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エンゲージ 3

 ユエル様はゆっくりと歩を進め、わたしもそれに従って歩き出す。ユエル様はわたしの手を握ったまま。

「ユエル様、あの」

 ユエル様は歩みを止めず、わたしの方に目線をくれる。その目線に合わせるため、わたしはユエル様の横に並んだ。

「ん?」

「いえ、あの、……えっと、も、樅の木の枝が、綺麗ですね」

 言いたいことがあったはずなのに言葉にならず、それをごまかすために視界に入ってきた樅の木の枝を、繋がれていない方の手で指差した。

「あれはウラジロモミだ」と、ユエル様は教えてくれた。日本特産の常緑針葉樹だと。

 なるほどと素直に感心するわたしに、ユエル様は「パンフレットに書いてあるよ」と笑った。

「そういえばここって、占いの館を営んでたところより、湿度がちょっと高いというか濃いような気がします。川が近いからでしょうか」

「そうだね、たしかに川が近いせいもあるが何よりここは、あの店があった所より若干だが標高が高い。まあ、微々たる差だが。この高原地一帯は霧下地帯、霧下気候などと言われる所だから霧の発生も多い。そういえばミズカは湿気に弱かったね。もし体調が悪くなるようなら言いなさい。すぐにでも転居しよう」

「い、いえ! このくらいなら大丈夫ですから! 清々しくて気持ちいいくらいです」

「そう? なら良いが。ああそうだ、ここから車で十分も行けば滝の名勝もある。今度、行ってみようか」

「はい、行ってみたいです」

 他愛無い話をしているうちに、森が開け、目的の場所にたどり着いた。

 閑静な場所だった。周りに観光客らしい人らは見当たらない。

 少し離れた所から、ユエル様と「教会」を眺めた。

 石造建築の教会は思っていたより大きくはなく、周りの森林にとけこむような佇まいだった。それでいて圧倒されるような雰囲気がある。華美な装飾のないシンプルな建物。石とガラスが織り込まれたドーム状の建築で、木の年輪のような重なりが不思議な空間をこの場に醸し出している。羊歯や蔦が這っているけれど、それもきちんと剪定されていそうな、整然とした美しさがあった。

「きれいですね」

 ありきたりな一語しか出てこない。

 ユエル様に手を繋がれたままでいることの方に気を取られっぱなしだからというのもあって、言葉少なになってしまう。

「ミズカ」

 ふいに、ユエル様がわたしの方に向き直った。繋いだままのわたしの手を持ち上げ、指先に口づけを落とした。

「……っ」

 息をのみ、ユエル様を見つめる。

 ユエル様は目を細め、優しく、艶めいたまなざしでわたしを見つめる。

「ここに、ミズカと来られてよかった」

 わたしは半ば硬直したように立ち尽くし、ユエル様のまなざしを受け止めている。目を逸らせない。ユエル様の緑の双眸の美しさに陶然としてしまう。

「ミズカに、改めて誓いたい」

「え……」

 ユエル様は一度わたしの手を離すと、胸のポケットから小さな包みをふたつ取りだした。ベルベット素材の濃緑と濃紅の小袋。ふたつの包み、そのうち緑色の方をわたしの右手に持たせた。

 瞬きを忘れたように、わたしはユエル様を見つめ返す。

 鼓動が速まっていくのが分かる。けれどそれすら忘れてしまいそうなほど、ユエル様のまなざしに深くとらわれている。

「ミズカ」

 恭しく、ユエル様はわたしの左手を取った。ユエル様は濃紅色の小袋から取り出したそれをわたしの薬指にあてがった。銀色のそれは、シンプルなデザインの指輪。

「ユ、エル、様……」

 声がどうしようもなく震える。

「私のただひとりの……生涯の伴侶として、これを受け取ってもらえるね、ミズカ?」

「…………」

 はい、そのたった一言すら喉が詰まって出てこない。目頭が熱くなって、涙があふれてきた。

 ユエル様は優しく微笑んで、指輪に口づけた。「愛している」――宣誓のようにそう言ってから、ユエル様はゆっくりと撫ぜるように、わたしの薬指に指輪をはめてくれた。

「ミズカ、それを私に」

 促され、ユエル様に手渡されたもうひとつの小袋の中身を取りだした。

 わたしの薬指を飾るものと同じデザインの指輪だった。

 よく見ると、内側に小さな宝石と薔薇の刻印がある。小さな宝石はグリーンサファイアだと、ユエル様が教えてくれた。わたしの指輪の内側にはまっているのは、ローズサファイア。薔薇の刻印も、同じように入っていると。

