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第一話 3 / 3

 ファミレスをとぼとぼと後にした俺は、家へと戻っていた。

 コタツで冷えた体を温めながら、彼女を見ていた。

 彼女はノートパソコンを興味深そうにいじっている。

 操作は完全に覚えたのか、手に迷いはなくブラインドタッチで入力している。もしかしなくとも俺よりずっとパソコンに慣れているようだ。

 時折、楽しいサイトを見つけるのか、表情を柔らかくしているのが、向かい合ったままだとよくわかる。


……ふつーの女の子、だよなぁ……


 その姿は俺の姉と変わらない。

 俺ともほとんど変わらない。日本全国の人間に聞いても、彼女を人間だと答えない人間は少ないはずだ。

 どう見れば彼女が魔道書に見えるのか。少なくとも俺には彼女が普通の人間にしか見えなかった。


 多分それが理由だったんだろう。

 彼の誘いを一日とはいえ遅らせてしまったのは。


 この一日がもしかしたら致命的な時間になってしまうのかもしれないと考えながらも、俺は彼の誘いが人身売買のような気がして、忌避してしまった。

 その想いは彼女を目にしている今、余計に増している。俺は明日、彼に会って頷けるのだろうか。


 まだ内心に襲われるかもしれないという恐怖感は残っている。朝ほどではないにしても、消えること無く残り続けるだろう。

 しかし、それを押しとどめてしまうほどに、この忌避感が強く胸の中にあった。


 ……でもなぁ……言う通りなら俺を殺してでも奪い取ろうとするやつがいるんだよな……


 忌避感は焦げ跡のように胸の中にある。

 それでも殺されるという言葉がずっと頭を揺すっていた。


 昨日の襲撃で嫌なくらい実感しているけれど、それでも言葉には現実味がなかった。これは一度だって人に命を狙われた経験なんてないのだから、ごく自然なことだと思う。

 だから期待してしまう。

 彼の話は嘘で、襲われることなんてないんだ、なんてことを。


……でも。


 周りを見渡せば、借りたばかりの部屋の壁に、いくつものへこみや切り傷があった。それは彼女が現れたときに吹いた風によって作られた物だ。それは存在を思う存分に主張している。虚構にはなってくれない。

 俺は彼女をどうするべきなんだろう。

 無音を消す為につけたテレビがニュースを話すのを聞き流しながら、お茶をすすった。


「ほー」


 湯につけすぎたのか若干渋いお茶に眉をひそめる俺の前で、彼女がうなった。そして立ち上がると、台所まで歩いていく。


「なにしてんだ?」

「少しご飯を作ろうかと思ったんだ」


 彼女は振り返らずに、冷蔵庫の中身を開けた。

 先日彼女にいい物を作ってやりたくて食材はいろいろなものを買ったから、食材に不自由はない。彼女はタマネギと牛肉を取り出すと、迷いない手つきで下処理を始めた。続いて包丁を取り出し、危なげなく切っていく。


「お前どこで練習したんだよ」

「そこに書いてあった」


 さらにフライパンを取り出すと、さっと火を通していく。そして置いてあった食用酒と醤油、砂糖とみりんをいれてさっと味をつけていった。

 いいにおいにつられ、俺はコタツから抜け出して後ろからのぞいた。近くから見ればさすがに何を作ろうとしたのかわかる。

 それからすぐに完成したようで、ご飯の上に作った肉とタマネギを載せた。

 ずいぶんと手際がいいようで、わずか数分で彼女は一品完成させてしまったらしい。


 食べようと、彼女は待ちきれない顔でつぶやいた。

 台所からコタツに運ばれた料理がいいにおいで部屋を満たした。寒々しい部屋の色が明るくなったような気がする。

 かぶりを振って、俺は箸に手を付ける。

 彼女はすでに箸に慣れた手つきで牛丼を頬張った。

 そんななんでもない日常的な姿が、余計に彼女が魔道書である事実を忘却させていく。


 俺も牛丼を頬張った。

 若干肉が堅かったが、それ以外はまるでお店の牛丼のようにおいしい味だった。とても初めて料理したものではない。きっと彼女に聞けば書いてあった通りに作っただけだ、と言い返されるのだろうけれど。

 半年かけてみっちりと料理を仕込まれた俺の努力がどこか遠い場所での出来事のように感じられる。


「うまい?」

「うまい」


 視線を感じた場所に目を向けず、俺は目をつむったまま答えた。

 俺の答えに空気が柔らかくなったような気がする。

 余計に胸が痛くなった気がした。


 ごまかすために、わざと大口で牛丼を食べ始めると彼女を見ないように、テレビに顔を向けた。

 なんとなく、俺は彼女を見ていられなくなったのだ。

 ニュースでは美人のキャスターがいくつかの事件や事故を淡々と読み上げている。俺はキャスターを見ながら隣の彼女のほうが美人だなと思ったが、そんな失礼きわまりない考えなどテレビの向こうのキャスターが知ったことではない。日常的によくあるニュースをキャスターは読み上げ続けていた。


