恋でもしましたかな?
その人は少し、汗の匂いがした。
「こうか?」
「うん……」
その人は少し、手先が不器用。
声が低くて、背は高くて、手が少し分厚くて、髪は黒くて、肌は少し浅黒くて。
とても不器用な人。
「……痛い」
「す、すまん。加減がわからないもんで」
「……ゆるくして」
「飛ばないか?」
「その時は……また、拾って」
「……ああ」
だけど、とても優しい人。
指先が震えているのがわかる。
なんとなく、どうすればいいのか考えているのがわかる。じっと見つめ、時折リボンを緩めて、それからまた強く縛る。
時折、指が首筋をなでる。
少しごつごつしている。
いつも、私の髪を撫でる優しい指。
いつも、私を護ってくれる。
「……ソウマ」
「ん……」
「……紅茶が飲みたい」
「……すぐに入れる」
「後、おいしいお菓子。それから砂糖一つとレモン」
「用意できてるよ」
「それから」
「ん」
「……傍にいて」
「おう……」
なんでだろう。
わからない。
わからないけど、私はこの人の傍にいたい。
この人の顔を見上げて、この人の背中を見上げて、この人と手を繋いで、この人の傍に立ってこの人の匂いを嗅いで、それから。
この大切な人の傍にいたい。
胸の奥が痛い。
ずっと閉まっていた何かが溢れだしそうになる。
なんだろう。
私は……。
「ソウマ……」
「ん」
「……。苦いね、紅茶」
「……がんばるよ」
「うん……」
「少しだけ待っててくれ。直ぐにうまくなってみせるよ」
「……待ってる」
日差しを背に、あの人は少しだけ笑ってくれた。
それだけで、胸が鎖で縛られるようだった。
これは何。
この痛みが、どこからきているの?
私は……。
サラサラと筆先が紙を撫でる音が響く。
時折零れる深いため息。
指が止まる。
日差しを頬に受け、少女はボンヤリと筆を置き、自分の文章を見下ろす。
羊皮紙はインクで黒く塗りつぶされ、書き連ねられる文字は、十何行となってボンヤリとした少女の眼に映った。
言伝があった。
その為の伝書をまとめるため、少女はたどたどしい指つきで羽根ペンと取る。
「……」
ふと自室を見渡す。
誰もいない。
揺れるカーテンの間から光が零れ、南風が頬を撫でて、リボンを結った長い髪が風にたなびいた。
聞こえるのは、自分の息遣い。
胸が、締め付けられる。
言葉にできない感情がグッと全身の血液を沸騰させた。
少女はきつく胸をかきむしると、また机に向き合い、羽根ペンを片手に書に文字を書き連ねる。
「……」
筆をとりながら、ふと、今朝、自分が走った言葉が頭をよぎった。
――――き、今日は……来なくていいから。
その言葉を、自分で周りの世話をするメイドに放ったのだ。
―――――こ、今後は、ソウマに、頑張ってもらう……から。
その言葉に、周りのメイド達は驚愕に顎が外れそうになっていた。ミルドレッドは微笑ましげ表情を浮かべで麻縄を自分の首に巻き付けていた。
それだけ、おかしなことなのだろう。
それだけ、いけないことなのだろう。
だけど――――
「……」
ふと、机の端に置いた、チェーン付の時計を覗き込む。
昼も近い。
もうすぐしたら、彼が来る。
少女はハッと目を見開くと、口を尖らせ慌てて筆を走らせ、文字を少々乱暴に書き連ね、書を完成させた。
そうして、少しインクで重たくなった羊皮紙を丸めて、ひもで縛る。
「えっと……封蝋……」
そう言って少女は机の引き出しから、大きな印鑑と円形の蠟を取り出し、封をした羊皮紙の紐の上に重ねる。
そして、紐と労を重ねて印鑑で封印を施す。
僅かに立ち上る白煙。
フェスティア地方の火山から削り出された紫結晶の印鑑は僅かに熱を帯びて、蠟を融かし羊皮紙の上に家紋を作り上げる。
それは翼を広げた黒き竜の印。
アルドレシア王家の家紋。
紅く垂らした蠟が黒く変色して、竜の文様を黒く変化して、その雄々しさを表していた。
ミィアは満足げに頷くと、焦りに唇を尖らせつつも、丸めて封印した羊皮紙を手に立ちあがった。
