32.4 「夕食後にお見舞いにいくわ。他の人には教えないように」
このままオレが倉庫に侵入できたとしてだ。
もしそのまま閉じ込められて明日の朝を迎えたら――。
ミラが危ない。
その考えはオレを打ちのめした。
『目的を見失うんじゃねえ』
きっと誰もがそう言うだろう。
オレの目的はスプレネム――いや、リンを救うことだ。
でもそのためにミラを犠牲にして良いわけがない。
リンはオレの妹だが、ミラだってもう姉も同然じゃないか?
ソウィユノとの戦いでリンが囚われ傷ついたとき、ミラはリンを見捨てなかった。
きっとミラはリンじゃなくてもそうしたのだろうけど、今はきっともう違う。
もしミラを見捨ててリンを助けたら、リンはどう思うだろうか?
――やっぱりダメだ。
計画を中止する。
「渡しなさい! それが救いの道なのです!」
「オフィーレア! あんた何様のつもりなんだい!」
「お前達やめろ。文句があるならサマスに言え」
箱の外では小競り合いが続いている。
サマスも関わっているのか――?
オレ達の扱いが酷いように思っていたが、教団ぐるみとなるとやはりオレ達の正体がバレている?
なら一刻の猶予もない。
奴らが争っている隙に――オレは少しだけ木箱の蓋を開け、外を覗く。
言い争っている今がチャンスだ。
オレは箱から抜け出し、体を低く下げたまま居住棟へと向かう。
東屋に出たところで――。
「おい、坊主。こんなとこにいたのか」
不意に誰かに声をかけらた。
オレは飛び上がって構える。
「探したんだぜ――っておい、なんだよ!」
オレは返事もせずに逃げだしていた。
テラスを走って、ミラの待つ部屋に飛び込む。
「ミラ! 大変だ!」
ミラはオレを見た。
その顔の右側、目の下の辺りに大きな赤黒い痣ができている。
オレは声を押し殺して訴える。
「その痣――あいつらにやられたのか!? ここはまずい! 奴ら、ミラを殺す気だ!」
ミラはオレに掴みかかってきた。
負けじと声を押し殺し、それでも怒鳴りつけるような勢いだった。
「自分でやったんだよ! どうして戻ってきた!? テメエは倉庫に行かなきゃならなかったんだろうが!」
「判ってるよ! でも炊事場で、奴らが食事に何か白い粉を入れてたんだ! 明日のお前の朝食だ!」
「だからなんだ! テメエはそんなことを言いに戻るべきじゃなかった! 箱に戻れ!」
――どうしたんだミラ。
「ミラ、しっかりしろ。オレ達の正体はもうバレてるんだよ! こんなことを続ける意味はない! もういいんだ!」
「テメエの妹を見捨てるつもりか!」
「そうじゃない! もう手段を選ぶ必要はないんだ! 斧でも何でもいい、壁を破って倉庫を――」
ミラはオレを突き飛ばし、ぐったりと椅子に座り込む。
「――くそ。時間がねえ」
「今夜はもう人の目がある。とにかく明日、朝食に手を付けるな」
そこでオレは気付いた。
床の上でガラス玉が砕けている。イアーポッドだ。
おそらく彼女が自分で顔をぶつけたときに落ちて壊れたんだ。
「ミラ、どうしてそこまでして――」
「その方がバレ難いからに決まってるだろ。こっちだってレンズを入れてるし、こう暗くちゃ認識術は――」
「そうじゃなくて――いや、いいんだ。なんでもない。ありがとう」
オレは新しいベッドの埃っぽい隅に入って、小さく体を丸めた。
***
翌朝、ミラは起きなかった。
酷く具合が悪そうだ。汗だくで体が動かないと訴える。
過労ってやつだろうか。
「熱があるじゃないか!」
「生きてる……証拠だぜ……。病欠なんてあるのか? 知らねえが、ちょっと頼むぜ」
「医者を呼んでもらうか?」
「医者――? カンベンしろ」
消え入りそうな声。これはもう無理して声を下げているのじゃない。
オレは一人で外に出た。
今日は少し空気が冷たく、それが空腹に染みる。
早起きの面々が忙しそうに東屋を通って棟から棟を行ったり来たりしている。
オレはサマスを探した。
彼はすぐに見つかった。
「ノウウェルさん、戻られたんですね。心配しましたよ」
「ああ――はい」
暗澹たる気分だ。
こいつも何を考えているのか。
オレを捕まえてどうするつもりだ。
「ミランダ姉さんが、その、今朝体調が悪くって――その」
「それはそれは。今朝はこの時期にしては冷えますからね。お嬢様育ちですし、疲れがでたのでしょうか」
こいつは、ミラのことを何も判っちゃいない。
それは当然のことなのだが――オレは気に入らなかった。
「ゆっくり休むよう、お伝えください」
サマスの白々しい見舞いを背中に受け、オレは礼拝堂へ歩きだす。
礼拝の間も、オレは周囲の視線に耐えた。
オレは誰とも目を合わせないように毅然とし――ここへ来て初めて打たれずに礼拝を終えた。
テラスの朝食のテーブルに着くと、オレの隣にミラの分が配膳された。
