第94話 青天のへべれけ
今回、この船で都へ向かうのは、元伯、急遽同行が決まった石川三兵衛、桑折治部少輔忠家、そして八田屋の番頭・治兵衛。
本来ならば、身の回りを世話する小者も何人か連れて行きたかった。だが、船旅で都まで行くのには、人が一人増えるだけで湯水のように銭が飛ぶ。
食事、宿代、贈答、道中の雑費、衣服、上陸後の草鞋、馬の世話に至るまで、何もかもが相馬や請戸の感覚とは違うのだ。
しかも今回は、ただの旅ではない。相馬家の献上品を運び、大和田としても都との縁を繋ぎ、八田屋にとっても西国との商いを広げる意味を持つ。
失敗は許されない。そのため慶久と琴は相談の末、今回は必要最小限の人数に絞ることを決めていた。
もっとも、船旅そのものは、ひたすら海へ出続けるわけではない。
風待ち、水の補給、薪や食料の積み込み、潮の流れ、荷の積み下ろし――そうした事情があるたびに港へ入り、寄港と出帆を繰り返しながら、西へ西へと進んでいく。
ただし、港へ入ったからといって、毎回ゆっくり町を歩けるわけではなかった。
多くは半日ほどの停泊である。長くても数日。
荷を優先する以上、船頭が「出る」と決めれば即座に出帆だ。だから今回の旅は、旅人というより“積荷と一緒に運ばれていく者”に近かった。
それでも、幾つか腰を据えて立ち寄る予定の土地は決まっている。
まずは木更津。ここは盛胤の紹介で、千葉方へ顔を繋ぐ意味合いが強かった。
続いて駿河。元伯が今川氏と寺筋に伝を持っているらしく、今川領では比較的安全に滞在できる見込みだという。
加えて今回は、航路の安全を図るため、各地の有力家から“旗”を借り受ける算段まで進められていた。
まず請戸から房総までは、相馬の旗を掲げて進む。さらに木更津では千葉方へ挨拶を入れ、その先の航路では千葉の旗も加える予定になっていた。
そして駿河へ入れば、今川方の旗を借り受けられぬか、元伯が話を通す予定だ。
もっとも、それは単なる見栄ではないのだ。
この時代の海には、関銭を求める者、半ば海賊まがいの衆、勝手な検分を行う地侍衆などが、至るところにいる。
だが逆に言えば、“誰の庇護下にある船か”が明確なら、余計な揉め事はかなり減った。
特に有力大名家の旗は、それ自体が通行手形であり、威圧であり、後ろ盾でもある。
むろん、絶対安全というわけではない。だが、旗が一本増えるだけで、船頭たちの顔色すら変わる程度には意味があった。
ゆえに今回の船は、都へ近づく頃には、相馬、千葉、今川と、幾つもの旗を掲げながら進むことになる予定だった。
それは半ば、「この船へ手を出せば面倒になるぞ」と海へ示すためでもあった。
そして何より――尾張・津島。これは完全に貴丸の希望だ。「どうしても行きたい」そう騒いだのである。
津島は近頃、商いで大いに栄えていると聞く。尾張の物流が集まり、銭が流れ、人が集まり、寺社と市が一体化したような独特の賑わいを持つ町だ。
貴丸としては、“大きな商業都市”というものを一度自分の目で見てみたかったのである。まぁ、他にも理由はあるのだが。
その後は堺へ入り、八田屋が懇意にしている商人、あるいは元伯の寺筋の知己を通じ、公家との繋ぎを作る予定になっていた。
そして最終的には、帝への献上へ持っていく。当然ながら、田舎武士がいきなり禁裏へ近づけるほど、都は甘くない。
だからこそ、商人、寺、公家、その全ての縁を慎重に辿っていく必要があった。
工程自体は、かなり大雑把である。十一月初旬頃までには都へ入り、そこからおよそ一月ほど滞在。
その後は京へ留まるか、近隣を見て回るかし、春前には再び堺へ戻る。
そして三月頃に出帆し、海が落ち着き始める四月には請戸へ帰ってくる――そんな予定だった。
もっとも、この時代の旅路など、予定通り進む方が珍しい。
時化れば港で何日も足止めを食う。病が出れば動けぬ。戦が起きれば街道も海も閉ざされる。
ゆえに全員、「まぁ、大体そんな感じ」という程度にしか考えていなかった。
都での宿については、八田屋の京店、元伯の寺筋の宿坊、堺商人の持つ屋敷、公家の下屋敷などを頼る算段になっている。
