41.3 「ルーク・ミステス・ワンがスティグマの攻撃を受けました」
「大ニュースだ! チャンバーレイン氏がやったらしいぞ!」
ノートンが通信機から吐き出された紙を見て大声を上げた。
ここはナイト・ミステスの船室だ。この船はブリタシア島の南東部、ドノバという港に入港したままだった。
オレたちは昨日までロンディアの市警本部の会議室を借りていたのだけれど、なんだか急に風当たりが強くなって、遂に署長直々に退去を命じられてしまった。
軍を出してもらう話も有耶無耶のまま、オレたちは街へ追い出されてしまった。
そこでロンディアの宿を延泊しようとしたら、なぜかチェックが通らないと言われた。
パルマのロイヤル口座だぞ。そんなわけあるかと思ったんだけど――どこでも通らなかった。
手持ちの現地通貨を握りしめ、オレたちは涙を呑みながらこのドノバまで来たわけだ。
それはともかく、『大ニュース』ってやつだ。
チャンバーレインはまだ生きていた。
――で、あの爺さんが何をやったんだ? とオレは紙を覗き込む。
速記記号なのか暗号なのか、オレにはその記号の羅列を読むことはできなかった。
「何て書いてあるんだ?」
「スティグマは征東戦線での捕虜を不当に扱っていた。チャンバーレイン氏が捕虜を解放したんだ。この通信でそれがはっきりした。ミハエラ様のお耳にも入ろう」
「捕虜の――不当な扱い?」
「実のところ、そこがはっきりしなかった。だがチャンバーレイン氏によれば――スティグマは、捕虜たちをどこかに連れ去っていた。行方は判らないが、逆らう者はその場で殺されたらしい。その引き渡しの瞬間を掴んで、氏が横取りする形で解放に成功した」
――なんだって?
それはどう受け取ったらいいんだ。
非道には違いない。
同じ感想を抱いたのか、ジャックが割り込んできた。
「それは、どれくらいの期間、延べ何人くらいを手にかけて、何人残ったんだ?」
「細かい実態はまだ判らない。消えた捕虜は過去十年間で四千人規模と言われている。今回救助された人間はたったの百十五名だ」
残り三千九百人はどこに行ったのか――オレの疑問をよそにノートンは喜んでいた。
「歴史的大スキャンダルだぞ! これが明るみに出れば、スティグマと雖ももう世界のどこにも居場所はない。我々の勝利だ!」
具体的な数字が出ても、まだ実感は沸いて来ない。
現実感がないっていうことなのか。
「急に言われてもよく判らないな。それは、勇者たち全員が関わっていたのか?」
「いいや、証言によると現れたのはスティグマだけだ。それだけじゃない。問題は、捕虜たちがどこにいたかだ」
「――スティグマの所有するどこか? まさかアレン=ドナ? でも――四千人だろ?」
「ならばまだ穏やかだった。捕虜たちは――ウインドソーラー城の地下牢で発見された。今はもう使われていないはずの、女王の管轄の刑務所だ」
ブリタ女王が――スティグマに食事を提供していた。
そう考えると、急に事態の深刻さが少しだけ判った。
「それが本当なら――もっと早くどうにかならなかったのか」
「残念なことだ。しかし誰かを責めるのは筋違いだ。チャンバーレイン氏が何をどこまで知っていたのか。捕虜に不当な扱いをしていることまでは知っていたしても、どこで、どんな目に遭わされているのかまでは判らなかったのかも知れない。それこそ、我々がスティグマの本当の狙いに気付くまではね」
ノートンはゆっくりと言う。
「だから――例え百人でも救い出せたのは幸運だったと考えたまえ。君たちの貢献なくしては、それすら不可能だったのだからね」
ジャックが人差し指を立ててオレに向けた。
「出来なかったことを悔やむのは後にしろ。まとめて遺恨は晴らす。官僚さんよ、確認したいんだが、それってつまりスティグマが捕虜から魔力を回収していたってことだよな?」
「山岳民族のシャーマンには、高い魔力を持つ者がいるとは言われる」
「それってつまり、アレン=ドナで黒い力を使った埋め合わせなのか?」
「おそらくはそうだろうな。魔力なら自然に回復する。だが黒い力は人から直接回収しなければならない――と言ったのは君じゃないか」
黒い力はスティグマからもらったものだとファンゲリヲンは言っていた。
ホワイトローズがあの力を使ったのに、ファンゲリヲンしか殺せなかったから赤字なのだろう。
