27.3 「ただ一人も欠くことなく、ご無事で、またここでお会いしましょう」
本稿には拷問シーンが含まれます。
苦手な方は前半の皇女ミハエラの演説だけで読んで戻られることをお勧めします。
会議終了後――早々に一同は解散し、多くは元民王宮殿へ戻って行った。
国民に向けたメッセージの草案も完成していた。
さしあたり、ジャックに意見するようなところはなかった。
皇女自ら船に乗って戦うなどと言い出すのではないかと冷や冷やしていたが、その心配は無用だった。
「随分落ち着いたじゃねえか姫さん」
「彼らは皆冷静でしたからね。当てられたのでしょうか」
「頼りになりそうな連中でよかった」
ジャック――と皇女は呼ぶ。
ジャックは振り返った。
「――いいえ、なんでもありません。わたくしの気の回し過ぎかと」
「今後は何でも彼らや、国民に相談するんだな。ここはあんたの国だ」
「――ジャック?」
彼はセブンスシグマの国じゃないと、という意思を新たにしたつもりだった。
しかし皇女には自分の国じゃないという意味に聞こえていた。
「そんなこと――言わないでください」
「?」
再び、なんでもありません、と皇女は俯いた。
「さぁ、そんな顔してる場合じゃないぞ。胸を張れ、陛下。あんたの国民が待ってる」
皇女宮殿のテラスが開いた。
外の眼下には、ベリルの市民が詰めかけている。
このような形で、広く演説を行うことは年若い彼女にとっては初めてのことだ。
テラスに出る脚が止まり――振り返って扉の向こうのジャックを頼ってしまう。
「――わたくしは、どうすれば」
「なんだ初めてか? いいこと教えてやる。ノヴェルもやったぞ。ザリアの連中を相手に、原稿ナシ、人望ナシでだ」
とんだ無茶を――とミハエラは少し驚いたあとに笑った。
振り返った彼女はテラスの上へ歩み出し、柵にまで近寄る。
「お止めしろ、出過ぎだ」とカーライルが慌てるが、ジャックが「やりたいようにやらせてやれ」と諫めた。
「――警護レベルを最大に引き上げる。怪しい動きをしている者が居たら迷わず撃て」
イアーポッドで屋上部隊に指示する。
ミハエラは片手を胸の高さまで上げて、国民を鎮めていた。
集まった聴衆が静まるのを見て、皇女は静かに話し始めた。
「ミハエラです。わたくしの声が、皆さんに届いているかどうか――」
音声増幅にあたる空気魔術班が「問題なし」のサインを送る。
「皆様にまずわたくしの無力をお詫びしなければなりません。このような事態を避けるため、わたくしたちは取り組んでまいりました」
聴衆は少しざわついた。
「先日よりベリル沿岸を囲った船団――船籍はモートガルド帝国です。退去の呼びかけには応じず、本日午前十一時、一方的な宣戦布告を受けました。国際法に照らしまして、有効な宣戦布告であると判断いたします」
ざわめきは大きくなる。
「我々は断固として戦わねばなりません。神聖パルマ・ノートルラント王国はここに健在であると世界に示すときです。簡単ではないでしょう。先日のドラゴンの襲撃、そして政変と、不安な日々を送られている皆様には重ねてのお願い心苦しくありますが――」
皇女は一息吐く。
胸に置いた手を上下させ懸命に息を吸う姿は、嗚咽を堪えているように見えた。
「皆様、どうかご無事で。民の皆様には安全で確実な避難経路を用意しております。ベリルだけではございません。沿岸の市町村、全域に対して必要な避難を提供いたします。そして皆様がどこにいようとも、皆様の祖国、神聖パルマ・ノートルラント王国は勝利します。幸いにも私たちには味方がおります」
勇者か!? と声がした。
「勇者ではありません。シドニア王です。皆様の中には、不安を抱いておられる方も多いでしょう。ですがシドニア王は、この状況に必要なサポートを提供してくれます。わたしたちは一つの国です。皆様をお守りするためにあります」
静まり返った聴衆。
ミハエラの言葉が浸透するのに時間がかかっている。国民を守るために国があるという国家観は忘れ去られたものだからだ。
殆どの人間は、なぜ国が存在するのかなど気にしたことはない。
それはジャックにしても、ミハエラの側近にしても同じことだった。