だから今回の荷には、献上品だけでなく、余分に海産物の乾物、贈答用の物や漆器、銭、さらには紹介料や心付けに使う品まで大量に積み込まれていた。
世の中、綺麗事だけでは動かぬ。都など、なおさらである。
ちなみに今回乗る船は、八田屋が使う北国廻船系の大型和船だった。
治兵衛の話によれば、平底に近い造りで、沿岸航路にも外洋にも対応できるらしい。基本は帆走だが、風が弱い時や港の出入りでは櫓や漕ぎ手も使う。
さらに海賊避け程度ではあるが、弓や槍など最低限の武装まで備えていた。
全長は十一間(二十メートル)ほど。
幅は二間半(五メートル)前後。
積載は米なら三百石(五十トン)近く。
船員は十二人ほど。
陸奥では、かなり大きい部類に入る船だった。
もっとも――人が快適に過ごすための船ではない。あくまで“荷を運ぶ船”である。
今回も、八田屋の荷が最優先だった。
そこへ相馬と大和田の献上品や土産、交易品まで積み込まれているのだから、余計に人を減らさねばならなかったのである。
そして船内環境は、はっきり言って地獄に近い。湿気。魚臭さ。塩気。暗さ。狭さ。常に続く揺れ。
荷の隙間へ潜り込むようにして雑魚寝し、身体は四六時中じっとりと湿る。
波が荒れれば船底まで水が入り、衣服は乾かぬ。時折、荷の陰を鼠が走る。
加えて、誰かしら必ず船酔いするので、船全体に微妙な吐瀉物の臭いが染み付いていた。
つまり――風流な船旅などではない。まず必要なのは、旅情ではなく忍耐である。
だからこそ、大和田家の“財務大臣”たる琴は、この都行きの話を聞いた時から、ずっと機嫌が悪かった。
危険。出費。長旅。頭痛の種しかない。
慶久が都行きを琴に告げた日の夜など、琴は無言で帳面を睨み続け、途中から露骨に口数まで減っていたほどである。
だが、そんな琴も。
「都の反物って、やっぱりすげぇ綺麗なんだろうなぁ」と、ある日、貴丸が何気なく呟いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……都の、反物?」そこから先は早かった。
機嫌は露骨に改善し、最終的には、「あまり派手ではなく、それでいて雅なものを」という注文まで元伯に事細かに追加されることになる。
貴丸はそれを聞きながら、
――めちゃくちゃ欲しがってんじゃん。と、内心で思っていた。
もっとも、そのことを口にすると確実に怒られるので、流石に黙っていたが。
そうして準備は進み、一行はついに請戸から船へ乗り込むことになったのだった。
出立の日、請戸の港には驚くほど多くの人が集まっていた。
この時代、船旅とは半ば命懸けである。海へ出たまま戻らぬ者も珍しくない。
まして陸奥から西へ向かう長旅ともなれば、なおさらだ。だから見送りも自然と大仰になる。まるで戦へ赴く者を送るように、人々は口々に無事を祈り、手を振っていた。
もっとも――。
「義父上様、くれぐれも反物、は忘ないでくださいましね」
琴だけは、元伯へ向かって真顔でそう念を押していた。
「うむうむ、分かっておる」
「ただし京の雅な品だと一目で分かるものが良うございます。とはいえ派手すぎるのは下品ですし、かといって地味すぎると田舎臭うございます。品があって、それでいて古臭くなく、肌触りも良く、できれば軽く、あと仕立て直しやすい反物が――」
「欲張りすぎではないか?」
「さらに申しますと、あまり高すぎるのも困ります。ですが安物に見えるのはもっと困りまする」
「難題ばかり増えておるぞ……」
元伯は苦笑しながら頷き、周囲の者たちも肩を揺らして笑っていた。
なお、出立の二日前になって急遽、同行者が一人増えている。
貴丸が、「都って絶対、“耳”がいるよね。“噂を拾える人”」などと言い出したのがきっかけだった。
そこで市兵衛へ相談したところ、弟の三兵衛が「ぜひ行きたい」と自ら名乗り出たのである。
大和田へ来てまだ日も浅いというのに、西国行きという大役へ加われたことが、相当嬉しかったらしい。
兄の二兵衛は寡黙で岩のような男だが、弟の三兵衛は対照的だった。人当たりが良く、愛想も良い。ぱっと見はどこか軽薄そうにすら見えるが、その実、妙に人の懐へ入るのが上手い。
