29.1 「大皇女様を連れてここから逃げてください!」
「ノヴェル――。アリシアは逃げていたけれど、嘘を言ったのではないのです。それは私が保証します」
フィレム神は優しげに、しかし寂しそうにそう断言した。
「フィレム! アリシア! 答えよ! お前たちは、わしを使って何の神を造ろうというのだ!」
神にされつつある爺さんは怒っている。
大皇女様は泣いている。
フィレム神はその問いには黙している。
「――まさか主ら、わしを光の神になど――したのではあるまいな!?」
それだと何か不都合があるのか?
「光の神ならもうおるわ! 神格が分裂して――消えてしまうぞ!」
爺さんは――正しくはその人格を宿した形の罔い影の浮かんだ泉の水面は、激しくそう言った。
フィレム神は驚いたようだった。
「――まさか! 光の神はおりません! かつてあなたが造った光の神は、安定しなかったのです!」
「失敗はした! 神格は希薄で救いようもなかった! 当たり前だ! 誰も光の神など知らぬもの! だが――存在はしていた!」
「爺さん、その神はどこにいるんだ」
「神格は希薄だった。だが人に安定することはできた。信仰はなくとも、それは人が洞窟で暮らしていた頃より、人を照らしてきたものだからだ。男の子ならリト、女の子ならリンと名付けた」
馬鹿な。
それは。
「お前の妹――リンだ。ノヴェル」
オレの義妹、あのリンが――光の神?
馬鹿な――いくらなんでも馬鹿げてる。
そりゃたしかに、リンはある日爺さんが拾ってきた捨て子だとしか知らない。
その前にどこで生まれて、どうやって育って、なぜ捨てられたのか、何も知らない。
「そんなこと――今まで一度だって、匂わせてすらいないじゃないか! いきなりリンは人じゃないなんて言われても!」
「――ようやく、お前の記憶が戻ってきたぞ、我が孫ノヴェルよ、お前には苦労を掛けた。巻き込んでしまったのは悪かったが――いずれにせよ誰も逃げることはできないのだ。わしは未来をお前に託した」
「そんなことより! リンが神様だってどういうことだ! 一度もそんな話聞いてないぞ!」
「リンは神格を宿しているが人だ。生まれが他人と違う、それだけのことだ。それでよかろう」
「それは――そうだけど。まだ呑み込めない。それってどういうことなんだ」
「お前たちにはわしがどう見えている? 泉に浮かぶ影か? 霧か? いずれにせよ神の泉を使っているだろう。その代わりに人間の体を使い、消えかけの神格を留めた――そういうことだ」
中に何がいたとしても泉は泉、人は人――おそらくそういうことだ。
「リンの力があればあれとどうにか戦えるかも知れない。だがリンを巻き込みたくはなかろう? これ以上、後悔の歴史を繰り返して欲しくはない。だから」
だから――。
「光を使うな。魔力ではなく、知恵と力で闇に勝て。いつも言っていることだ。判るな?」
「だから――オレには魔力がないのか?」
「そうだと思え。わしはそうだと信じている。わしらは光を使い、闇を見つけてしまった。ヴォイドの神を造ろうとさえし、それを盗まれた」
「誰に――」
「アレスタ・クロウド。わしらの、仲間だった男だ。意見の相違があったのだ。奴は別の方法でヴォイドと戦おうとし、ヴォイドに呑まれた。生まれた息子は半身をヴォイドに侵されておったようだ」
「半身を――なんだって!? そいつは――今どこに!?」
スティグマ。奴の体に刻まれた聖痕こそそれだ。間違いようがない。
「ジェイソンと同様、墓の下だよ。息子がどうなったかはわしは知らぬ。彼らは、わしらと違い後世を見守る道を選らばなかった。わしらは自分たちのしたことが間違っていなかったか見守る義務があった。それで光の魔力を使い、長い時間を得たのだ。見たであろう、あの回復力を」