「――皇女陛下」
カーライルがそう声に出した頃。
やがて、それは浸透した。
「小娘が何をとお思いでしょう。わたくしは小娘ですが、神聖パルマ・ノートルラント王国は違います。戦闘の大部分は、皆様に見えない形で行われるでしょう。今宵八時からそれは始まって、速やかに平和を取り戻します。我が国の歴史ではほんの瞬きするほどの短い間ですが、今日このことを後世に伝えるのは皆さんお一人一人です」
皇女のメッセージは、集まった聴衆の大部分に好意的に受け入れられたようだ。
彼らは手を挙げ、声を上げ、無数の意志となって歓声を上げる。
お祭り騒ぎにならぬよう、ミハエラは「静粛に」と場を鎮めた。
充分だ。
「どうか皆様速やかな退避にご協力を。ただ一人も欠くことなく、ご無事で、またここでお会いしましょう」
振り返って下がる皇女の姿を焼き付けようと、聴衆らは互いに背伸びして見送る。
「――屋上班、退避。地上班は聴衆の誘導へ回れ」
「――こちら宮殿班ゾットだ。『避難の手引き』の配布を開始しろ。多めに渡せ――そうだ。庁舎でも開始しろ」
カーライルはテラスから戻ってきた皇女を支える。
ジャックとゾット達は次の行動に移る。
攻撃開始まで八時間――騒いでいる余裕はない。
ゾット長官、と呼び止める声があった。
イアーポッドから指を離し、「なんだ、後にしたまえ」とゾットが答える。
「皇女陛下に面会の求めが来ています」
「却下しろ。皇女陛下はこれから対策会議だ」
「それが――ザリアの亡命者と元海賊たちです。戦闘に志願する、と」
ゾットがちらりとジャックを窺う。
「受け入れろ。手練れだ。動機も充分」
「しかし面会は」
「そういうのが大事なんだよ。姫様抜きでも会議は回るだろ」
ジャックは笑いながらゾットの肩を叩いた。
***
ハックマンは五階から転落した。
着地時に折り曲げた膝で激しく胸を打ち付け、ごろごろと路地を転がった。
――痛ぇ。
――冷てぇ。
息ができないことに気付くのはもう数秒後だ。
ハックマンは反射的に落とした荷物を両手に掻き集め、それをぽろぽろと落としながら走る。
気持ちの上では全力疾走なのに、まるで進みが遅い。
ふらふら、くらくらと蛇行し、石の壁に体を擦りつけるとどうにか安定する。
(――クソッ! 奴らは――?)
振り返ると路地から出て来る人影。
急がなければならない。
壁に沿って路地裏から抜けた。
ずりずりと背中を擦りつけながら進む。
どうにか貨物の集荷所にまで戻り、ポストに手荷物を突っ込む。
小包はばらして無理矢理に突っ込む。
落としてしまったものは――どうしようもない。
ここから立ち去らねば。
駅へ。
無人のメーン通りを、這うようにして駅を目指す。
駅に着いたら柵を乗り越え身を隠し、始発を待つのだ。
――財布はあるか。
落としたかも知れない。彼はその場で鞄の中を改める。
「落とし物ですよ」
不意に横から小包と、ここまで歩くぼろぼろ落としたものを差し出された。
「あ、ありがと――」
受け取ってから気付く。
誰だ、と思う暇もなかった。
ハックマンは後頭部を殴られ、今度こそ――昏倒した。
***
気付くとハックマンは椅子に縛られていた。
体中が痛い。逃げて五階から落ちたせいだ。
(くそ――こんなことなら最初から捕まっておきゃよかった)
目の前には仮面の男が一人だけ。
勇者だ。追ってきた中に居た。
放蕩のファンゲリヲン。
――ここは。
テーブルが並ぶ。どうやらレストランだ。
「ここは我らが教会です。いささか急拵えですがね」
男はハックマンの書いた草稿を捲りながら言った。
ハックマンの記名記事ではない。
タブロイドへ送るためのチャンバーレイン名義の記事だ。
「オストン・チャンバーレインさん。丁度あなたを探していたところです」
「お――おれじゃない」
「あなたではない? では本物のチャンバーレインはどちらに」
「――おれがチャンバーレインだ」
嘘はためにならない、と言って男は手を振り翳す。
すると激痛が走り、ハックマンは飛び上がって悶絶した。
「嘘はお許しにならない」
男がそういって手を下げると、嘘のように激痛が引いた。