「あら。ミランダは?」
「具合が悪いらしいです」
「残念。せっかく――今朝の食事は特別なのに。じゃああなたが食べて」
「いえ、あの、オレも腹の調子が」
配膳に来た女は、昨夜炊事場に居た女だ。
「何言ってんの。食べなさい」
女はフォークで冷たいオートライブを一刺しすると、オレの顔の前に突き出した。
青臭い葉が視界の端で揺れている。
「食べなさい。これは家畜の餌とは違うのよ。神の食事よ」
「いえ……今日は、いいです」
寒いのに脂汗が浮く。
女は諦めたように目の前でオートライブを皿からナプキンに移す。
それをばたばたと閉じて――「昼に食べなさい」と言った。
「これを食べるまで次の食事はない。いいね?」
怒るでも叱るでもない。機械的な調子だ。
顔は見ていない。
どんな顔でそれを言ったのかは知らないが――歩き去る後姿は、何事もないかのように平然としていた。
午前の作業の間、オレは農具を探した。
農具はどうやら、農場脇の小さな農具置き場に収納されている。
無施錠だ。
鍬、縄、手袋、小さなナイフ。鋤――は馬小屋だろうか。大した武器はない。
鍬で倉庫の鍵を壊せるだろうか。
こんなナイフでもミラなら上手く使うだろうが、オレは鍬を振り回すのが精いっぱいだろう。
「ノウウェルさん」
オレはまた飛び上がった。
振り返るとオフィーレアが立っている。
「今朝は、ミランダは――姿が見えないのだけれど」
良かった。オフィーレアはミラが心配なようで、オレが何をしているかなんて歯牙にもかけていない。
ミラは体調を崩して寝込んでいると伝えた。
「そう。なら、夕食後にお見舞いにいくわ。他の人には教えないように」
オフィーレアはそう耳打ちした。
昼になると、予告通りオレの食事はなかった。
正確には、ある。
でも朝のアレ――ナプキンに包まれた二人分の葉っぱが、しなびて置かれただけだった。
絶対に食うものか。
でもこの葉っぱ、しなびたほうが茹でたみたいで少し美味しそうに見える。
いやいや気のせいだ。
食べたら死ぬかも知れないんだぞ。
まだ昼なのに、雲は分厚く空は暗い。今にも一雨来そうだ。
オレは目立たぬように席を立ち、ミラの部屋に戻った。
「ミラ。大丈夫か」
返事がない。寝ているのか。
「ミラ――?」
ミラは断続的な、浅い呼吸を続けていた。
「ミラ!」
オレは叫んだ。
「だ、だ、誰だ……? あ、あたいは、どうなって」
「ミラ、ひどい熱だ!」
額は焼けるように熱い。
でも手足は冷たく、力が入っていない。
「か、感覚がねぇ」
ミラは手足の痺れを訴えている。
意識も混濁しているように見える。
「ミラ、ミラ、しっかりしろ!」
「ノ、ノヴェ、どこだ」
「ここだ! ここにいる!」
どうしましたか! と外から声がして、サマスが飛び込んできた。
「サマスさん! 姉さんの様子が変だ! 助けてくれ! すぐに医者を」
「見せてください」
サマスは有無を言わさずオレを退かし、ミラの横に座り込む。
熱を測り、手首に指をあてた。
瞼を開いて確認し、瞳のレンズを取って床に捨てる。
――何をしているんだこいつは。
何を企んでいる。
「サマスさん、何を――」
「シッ。静かに」
サマスはミラの胸に片耳を当てたまま、指を立ててそう言った。
「どうしたのです! 何の騒ぎですか!」
オフィーレアが飛び込んできた。
扉の向こうにはぞろぞろと野次馬が集まりつつあるのが見えた。
「オフィーレアさん! 姉さんの容体が急変して――」
オフィーレアは茫然とミラを見下ろしていた。
サマスが顔を起こし、息を深く吸い込むと、がっくりと肩を落とした。
「――ボツリナム感染症の疑いがあります。この辺りでは風土病として知られる病気です。主に土から感染し――」
「治るのか!?」
「――申し上げられません。年に百人以上が命を落としています。感染が進む場合、命の保証は致し兼ねます」
なんてことだ。
「こうなる前に、何か兆候があったはずです。気付きませんでしたか」
気付き――確かに、昨夜のミラは少しおかしかった。
『時間がねえ』とも言っていた。
こうなることを予感するくらいには、自覚症状があったのだろうか。
「――くそっ!! オレが!! もう少し早く!! 気付いていれば!!」
サマスはいつの間にかオレの横に立っており、オレの肩をそっと叩く。
「――まだ希望はあります。神はまだミランダを見放してはいない。少量ですが、抗生剤があります」
「こ、抗生剤? それは、薬か?」
「そうです。ただ未完成です。確実に効果があるとは言えません。副作用もあるかも知れない。私は家族として、それを彼女に分け与えてよいと思います。ノウウェルさんはどう思いますか?」
未完成品ってことは――ここで作ったのか?
