一日も経っていないのだ。
もうずっと昔のような気がしていたのに。
列車は無事にフルシへと逃げ、子供たちは家に帰って行ったらしい。
もっとも、ブリタシアの子たちは帰る家を失っていた。
「――ロンディアはダメだったか」
アルドゥイーノは窓から、遠くに見える古の大都市を眺めた。
一夜明けて、まだ煙が上がっている。
「ああ。勇者のボスを追い払ったが、手遅れだった。警告したのに、上層部を動かせなかった」
崩落した地盤の下敷きになった車。
ブラックホールで消滅させられた家々。
ロンディアから脱出できた者はほんの一人握りだった。
そう気を落とすな、とアルドゥイーノはオレの肩を叩く。
「痛たたたた」
体中が痛む。
オレも足を四十針縫ったし、全身を打っている。
バリィさんは今日これからまた手術らしい。
ジャックは起き上がる。
「寝てなんかいられるか……。集められるだけ情報を集める。対策を立てないと」
「ジャック! 無理するな!」
「ノヴェル、傷は大丈夫だ。だが時間はもうない」
「奴も同じだ! 放っておいても奴は死ぬ!」
オレは復活したベリルとの通信で、皇女様と爺さんと話した。
結論は――オレたちの見たものは幻でもなんでもない。
スティグマは二人いた。
奴は現在のベリル生まれ、忘れられた大学者アレスタ・クロウドの息子。
アレスタ・クロウドとは、爺さんたちと共にヴォイドの研究をしていたが――異端視されて追放された。
彼はヴォイドの起こす真空爆発を止めるのを諦め、箱舟を造って逃げようとした。しかしヴォイドの効率が思うように上がらず、彼の計画は頓挫した。
その息子がスティグマ――双子だった。
爺さんは関連する記憶を見事に改竄されて、双子の存在を忘れていた。
二人の推定年齢百五十歳。本名はどちらも不明。
そしてどちらも――ヴォイドの神に接触して、女神病を通じてその神に感染した。
奴の深層世界にダイブしたミラにさえ、その存在に気付かないほどだったという。
「双子だったとはな。パタパタって足音が二つあった。言われてみりゃあってレベルだよ。本当に双子だったのか、あたいにゃ何とも言えねえ」
勇者たちは知ってたのかよ、とミラはインターフェイスに水を向けた。
でも――彼女は怯えるばかりだった。
自分にそんなことを知る権限はないのだという。
何らかの認識阻害なのか、怖れなのかは判らない。
知っていたとか知らなかったとかそういう次元じゃない――認識することすら許されない、そんな風に見えた。
ただ彼女自身、スティグマが二人居なければ説明のつかない出来事に遭遇したことはあるという。
「あのとき――あのお方がセブンスシグマと対決なされたとき――誰がセブンスシグマを殺したのか。私には理解できませんでした」
そのとき起きたことは、スティグマの起こした超常的な奇跡なのだと彼女は理解していた。
セブンスシグマ自身が、自分自身を複製するような無茶苦茶な能力者だったためらしい。
ただでさえスティグマは神出鬼没と思われていた。いないはずのところに現れるといった奇跡を演出することで、双子の存在を隠していたともいえる。その謎のベールを利用してだ。
セブンスシグマの能力は『都市』、その本質は『試行』なのだと彼女は説明する。
ちなみにファンゲリヲンの能力は『祈り』と呼ばれていた。
『腕』や『殻』などと比べると、勇者の能力はどんどん高度になっている。
それはまるで、人の文明に追いつこうとしているようだ。
「いいのかよ? そんなに仲間の能力をぺらぺらと」
そう言うのはきっとミラなりの気遣いだ。
「彼ら自身が、自身の力の説明を求めたことがあったのですわ。私はその際、これらを知り、話す権限を付与されております」
「ならその『都市』――か? あのセブンスシグマの能力について教えてくれ。オレは一度も会ったことがないんだ」
「『都市』の能力は、前例がないほど高度なものでしたわ。あるひとつの事象を、あらゆる方法でやり直す能力――つまり試行でした」
試行。
そのために、セブンスシグマは自分を複製したり、複数の異なる結果を同時に導くことができた。
ジャックは興味深く聞いていたが、理解の範囲を超えたようだ。
ノートンの意見も聞いてみる――とぶん投げた。
無理もない。セブンスシグマ自身、自分の能力について未知の部分が多くあったようだ。
オレはアレン=ドナで会ったその首を思い出す。
「その『都市』の能力を、スティグマも使えるってことはないのか?」
自分で訊いておきながら、考えたくない可能性だった。
ジャックもミラもオレを睨みつける。
「私にはその可能性を検討する権限はありませんわ。ありませんが――禁止されてもいません。おそらく可能性は低いでしょう。セブンスシグマの能力は、強力過ぎて魔力を大量に消費しました。惑星全体のバランスを壊してしまうほどに」
禁止されてないってことはたぶん――オレの考えは奴から遠ざかってる。