「じゃあ、このタイミングでスティグマが食事に動いたんなら、埋め合わせってことだよな」
「俺もそう思う。じゃあ今、奴らは相当に追い詰められてると――考えていいのか?」
ジャックはそう言うが、自分自身半信半疑みたいだ。
スティグマがどういうつもりで捕虜に手をかけようとしたのかは判らない。
飢えに飢えてのことなのか、空いた小腹を癒すルーティーンくらいのことなのか。
「――いずれにせよ、奴に一泡吹かせてやった。奴が使える力が、僅かかも知れんが減ったには違いないだろう。あとは――」
ジャックは船室の窓からブリタの大地を見渡す。
「償わせてやる。何倍にもしてな」
***
ヴァニラ海東部――リトア海峡。
海上に停泊する霧の船団ルーク・ミステスは臨時の海上通信基地となっていた。
ベティは朝から山のような電文をパルマへレポートし、物凄い勢いで返事を打ち込み、伝送している。
「キャス! 少しくらいは手伝ってよ!」
ベティが椅子を回して外を見ると、キャスがデッキの手摺から海上へ身を乗り出したままだ。
まるで洗濯物のように引っかかっている。
ベティは相棒のキャスと共にオスローの支局から異動になったが、キャスはドカ食いとドカ吐きの繰り返しだ。
「また吐いてんの!? いい加減にしてよ!!」
船室から飛んでくるベティの怒鳴り声が、キャスの頭蓋で反響する。
船酔いだ。
――頭がガンガンする。
キャスは朝食を全部吐いて尚、まだ吐き気が収まらない。
「み……水を……ベティ」
キャスは顔を上げる。
そして彼女は、空に変なものを見つけた。
北の冷たい青空を、誰かが歩いてやってくる。
(これはマズイ。幻覚だ)
水を。水だけは何とか飲まなきゃ、最悪命に係わる。
水を飲んで、船から下ろしてもらおう。
目を擦ってまた空を見る。
幻のような人影はどんどん大きくなってくる。
人影は――歩いているとは思えないほどのスピードでこちらへ向かってくる――と思えた。
「ベティ、た、助けてくれ。幻覚が」
「なんだよ! うるさいって!」
ボトルを持ったベティが立っていた。
「仕事しろっての! 朝からもう、あたしが一人でどんだけ――」
キャスは指差す。
空を。
「ベティ、あのさ、幻覚だと思うんだけど、あれって――」
「ん?」
その指の先には、空を歩く魔人がいた。
長い鎖を垂らしたその姿は、電文の中でしか知らなかった例の男そのものだった。
ベティは絶句する。
「――あれって――」
「幻覚――だよなぁ?」
違う。スティグマだ。
その頭上に、黒点が出現している。
黒点は一呼吸ごとに体積を増し――見る間に小型車ほどの大きさになる。
「コ――コード・デルタ!! 『スティグマ』だ!! 室長に連絡を!!」
キャスのケツを蹴り上げ、ベティは船室へ飛んで返す。
ベティは電文を。
キャスはふらふらしながらも、伝令管にしがみついて叫ぶ。
「海上にスティグマだ!! コード・デルタ発令! これは訓練ではない! 護衛船にも通達せよ!! 総員、即座に海域を脱出!! ルーク・ミステス・ワンの船員に告ぐ!! キュリオスを全機スタンバイ!! 深海への退避を命ずる!!」
「室長とパルマへ発令を報告した!! あたしらも逃げるぞ!!」
「意向の指示を待たず、総員キュリオスに乗り込み、定員に達し次第各自出航せよ! 繰り返す!! これは訓練ではない!!」
船内のすべての箇所で赤色灯が焚かれ、アラートが鳴っていた。
交戦を避け、護衛船団が全方位に散開する。
船尾側デッキのキュリオスに、次々と船員らが乗り込む。
ベティとキャスが船尾へ走る。
走りながら振り向くと、スティグマのブラックホールはコンテナほどの直径になっていた。
スティグマは、小型船ほどになったそのブラックホールを――放った。
それは、周辺の物質を飲み込んでプラズマ化させながら、ゆっくりとルーク・ミステスのブリッジに飲み込まれてゆく。
いや、ルーク・ミステスのブリッジを破壊しながら、落下を続けているのだ。
ブリッジは高熱で変形し、弾けるように崩壊する。黒体はその破片を吸い上げて飲み込み、ケーキにナイフを入れるように鋼鉄の船体を真っ二つに――。
がごん、と船が揺れて傾いた。
「早く!! 早くキュリオスへ!!」
船尾のクレーンに吊り下げられ、キュリオス二基が次々海上投下されてゆく。