瀕死の重傷を負ったリンがたちどころに恢復したあの光る球――。あれが光の魔術だったのだ。
ソウィユノを倒したのもそう。
でも爺さんの言う通りなら――このまま爺さんの復活を続ければ、そのリンは消えてしまう。
「――もう、繰り返すのはやめよう、アリシア。愚かなことはやめて、わしを葬れ」
「あなたがこの世を去れば、あなたの知識と真実は永遠に喪われてしまう。真実か神かを選べ――あなたはそう言うのですか、ゾディアック」
「選ぶ必要など最初からないのだ! どちらもお前たちのものであろう! お前は知っている! ただ認めたくないだけだ!」
と――そのときだ。
地下へ降りて来るスロープを、バタバタと走る音が聞こえた。
見ると飛び込んできたのは、メイドの一人だ。
「ノートン様、大変です――!」
「なんだ! ここへは来るなと言ったはずだぞ!」
「それが、セス様が大至急だと――」
「後にできないのか!」
メイドがノートンに何やら耳打ちする。
ノートンは一堂を見渡す。
「皆様、お取込み中大変失礼いたします。問題が発生しました。暫し人手をお借りしたく――。ノヴェル君、ミラ君、上へ」
顔色が変わったのを悟られぬよう、その長い顔を鉄のようにしてだ。
フィレム神は心なしかほっとしたように見え、泉と大皇女様に語り掛ける。
「アリシア、そしてあなたも。結論を急ぐ必要はありません。あなたの心配が晴れるまで、あなたの転生を進めないとお約束いたします。お茶にいたしましょう」
***
一堂は地上に出た。
オレ達はノートンを先頭に、お屋敷を出てすぐに門へ走った。
門の鉄格子の向こうにセスがいる。
柄にもなく足踏みをして――だいぶ慌てて見えた。
「室長! 大変です! ハックマンが――ロウを襲って、きっとこちらへ向かっています!」
「ハックマン? もう何週間も消えていたのだぞ。何が起きた。説明したまえ」
「それが――! 説明は後です! とにかく――」
セスは普段の彼女からは想像もつかないほど怯えた様子でいた。
「大皇女様を連れてここから逃げてください!」
「まさか。御所を捨てるなど。それに――」
女神の泉。途中の儀式。
動かせないものがあるのだ。
「ノートンさん、せめて中で話せないのか。大皇女様に頼んでここを――」
セスがこちらを凄い形相で見た。
「いいえ、絶対に開けてはダメです! ハックマンが――厭! 来た!」
ロ・アラモの街へと続く道を見て、セスは「来た」と言った。
その方向からは男の――極まった喚き声がする。
「逃げろぉぉぉっ! 皆、逃げてくれえええ!」
誰だ?
壁に阻まれて、オレ達からは見えない。
でも角度を工夫すればもしや――とオレは門の隅っこギリギリまで行き、格子に掴まって外を覗く。
――ハックマンだ。走ってくる。
シャツははだけ、そのシャツには誰のものか判らない血がべっとりと――。
右手の肘から先が折れたようにプラプラさせ、脚も膝関節がぐらぐら。
それでも奴は尋常じゃないスピードで走ってくる。
叫んでいたのも奴だ。
「逃げろ!! 全員!! 逃げてくれええ!!」
セスはハックマンに追われていると言った。
なぜ追っかけてる本人が逃げろと言うんだ?
「セスさん! 逃げて!」
「あなたたちこそ! ――ここは」
セスは両手を広げ、魔術の構えをした。
掌が輝き始める。
それが全く見えないかのように、ハックマンは怯まない。
こちらへ全力でダッシュしてくる。
「止せ! セスさん! 魔術はいけない! 逃げるんだ!」
オレは何を言っている?
魔術なしでどうしろと?
「いいえ! 早く大皇女様を安全なところへ!」
セスも無茶を言う。
無理なのだ。きっと大皇女様は絶対にここから動かない。
ゾディ爺さんを置き去りにしない。夫の墓からも離れない。
しかし書庫ならどうだ?