「わかった! それでいい。どうか頼む!」
「オフィーレアさん。倉庫から薬を取ってきてください」
サマスは鍵束を取り出し、オフィーレアに渡した。
オフィーレアは脱兎のごとくの勢いで部屋を飛び出した。
倉庫。
倉庫だと。
これは――最後のチャンスかも知れない。
でもミラが――。
オレはミラを見た。
「……」
ミラは無言だった。
苦しそうに呼吸しながら、やや濁った眼でオレを睨みつけている。
ベッドから投げ出された腕の先、その震える人差し指を真っすぐに伸ばして――。
地面を。床下を。
地下を指差していた。
(――判ってんだろうな? このままぼんやりしてるならお前から殺すぞ)
そう言われた気がした。
判った。負けたよ。
オレは部屋を飛び出し、オフィーレアを追った。
***
倉庫の扉は大きく開かれていた。
倉庫はだだっ広く、並んだ棚はほぼ空っぽ。
酷い臭いがした。
酢の臭い。
そして何か、揮発油の臭い。
燃料――だろうか?
空の棚ばかり幾つも並んでおり、その間に昨日の台車が無造作に突っ込まれていた。
その傍に、オフィーレアが立ち尽くしている。
棚にあった瓶やら皿やらが落ちて、液体が散乱している。
「オフィーレア――さん?」
「く、薬が」
まさか。
そのバラバラになって床に散らばっているのが、薬か?
「わああああああああっ」
オフィーレアは叫んで、埃だらけの床の薬剤をかき集め始めた。
ガラスの破片で腕を切り、血まみれ、薬まみれになりながら、オフィーレアは半狂乱でそれを続ける。
「オフィーレアさん! やめるんだ! 落ち着いて!」
彼女は膝をつき、泣きじゃくるばかりだ。
オレは彼女の細い両肩をしっかりと掴み、顔がつくほどの距離で真っすぐに向きあう。
「……く、くすり、くすりがあぁぁっ! もう、ここ、ここには……無い!」
「他に薬は?」
「もうないの!! ここで作っていた薬も! その元も! ダメになってしまった!!」」
「わ、わかった。まずサマスさんに報告を。次にどうすべきか考えよう」
「か、神わ!! わたしたちを!!」
「オフィーレアさん!」
オフィーレアは何度か頷き、目を真っ赤にしたままオレを見る。
「いいか。まずサマスさんに報せて。どうしたらいいか聞いて。一度作れたならまた作れるかも知れない」
オフィーレアはどうにか少しだけ落ち着いて倉庫を出て行った。
残されたオレは――振り返ってだだっ広い倉庫を見渡す。
入り口。
周辺の床を確かめる。
台車の下、棚の下、埃の溜まり具合。
薄暗い倉庫を、這いつくばるようにして注意深く奥まで進むと――一か所、埃が薄い一画があった。
足で踏みつけると、あきらかに空洞がある。
床の木組みの間に指を突っ込んで持ち上げると――開いた。
地下室だ。
石の階段が続いている。暗い。
オレは少しも迷わずそこを下りる。
迷っている時間はないんだ。
階段の下のほうは明るい。
まるで外のようだ。
無風。そして妙に――熱い。なんだこれは。
「――!」
一番下まで降りたオレは目を見張った。
煙こそないが、炭がガンガンに炊かれている。
石牢だ。
その壁に、両手両足を鉄鎖に繋がれて磔にされている女がいる。
壁の四隅から伸びた鎖の張力が、凧に吊るすようにその女を空中に留めている。
普通なら十分と意識を保っていられない暑さと異常な渇きだ。
それなのにその女は、オレをしっかりと睨んでいる。
さっきのミラと同じ眼だ。
命を振り絞って、オレに何かを命じている眼。
「あ――あんたが――女神――スプレネムか」
スプレネムはオレを睨んだまま、ゆっくりと頷いた。
ブクマありがとうございます!
エピソード32はこれで終わりです。
次回は明日15:00頃の更新を見込んでおりますが、ちょっと別の原稿を見ないといけなくなりそうなため。ちょっと遅れるかも知れません。