避難は続いている。
ベティとキャスは全力で船尾に至り、そこで準備中のキュリオスのハッチまで縄梯子を上がる。
ひときわ大きな衝撃があって、足が梯子を踏み外す。
「ベティ!」
船が大きく傾いた。
ブラックホールは海面に達し、多量の水蒸気を噴き上げている。
ベティとキャスはどうにか梯子を上りきり、ハッチに飛び込むと同時に、船が更に大きく傾く。
一度大きくなった傾きが戻らない。
このまま沈むからだ。
ブラックホールの衝突によってブリッジから船底まで完全に破壊されたルーク・ミステスには、もう船としての浮力は残っていなかった。
大きな水柱を上げて完全に横転し、ブリッジが水没する。
残りのキュリオスは海上に投げ出された。
その様子を――スティグマは空中からじっと見下ろしていた。
***
「クソッ!!」
珍しくノートンが声を荒げ、机を叩く。
オレは今度は何事かと思った。
「ルーク・ミステスがやられた!! リトア海峡に停泊中だったものだ。スティグマが現れたんだ!!」
そう言って突き出された電文は、オレにも読めた。
『ルーク・ミステス・ワンより緊急発令
コード・デルタ
起因:暗号名スカイウォーカー』
「これ以降一切の通信が途絶だ! クソッ!! 状況が判らん!! ――クソッ!!」
ノートンは眼鏡を外し、顔面の汗を拭い、自問を繰り返す。
「部下たちは? 通信網の立て直しは? スティグマはどこへ行った――」
スティグマが別の船を襲った。
中継局のリレーが途切れてしまえば、オレたちはもうパルマの姫様たちに情報を伝えられない。
――待てよ? どうしてここよりも先にリトア海峡に停泊中の船を攻撃したんだ?
ジャックは「落ち着け」とノートンに言う。
「今はここで心配しても仕方がないだろ」
「し、しかし私は――彼らの上司で」
「まずやることがあるだろ。室長として考えろ。判ったことがある。捕虜を逃されて、スティグマはブチ切れてる。だが残念ながら、黒い力を使えないほど困窮してはいないってことだ」
ノートンは椅子にがっくりと項垂れる。
オレはどうしても気になることを聞いた。
「ちょっといいか? なんで奴はここじゃなくてそっちを狙った?」
「ん――そうだな」
「たしかに。我々としては船団のどこを襲われても困るが――狙うならまずこの船のはずだ」
ジャックもノートンも虚を突かれたようだった。
このナイト・ミステスはドノバ港に停泊中。
ブリタとパルマを繋ぐように配置された船団の中で、一番ブリタに近いのはこの船なんだ。
普通に考えて狙われるのはここが先のはず。
でも奴にとって順番に意味はないのかも知れない。
次に狙うのがここってだけなのかも――知れない。
ノートンが船内に指示を出した。
「空の見張りを強化しろ! 次はここが狙われる可能性がある!」
***
「ご報告いたします。ルーク・ミステス・ワンがスティグマの攻撃を受けました。コード・デルタを発令し、以降応答がございません」
ミハエラは、カーライルよりそう報告を受けた。
「残念です。慎重に哨戒の上、ポーン・ミステスを海域へ向かわせ、乗員の救護に当たってください。ロウ捜査官とセシリア分析官のチームが待機しています。キング・ミステス出航の準備を」
「畏まりました。こちらへ向かわせます」
カーライルは出てゆく。
残ったミハエラは室内で捕虜関連の資料に目を落とす。
「お姫さん」
だるそうにソファーに身を沈めた老人が、面倒そうに声を出した。
「奴が動き出したのかね」
「――対応を検討していたところでした。遺憾ながら先手を打たれたようです。大至急、キング・ミステスをブリタシアに向かわせます」
「犠牲者を増やすために?」
「援護です。あなたのお孫さんを助けるためにです」
「難しかろうなァ――」
転生を果たした大賢者はやはり面倒そうに話す。
「ワシが行ってやれればいいんだが。何せ歳でな。せっかくなら若くしてくれればよかったのに。アリシアの奴め」
「まだ安定されていないだけです。あなたは死の直前まで、元気にゴブリンを追いかけ回しておられたとお聞きします」
「転生か。あの瞬間――」
大賢者マーリーン、雷の神クォータネムは遠い目をした。
「全裸だったらどうしようかと思ったわい」