 そんなニュースの一つに、ある男が人を殺した、というニュースがあった。

 聞けば家族である妻を男は殺したのだという。理由は警察でも話さないようで、捜査は難航しているらしい。

 どうやら殺し方が残酷だったらしく、キャスターの隣の男も眉をひそめていた。


 ……あまり言いたくないことだが、この手のニュースは気がついたらやっていることだ。

 俺も聞いたそのときは、なんで殺すんだろうと思うが、すぐに流して次のニュースを聞いている。それがいつものことだ。ほとんどの人がやっていることだろう。

 ただ、このときばかりは少し違った。

 俺の隣には何にでも興味を持つ彼女がいたのだ。


「一つ聞いてもいいか?」

「あーん?」

「夫婦というのは結婚したから夫婦なんだろう?」

「そうだなー」

「結婚するのはお互いに好きだからだろう?」

「だいたいはそうだなー」

「じゃぁ――」


「――――――なんで殺すんだ?」


 問いかける彼女の瞳には純粋な疑問だけがあった。


「さ、さぁ?」

「だって好きなんだろう? 好きなら大切にしたいと思うはずじゃないのか?」

「まぁ、そうだろうけど。あれだ。好きだから憎い、みたいな理由があるんだろ」

「憎いと人を殺すのか?」

「……多分な」


 思わず言葉に詰まった。


「どうしてこの男は体を切り刻んで奥さんを殺したんだ? 隠すつもりならもっとバラバラにしていろいろなところに分けた方がいいだろう?」

「ものすごく憎かった……とか」

「でもその前のニュースでは首をしめて殺していたぞ? 殺す方法ならもっといい方法がたくさんあるだろう」


 彼女は疑問を止めない。

 ……彼女はただ不思議なのだろう。

 人を殺すことが。どうしてそんな方法で殺すのか。そんなことが。

 だが、俺は彼女のように簡単に殺す、という言葉を口にすることができなかった。

 彼女の疑問にもっと直接的に答えることもできなかった。

 なぜなら人が死んだ、という事実を聞いてすぐに「人を殺す」という言葉を口に出すことに強い忌避感があったからだ。

 幼い頃から、それはいけないことだと教えられてきた故に、考えを口にだすのも自分が悪いように思えるのだ。

 家族とご飯を食べているときに、彼女のような話題は出さない。

 せいぜい、最近は怖いな、と口にするくらいで、犯人の考えを本気で考えたり議論しようとは思わない。

 幼い頃から存在した一種の暗黙の了解だった。

 しかし、彼女はそんなこと知らない。だって、生まれてから二日も経っていないのだから。


「他にも介護がいやになったから殺した、というニュースもあった。……家族は大切なはず……」

「なぁ……」

「……どうして……それとも私の認識が間違っている……だとすると……」

「……なぁ」

「……家族はそこまで大切なものじゃなない? ――それなら殺せ」


 我慢できずに机を叩いた。

 突如響いたそれに、彼女は身をすくませてこっちを向いた。

 俺は腹の底から響くような声でささやく。


「……それはご飯を食べているときに話すことじゃない」


 初めて俺が見せた怒りに、彼女はこくこくと首をふって頷いた。


 俺は残り少なくなった牛丼を咀嚼しながら思う。――これはごまかしだ、と。

 本当は彼女のたどり着いた考えが怖くて、咄嗟に机を叩いたのだ。


 何もわかっていないからこそ聞いてきたのだ。とわかっていても、なぜだろう。

 人の殺し方、動機。それを事細かに聞いてくる彼女が、ただの女でしかなかった彼女が、俺にはある種未知の生物のように感じられた。 


 俺は牛丼の残りをすべて口にいれると、席を立った。

 ごちそうさまを言え、という彼女にすまんと断りをいれながら、家の外に出る。

 そして懐から携帯を取り出した。

 そこにはあの男のアドレスが入っている。

 俺はそこに電話をかけた。


「決まったかい?」


 わずかワンコールででた彼。俺は余計なことを言わず、一言だけつぶやいた。


「十億と取引しましょう」

「……ベリーぐっとだ」


 通話が終わる。俺は電話をだらんとぶら下げて、空を見上げた。

 ……突然の行動をどうしたのだろう、と人が見ていたら思うのかもしれない。

 しかし、俺の中にあった天秤は傾いてしまったのだ。


 俺が今まで彼女を取引材料として渡すことにためらいがあった。人身売買を行っているような感覚と、この先どうなるかわからない場所に自分を頼ってくれている女を渡してしまうという二つの忌避感が存在していたからだ。

 その二つが自分が殺されるかもしれない、という天秤に乗った片方と釣り合っていたが為に、俺は一日待ってもらっていたのだ。

 しかし、今の彼女とのやり取りで天秤は傾いた。


 怖くなった、というのもあるが……俺はある意味で悟ってしまったのだ。

 今の彼女は本当になにもしらない、赤子のような存在だ。

 言葉を交わせて、ある程度の常識を持てたようにみえたが……結局のところ、彼女にものを教えることは赤子を育てることに等しいのだ。

 確かに最初はそれでもよかった。やる気があった。

 しかし中途半端に彼女と話せるようになって、教える必要がなくなったと思ったら……そう、めんどくさくなったというのが適切なのだろう。

 この二つが重石になって、微妙な釣り合いを見せていた天秤は片方に落ちてしまったのだ。





 ◇





「やぁ。待たせたかい?」


 玄関口、チャイム音とともに片手を上げて彼が現れた。フレンドリーな表情とは裏腹に、その目は鋭い光を見せていた。人間観察にあまり優れていない俺にもわかるほどなのだから、よっぽどこの魔道書が欲しいのだろう。

 俺は全然、と掌をひらひらさせて、彼女の手を引いた。

 後ろから出てきた彼女の両肩を抑えて、ゆっくり前に押してやる。

 分けもわからず何度か後ろを振り向く彼女と目線を合わせないようにしながら、俺は彼に話しかけた。


「これでいいんですか?」

「もちろんだとも」


 端的に。簡略に。

 俺のいいたいことをよくわかっている神谷さんは笑顔で頷いた。


「……どうしたんだ?」


 と彼女が俺に問う。

 まさか彼女も俺に売られるとは思っていないのだろう。

 俺はわずかな苦笑を頬に浮かべるだけで、彼女の問いに答えることはしない。

 彼女は混乱しているようだ。どうして自分が見知らぬ他人に向けて背中を押されているのだろう、と。

 その動揺を神谷さんが触れる手がより大きなものとした。


「触るなっ!」


 彼女はつかまれた手を勢いよく振り払う。

 初めて聞いた彼女の怒声が鼓膜をつく。神谷さんは目を見開くも、仕方ないとわずかに吐息を漏らすにとどめていた。


「大丈夫。ちょっとお前のことを検査しなきゃいけなくてな。神谷さんがしてくれるんだと」


 このままでは彼女は彼についていかないだろう。

 慌てて適当にでっちあげた理由を彼女にいうと……半信半疑とわかる表情ながらも頷いた。

 俺を信頼しているのだろう。嘘をつかれるなどとまるで考えていないだろう彼女の表情に、思わず腕を引きそうになるのをこらえながら、今までより強く彼女を押した。


「そうだよ。安心してほしい。すぐに帰れるとも」


 神谷さんは俺の咄嗟の嘘に乗ってきた。咄嗟のことには手慣れているのだろう。


「さて、ひとついいかな」


 と神谷さんは手を出した。

 まるで握手を求めるような手だ。

 なぜ今? と疑問に思う俺に、


「これも魔法の一種で、契約完了の為に行う物だよ」


 と小声で説明した。

 なるほど、と俺も手を出して握手する。すると彼は安堵のため息のように破顔した。思わずもれてしまった本音のように、俺は感じた。

 彼女という魔道書には、どうやらそれだけの価値があるものらしい。

 気がつけば俺の手にはカードが握られている。

 これでカードの中身がからだったら笑えるな、と思いつつも、俺は笑顔で「彼女をよろしく御願いします」とだけいった。


 まかせてくれ、などと頼りがいのあるそうな顔で返事をして、彼は背を向けた。そのまま彼女の手を引いていく。

 扉から出るまでのわずかな間、彼女は何度も振り返った。

 俺はそのすべてに笑顔でいた。

 扉が閉まる最後の瞬間まで、俺は笑顔だった。





 ◇





 日本共同魔導師連盟の神谷は終始ご機嫌な様子で車を運転していた。

 そのご機嫌さ具合は助手席に座る魔道書の存在が多分に関係していることは想像に難くない。

 助手席に座る彼女はご機嫌な神谷とは反対にダウナーな瞳で窓の外をぼんやりと眺めている。おそらく、と注釈はつくが、もしも車を運転しているのがカズトであれば、きっと彼女ははしゃいでいただろう。

 神谷は彼女の雰囲気の原因が自分であることを自覚し、苦笑を漏らしながらもその機嫌を落とさない。

 なぜなら彼は今、数年前から追い求めていた存在を手にすることができたからだ。


 魔道書・テトラトトロポトトロンの書。

 それは制作されてからこれまでの時間で生み出された魔法のすべてを記録した、この世にたった一つだけの、あらゆる魔法を収めた最高の魔道書だ。

 その正体は未だ不明の部分が多いが、わかっていることは三つ。

 中に記された魔法が、本当にこの世に存在しているすべての魔法を言葉違わずに収めていること。

 壊れるたびに世界のどこかにいる自分を持つにふさわしい人間の元に転移すること。

 そして、その姿は持ち主にとってもっとも望ましい姿であること、だ。


 後者二つはともかく、前者によってこの魔道書の価値は表せられる。

 なにせ、この世のすべての魔法だ。

 どのような手段を用いているのかはわからないが、一族秘伝の魔法もこの魔道書には収められているのだ。

 いや、それだけではない。

 神話の時代から存在するこの魔道書の中には、神話に描かれた魔法すらも記されている。

 天と地を分ける魔法。大陸を生み出す魔法。永遠に消えぬ炎の魔法。

 そんな大それた魔法すらまだ叙の口。


 永遠に老いぬ不老の魔法。

 一度は望む死者蘇生の魔法。


 誰もが夢見る魔法すらも複数の方法で記されている。

 だからこそ、この魔道書はすべての魔導師が求めてやまないのだ。故に、それを手に収めた神谷の機嫌が高いのも当然のことと言える。


 神谷は誰よりも早くカズトと接触できたことを神に感謝するしかない。

 そう、神谷がカズトという絶好のカモと接触できたのは全くの偶然だった。

 もしかしたら、なんて藁にもすがる気持ちで近所に感知魔法を仕掛けていたのが作動したのだ。

 十年前、魔道書が破壊され、再びどこかに転移するというのは知っていたが、まさか本当に近所に現れるとは思っていなかった。


 知らせを受けたときは、さすがの神谷も目を疑った。

 どうせなら自分のところに現れればよかったのに、と思いつつもいち早く持ち主に取り入ることで心証をよくしよう。

 そう考えて向かったのが、神谷とカズトの接触の理由である。

 まさか持ち主がまったくの素人とは思わなかったが。


 神谷は魔道書欲しさにカズトを脅した形で譲り受けたが、カズトに才能がないというのは本当だった。

 カズトには本当に魔導師になれるような才能が無かった。

 神谷は対象の適性をおおよそではあるが調べる魔法が使える。それによれば平均の水準を大きく下回る、考えられる限りで最低の適性しかなかった。天才の適性を積み上げた書類の塔とするならば、カズトの適性は一枚のコピー用紙のようなものだ。