そして窓を開き、吹きこむ風に押し込まれながら、少女は差し込む日差しに目を開く。
「……来て」
囁く言葉を風に乗せ、少女は胸に手を添え、眼を閉じ祈るようにテラスに立つ。
光を受け輝く風に髪を靡かせる――――
バサリ……
羽ばたく翼の音。
舞い落ちるは、灰色の羽根。
影が頭上をよぎり、少女は顔を上げると、紅い瞳を見開き、喜びに目尻に涙を浮かべた。
「グリフォンくん……!」
そこには巨獣が空を、まるで草原の如く駆けていた。
頭を覆うのは、竜を形どった兜。
装甲を纏った竜の鱗で覆われた身体の背部に巨大な黒き鉄のような翼と、尻尾に竜の尾を靡かせ、降下してきた。
その大きくなってくる影に、少女は両手を広げて、少しジャンプする。
「グリフォンくん……よかった来てくれたんだ」
「お呼びとあらば、地の果てであろうとも」
ズゥン……
僅かに床を軋ませる重たい着地音を響かせ、翼の音色に周囲に旋風を巻き起こしながら、巨獣グリフォンがテラス降りた。
その巨体は、影だけで少女を覆う程に大きく、羽根を畳みつつ、首を伸ばして巨獣は、少女に首を伸ばした。
「お久しゅうございます。ミィア様」
「グリフォンくん……よかった来てくれた」
そう言って少女は兜をかぶった巨獣の鼻筋を優しく撫でる。
巨獣はスゥと目を細めて、熱っぽい鼻息を漏らすと、ゆっくりとテラスの真ん中に腰を落として座りこんだ。
「スカアハ様がおっしゃったのですよ。今日この時間に貴方の呼ぶ声がすると」
「お師匠様が……」
驚いた表情の少女に、魔獣グリフォンは告げる。
「主は、あなたの言葉をお待ちです」
「……やっぱり、全部わかってるんだよね」
「ええ。主は全ての未来を見通しています」
「……これを、お師匠様に渡してほしいの」
そう言って先ほど包んだ巻物を差し出すと、少女は真剣な面持ちで目を見開くグリフォンに呟いた。
グリフォンはなにも言わず、静かにそのくちばしを開き、封印された巻物を咥えて飲み込んだ。
「確かに。しかる後、また会いに来ましょう」
「お願い。……本当は、お師匠様に会って話をするべきなんだけど」
「そのお優しい心根も、スカアハ様は全てご存知ですよ」
「う、うん……」
少女は少し顔を赤くさせる。
その仕草に、巨獣は僅かにその瞳を見開き、僅かに驚きを声に含ませ、もじもじと肩をすぼめる少女に囁いた。
「幾分か……お変わりなられましたな」
「そ、そうかな……」
「ずっと、スカアハ様の前で俯いていた貴方は、もういないのでしょうね」
「そ、そんな事……」
「昔、貴方が旧き森の深淵へ訪れた時、貴方は本当に子供で、なにも知らなくて、とても怯えていました」
「……」
「だが、今の貴方は、その胸の奥に勇気をたたえている」
そう言ってグリフォンは満足げに少女の顔を覗き込む。少女はハッとして胸を抑えると、気恥ずかしげに顔を赤らめ俯いた。
だが、数瞬して、少し考えて、少女は顔を強張らせ上げる。
その瞼の裏には、血まみれになっても戦おうとする青年の背中があった。
強い青年の瞳があった。
「……」
「好きな人でも、できましたかな?」
「!」
耳まで顔を真っ赤にして目を丸くする少女に、巨獣は更に驚いて首をすぼめると、おかしそうに顔を伏せ身体を震わせた。
「クハハハハハッ……いやいや失敬。無粋物言いでしたな」
「ち、違うの! 私は何にもなくて、ただ少し新しいげ僕ができたから。それでお師匠様にもご報告上げたくて。
それから、えと相談したい事もあって、私は別にッ」
「はいそうですな。……まったく、あの小さな娘がここまで大きくなる。年を取ったものです」
「ぐ、グリフォンくんッ!」
「はい。私はなにも申しておりません」
「も、もぉお……」
「大きな声を出してくれる。あの日の怯えた少女は、もういないのでしょうね」
紅くなった耳を両手で押さえながら、恥ずかしそうにその場で身体を屈め蹲る少女に、巨獣は嬉しそうに目を細めた。
「スカアハ様も、お喜びになられる。こんなにもご立派になられるとは」