能力の有無はおいても、奴が双子だということは別ルートの検証からも明らかなんだ。
「――ノヴェル。おめえの心配は判るが、姫さんの話からも双子と考えていいんじゃねえか。きっと逆だぜ。あの野郎が双子だったって事実のほうが、『都市』って能力のベースになってんだ」
それに考えてみれば、そんな能力が当たり前に使えるならセブンスシグマを首だけにして生かしておく必要はない。
セブンスシグマが生かされていたという事実が、スティグマに『都市』の能力はないという証拠だ。
「そんな奴の首だけを残して――いったいスティグマは何をしようとしてるんだ」
「私にも判りませんわ。あのお方のお考えが判るのは、あのお方だけ」
ジャックはベッドから身を起こして頭を振った。
「理解できん。とにかく奴らを止められるとしたら、奴らを倒すことだけ――だな?」
それだ。
問題は変わっていない。
奴は百五十歳。
「――放っておいても死ぬとして――それが十年後なのか百年後なのか、だよなぁ」
女神だけじゃない。
奴のヴォイドは、奪ったヴォイドを通じて外界の情報を手に入れて成長しているんだ。
胎児だったヴォイドの神は、今は得体の知れない何かになっている。
「でも奴にはもう時間がないはずなんだ。病気で死ぬとかじゃなくて――」
オレは『奴に時間がない』と言ったのは、それは全く別の方面の、外圧の話だ。
世界中が奴を知る。奴にはもう戻る道もないし、いる場所もなくなる。
そこにノートンが入ってきた。
バタバタと慌ただしく、そして手には各紙の新聞を抱えていた。
「見たまえ。今朝のフルシの新聞だ」
大量に買い込んできた新聞をジャックのベッドの上に広げる。
見出しは『ブリタ女王崩御』『勇者が捕虜の虐殺を主導。女王が関与か』『ロンディア陥落』『ブリタ全土を襲った謎の魔人。次の狙いはどこか』――。
『次の狙いはどこか』
オレは眩暈がした。
世界が奴を追放する。それは判っていたことだ。
爺さんたちがアレスタ・クロウドを追放したように。
でも奴に時間がないのと同様、オレたちにだって――。
「だから時間がないと言ってるんだ!」
ジャックはベッドから抜け出す。
ノートンは苦々しげにそれを見て――しかし認めた。
「ジャック君の言う通りだ。どの新聞も一斉にスティグマと捕虜、女王の関係を報じ始めた。危険だ。今日、世界中がスティグマのターゲットになったのだ」
「まずいぞ。これじゃスティグマがどこで虐殺を始めてもおかしくない」
「パルマとウェガリアには皇女陛下が手を回して記事を差し止めている。時差のお陰で大陸東海岸は何とかなりそうだ」
でもそれももう、どれほど意味があるのか――。
ジャックは壁からジャケットを取って羽織る。
「とにかくナイト・ミステスに行くぞ。麻酔と、止血剤を大量に頼む。包帯もだ」
***
ジャックが急かし、オレたちはドノバ港に停泊中のナイト・ミステスに移動した。
「暗号名を従来の『スティグマ』から『ツインズ』に変更する」
船のブリッジで、ノートンはそう宣言した。
「かつてミラ君の見た左半身を侵食されたほうのツインズを『ツインズ・アルファ』、ノヴェル君が謁見し、ブリタを襲ったほうを『ツインズ・ベータ』と。略称はそれぞれアルファとベータだ。アルファは主にパルマを拠点に活動し、ベータはアレン=ドナを拠点にしていたと思われる」
官僚はすぐコレだ、とミラはうんざりした声を上げる。
「右とか左とかいえばいいんじゃねえか?」
「右とか左は主観で変わるため判りにくい。実際に判りにくかったわけだろう?」
そういわれてしまうと何も反論できない。
「ツインズは現在、ロンディア付近に潜伏し、負傷したベータの回復を待っていると考えられる」
「待て待て、どうしてロンディアにとどまっていると?」
「昨日奴は、女神アトモセスを殺したあと最下層へ向かった。ロンディアを足掛かりにし、そこで合流しようとしていた可能性がある」
ノートンはボードに『ホワイトローズ』と書いた。
「行方不明のホワイトローズだ。彼女はまたロンディアに現れる。彼女を待っていた可能性が高い」
なるほど、とジャックは頷いた。
知ってか知らずか、フルシ沿岸はフルシ軍によって既に包囲されている。
がら空きなのは軍隊が壊滅状態にあるブリタのほうだ。
「予想される次のターゲットはブリタの都市、カウンターバレーだ。そうでなければヴァニラ海沿岸の国々」
「場所が判ったとしても――オレたちにはもう、避難を呼びかけるくらいしか――でも――」
スティグマ――いや、ツインズを倒すことはもう不可能だ。
避難といっても限度がある。
連絡橋や港、海峡を破壊されたらブリタシアは終わり。
「君の言いたいことは判る。我々は対ツインズの対策を立てなければ先がないのだ」
ジャックが痛そうに挙手する。