 神谷が言った宝の持ち腐れという言葉は嘘ではなかったのだ。


 カズトの顔を思い返して、神谷はくすくすと笑った。

 その素人、というのがまさに神谷の人生最大の幸運だった。神谷は胸を張ってそういえる。

 なにせ、この魔道書の中にはあらゆる魔法が記されているのだ。


 神話の時代に現れる魔女の、急激に力を増す薬の作り方も記されていると風の噂に聞いたことがある。

 それ以外にも実力のブースト方法はいくつもある。

 もし持ち主が少しでも魔法の知識があるのならば……この魔道書を手に入れた幸運だけで、世界中の魔導師の頂点に立ててしまうのだ。

 事実、今までの持ち主たちはほぼ例外無く魔導師たちの頂点に君臨していた。

 ゆえに、神谷は自分が好運だったと思うのだ。


 カズトに渡した十億など、この幸運に比べれば些細な額だ。

 だから彼には裏表無く、本当に十億――彼の使用できる全財産――を渡してある。

 十億程度など、魔道書に記された魔法を使えば、簡単に取り戻せる。

 この魔道書を持っているというだけで、世界中の魔導師の組織が貢ぎ物を捧げるだろう。それだけでも十億なぞ取り返せてしまう。

 魔道書は魔導師にとってこの世でもっとも価値のあるものだと言い換えていい。それだけの価値があるのだ。


 ……いや、言い換えよう。他の魔術師にとってはそうであっても、神谷にとって魔道書はそれほど価値のあるものではない。

 神谷が魔道書を欲したのは、決して頂点に立ちたいからでも、魔法のさらなる研究の為でも、不老になりたいからでもない。

 ただ、一つの魔法が欲しかったからだ。


(落ち着け……落ち着けよ……もう魔道書は僕の手元にあるんだ……大丈夫だ……)


 神谷ははやる胸を呼吸で落ち着けながら、自宅に車を止めた。

 神谷の自宅はカズトの家から十分ほど走った場所に存在している。背後に裏山を、周囲を畑に覆われた田舎特有の大きな和風の家が神谷の家だ。


「ここで検査をするのか?」


 カズトがいたときとは違う、割れたガラスのように鋭い声だ。

 彼女は目を細め、鷹のような冷徹な視線で神谷をじっと見ている。


「もちろん。君の場合は特殊でね。ちょっと特別な方法を使わなきゃいけないんだ」


 神谷は車から降りると、ついてきて、と彼女にいった。

 彼女はしぶしぶと、ついていきたくないのがありありとわかる顔で神谷の後を追った。


 日本の家にしては大きい神谷の家を歩くこと数分、背の高い倉庫のような場所にたどり着いた。外観はまるで神殿のようである。周囲の和風物件に全くそぐわない真っ白の建物だ。神谷は迷い無くそこへ入っている。

 彼女もゆっくりと、夜の病院を歩くような足取りで中へ続く。

 真っ暗だった。

 パッと電気がつく。

 彼女がまぶしさに目を細めたのは一瞬。

 目を細めてみた建物の中には花畑が広がっていた。

 円形に色とりどりに植えられた花々、その中心には細長い石の塊のようなものが存在している。……その光景にはさしもの彼女も、幻想的な美しい場所だ、としか言葉にできなかった。

 花畑の中心、歩く為の一本道を神谷は歩いていた。中心にある石に、本当に優しい手つきで触れ、何かをつぶやいた。

 そして手招きされる。少し前に調べたおかげで、そのジェスチャーの意味もわかっていたからか、彼女は神谷の元へと小走りで近寄った。

 さっきまでの警戒心はこの花畑を前にして、一時的に消えてしまったようだ。

 神谷はその態度に何か言い足そうな顔をしていたが、彼女はそれに気がつかず、神谷のもとへとたどり着いた。


「見てごらん」


 神谷はそういって石の一部分に手をかけた。

 すると真っ白な石の丈夫の一部分が透けた。透明なガラスのようになったのだ。当然、中が見えるようになる。

 彼女はじっと、中を覗き込んだ。

 そこには。とても、とても綺麗な女性が横たわっていた。

 どうしてこんなところで横になっているのだろう。という当然の疑問は思いつかない。彼女が私の治療にどう関係するのだろう、彼女はまず、閉じられた石室のなかで目を閉じている彼女をみてそう思った。


「彼女は僕の奥さんさ」


 いろいろな角度で女性を見る彼女の隣で、神谷は手袋をつけながら語った。


「とても素晴らしい女性だったよ。魔術師の名家に生まれ、家のため魔術師の才能を落とさないように魔術師の女性と結婚すると考えていた僕が考え直すくらいに」

「そうか」


 彼女は頷きながらも、やはり一体自分になんの関係があるのだろう、と首をひねっていた。

 ただ、それまでと違って、なぜか彼女は女性から目が離せなかった。神谷のほうなど見向きもせず女性を眺めていた。

 どうして自分はこれほど女性を見ているのか、彼女自身にもわからない。

 ふと、あることに気がついた。


「……この人は、息をしてない……」

「……死んでるからね」


 神谷の端的な答えに、彼女は息をのんだ。

 同時に納得もした。

 どうして自分が彼女にこれほど目を向けるのか。それは彼女が初めて見る死んでしまった人間だったからだ、と。


 死んでしまった人間には不思議な力がある。

 もっと見ていたいような、目を背けてしまいたいような、そんな力だ。

 彼女はこの綺麗な女性から前者の力を受け取ってしまったらしい。……目が離せない。


 そんな彼女に、後ろから神谷は腕とふくらはぎ、全四カ所に軽く触れた。

 わずかにみじろぐものの、彼女はまだ女性を見続けていた。

 何かきっかけが無ければ、彼女自身見ているのをやめられそうになかった。

 しかし、


「……――――っ!」


 そのきっかけはわりとすぐに来た。

 神谷が何かをつぶやいたのだ。

 とたん、彼女の肉体が空中に持ち上げられた。

 腕とふくらはぎになにやら魔法陣らしきものが現れ、彼女の体を空中に縫い付けている。しかもかなり締め付けが強く、痛いくらいだった。

 初めて感じる「痛み」に彼女の目端に涙がたまった。

 思わず叫ぶ。


「何する!」


 きっかけを得て、彼女が神谷へと目線を向けたとき、神谷は今までの人好きのする笑みは浮かべていなかった。

 彼女の語録ではとても形容できない表情で、神谷は彼女を見ていた。


「ようやく……ようやくなんだ」


 彼は拳を握りしめ、彼女の首もとにこつんと触れた。とたん、彼女は首元に強い痛みを感じた。まるで針を刺したような強い痛みだ。

 初めて感じる本格的な「痛み」の連続にたまらずうめき声を上げる彼女の様子を、神谷は満足そうに見ている。視線の先には彼女の首元があり、そこには今まで無かった赤い二重円と、円の中に不思議な漢字が書かれた模様が書かれている。