そう言って、ゆっくりと立ちあがると、その翼を広げ、静かにグリフォンは伸ばしていた首をもたげて空を見上げた。
そうして、飛び立とうと風が僅かに巨獣の周囲を渦巻いて、翼を羽ばたかせるままに空気の膜を作り上げていく。
「書は責任を以って届けましょう。しかる後、また会う事になるでしょう」
「……それもスカアハ様が?」
「全ては主の導きのままに。では私はこれにて失礼します」
「うん。お願いねグリフォンくん……」
「ええ。ミィア・アルドレシア王女に栄えあれかし」
最後にそう告げると、巨獣はその翼をはためかせ、空気の膜を纏いながら、空高く飛び上がった。
そして、直ぐさま、山の向こうへと飛び立ち、見えなくなる。
そしてまた一人。
ミィアは安堵に深いため息を零すと、胸をかきむしり、その両手の甲を見下ろした。
苦しい。
あえぐほどに、胸がきゅっとなる。
そんな胸を突き刺すような痛みが走るたび、手の甲にうっすらと白い痣のような、模様が浮かび上がる。
それは、霊術刻印。
白く光を放つ模様は、手の甲から指先へと這いあがって刻まれ、その形は白き星の光を現していた。
ミィアはその光をもう片方の手の平で包む。
そして、静かに眼を閉じる。
そして、彼の手の感触を思いだす――――
「私が……」
優しく髪を撫でる手の熱っぽさ。
少しぎこちない息遣い。
光の下、覗きこむように彼は微笑み、優しく囁き、そして踵を返す。
そして一緒に歩き出す―――――
――――ミィア……午後は何をしようか。
「……私が」
「ミィア?」
「ひゃッ!?」
飛び上がる小さな背中。
スカートを翻し、後ろを振り返れば、レースのカーテンを潜り、窓辺に立つソウマのキョトンとした顔があった。
「おおう……悪いな驚かせて」
「そ、ソソソウマ……どうしてッ?」
「いや、何度もノックしたんだが返事がなくてな。ミルドレッドに聞いた話だと、二三時間部屋の前監視してたが、出て行った様子もないとの話。
じゃあ、なにしてるのかって気になってな」
どちらかと言うとミルドレッドの執心ぶりに、呆れた表情を浮かべつつ、ソウマはそう言って頭をふった。
ミィアは跳ねあがった心臓を抑えようと胸をかきむしりながら
「そ、そう……」
「よかったよ。なにも無くて」
そう言って、踵を返すと、ソウマは肩越しにミィアに手を振りその場を去ろうとした。
「悪いな。出ていく。用があったら呼んでくれ。後時間になったら午後のティータイムに」
「あ……」
――――すいこまれるようだった。
「あ……」
気がつけば、服に食い込むほっそりとした指。
ギュッと握りしめる服の袖。
手の平の汗が止まらない。
振り返る仕草は、少しぎこちなく、眼を見開きこちらを見下ろすソウマに、ミィアは眼を泳がせながら彼を見上げる。
唇が震える。
声が出ない。
それでも―――――ミィアは口を開く。声を上げようと、胸元をかきむしり、身体に残った全ての空気を押し出す。
声を絞り出す―――――
「こ……ここに」
「ん……」
「い……いて」
「……。勉強、先にするか?」
「うん……」
「それとも、ここで紅茶入れようか?」
「……どっちも」
「そっか」
「……うん」
「準備してくるよ。直ぐに戻る」
「でも……」
「直ぐに戻るさ」
そっと金色の髪を撫でる分厚い手。
ふと見せる躊躇いがちな笑顔は、どこまでも優しく、スゥと黒い瞳を細め、青年は惚ける少女に背中を向けた。
「うん……」
スルリと、手の平からすり抜ける真っ白なシャツ。
少女は胸を抑え歩きだす青年の背中を眼で追い掛ける。
ずっといたい。
そう思って、胸が裂けそうで、少女は喉を鳴らして、力なく視線を落として、苦しげに眉を潜めた。
(……わかんない。苦しい。痛みがドンドンと膨れ上がる)
眠るのが辛い。
一日中この人を見ていたい。
なのに、身体が動かなくて、不安で、心配で、足がすくんで動かなくて、ただただ怖くて。
(……スカアハ様……私)
少女は、力なく顔を上げ、部屋を去る青年の後姿を眼で追い掛ける。
声を張り上げたい。
いかないでと――――
「……ソウマ」
「ミィア様」