ミハエラは暫く大賢者の顔をまじまじと見ていたが――やがて堪え切れず噴き出した。
「――そんなにウケるようなことでもなかろう」
「いえ、こんなときに失礼を。お孫さん――ノヴェルが全く同じことを気にしてらしたのを思い出してしまいまして」
「まぁ、精々笑うがいいよ」
笑えるうちにな、と大賢者は言った。
***
ノートンは、箱を次々組み立てては中に資料を投げ込んでいた。
――次はここが狙われる。
さっきそう伝令した威勢のままだが――あれから小一時間も経って、オレたちはまだ無事だ。
ミラとインターフェイスは下船させ、港で待機している。
ジャックはその様子を横目に首を傾げる。
「いや、そういうのもやっとくほうがいいとは思うが――お前さん、まだ考えてないだろ。『どうしてここが無事なのか』それを考えるのが先なんじゃないか?」
「まだ無事なだけだ。情報を守るのが最優先だ」
「逃げるな官僚さん。ここから逃げるのは賛成だが、考えることからは逃げるな」
「君に言われたくはない。箱詰めしながらでも考えられる! 考えられるぞ! ――そうだな」
ノートンはファイルを纏めて箱に詰めながら喋り続ける。
「簡単なことだ、例えば――奴はたまたまリトア近くに居たんだ。手近な船を攻撃した」
「かも知れん。だが俺たちがブリタにいると知ってるのに、まだここへ来ないのは変だ。ヴァニラ海中部の船からも遭遇の連絡はない」
「ならそう――ここは大都市に近い! 目撃者が増えるのを嫌ったんだ! だからここは、火を点けたり、海中からの攻撃――姿を見られないようにするはずだ」
「ありそうだ」
オレもありそうだと思う。
でも。
「目撃者? リトア海峡だって外洋ってわけじゃない。目撃される恐れはあるんじゃないか? それに――この期に及んで世間体を気にするのか? 捕虜のことが明るみに出たら、意味ないんじゃないか?」
「そうかも知れないな! だがそもそも奴は都市部で派手な行動をしない。ブリタでジャック君を追い回したときもそうだったんだろう? 奴は、そこが他の勇者とは違う。だからたぶん、手癖みたいなものだ」
ノートンはキャビネットから複数のファイルを取り出し、背表紙を眺めた。
一応筋は通る。
「手癖って――」
でも思い起こせば――南方鉄道はどうだ。
イグズスが空から投下されたとき、あそこにスティグマもいたはずなんだ。
それなのに奴は姿を隠していた。あの貨物車両のシャーシに、隠れていた。
意図的にやらなきゃ、あんな風にはならない。
「癖は癖だ! ずっとそうしてきた! 染み付いているのだ」
ノートンはそう断言しつつ、手にした二つのファイルの背表紙を眺める。
どちらを持ち出すか悩んでいるようだ。
「決めつけはよくないな。官僚さん、あんただったらどうする。そのファイル、どっちを持ち出す」
「全部持ち出したいね。だが優先するのは影響力の大きい方だ。より多く参照されている方。後々参照する可能性のある方――」
そう言いながらノートンは、停止した。
ファイルを持ったまま、動かない。
「――どうした」
「あとで困る方を残す――当たり前のことだ」
ノートンは手にした二つを放り投げ、テーブルに並べた資料やら記録やらを退けた。
資料の山から、何かを探し出そうとしている。
「官僚さん、何か判ったのか?」
「港だよ。我々の船を沈めるのは構わんのだろう。だが港はそうはいかん」
山からひとつのメモを見つけ出した。
そこには『スケジュール』と書かれている。
「――明後日、ウィンドソーラー城で式典がある。奴は、港が使えなくなって式典に影響するのを嫌った」
「式典?」
「戴魔式。ブリタ全土、そして周辺の植民地からも――十三歳の子供たちを招いて、魔力を授ける儀式だ」
ジャックは蒼白になった。
戴魔式――。
多くの子供たちが、人生で最初の女神との契約を交わす儀式。
ポート・フィレムで、オレも参列した。
集まるのは学堂に通うただの生徒だろう。どこにでもいる子供たち。誰も警戒しない。
でも――儀式を終えたとき、彼らの魔力は爆発的に増えている。
二階建て魔力の二階部分だ。
オレだけはそうならなかったけれど、彼らは違う。
「式典には女王や軍隊も来る。儀式が終われば、そこは新鮮で膨張した魔力の宝庫だ――」
スティグマはそれを狙っている。
次回は明日更新の予定です。