「な、にをするんだ?」

「ようやく、彼女を、伊織を生き返らせる……また話せるんだ……」


 彼の言葉は決して彼女に聞かせる為の物ではなかった。それどころか横たわる女性に向かって語りかけられた言葉ですらない。

 ただ万感の想いが溢れ出た結果、言葉という形をなしたものだった。


 どことも知れぬ場所を見る彼に、彼女は初めて背筋が冷たくなる、という言葉を実感した。

 これは確かに素晴らしい表現だ。今の状況を表すのに、これ以上無いくらいにぴったりあっている。

 彼女は唇が乾いていることにも気がつけない。


「まて……」

「さぁ……始めよう。そして取り出そう。魔道書・テトラトトロポトトロンから……僕の望む『死者蘇生の魔法』を……っ」

「待て……っ」


 彼女の懇願も耳に入らぬまま、神谷がつぶやいた。

 瞬間、彼女の四肢につけられていた魔法陣が赤く発光した。同時に青紫の紫電が周囲に走った。紫電は花を焦がし、彼女の肉を焼いた。呆気にとられた彼女の口から爆竹のごとき爆音に負けぬほどの絶叫が溢れたのは、その三秒後だった。


「――――――――…………っぅぅぅッッ!!」


 涙を流し、絶叫に狂う女。神谷はそれを冬の雪原のような冷たい視線で見ていた。感情の色はない。あるとすれば妻への渇望だけだろう。


 彼は紫電の中に踏み込む。

 なぜか紫電が彼の体にぶつかることは無い。三寸ほど手前でどこか明後日の方向にそれてしまうのだ。彼はそのまま手を伸ばし、彼女の胸元に押しつけると再び何事かつぶやいた。

 よりいっそうの絶叫が響いた。


 ――当たり前、といえば当たり前のことだろう。

 今、神谷は彼女に触れることで彼女が持つ魔道書の知識に触れているのだ。

 それは本来ならばカズトのような持ち主だけが手に入れることのできるものだ。神谷がしていることは不正な行為なのだ。それも鍵のかかったドアをぶち壊して押し入るような力技の不正だ。しかもその不正は、物に対して行う方法で、人に行う方法ではない。痛みなど度外視した不正なのだ。

 本来の主ではない彼が魔法を取り出すその感覚は無理矢理犯されるようで、ともすれば頸骨の神経に直接触れられることに似ている。彼女の口から文字にするのも躊躇われる悲鳴がもれ始めたのも当然の結果だった。

 神谷はそれを知った上で、彼女の中から魔法を取り出そうとしていた。


 そこには、例え他者に痛みを与えようとも目的を果たそうとする……強い意志が彼の体の中で燃え盛っていた。





 ◇





 神谷さんが……いや、もう神谷でいいや。

 神谷が去ってからすでに十分ほどすぎていた。

 俺は五分ほど玄関でぼーっとしていたが、のどの渇きを覚え、一番近くの自販機でどれを買おうか悩んでいた。

 とりあえず無難にメロンソーダを百円で購入すると、家に向かって歩き出す。


 正直なところ、もしかしたら罪悪感で胸がいたくなるなんてことがあるかもしれない、なんて俺は考えていた。

 がしかし、俺は現在特に思い悩まされることもなく、むしろ再び始まった一人暮らしに胸を躍らせていた。


 そこにはやはり、今まで心の中にあった彼女という棘――引っかかりといってもいいもの――がぬけたことが関係しているのだろう。

 それまでは彼女のことを常に考えていたし、昨日の夜からは自分の命なんて普通の大学生がまず考えないことについても悩まされていた。

 それがすべて解決した今の心境は、そう。夏休みの宿題をすべて終わらせた後の清々しさに似ている。


 結局のところ、彼女を手放したのは最良の選択だったのかもしれない。

 今になって思うが、俺は普通の大学生であって、決して魔法に才能あふれる特別な人間ではない。

 彼も俺には才能がない、と断言していたし。

 それに最初のほうはテンションがおかしかった。よくよく考えてみれば、普通収入のない大学生が、人一人を養っていけるわけも無い。

 俺が彼女をかくまうなんて、砂上の楼閣、机上の空論。鼻で笑ってしかるべき話だったのだ。


 それがまさか十億になったのだから、これはやはり最良の選択だ。

 もし十億を選ばなければ、よくわからない魔法に命を狙われる生活だったわけだ。

 小説や漫画であれバッチコイな展開であっても、現実で四六時中命を狙われるとなるのは、まったくもってごめんである。


 俺は自分の選択に満足げに頷きながら、手に持ったメロンソーダを振り回し、家のドアを開けた。


「ただいまー」


 声が部屋の中に閑散と響いた。

 靴を脱いで、足下から視線を持ち上げれば、そこには明るくなりつつある自室が見える。


 彼女がいなくなっても彼女がいた事実はなくならない。

 家の中にはそこかしこに傷があった。


「金はあるしなー。いっそ家でも買っちゃおーかなー」


 苦労して作った内装はぐちゃぐちゃだ。

 どうせならすべて新しいものにしてしまおうか。まだここにすみ始めて浅く、愛着も薄いのだし。


 どすどすと家の中へ入ってゆく。

 すぐにコタツが目に入った。コタツの上にはまだ片付けていなかった食器が置いてあった。食べ終わってからそれなりに時間が経っているのに、彼女は未だに片付けていなかったようだ。

 あの牛丼はうまかった。がしかし料理するなら最後まで片付けていけよ、と内心でツッコミをいれつつ、炊事場にたつ。

 じゃー、と水を流しながら食器を洗ってゆく。

 ふと、炊事場の端に目がいく。そこにはコップに歯ブラシが入っている。その数は二つ。俺の黄色い歯ブラシと、彼女の赤い歯ブラシが仲良く並んでいた。


 ……ああ、そうか。

 こういうのももういらないから処分しないといけないのか。


 少し、億劫な気持ちになってしまう。

 それを抑えながら、食器洗いを続けていく。……その食器の量はいつもの二倍だった。

 それに気がついて、頭をがりがりとかく。


「あぁーぁ、もう!」


 洗い終わった食器はすぐに拭くのだけれど、今日ばかりは放ってテレビをつけた。少しでも考え事をしたくなかった。

 しかしチャンネルをまわしても、どうにも琴線に触れる番組がなくて、結局ニュースに落ち着く。

 すると少し前に彼女が興味を示したニュースが再び流れた。ダッシュで番組を変える。


「…………はぁー」


 畳の上に体を投げ出した。

 駄目だ、どうにも彼女の影がちらついて仕方ない。

 面影だけじゃない。不思議なことに、俺の首元がちりちりとしているのだ。まるで彼女を追え、とでもいうように。


 ……今更どうしろというのか。

 これじゃいけないだろ。


 俺は風呂にはいって寝るべく、寝間着を出す為に押し入れを開いて、引き出しを引いた。

 すると出てくるのは……


「そーだ。ここはあいつにあげたんだった……」


 やたら扇情的な下着がいくつか。

 彼女のためにと買った物だった。

 誰もいないのに平静を装いながら――その実、顔を真っ赤にして――そっと引き出しを閉めた。

 ……駄目だ。こんなところでもあいつの影がちらつく。


 どうにも彼女はわずか一日で俺の家に多大な浸食をしてくれたらしい。驚きの結果だ。

 胸の中にわいた感情をごまかす為に、俺は両手で髪の毛をかき乱した。


 今の自分はヤバい。と思う。

 どうにもそっち方向に心が傾き始めている気がするのだ。気の迷いだ、と断じて心の底に沈めようとするのだが、沈めても沈めても、まるで木のように浮かび上がってくるではないか。

