パワフルな大リーグの強打者たちに勝てるのか
かぐや姫は、いつかは月に帰らなくてはならない。その日はいつなのか。しかし、時間は容赦なく過ぎて行く。オヤジの結論はなかなか出ない。やはり、本当の父親のように、息子のからだのことを心配しているのだ。
釜谷は、9月25日の新聞を手にしている。昨日、うちのチームは、千葉市に本拠地を置く球団と試合があったらしい。澤村選手はDHとして先発出場したが、ノーヒットに終わったらしい。
かなり昔の話になるが、新聞によれば、1936年の9月25日という日は、元巨人軍の投手、沢村栄治氏の初の無安打無得点試合を達成した日であった……。
かつて、静岡県の草薙球場で、日本代表チームが、来日したアメリカ大リーグの選抜チームと戦ったことがある。この時、沢村栄治投手はベープルースから三振を奪ったものだった。伝説的な、うわさ話の範疇であるかもしれないが、沢村投手の投げる、ストレートは時速160キロあったというし、変化球で下に落ちるドロップボールは、落差が30センチもあったという。だが、一度目の戦場に行った際に肩を毀し、二度目の戦場に向かった時には、その輸送船が沈められ、命を亡くしている。現在、そのシーズンにおいて、先発・完投型投手の中で、年間勝利数、勝率、防御率などで最もよい成績を上げた投手に授けられる「沢村賞」というのがあるが、その賞の由来となった選手が、故・沢村栄治氏なのだ。
9月27日のことだ。うちのチームは、大阪を本拠地とする球団と戦っていた。澤村選手は3番DHで先発出場し、最初の打席で遊撃ゴロを放った。しかし、一塁べースに向かう途中、左腿に違和感を覚えた。今年4月8日の試合に肉離れを起こした同じ箇所に、釣った感じを覚えたらしいのだ。それでベンチに戻ると、ダッグアウトに下がり、1回で交代する羽目になってしまった。
翌日の9月28日の宮城県仙台市を本拠地にする球団との試合は欠場した。しかし、続く9月29日の試合にはDHとして出場し、釜谷はほっとしていた。太腿が釣ったのは大したことはなかったらしい。
しかし、澤村選手は、この試合で5回にライトに2塁打を放ち、二塁ベースに滑り込むのだが、その時左膝を二塁のベース盤にぶつけた。そのためか、9月30日の埼玉県所沢市を本拠地にするチームとの試合には、2打席のみでベンチに下がり、翌日10月1日の試合も欠場している。
10月2日、月曜日の朝に釜谷はオヤジさんに呼ばれ、社長室に入った。オヤジさんは、CEO(経営の最高責任者)でもあり、社長(代表取締役)でもあり、球団のオーナーでもあった。
「おいおい、澤村君の左足は、大丈夫なのか?」
オヤジにそう言われ、釜谷は、あの選手の足は『ガラスの足』なのだろうかという不安な思いが頭の中をよぎる。しかし、釜谷は気持ちを奮い立たせていた。
「誰でも、朝、起きがけに足が釣ることはありますから。大事をとって、早目に交代させたということでしょう」
「おまえは、楽観的すぎて、いかん」
オヤジさんの目を見る。確かに怒っていた。オヤジにはオヤジの見方があるのだろう。釜谷が推測すれば、『選手を大事にしたい、そしてチーム一丸となって、いい試合をしてもらいたい。それが日本のプロ野球の発展にもつながる』とオヤジは考えているのだろう。
一方で、現場の監督、コーチは苦労をしているだろうな、と釜谷は思う。
たぶん、監督・コーチは当初9月30日には、澤村選手を投手としての登板を考えていたはずだ。しかし、9月27日の試合の時、以前肉離れを起こしたことのある左足の太腿裏が釣る、というアクシデントがあった。当然投手のローテーションを組み替えたことだろう。
翌9月28日の試合では澤村選手は欠場し、その空いたDHのところに、椎間板ヘルニアの手術で休んでいた、休場明けまもないK選手を当てざるを得なかった。
澤村選手一人のために、チーム内に混乱が生じているのではないか、そういう恐れを釜谷は感じている。
釜谷はあえて、楽観的に行こうと思った。
「実は、うちから球団事務所に出向している、吉田君に、私は電話をしました。澤村選手の左の太腿裏の筋肉も、左の膝頭の骨も問題ないようです。ただ現場は、慎重にも慎重を期しているようです」