 緊張のあまり、指輪を持つ手が震えてしまう。

 ユエル様の手を取り、左の薬指に指輪をはめる。ユエル様の白くて細い指に、プラチナの指輪はまるではじめからそこに在ったかのように似合っていた。

「ユエル様」

 ユエル様の左手を握った。ユエル様の手はいつになく温かい。わたしの熱が移ったのかもしれない。

 涙を拭ってユエル様に微笑みかけた。

「わたしも誓います。他の誰でも、何にでもなく、ユエル様とわたし自身の心に。ユエル様のお傍にいます。これからもずっと」

 そしてユエル様の薬指に軽く口づけ、宣誓した。

「ありがとう、ミズカ」

 顔をあげるとそこにはユエル様の優麗な微笑があった。そしてわたしの頬に指を滑らせ、こぼれおちる涙を拭ってくれた。

 感極まって泣き出してしまったわたしを、ユエル様は呆れるでもなく、むしろ嬉しそうに見つめている。

 ユエル様から、いままでもいろんな物をいただいた。

 薔薇のブーケだったり香水だったり、ビー玉だったり。物だけじゃない。ユエル様はたくさんの"こころ"をわたしにくれた。溢れんばかりの愛情をわたしに注いでくれ、愛する、という感情も教えてくれた。

 わたしはいつもユエル様からもらってばかりだ。

「あっ、あのっ、ユエル様っ」

 ユエル様はわたしの左手を握ったままさっきより距離を詰めてきた。指と指とを挟ませ合って、ぎゅぅっと握りしめてくる。生気を流し込む時みたいだ。ユエル様の掌が熱い。

「何かな、ミズカ?」

「指輪、ありがとうございます。でも、その……ユエル様の分は、わたしが用意すべきだったんじゃ……」

「私が、ミズカと揃いの指輪が欲しかったのだから気にすることはない。それに――」

 ユエル様はさらりと言った。実は指輪の受注はひと月前に済ませていたと。わたしが昏睡している間に仕上がったと連絡があったようで、ユエル様の今日の「用事」というのは、出来上がった指輪を取りに行くことだった。