 自分の家の中だというのに、見る物すべてが平穏の敵になっていた。

 俺は目をつぶったまま、コタツに潜り込んで目をつむる。

 風呂もなしで、とにかく寝てしまうおう。

 寝てしまえば落ち着ける。


 しかし、俺は眠れなかった。

 なんとなく彼女を感じるのだ。彼女がどのくらい遠くにいて、どの方向にいるのか。

 それは買い物にいっているときもそうだったし、他のときにも感じていた彼女の感覚が、俺に眠らせることを許してくれなかった。

 しかもコタツかけから香るわずかな彼女の残滓が鼻孔をくすぐるせいで、彼女の姿が頭にも浮かびつつある。


「ぅぅぅっっぅ〜〜〜っ! なんなんだよ、まったくもう! 俺は何がしたいんだってーーーーの!」


 もう我慢できない。

 コタツをがつんと蹴って身を起こした。無性にモノに当たりたい気分だった。

 手汗でべたべたする手で、顔を覆う。

 気持ち悪さすら感じる手の感触すら、どうでもいい。

 彼女を手放した自分が何をしたいのか、自分にもわからず、ただのたうつしかない自分が気持ち悪かった。

 

 そうして俺が思考の迷宮に片足を踏み入れかけたそのとき。

 俺の視界の片隅にカレンダーが見えた。

 まだかけたばかりのカレンダーには記入してあることが一つもない。少なくとも俺に何か書いた覚えは無かった。

 しかし、

 なぜだろう。

 二日前の日付には大きな赤丸がついている。

 どうして、

 そう思う俺の瞳に赤丸の中心に書かれた文字が移る


 そこに書かれていたのは、






 ―――――― 記念日 !






「――――――…………くっそ、やられた」


 その言葉が見えたとき、思わず俺の口元が弧を描いた。

 柔らかく見る者に移っていくその弧の名前は、笑み、と呼ぶらしい。

 これだけあいつの残滓を見せつけられて、感じさせられて、最後にこれはない。あまりにもクリティカルにとどめを刺してくれていた。


「はぁ…………」


 これはため息ではない。

 体の中にあったもやもやとした不純物ばかりの意思を吐き出したのだ。


「はぁ…………」


 これはため息ではない。

 体の中で燃え始めた炎に新たな酸素をくれてやったのだ。


 今、俺の体の中はわくわくと沸き立つ意思で満たされようとしていた。

 いや、満たされた。

 それどころか溢れ出してしまったそれは、俺にリズムを取らせ、顔に笑みを浮かべ、なにより心を熱くさせてしまった。

 止めようがない。止まりようがない。

 蒸気機関に火をくべられたときのように、今の俺は走り出しそうだ。事実、俺は家を飛び出して走り出していた。


「やっべ……」


 目的地はもう決まっている。

 俺の心の羅針盤が北を指し示しているのだ。

 俺が引き渡したんだろう、とか。魔法がどうとか。そんな話は汽車が走り出すとともに駅に置いてきてしまった。

 つまるところ今の俺は、





「――――めっちゃテンションあがってきた」











 端的にいって、体中を這い回る紫電はミミズのようだ。

 端的にいって、体の中へと入り込む魔術は犯されているようだ。

 端的にいって、慣れない痛みは悲鳴すら許してくれない。


 それらすべてを総合し、端的に今の彼女の状況を表すとすれば、地獄。その言葉がもっともふさわしい。


 意識朦朧のまま、彼女は神谷をにらんだ。

 この期に及んで治療、などという言葉を信じてはいない。少なくとも彼女の少ない知識の中にも、これほどの痛みを受けさせて行う治療など無かったからだし、こんな治療を受けたいと思う人間がいるとも思えなかったからだ。

 むしろ見ている人間も顔を背けるような治療法があるとすれば、それは殺すことで治療する何かだろう。


 どうして自分がこんな目にあっているのか、彼女はなんとなくその理由がわかり始めていた。

 体の中を這いずり回る感覚が、自分の中になる『何か』に触れるたび、頭の中に不可思議な知識が溢れるからだ。

 溢れ出した知識は大地が水を吸い込むように、彼女の血肉となる。故に、彼女は次々と溢れ出る知識――魔法を理解し始めていた。

 その知識の中に彼女自身の常識からは信じられないような魔法が多々あった。おそらく、神谷はこういった知識を狙っているのだろう。彼女はそう推測した。


 彼女の考えは間違っていない。

 細かく訂正するのならば、知識全般ではなく魔道書に記された死者蘇生の魔法のみ、ということくらいだろう。

 しかし神谷の目的がわかったところで、彼女が追い込まれた地獄になんの変化も無い。未だ激痛だけが体を支配しているし、体の中を這いずり回る魔法はぐちゃぐちゃと這いずり回っている。

 すでに流れた涙で頬には跡ができ、まぶたは真っ赤に腫れあがった。美麗な瞳は苦悶に歪んでいる。……あれほど美しかった顔は見る影もない。


「まだか……まだなのか……っ!」


 本来加虐的行為を行う側の表情は愉悦か、あるいはそれに似た何かをしていることが多い。しかし神谷は焦燥感を漂わせていた。

 彼女から見ても余裕のない神谷の表情は、やはり彼女の中から目的の魔法が見つからないことが大きいのだろう。

 先ほどから彼女の中に溢れ出している魔法はどれも死者蘇生とはほど遠い物ばかり。

 あと一歩のところまで来ているのに、目的を果たせない神谷に彼女は皮肉げな笑みを浮かべた。


 そのままざまあみろ、と皮肉ってやろうとしたが、声がでない。

 絶叫に続く悲鳴が彼女の喉を痛めていたらしい。

 小さな反抗すらできないことに自嘲の笑みを浮かべる。

 そんな余裕のあるように見える彼女の姿を、いらだつ神谷が見過ごすことはできなかった。


「何がおかしい……っ! 魔法が見つからなければいつまでもこの責め苦は続くぞ! ……それとも、あの男が助けにきてくれるとでも思っているのか?」


 神谷は口元にあざけりの笑みを浮かべた。


「ははっ……これはお笑いぐさだ! どう思っているのか知らないが、あいつはお前を売り渡した。助けに来るわけがない」

「……確かにそうかもしれない」


 中空につり上げられた彼女がうつむく。


「……私だって馬鹿じゃない。もしかしたらそうかもしれない……そう考えもした。きっと誰もが私を見捨てたんだというんだろう」


 自分は今、治療目的としてつれられた場所で拷問のようなことをされている。

 神谷は売り渡した、彼女に語った。

 彼女を神谷に引き渡す前、彼はどこかよそよそしかった。


 彼女の脳裏に思い浮かぶそれらは、どれも彼が助けになんて来てくれない理由となって、彼女に語りかけていた。

 助けにきてくれるわけがない。

 見捨てられたんだ。

 理性がそう説き伏せてくるのを、彼女はこの痛みの中で聞き続けていた。

 それでも、彼女は思ってしまうのだ。


「――――――私は信じてる」


 状況証拠がどれだけ揃おうとも。

 神谷になにを言われようとも


「私だけは信じている」


 理性は裏切ったと叫ぶ。

 けれど、本能でもない。彼女にもわからないなにかが、彼が助けにくると知っていた。

 体の奥底にある彼とのつながりが、理性には信じられない事実を証明しているのだ。

 だから彼女は地獄の痛みの中で、皮肉げな笑みを浮かべられるのだ。――彼女の瞳に、絶望はない。


「……万が一来たとして……どうなる」


 神谷が指を鳴らした。

 小気味のよい音とともに神谷の腕の周りに魔法陣が複数現れ、指先に光が灯った。


「僕の家が代々受け継いできた魔法さ。指先に集中させた魔力を打ち出す単純な魔法だが、複数の増強魔法のおかげで威力は折り紙付きさ。魔法使いが来ても邪魔させない。……一般人である彼が来たところでどうしようもない」