「なぜだ?」
「そこまでは聞いておりませんが、ともかくあと残り試合がわずかなんです。10月の初めで、今シーズンは終わってしまいます。そこまでのところで、現場は澤村選手が先発で気持よく投げられる環境を整えてやりたいのだと思います」
「また、大リーグのGMやスカウトたちを球場に呼び、彼のパフォーマンスを見せるために、か」
「いけませんか?」
「いけないことはないが、そんなことをして、ファンの皆さんに、あざといと思われないだろうか?」
「多少、そのように思う人もいるかもしれませんが。例えば、『あの球団は、大りーグの労使協定の譲渡金22億円の額が減らされるまでに、澤村選手を大リーグに送り込んだ方が得だ、とビジネス・ライクに考えている』などと言う人だっているのですから」
「そんなことは思っていないだろう。今は日本銀行も金融緩和策を取っていて公定歩合が低く、市中銀行の資金はだぶついている。新球場の建設だって、それがたとえ200億円かかろうとも、融資をしてくれる銀行はいくらでもあるさ」
「それはそうですが、100人が100人まで、うちの球団の方針に賛同してくれることはない、ということです。しかし、昨年12月5日の契約更改の際には、球団としては2018年以降の大リーグ挑戦を容認している考えを本人に示していますし、本人も新労使協定で、たとえ25歳未満の外国人選手の契約金や年俸が大幅に減額になろうとも、大リーグに行きたい気持ちに変わりはない、とその時点で言っていますから」
「むろんだ。わしもお金のことを言っているんじゃない。あの選手のからだのことを心配しているだけなんだ。あっちはピッチャーズマウンドが固いというじゃないか。それに、日本より空気が乾燥しているスタジアムだってあるとわしは聞いている。三角骨なんていう余分な物を抱えた足首の関節が、ああいう過酷な条件のグラウンドで持つかどうかを、わしは心配しているわけだ」
「確かに」
釜谷はオヤジの気持ちを、どうなだめていいのか迷った。しかし、オヤジが楽天的な分、その影響を受けて、釜谷も楽天的なところがある。
「リスクは誰にもあります。国内にしたって、屋根なしのスタジアムでは、雨が降れば、マウンドはゆるゆるになってしまいます。ドームの球場の人工芝では、ひっかかりがあって、ランニングで足首を捻挫することだってありますし、人工芝は天然芝に比べ、膝への負担が大きいとも言われていますから」
「しかしなぁ、おまえさん。中4日だよ。中4日でいいなんて言うピッチャーが、大リーグにいるなんて、わしには信じられん」
「向こうでは、できるだけ多く登板して、できるだけ多く勝ちたい、というピッチャーが多いんでしょう。そういうこともあって、先発ローテーションの投手は5人という枠を原則としています。やはり、投手の場合は勝ち数が年俸の額を決めるといっても過言ではないですし、それぐらいやらないと、毎試合出場するスラッガー(強打者)たちの年俸に引けを取ってしまうと、考えているかもしれませんし」
「やはり、向こうは何といっても、狩猟民族で、筋力が発達しているんじゃないだろうか。それに比べてだ、わしら日本人は農耕民族であり、周りを海に囲まれてきたから蛋白質源は主として魚や貝だった。だから筋肉パワーという点では、大リーグのスラッガー(強打者)とはちがうさ」
何か、そう正面を切って言われると、釜谷は反発したくなった。
「日本人には、また、日本人らしい良さというものがあります」
「ふーん、それは何だ」
「例えば、柔道です」
「何だ、それは?。格闘技と球技とはちがうだろぉ」
「柔よく剛を制す、という柔道の奥義は現代スポーツにあっても通用する部分はありますから」
「しかしなぁ、柔道の試合も、現代では体重別になっているからな。最近の傾向としては、小さな体で大きな体の選手は、倒せなくなっているんじゃないか」
「それに、合気道という日本独特の武術だってあります。それは筋力、膂力とは無関係のスポーツです」(つづく)