ハックマンは自由を奪われた自分の体を見る。
裸だった。
体中から黒い、髪の毛ほどの管のようなものが飛び出していた。
いや、そうではない。床から伸びた管がハックマンの体内に繋がっていると言った方が正しい。
自分の体内の、どこまで繋がっているかは知れない。
「なんだ! なんなんだこれぇっ!」
「質問しているのは拙僧です」
再び焼ける様な激痛が走る。
耐え兼ねた。
「い――いえっ! い家、家だ! 家にいる!」
激痛が止む。
激痛の走った部分を見るが、傷があるわけではない。赤みひとつ帯びていない。
それなのに、肉を抉られるように痛む。
「こいつは――どうなってるんだ――」
こんな魔術は知らない。いや、あるわけがない。
「それは拙僧も知らないのです。神の御業は深い。ですがとても便利で、人を正直にしてくれます。チャンバーレインは家……っと」
男は走り書きをする。
ハックマンのペンで、ハックマンの草稿に、だ。
「やめろ! 勝手に書くな! ペンと記事を返せ!」
ふふふ、と男は嗤う。
「お返ししますよ。でも先にこちらの地図をご覧ください。この街の地図です。ここでチャンバーレインの家はどこです?」
男は地図をハックマンの顔の前に出す。
ハックマンは顔を背けた。
「俺は情報源は秘密にする主義うがああああ――」
痛みなどというものではない。息ができない。
仮に鉈で腿から下を切断されたとしても、これほどの痛みがあるとは思えない。
ハックマンは現場で色々な死体を見てきたが、苦悶の表情をしたものは一つとしてなかった。
大体は穏やかなもので、残りは何が起きたか判らないという顔だった。
ある時聞いた――人は死ぬとき、五段階のプロセスを経るのだという。
拒絶、怒り、取引、抑鬱、そして最後が「受容」。
ハックマンにはよく判った。死体の殆どは、最後に死を受容していたのだ。
『遺体の顔には苦痛が刻まれていた』――最初に誰が言い出したか知らないが便利な言葉だ。
ハックマンも記事にはそう書いた。何度も何度も書いた。
嘘だ。レトリックだ。
俺の見た死体の顔は、どれも苦痛に歪んだりしていなかった。
どんな悲惨なニュースを書くときも、言葉を失ったり怒りに震えたり、涙を流すことさえなかった。
『遺体の顔には苦痛が刻まれていた』だと?
仮にそうだとするなら、今の自分は死よりも酷い苦痛を味わっている。
「――そんなに、長い間息を我慢できるわけではないでしょう? あなたはまだ人間です。貝でも魚でもないのですから」
やれやれ、と男は首を振った。
痛みが引く。
呼吸ができる。
だが――ハックマンは自分の右眼が勝手に動いているのに気付いた。
右眼だけが勝手に地図を見て、その上を探している。
「――何!? これは――!!」
首を無理に曲げ、顔を激しく背ける。
きつく瞑った瞼の裏から、瞼を押し退けて眼球が動き、今にも飛び出さんとしている。
「おやおやこれは元気な目玉です。好奇心旺盛だ。きっと色々なものを見てきたのですね」
「ぁぁあぁぁあやめてくれぇ!!」
「拙僧は何もしてはおりません。あなたがご自分でなさっている。尊い犠牲、献身です」
やがて――彼の右眼が地図上の一点を示した。
ふむ、と男は頷いた。
右眼が眼窩に収まり、ハックマンは脱力して椅子に投げつけられた蛸のようになった。
「さて、お尋ねしたいことは以上です。ご協力に感謝」
開放――されるのか。
「感謝の記に、ひとつ贈り物を差し上げましょう。ホワイト! 施術を!」
男は奥へ向かって何者かを呼んだ。
答える者はない。
「ホワイト! ホワイトローズ!」
まだ誰かいるのか。この勇者の仲間なのか。もう勘弁してくれ。誰も答えないでくれ。
気が付くとハックマンは泣いていた。
「やめてくれ、助けてくれ」と声に出し、泣きながら懇願していた。
男は溜息を吐いて、諦めたようだった。
「――まったく、またフラフラと……。まっ、拙僧がやりますか。何、ご安心を。拙僧も腕に覚えがありまして」
少しは傷むかも知れませんが――と放蕩のファンゲリヲンは手術用のメスを取り出した。
不定期更新中につき次回更新は未定です。