 神谷は理性的な瞳で、合理的に現実を語る。

 その通りだ。

 神谷は魔法使いで、実践も経験している。人を殺すことに躊躇もない。

 対するカズトは凡百の一般人であり、喧嘩も満足に経験したことがない。戦いの場に連れ出されれば、腰を抜かしぼけっとした顔で死んでしまうだろう。

 カズトがここに来たところで、何も変わらない。意味など無いのだ。

 そして、それを彼女はよくわかっていた。


「――――――それでも私は信じている。必ず助けてくれることを」


 神谷の顔が今までにない黒に染まった。

 舌打ちが一つ。


「……そうか。ならいつまでも来ない人間を信じていればいい」


 神谷は彼女から魔法を引き出す魔法の出力を上昇させた。とたん、今までに倍する痛みが彼女を襲う。

 必死にもれそうになる絶叫を、彼女は唇を噛んで飲み干した。

 痛みのあまり、すぐにでも気が狂ってしまいそうだ。

 だが、耐える。

 言葉にだして、彼女は知った。

 あやふやだった想いを口にすることで、理性も納得してしまうことがあるんだ、と。

 なにより、自分の心の向きが定まるのだと。

 だから、耐える。

 彼女の心はひたむきに信じていた。


 ……きっと、この世界に神はいるのだろう。

 彼女が信じていたから、

 彼女は想っていたから、

 彼女が感じていたから、神は願いを叶えたのだ。


 だから――――――彼女のひたむきな信頼は、ドアを開く音とともに報われた。




 息を切らし、肩で息をする男が一人。オレンジ色のパーカーを羽織り、腰元に赤いタータンチェックのシャツを巻き付けている。

 その姿に彼女は思わず涙を一つ流してしまった。――カズトが現れたのだ。


「……はっはっ、まさか本当にここにくるなんて……」


 ここに現れるとは考えてもいなかったのだろう。

 神谷は心底から呆然とし、口を開けて固まっていた。

 その神谷を一瞥もせず、カズトは歩み始めた。一歩一歩を踏みしめるように花壇へと足を進める。

 そのあまりに堂々とした姿に、神谷が大声で笑った。


「――素晴らしい信頼関係だ! 知っているかい、さっきまで彼女は君がここに来ることを疑っていなかった。――売り払った君がだ!」


 神谷は手振りを大仰に動かしながら、さりげなく彼女とカズトの直線へと割り込み、カズトをにらむ。

 表情は前のように友好的だが、拳が強く握られているのを彼女は気がついた。


「それで……? 人の家に土足で入り込んで君は一体何のようだろう? まさかクーリングオフをしたい、とでも言うんじゃないだろうね」

「……」


 カズトは神谷の言葉に返答しない。ただ歩みを進めた。

 もやは隠す気もない神谷の苛立が、こめかみに浮かび上がった。

 黙って近寄るカズトが、神谷には気持ち悪くて仕方が無い。彼は指先に魔法を発動させると、魔力を集めた。

 もはやこの期に及んで、カズトの命を気にする必要もない。


 神谷にはカズトがここに来た理由はわからないが、黙っていれば金も手に入ったというのに、と内心で嘲笑った。

 後は魔法を打ち出すだけ。

 それだけで魔法の使えないカズトは死ぬだろう。

 しかしそのときだ。

 カズトが口を開く。


「あんたには……たぶん、あんたなりの理由があったんだと思う。いろいろあって、こんなことをしたんだと思う」


 ずっとうつむいていた顔を上げる。

 カズトは髪の隙間から見える瞳を鋭く尖らせ、情熱の炎を点して彼女の見ていた。

 射抜くという言葉がこれほど合う瞳はないだろう。射抜かれた彼女の体は芯から熱くなるような錯覚すらある。


「でも、……悪ぃな」


 カズトの言葉は謝罪だ。しかし、それは彼女の目から見ても決して謝る為の言葉ではなかった。


「今、俺、テンションぶっとんでんだ。あんたなんか――眼中にない!」


 情熱的だ。

 カズトの言葉が、瞳が、意思が。なにもかもが情熱的だ。

 どこか深いところで彼とつながっている彼女にはその熱が、まるで身を焦がす炎のようにすら思える。

 だが彼女はその熱の中に、情熱に似た何かを見つける。それはきっと――独占欲と呼ぶものだ。


「一度でいいから言ってみたかったんだ……」


 カズトはゆっくりと腕を持ち上げた。そして唇をなぞり、獰猛な笑みとともに宣言した。


「――――――そいつは、俺のもんだ」


 突如、彼女の体に今までにない刺激が走った。

 それはまどろみの中に現れた光のように、彼女を目覚めさせる。


「――勝手に触ってんじゃねーよ」


 その瞬間、彼女はすべてを悟った。

 同時に、彼女の周囲に数十もの魔法陣が広がった。それらすべては彼女が作り出したものであり、神谷が作った魔法はすべて砕けちった。


「なに……捕縛が……っ!」


 慌てた神谷が彼女へと手をのばすが、遅い。彼女はすでに空間を超え、カズトの背後へと場所を移していた。


「我が主……主よ……っ!」


 彼女はふわり、とカズトの背中から抱きしめるように現れた。魔力に彩られ、まるで天使のようにも見える。彼女はその瞳にこらえきれなかった涙を浮かべてながら、カズトに触れた。


「やっと、やっと私はあなたを見つけることができました……!」


 涙の理由はただ一つ。

 すべてを知ったからだ。


 自分が魔道書・テトラトトロポトトロンの書の端末であること。

 カズトが自分の主であることを。


 それもただカズトが主であるということを知ったのではない。

 かつて、ただ一人として存在しなかった、本当の意味での・・・・・・・・であることを、彼女は悟ったのだ。


 彼女に抱きしめられながら、カズトは前に手を伸ばし、掌で銃の形を作った。

 すると指の先に魔法陣が現れ、光が集い始めた。それは奇しくも神谷の魔法によく似た魔法だった。しかし、そこに込められた魔力量は神谷とは桁が違う。

 何時の間にが二人の足下に広がった魔法陣が急速に回転し、周囲に漂う魔力を吸収していたからだ。その範囲は神谷の知覚できる範囲である町内を超え、県の大きさへと迫っていた。集められた魔力が光となって幻想的な光景を描き出す。

 これだけの範囲から魔力を集めるなどと……もはや人間業ではない。

 よくそれほどの高難易度魔法が使える物だ。いや、そもそも――


「どうして魔法が使えるんだ……っ!」


 神谷は魔力を圧縮するとき特有の強烈な魔力風に耐えながら、憤怒の形相で叫んだ。

 カズトは魔法を使う適性がほとんどないはずなのだ。それこそ、これほどまで低い適性は見たことも聞いたこともないというほどに。

 すべての魔法は使う為に適性が存在している。それに例外は無い。適性のない魔法は使用できない、それがすべての魔法の絶対的ルールの一つなのだ。

 故に、この状況はおかしいのだ。


 決して神谷が適性を見誤った、ということはない。

 なぜなら適性をみる魔法は過去数千年にわたって世界中で使われてきた魔法であり、細かいことはわからずとも、おおよそどれだけの適性があるかは、確実に判明できる魔法だからだ。