「あいつは市でも酒場でも、いつの間にか誰かと話していますのでな」市兵衛も苦笑していた。
そうして荷を積み終え、ついに船は請戸を離れる。
岸壁では、大和田家の者たちだけでなく、領民たちまで総出で手を振っていた。
だが。「……ん?」
出帆してしばらくした頃、元伯はふと眉をひそめた。
貴丸の姿が見えない。最初は、――またどこかで寝ておるのだろう。
程度に思っていた。あの孫は、日向館でも蔵でも馬小屋でも、隙あらば転がって寝ている。今さら多少見えぬくらいで騒ぐ必要もない。
だが、船が沖へ出て波が強くなり、元伯が潮を被って船室へ戻った時だった。
着替えを取り出そうとして、自分の荷箱へ手をかけた瞬間、違和感に気づく。
蓋が、少し開いている。
「……?」
元伯は眉を寄せた。確か閉めたはずだった。
しかも。中から、何やら微妙に“気配”がする。ぎし。波に揺られた箱が、わずかに鳴った。
元伯は無言で仕込み杖を構える。
船上である以上、盗人か、最悪の場合は賊の類という可能性もある。
静かに。慎重に。杖の先で箱の蓋を押し開けた。
箱の中には、妙な色の何かが詰まっていた。
元伯は数秒、それを“生き物”だと認識できなかった。
よく見てみると――。
「すぅ……すぅ……」箱の中で、貴丸が気持ち良さそうに寝ていた。
しかも顔にはべったり白粉。腹には何やら極彩色の絵。髪には大量の鬱金が塗り込まれ、黄色く染まっている。
完全に妖怪だった。
数秒。元伯の思考が止まる。そして次の瞬間。
「た、貴丸ぅぅぅぅぅ!!?」
船室へ絶叫が響き渡った。その声に、三兵衛、治兵衛、桑折忠家まで慌てて駆け込んでくる。
「どうされました!?」「元伯様! 賊ですか!?」
だが、全員、箱の中を見て固まった。
「…………」「…………」「…………」
箱の中では、貴丸がむにゃむにゃ言いながら寝返りを打っている。
やがて騒がしさで目を覚ましたのか、もそりと起き上がった。
「んぅ……」
眠そうに目を擦り。欠伸を一つ。そして極めて自然に言った。
「おそよう。腹減ったな……敏ぃ、俺のごちゃ握りある?」
当然。返事はない。貴丸はしばらくぼんやりしていたが、やがて周囲の視線に気づく。
ぽかんとした顔が、ずらりと並んでいた。
「……どうしたん?」
誰も答えない。あまりに自然に箱から出てきたせいで、逆に全員の理解が追いついていなかった。
貴丸はもう一度首を傾げる。
そこでようやく、元伯が絞り出すように言った。
「な、なぜお前が箱に入っておるのだ!!」
「……へ?」
貴丸は本気で意味が分からない顔をした。
そして考える。
昨日。昨日は――。酒を飲んだ。気持ち良くなった。
踊った。たしか閻魔大王は怒られると思って、代わりに“夜摩天王”として布教しようとして――。
そこで記憶が切れている。
「あれ?」
貴丸は自分の腹を見る。派手な絵。髪を触る。鬱金まみれ。
「……あっ」
今もっとも重要なのは、そんなことではない。空腹である。貴丸は改めて元伯を見る。
「あのー……敏に、ごちゃ握り持ってきてもらいたいんだけど……」
「無理だ」
「えー、昨日のことなら反省してるって! だからごちゃ握り――」
「無理だ」
「なんで?」
「敏はおらん」
「……へ?」
そこでようやく、貴丸は周囲を見回した。
見慣れた部屋ではない。壁が揺れている。床も微妙に軋む。潮の臭い。遠くで波の音。
「…………」
貴丸の顔から、ゆっくり血の気が引いていく。
「……ここ、どこ?」
誰も答えない。
「ここはどこ、私は誰?」
「ここは海の上で……残念ながら…お前は儂の孫の貴丸だ。残念ながらな……」
「えっ、なんで?」
「知らん」
元伯は深々と溜息を吐いた。
「……外へ出てみろ」
半ば呆れた元伯に言われ、貴丸はふらふらと階段を上がっていく。
そして。その一分後。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!? なんで海ぃぃぃぃぃ!!?」
絶叫が、岩城沖へ響き渡ったのだった。
その日は、この季節には珍しく、太陽が一日中さんさんと海を照らし、風も穏やかな上々の日和であったという。
ですよね。。
都イベント、貴丸君が行かなきゃね。。