「いいタイミングだった」なんてユエル様はいたずらっぽく笑っていうけれど。

 わたしはちょっと……ううん、かなり、驚いて唖然としてしまった。

 いったい、いつから? いつからユエル様はわたしを「伴侶」とするつもりでいたんだろう。

 それを知りたい気もしたけれど、今は訊かずにおくことにした。

 それよりも伝えたいことがあったから。

 ユエル様に、わたしも"贈りたい"。

「ユエル様」

 深呼吸をしてから、声をかけた。ユエル様の手をつよく握り返す。

 ドキドキしすぎて、口から心臓が飛び出そう……っ。

 だけど、ちゃんと伝えなくちゃ。

「あ、あのっ、わたし、今夜から……ユエル様と同じベッドでやすみたい、です」

 声が震えてしまう。頬は火で炙ったみたいに熱いし、心臓が今にも口から飛び出そうなくらいドキドキしてる。

 わたしの方からこんなこと……同衾したいって言うなんて、はしたないって、ユエル様、呆れたりしないかな。

 でも、わたしはユエル様の"眷族"なのだから、眷族としての役割を果たしたい。

 ……ううん。義務感だけじゃない。こんな気持ちは初めてでわたし自身戸惑ってる。だけど、……――

 僅かの間の、沈黙。

 ユエル様の顔を見られず、わたしはうつむいたままだ。

 ユエル様はすぐに返事をしてくれず、ただ息を詰めたような気配だけは感じられた。

 恥しくって顔を上げられない。ユエル様、いま、どんな表情をしてわたしを見てるだろう。

 呆れて、ひかれちゃったかな……。

 ……やっぱり訂正しよう。いまの、聞かなかったことにしてくださいって頼もう。そんなことを考え、再び口を開こうとしたときだった。

「ミズカ」

 ユエル様の手が頬にあてがわれた。ハッとして顔をあげると、そこには少し困ったような、けれどとても優しく甘やかな微笑があった。

「まさかミズカから誘ってくれるとはね」

「……っ」

 気づくと、わたしはユエル様の腕の中にいた。ユエル様に抱き寄せられて、さらに胸の動悸が激しくなる。けれど、怖くはなかった。背中の傷も疼かない。

 ユエル様から、ほのかに甘い薔薇の香りがする。

「生殖の期間は、実のところそう切羽詰まってはいない。年内ではあるかもしれないが、猶予はまだある」

「…………」

「ミズカを焦らせることはしたくないと思っていた。ミズカをこれ以上傷つけたくはなかったからね」

「ユエル様……」

 身じろいで、ユエル様を見上げた。応えるように、ユエル様は艶麗な微笑を浮かべてわたしの額にキスを落とした。

「だが猶予はあっても、どうやら私が限界のようだ。もう、待てない。余裕などとうに無くなってしまった」

「……ユ、……ッ」

 そして突然の、口づけ。それは性急で、深く、激しいものだった。呼吸すら呑みこまれてしまいそうな。

「ミズカ」と、ユエル様は息継ぎの合間にわたしの名を繰り返す。切なく艶めいた甘い囁きに、頭がくらくらする。やがてユエル様の唇が離れても、しばらくは息が乱れて、体も力が入らず、ユエル様に支えてもらっていた。

 いつまでそうしていただろう。わたしの呼気が少し落ち着きだした頃、ユエル様はわたしを抱きしめる腕を緩めた。

「部屋に戻ろうか、ミズカ」

「……はい」

 目と目が合い、そして緩やかな微笑みを交わし合った。たったそれだけのことがとても幸せに思えた。

 行こうかと、ユエル様が先導する。わたしはそのあとを追い、少し行ったところで遠慮がちに声をかけた。

「ユエル様」

「うん?」

 ユエル様は立ち止まり、豊麗な微笑をわたしに向けてくれる。何度目の当たりにしたって慣れそうにないユエル様の美麗な容色。胸の動悸がおさまらない。

 切なくて、苦しくて、……うれしくて。だからユエル様に甘えたくなってしまった。

「……手を、繋いでもいいですか?」

 右手を差し出すと、ユエル様は当然のように手を握ってくれた。ユエル様の横に並んで立ち、そしてわたし達は歩き出した。ユエル様はさっきより歩調が速くなってて、わたしも急ぎ足になった。

「せっかくだから"お姫様だっこ"で部屋まで連れて行こうか?」

「えっ、いえっ、いいですから! 歩いて行く方がいいですし、というか、せっかくって何がなんですか」

「おや? それを私に言わせたいのかな? なんといっても今夜は私とミズカにとっては大事な、いわゆるしょ……」

「ユエル様! もうっ、言わなくていいですっ」

 ユエル様の言わんとすることがわからないわけじゃなくて慌てて遮ったものの、顔が真っ赤になってしまう熱だけはとめられない。

 そんなわたしを見て、ユエル様は楽しげに笑っている。

 ユエル様はいつだってそう。わたしをからかうようなことを言いながら、そうすることでわたしの緊張をほぐしてくれる。

「…………」

 言いたいことはいっぱいある。けれど言葉にはできなくて、わたしは黙ったまま、ユエル様の手をぎゅっと強く握り返した。

 ユエル様のすこし素直じゃない優しさが、やっぱり大好きだ。大好きで、敵わなくって、安心できて。

 いつのころからか胸に蒔かれた種が芽吹き、ゆるゆると育ち、そしてようやく堅い閉じたままだった蕾がほどかれようとしてる。

 今宵、ユエル様によって。



 日が、西へと傾きかけている。夕刻にはまだ早いけれど、淡い黄昏の色が木漏れ日に含まれていた。

せわしない鳥のさえずりはまるで日暮れを誘うかのようだった。

 高原の落日は早い。

 やがて藍色の帳が空にかかり、深い夜闇が山を覆い、森林を黒く染めていく。

 森を渡る冷えた風に乗って、葉擦れの音や鳥の夜啼きや虫の音が聞こえて、いつもならそれに耳を傾けていたかもしれない。けれど今夜はきっともう……――


 ユエル様の声しか聞こえない。

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