 適性の数は多く、すべての適性を見ることはできなかったが、魔法に使われる主要適性がほぼ零であったことは間違いない。カズトがこれほどの大魔法が扱えるわけがないのだ。


「いったい……どんな方法で……っ!」


 収束された魔力がさらに巨大なものとなった。わずか一センチ塊の魔力球が放つ光は、神谷の心胆を冷たくするのにはあまりにも大きすぎる。

 神谷が知る由もないが、このときの魔力蒐集範囲はすでに関東全域を飲み込み、日本海側まで広がっていた。

 それほどの広範囲から集めた魔力を圧縮したことによって生まれた魔力風。それは暴風となって神谷の家を吹き飛ばし、周囲を更地にしていく。もはや局地的な竜巻となっていた。


「ぐぅぅ……」


 神谷は障壁をはって、妻の遺体をどうにか守り抜いていた。

 しかしそれは魔法を発動する為の余波だ。神谷は余波を耐え抜くだけで精一杯だった。


「これほどの大規模魔法……もはや最上位魔法にも匹敵するっ ……魔法を知ったばかりの……っ、素人が、発動できるわけがっ……ない! 一体……なにをしたんだ、お前はぁ!」


 悲願が後一歩で潰えた男の悲痛な叫びだ。カズトはそれを受けて、抱きしめてくる彼女の腕を握りしめた。


「我が主に適性はない。お前はそう話したらしいな」


 カズトの代わりに彼女が答えた。

 もう離さないとばかりにカズトを抱きしめながら、潤む瞳で神谷を流し見る。

 だが、神谷は驚愕に目を剥いていた。なぜならそれは彼女が知っているはずがないことだからだ。


「それは確かに正しい。しかし、本当の意味では間違っている。我が主にはほとんどの適性が存在しないが――たった一つの適性が突き抜けているのだ」


 神谷は魔法を扱うために多くのことを学んできたが、そんな話は聞いたことが無かった。

 もしもそれが本当であれば、彼はいったいどんな適性に優れているのか。どんな適性ならば、これほどの大魔法が扱えるというのだろうか。

 乾いた唇をもぞもぞと動かして神谷が問う。――それはいったい?

 彼女は甘えるようにカズトの首元に頬をなすり付け、それから答えた。


  ――――――つなぐこと、と。





 ◇





 莫大な魔力を指先に集めながら、俺は強烈なまでのつながりを魂で感じていた。

 背後から抱きしめてくる彼女の魂が強い自己主張を繰り返していることを、俺は五感のいずれにも該当しない新しい器官で感じ取っていた。

 未知の感覚ではなかった。

 彼女が離れていったとき首元でちりちりと感じていたそれに似ていたし、あるいは心のどこかでいつも彼女の居場所がわかったそれにも似ている。

 この感覚はいつも俺の中にあった。


 今、その繋がりから全てを知った。

 彼女がテトラトトロポトトロンの書の端末であること。

 テトラトトロポトトロンの書には莫大な数の魔法が記されていること。

 俺が彼女の主であるということ。

 それを彼女とのつながりから魂で理解していた。

 俺には魔法を使う適性がない、ということも。


 けれど、俺は魔法を使っている。

 単純なからくりだ。

 俺は彼女とつながることができる。極特化した俺の適性ならば魔法を使わず彼女と深くつながることができる。

 かつての魔道書保持者とは比べ物にならないほど強く、俺は魔道書と結びついている。

 二人という別々の存在でありながら、一つの存在として。俺が彼女で、彼女が俺で。そんな存在となるまで魂でつながっている。

 故に、俺は彼女から主として魔法を取り出し、彼女の適性をもって魔法を扱うことができる。


 それを彼女から聞いた神谷が声を荒げる。


「だからといって、これほどの魔法が使えるわけがない! 魔法によって作られた存在の適性は作った人間にある程度依存するからだ! ならば繋ぐ適性を持つお前に似た適性になるはず! 特化適性のお前に依存するならば、彼女もまたほとんどの魔法が扱えない!」

「いいこと教えてやるよ……こいつを作ったのは俺じゃない。テトラトトロポトトロンの書の端末ってのはな、持ち主に選ばれた人間が望むもっとも魔道書として適した形で生み出されるんだ」


 本来であれば、魔法生物の適性は制作者に依存する。

 しかしこの魔道書だけは違う。

 魔道書の端末が作り出されるのは魔法ではない。この世の摂理なのだ。

 それはこの世界の誰も知らない事実であり、俺だけが知っていること。テトラトトロポトトロンの書を作り出した人間によって世界に作り出されたもっとも新しい物理法則・・・・。故に、彼女の魔法適性は作り出した人間に依存しない。作り出したのが、すべての要素をもつ世界故に。

 そして、


「俺が望んだ魔道書の姿は――――『あらゆる魔法を扱うことのできる』魔道書の管制人格、だ」


 今度こそ、神谷は絶句した。


「つまりそれは……」

「あらゆる魔導師の理想。あらゆる適性をもつ人間、ってことだよ」


 すでに一国を滅ぼすほどの魔力となり収束は止まった。圧縮も終わり、拳程度の大きさとなった魔力球を指先に浮かべながら、神谷へと向ける。

 細胞どころか分子の一つも残らない魔法を向けられても、神谷はただ驚愕に身を震わせることしかできていなかった。


「お前は……その魔道書の、本当の主になるということだぞ……それはっ!」


 魔道書は魔法の記されたもののことだ。

 しかしそれはあくまで記されているだけであって、持ち主が必ずしもすべて使えるとは限らない。

 故に、魔道書に記されたすべてを扱える人間は、その魔道書の本当の主と呼ばれるのだ。

 だがテトラトトロポトトロンの書はその性質故に、すべての魔法どころか一割の魔法も使える主が現れなかった。

 ……俺はゆっくりと神谷の言葉に頷いた。


「馬鹿な……それでは、今のお前はあらゆる魔法を扱うことができ……かつ書の力ですべての魔法を知っているということになるぞ……」

「そうだな」

「……わかって、わかっているのか……魔道書には神世の魔法すら記されているんだぞ……。その本当の意味を、わかっているのか……っ!」

「わかってる」


 今までの魔道書の主たちは、圧倒的な力を手に入れていた。

 しかしどれほど圧倒的な力であっても、決して自分の適性以上のことはできなかった。なぜなら適性のない魔法は使用すらできないからだ。

 だからこそ、もし神世の魔法が使えたとしても、一つか二つがいいところだった。

 それはいい方で、ほとんどは魔力が足りず起動することすらできないことも多い。


 けれど、俺にはそんなことない。

 文字通り、この世のありとあらゆる魔法を扱うことができる。

 強大な魔法も、強大故に多すぎる魔力を集める魔法も。

 それだけではない。

 生き返らせることもできる。

 不老になることもできる。

 大陸を割ることもできる。

 星すらも作り出せる。

 それはまさしく。

 いや、それ以上に。


「神々ですら自らが司る魔法しか使えないというのにっ…………お前は今ッ! 虚構の神々すらも凌駕しているぞッ!」


 神谷の言葉を正しく受け止め、俺は背後から抱きしめてくる彼女を前にまわし、左手で彼女の腰から思いっきり抱きしめた。

 彼女は両手で俺の胸元へと手を置いて、胸元へすり寄る。


 ……正直なことを言えば、神々すら凌駕する力は恐ろしい。

 けれどそんな存在になることへの忌避は無かった。


 だって……伝わってくるから。

 長い長い年月、本当の主を持たず彷徨い続けた彼女のうれしさが。喜びが。歓喜の想いが。

 これ以上無いほどの伝わってくるからだ。

 だから、俺は、


「言っただろ? こいつは――俺のもんだって」


 彼女の主として、産声の引き金を引いた。





 ◇





 引き金を引かれ、放たれた魔法は神谷に直撃すると直径数百メートル、高さは大気圏を突破する円柱となって宇宙へと放出された。

 もし外へと放出しなければ関東平野がとんでもない地形に早変わりしていただろう。そして外へと放ったとはいえ余波は凄まじく、立派な木造住宅があった神谷邸は見る影もない。