「――セスさん! 判った! オレ達は書庫に逃げる! あそこなら絶対に安全だ! セスさんも逃げろ!」
「逃げろおお!!」
ハックマンはそう叫びながら、手も足も壊れてしまった人形のようで、それでも全力で走ってくる。
ハックマンは彼の妙にプラプラした右腕を左腕で支えるようにして、掌を向けた。
魔術だ。
それは攻撃の意志――。
「セシリア君、今だ。撃て」
ノートンが言った。
目標はもう至近距離。
セスは大きな火球を放つ。
しかし、上体を後ろへ――人間離れした鋭角に反らせてハックマンはそれをギリギリのところで躱す。
いや違う。躱し切れていない。
奴の上半身が起き上がったとき、顔は真っ黒になってシャツが消え去っていた。
「いやだああ! 俺を止めてくれええええ!」
ハックマンが飛び込んでくる。
奴の腹に――傷を見た。
魔術によるものじゃない。外科手術の跡だ。
ゴードンのときとは違い、腹は縦に割かれていた。
「いかん! 伏せろ!」
ノートンが叫んだ。
それと同時に、ハックマンがどこを狙ったともつかない魔術を放つ。
すると――。
ハックマンの上半身が消えた。
爆発とともに。
爆発は周囲の空気を巻き込んで大きな爆炎となり、丸く赤黒い綿のようになったかと思うと、一瞬後には大きく広がって――。
オレ達を吹き飛ばしていた。
一瞬だけ、オレは気絶したような気がしたがすぐに起き上がった。
ノートンとミラも起き上がり、口に入った瓦礫やら肉片らしきものを吐き出す。
「セ――セスさん!」
セスは爆発に巻き込まれた。
爆発の勢いはすさまじく、あの鉄格子の門が曲がってしまうほどだ。
塀のお陰で直撃を免れたためか、オレとミラは立ち上がって門扉を超える。
「セスさん!」
セスは――壁に叩き付けられて倒れている。
息があるのかないのか――。
一方でハックマンは即死だ。
もう膝から下しか残っていない。
ファンゲリヲンの仕業だ。今度は首ではなく、本当に爆弾を埋め込んでいた。
それは列車でハックマンが言っていた連続殺人犯、「仕立て屋ギル」の逸話通りにだ。
――予言の自己実現さ。
彼は、自分で書いた記事通りの最期を迎えた。
「きゃあああっ!」
今度は何だ。
お屋敷のほうからだ。
セスをミラに任せ、オレはまた御所の門をよじ登って中に戻る。
ノートンと目配せし、オレ達はお屋敷へ走った。
扉を開け、薄暗い廊下を突っ切る。
広々としたリビングには誰もいない。
そのまま廊下を奥の扉まで走り、庭へ出る。
庭でそれは起きていた。
大皇女様が――車椅子から落ちて倒れている。
その傍に立つのは、大振りの剣を握った鎧の大男。
――戴冠のメイヘム。
いや――。
「マーカス君、君なのか?」
「おお。『室長さん』。いつぞやは世話になったな。せっかく陽動で逃してやったのに、わざわざ自分からここへ舞い戻るとは。お前たちパルマ人は、どうしていつもそう要領が悪いのか」
「私を室長と呼ぶな。君は――自分が何をしているのか判っているな?」
「当然である」
「君は、卑劣だ。全世界を敵に回したことを知るがいい」
「面白い。元より我が国は世界の鼻抓み者よ。今更何を恥じる」
モートガルド帝国皇帝ディオニス二世――海で死んだのではなかったか。
いや、そもそも勇者ならばあのとき――スティグマがいた。
そのままこの別命を帯びてこのロ・アラモで――?
オレは奴の黒い鎧が、焼け爛れて銑鉄に塗れたイグズスの肌と同じだと気付いていた。
それに気づいたから奴が勇者だと判ったのだ。
「その鎧はイグズスのか――」
「遺作にして傑作である。あ奴め、貴様らに追い詰められて大成しおったわ」
「あんたは鉱山の地図をくれたろ。仲間を売ったのか。あいつはあんたを友達だと」
メイヘムは笑った。
呵々大笑だ。
オレは悟った。
こいつは業者でも勇者でもまして王なんかじゃない。
「すると少年、貴様が大賢者の孫であるか? 善いぞ、赦す。名を奉ぜよ」
「よく覚えておけ鼠野郎。お前に名乗る名前は貰ってない」
愉快そうにメイヘムは言った。
「うむ善いぞ。余もこの名ならばくれてやろう。我が名はメイヘム。七勇者が一柱、戴冠のメイヘムである」
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あとは別件の原稿が始まるまでできるだけ頑張ります。
次回更新は未定です。