これは聞き覚えのある声。
跳ねあがっていた心音がやや収まり、少女はハッと目を丸くして長い髪を振り乱し後ろを振り返った。
「――――フェルトナ?」
「お久しゅうございます」
吹き込む風にレースのカーテンがめくれ上がり、開いた窓の隙間の向こう、テラスに初老の大男が跪いていた。
ミィアは慌ててテラスへと足を運ぶと、首を垂れる隆々とした大男に、多少驚いたような表情を見せた。
「ど、どうしたの? フェルトナこんな所に」
「いえ。正面入り口は、ミルドレッドが鬼の形相で立ちふさがっています故」
「……」
「なので、どうしてもこちらでお目通り願いたく思いまして」
「ミルドレッド。なんか最近機嫌悪いんだね……」
「このたびは久しく顔を合わせず申し訳なく思いまして、同時に私のご意見も機器入れたく思いまして」
「も、もぉ……畏まらなくていいよぉ。フェルトナは普通にしていいから」
「ふふッ。すいませんな」
そう言って、顔を上げると、フェルトナは立ちあがり、戸惑うミィアを見下ろすと、顔の皺を浮かべニィと笑った。
その少し癖のある、しかし堀の深い笑顔に、ミィアは安堵に息を零すと、小首を傾げた。
「でも、本当に驚いた……何かあったの?」
「ええ。少し御嬢様にお話ししたい事があって、ここまで」
「そうなの?」
「ええ。それと、お二人の様子も少しだけ拝見したくて」
「み、見ないでよッ」
目を丸くして顔を真っ赤にすると、ミィアは声を僅かに荒げた。
その仕草はどこか怒っているようで、フェルトナは僅かに眼を丸くして、それから嬉しそうに目を細めた。
「くはははッ、失敬。今後はばれないように気をつけますので」
「も、もぉぉ……」
「グリフォンが来ていましたな。スカアハ殿に言伝でも?」
「うん……少し用事があって」
「どんな、ですか?」
「……。秘密」
「――――ほぉ」
「……ダメ、かな?」
少し悪戯がばれた子どものように、バツの悪そうに覗きこむ王女に、フェルトナは微笑みを浮かべ少し首を横に振った。
「いえ……ただ驚いているのですよ」
「なにが?」
「変わられた……御嬢様は本当に、この短い期間で、大きく変化しました」
「?」
「まるで巣立つ鳥のように……今にも背中から翼が見えるようです」
「そ、そうかな……?」
「隠しごとなど、少し前のミィア様なら考えもつかなかったことでしょうに」
「……あんまり、前の私は、覚えてないの」
そう言って少しばつの悪そうに首をすぼめ俯くミィアに、フェルトナは腰を落とすと彼女の顔を覗き込んだ。
「今の自分は、わかりますかな?」
「……わかんない」
そう言って首を振る少女に、フェルトナは快活に笑い、そして笑われて不満げに口を尖らせる少女の頭を撫でた。
「クハハハハッ、それでいいのです。少しずつ見つけていけばいい」
「もぉ……」
「不安でしょう、怖いでしょう。知らないことばかりで、世界が広がっていく感覚が」
「……わかんない」
「今の貴方は、その言葉から、前に出ようとしている」
「……」
「誰かから貰った勇気――――貴方は本当に大きくなられた」
「――――うん」
少し顔を赤らめ、照れくさそうに俯きがちに微笑む少女に、フェルトナは満足げに頷くと再び立ち上がった。
そして、告げる。
「これならば、大丈夫でしょうな」
「?」
「――――ミィア様。お願いがあるのです」
「なに?」
「今夜、星が降る夜を眺め、夜が更けるまで起きているのは、いかがですかな?」
少女は首を傾げる。
「どうして?」
「会わせたい人がいるのですよ」
そう告げるフェルトナの顔は、少し苦しげで、ミィアは胸がざわついて、息を殺して、彼の言葉を聞いていた。
「貴方に、みてほしい人物がいるのです」
―――――その言葉は、同じだった。
あの日、ソウマの世界に行く前日、父親から受けた言葉と同じ―――――
ミィアは表情硬く頷く。
そして、胸に僅かに震える恐怖の予感を押さえつけるように、きつく胸元を抑えて、口をきつく噤む。
何もない。
何も起きないことを信じて。