 だが、ただ荒野のようになっているわけではない。放出しきれなかった魔力が大地にしみ込み、活性化した草が草原のように大地に根を張っているし、大地が吸いきれなかった魔力は中空を漂い、幾万の蛍の光が飛び交うように淡い光景を作り出している。

 それだけではない。空へ突立った魔法は上空の雲をすべて消し飛ばし、山奥でも見られないほど綺麗な夜空と満点の月を見せていた。

 おそらく世界中でここしか見られない神秘的な光景に、俺はしばし息をのんだ。


「主……っ! 主……っ!」


 けれど彼女は目に映る幻想的な光景よりも、触れられる主のほうに夢中だった。

 彼女は背伸びをしながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねて俺の頬に何度も自分の頬を合わせた。なにがそんなに楽しいのだろうか。

 これほどの美人にこんなことをされている事実に、今更ながら赤面してしまう。俺は急いで彼女の腰から手を離して一歩後ずさった。しかし彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、俺を追いかけた。

 そして勢いがつきすぎたのか、俺が後ろずさったとき足を引っかけたのか、俺たちは二人して地面に倒れ込んでしまった。


 衝撃に、彼女が目をぱちくりとさせた後、俺たちはくすくすと笑い出した。

 ……心地よい疲れと安心感が胸にあふれて、零れて笑みに変わったのだ。


 曇り無く彼女は笑っていた。

 どこまでも信じ切っている無垢な瞳を見ていると、どうにもくすぐったい。それは多分に『俺のもの』宣言が関係していることは明白だった。

 こんなにかわいい女の子を俺のもの叫んだのは、思い返すとどうにも恥ずかしいというかなんというか。

 けれど、俺の魂は確かに彼女が俺のものなんだと主張していた。

 完全無欠に、どうしようもなく。

 彼女のすべてが俺のものだった。

 俺の適性ゆえに、ごまかしようのない事実として。昇り沈む太陽のような真理のように。彼女は俺のものだった。


「なぁ……」


 俺のものでよかったのか?

 そんな言葉が、脳裏を掠めた。深く考えることもなく、続けようとして……ふと気がついて口を閉じた。

 ごろごろと猫のように身を寄せる彼女が不思議そうな顔で見上げてくる。

 俺は彼女の体を起き上がらせる。彼女はしばしきょとんとした顔で俺を見ていた。


 ……本当に。本当に、いまさらの疑問なんだけど。

 ……こいつの名前って、なんだっけ?


 ふと思いついたのは、そんなことだった。

 首をひねる。よくよく考えてみれば一度もこいつのことを名前で呼んでない。失礼極まりないことにお前とかあいつとか、代名詞ばかりだ。

 そのことに一度も思い至らなかった自分に少しだけ恥ずかしく思う。


 テトラトトロポトトロンは彼女の本体の書の名前だ。決して彼女の名前ではない。

 では彼女の名前は? 端末?

 それともなにか名前があるのだろうか。


 ――私か? 私だ。


 いつぞやのそんな返答が思い返される。

……たぶん、名前ないんだろうなぁ……と達観した目で彼女を見てしまう。

 

「そういえばお前の名前ってなんだっけ?」

「名前……ないな? それが?」

「ずいぶんあっさりしてんなぁーー」

「今までなかった。必要もなかっただろう?」


 ずいぶんとあっさりした声で彼女がいう。

 向き合ったまま彼女が身動き、地面に置いていた手の小指がかすかに重なる。気恥ずかしさからか思わず俺の指が動くけれど、花開くように彼女の雰囲気が柔らかくなり、俺はよくわからない反骨心からいっそ彼女の手を握りしめてやろうかと考えるが、その前に彼女が勢いよく立ち上がった。


「――――――今は、ほしい」


 彼女は俺の横を通り過ぎると、暖かな声でささやいた。


「私の名前が、私だけの名前が! ……私は欲しい」


 振り向いた俺の目には両手で握りこぶしを作って楽しそうな彼女の背中しか見えない。けれどその後ろ姿を見るだけで不思議と俺の口元は優しい弧を描く。


「どんな名前がいい?」


 彼女はこめかみに人差し指をぐりぐりと押当てて「いきなりは思いつかない」とぼやいてから「名前ってどうやって考えるんだろう」

 ……そんなん子供どころか成人にもなってないやつに聞くなよ。月並みなことしかいえないじゃないか。


「生まれた日の出来事にちなんだりとか、将来こうなってほしいって希望を込めて、かな?」


 そうかそうか、としきりに頷く彼女。なぜか彼女は得意げな雰囲気を作ると、


「あふろ……?」

「え、アフロって名前がいいのかよ」

「語呂が言いだろう?」


 そりゃねーよ。


「あふろ……いいな」

「よかねーよ」

「なら神谷だ」

「さっきぶっつぶした奴の名前だろ、それ。却下」


 コントはもう十分なんで、なんて俺も想いは通じないようで彼女は足下をみると。


「ざっそうなんて名前はどうだろう」

「俺がお前に聞きたいよ。というかお前もう真面目に考えてないだろ!」


 強めにどなった俺に、彼女が相貌を崩して笑う。


「なら主がつけてくれないか? 私はまじめに考えてこれだから。きっと後で後悔してしまうだろう?」

「あー、いや。俺もネーミングセンスに自信はなくて……」

「大丈夫だ」


 そういうと彼女は両手を満点の空へと広げ、


「主につけてもらえるなら、私はどんな名前だってうれしいんだ。だって――――こんなに月が綺麗な夜だから」


 金色に輝く月と満点の空は息を飲むほど美しい。けれど月明かりの元で宙に踊る銀色はもっと綺麗だ。

 それを言葉にすれば彼女は喜んでくれるだろうか。

 しかしそれを口に出すことはどうにも気恥ずかしい。

 直接口にはできなくて、でも伝わってほしいと他人任せな願望を込めて、俺はつぶやいた。


「ああ、綺麗な夜だ」


 ――月が綺麗だ、とは言えなかった。


 唐突に思いついた。

 人は名前を付けるときにその日あった出来事にちなんで名前をつけるという。ならば、きっとこれがふさわしい。


「お前の名前、決めたよ」


 彼女が振り向かずに、肩を跳ねさせた。

 不思議と後ろ姿だけで彼女が緊張して、それでいて楽しみにしているのがよくわかる。

 ああ、俺はずいぶんとやられちまってるようだ。


 彼女の銀色の髪に目を引き寄せられる。

 この銀色は美しく、見る物を引きつけてやまない。だから、綺麗な月にあやかることはしない。


「私の、名前は……どんな名前なんだ?」

「お前の名前は……」


 彼女に黄金の月は決して似合わない。

 もっとふさわしいのがある。

 月が綺麗だ、とは言えない俺が名付けるのにふさわしい名前が。


「名前は―――― 夜 。満点の星空を持ってるお前にはきっとこれが一番似合うと思う」


 彼女は魔法という星々をもっていて、

 同時にきらきらと光る笑顔という星明かりを振りまいて、

 それでいて抱きしめてくれる広く穏やかな心を持っていて、

 ああ、こいつは確かに夜がふさわしい。


「―― 夜」


 万感の想いを込めて彼女を呼ぶ。

 どうだろうか。気に入ってくれただろうか。

 不安を秘めたまま、俺は彼女の後ろ姿を見つめ、





 彼女は満点の星空の笑みとともに振り向いた。





          Fin


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