「詳しくは知らんが――奴に大量の魔力を浴びせれば、奴の中のヴォイドを不活性化できるんじゃないか? 前はそうしたんだろ?」
かつて爺さんたち大英雄がヴォイドを止めた、実績ある唯一の方法だ。
「理論上はそうだ。だがその方法がない。大英雄の造った天文台は、地上を向くようには設計されていないためだ。そして恐ろしく効率が悪いのだそうだ。特にツインズのように、意志をもって動き、自らヴォイドの総量を補充できる相手に対しては完全に無力だ」
「なら逆に、奴をどうにかして拘束して、魔力の一切ない場所に閉じ込めるとかはどうだ? そうすりゃ奴は自分のヴォイドに食い殺されるしかないんだろ?」
「現実的ではない」
ミラが珍しく挙手した。
「アルファはともかく、ベータのほうは奴の中にソウィユノを置いてきた。奴の精神をズタズタにしてくれれば、奴はもう力を使えねえかも知れねえ」
いきなりソウィユノと言われても何のことかさっぱりわからない。
ミラの話によると、オーシュの中で出会ったソウィユノの半分を、ずっと彼女の中に飼っていたらしい。
それを昨日、ツインズ・ベータに侵入したときに置いてきたのだそうだが――。
説明されてもよく判らなかった。
「ベータは死んだ可能性もあるしな」
ジャックのその指摘には、ノートンは懐疑的だ。
「どうだろうな。今朝まだ我々が生きていることを考えると――おそらくアルファはベータの治療中だ。もしかするともうホワイトローズが合流しているかも知れない」
ふむ、とジャックは詰まらなそうに鼻を抓んだ。
「なら、良くてベータは精神崩壊で戦線離脱か。そうなればうれしいんだが――」
「それだけじゃねえ。アルファのほうは、ベータが何をされたか判らねえ可能性がでてくるだろ。要するに、またインターフェイスを使ってアルファにも侵入できるかも知れねえ」
同じ手が二度使えたらお得だ。
なにより実績がある。
あのスティグマ、いやツインズの片割れを、地面に落としてやった。
おそらく殺せはしなかったとしても――モートガルド沖で、ウインドソーラー城で、虫けらのように殺されるしかなかったオレたちから見れば、それはもう倒したと言ってもいいほどの快挙だ。
「とにかく我々に残された時間は、ベータの回復までの時間だ。ホワイトローズが治療に加われば、それは――」
そこへ――ボーンと間延びした船の汽笛が聞こえてきた。
ブリッジから見た水平線に、真っ白な霧の船団の船がある。
何かの理由で遅れていたキング・ミステスが到着したようだった。
「キング・ミステス・ワン。入港しろ。随分遅れたが――何があった」
エイス船長が通信機にそう尋ねても、キング・ミステスの応答は歯切れが悪い。
色々あっただの、着いたら判るだのと――。
「ま、無事ならいいんでやすが」
エイスを先頭にオレたちは港に降りてキング・ミステスを待った。
***
「ノヴェル!!」
懐かしいような甲高い嬌声で――オレは唖然と、しかし目を見開いた。
船から飛び出して走ってきたのは、オレの妹――リンだ。
「リン――どうしてここに」
オレはリンを両手で捕まえながら、勢いに負けてその場でぐるぐると回った。
「ノヴェル!! 心配したんですよ!! 心配したんですよ!!」
「ば――バカ、そんなの、こっちのほうが心配したんだぞ!! お前、神になったんだってな!!」
「ノヴェルこそお尋ね者になったんじゃないんですか!!」
オレはどうに立ち止まって――リンの小さい体を抱きしめた。
良かった。
神になっても変わらない。
船からはロウとセスが降りてきた。
彼らが言うには――リンはキング・ミステスに忍び込んでいた。
黙って出てきたのでベリルには教えないでほしいというリンの願いを律儀に聞き入れて、彼らは報告しなかった。
「なにせ神様ですからね」
「はい。我々には何とも」
ところが、キング・ミステスには輸入モノの軍用レーションくらいしか積んでいなかった。
こんなものばかり食べていてはダメだとリンが怒り出し、急遽寄港して食料品などを調達する羽目になったのだという。
「なにせ神様ですからね……」
「はい……我々には何とも……」
リンは光の魔術なるものを使って皇室宮殿のメイドを騙し、三日ほどおとなしくしているふりをしていたらしい。
で、先ほど遂にそれがバレ、ベリルの宮殿から『リンが三日前からいなくなっていた。船内を探せ』とお怒りの通信が飛び込んだ。
時差からするとベリルはまだ朝だ。朝一番でリンがいなくなったことに気付いて、大騒ぎになったらしい。
「エイス船長、そういうわけで口裏を合わせてもらって――今リンちゃんに気づいたっていう風で連絡してもらっていいでしょうか」
「仕方ありやせんね――姫様を心配させるのもナンですし」
相変わらずのお騒がせぶりだ。
オレたちはひとまずナイト・ミステスのブリッジに戻って情報交換をした。
お待たせいたしました。
Episode.44更新開始です。