第75話 修平! な、なんと! 蜂起!
広間に入ると、空気がわずかに張り詰めていた。
修平は呼びに応じ、静かに敷居をまたぐ。磨き上げられた板の間に、整然と座が並び、その中央に空間が残されている。
すでに面々は揃っていた。
上座には慶久、その傍らに元伯。少し下がって慶光と久秀、さらに脇には標葉衆の六人が並ぶ。
年経た顔に刻まれた皺は深く、それぞれが独自の気配を放ちながらも、どこか同じ流れの中にいることを感じさせた。
その後ろには琴、空然、銀四郎。さらに控えるように敦丸と希丸、そして――その後ろには、お佳の姿もある。
普段なら奥に控えている者まで、この場へ呼ばれている。それだけで、これから始まる話の重さが分かった。
修平は一度だけ呼吸を整えると、中央へ進み、ゆるやかに膝を折る。
その所作には無駄がなかった。
半年前まで浜で網を引いていた漁師の面影は、もう薄い。八田屋の下で商いを学び、人前へ出ることにも慣れ始めている。背筋は自然と伸び、視線も落ち着いていた。手の置き方一つにも、以前にはなかった静かな整いがある。
その姿を見ながら、慶久は一度だけ周囲へ視線を巡らせた。
そして、小さく眉を寄せる。
「……貴丸はまだ来ぬのか」
その一言に、場の空気がわずかに止まった。誰もすぐには答えない。
琴がほんの少しだけ視線を伏せる。空然は遠い目をした。
希丸と敦丸は、なんとも言えない顔で互いを見たあと、そっと目を逸らす。その沈黙だけで、大体察せられる。
慶久は深く息を吐いた。
「……また寝ておるのか」
慶光が静かに答える。
「おそらくは。先ほど見た時は、縁側で転がっておりましたな……一応は起こしたのですがな」
「……一応とは何だ」
慶光は少しだけ考えた。
「返事だけは元気でした」
場のあちこちで、小さく苦笑が漏れる。返事だけは。つまり起きていない。
慶久はこめかみを押さえた。「……あやつは、大事な話の時ほど来ぬな」
「逆に申せば、来る時はろくでもない時ですな」
久秀がぼそりと言い、慶光が吹き出しそうになるのを堪えている。
琴だけが小さくため息を吐いていた。
慶久はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように肩を落とす。
「……もうよい。全員揃っておるなら始めるぞ」
その声で、広間の空気が再び引き締まる。
修平も自然と居住まいを正した。
視線が集まる。しばしの間を置いて、慶久が口を開いた。
「修平――此度の働き、まこと見事であった」
低く、よく通る声だった。広間の空気が、その言葉を受け止めて静かになる。
「富岡日向館の儀、よく務めた。加えて、蜂を養い、この地に利をもたらしたこと、軽からず」
一度周囲を見渡してから告げる。
「よって、褒賞を下す」
その一言で、場の姿勢がわずかに改まる。
「本日より、汝を召し抱える。以後、大和田の士として仕えよ」
――家臣取り立て。言葉は簡潔だったが、意味は重い。さらに続く。
「あわせて、苗字帯刀を許す」
場に小さなざわめきが走る。土間の空気が、わずかに揺れたように感じる。
「名は――“蜂起”とせよ」
その声が響く。ただの名ではない。由来と役目を背負わせる、与名であった。
慶久は視線を横へ移す。
「お佳も同じく召し抱える。以後は側に仕え、“蜂起佳”と名乗れ」
それは単なる呼び名の変更ではなかった。
苗字を与えられ、“側に仕えよ”と命じられる――それは、この大和田家の内側へ正式に迎え入れられるという意味でもある。
まだ年若く、立場としては見習いに近い。だが、それでも下働きの下女とは明確に違った。
奥向きに仕える女房衆の端に連なり、琴や若君たちの側へ出入りすることを許された者。
つまり、“蜂起佳”となったその瞬間から、お佳は大和田家直属の側仕えとして扱われる身分となったのだ。土間の空気が、静かに揺れていた。
修平は、すぐには言葉を返せなかった。理解が、遅れて押し寄せる。
昨年まで――親を失い浜に出ては網を引き、日銭を繋ぐだけの暮らしだった。名もなく、まともな家もなく、ただその日を越えることだけを考えていた身である。
その自分が、いま。この場に座し、士として列に加えられている。現実が、ひどく遠くに感じる。
だが――はっと息を呑み、深く頭を下げた。
「……このような卑しき身に、過ぎたる仰せにございます。ついこの間まで、浜にて雇われ働くばかりの者にて……」
声は震えていた。だが、その額は畳に据えられたまま、逃げはしなかった。
慶久はわずかに頷く。
「働きに応じて取り立て、相応の恩賞を与える――それが、この家のならいよ。前にも申したであろう。恥じることはない」
短い。だが、それで十分だった。
修平の中で、何かが定まる。額を畳につけるほどに、深く礼を取る。
「ありがたく拝領つかまつります。以後は御恩に報いんと、粉骨を惜しまず仕え奉る所存にございます」
拝命ではなく、拝領――与えられた恩を受ける言葉が、自然と口をついて出た。
続いて、お佳が前へ進む。
普段の軽やかさは影を潜め、静かに膝を折り、深く頭を下げる。
――その刹那、わずかに視線が脇へ流れた。
そこに、あるはずの姿がないことを確かめるように。すぐに視線を慶久に向ける。
「この身、あわせて召し抱えの儀、ありがたく存じます。以後は”殿と奥方様”に、心尽くしてお仕えいたします」
その声には、揺らぎがなかった。
元伯がそこで、小さく喉を鳴らして笑った。
「名の由来、わかるであろうがな」
場の緊張が、わずかに緩む。
「養蜂をこの日の本に起こし、利を起こした男――ゆえに“蜂起”。これ以上ない名じゃ。名の由来、ただの語呂ではないぞ」
元伯はわずかに身を乗り出し、場を見渡した。視線が修平に据えられる。
「異国より伝わりし養蜂譜――それをただ真似るだけで終えず、己の手で噛み砕き、この地の風土に合わせて練り直した」
ゆるやかに言葉を重ねる。軽さはない。噛みしめるような声音だった。
「蜂を飼うという発想そのもの、この日の本には未だ根付いておらなんだ。それを試し、失い、また試し……ついにはこの短期間で形とした。さらに、それを一時の利で終えず、領の糧とし得る術として整えた。――すなわち、“起こした”のだ。利を、仕組みを、この地に」
視線が、広間の奥まで滑る。
「ゆえに“蜂起”」
短く、しかし重く落とす。
「ただ蜂を扱う者ではない。蜂をもって利を興し、道を拓いた者にこそ相応しい名よ」
そこで、わずかに口元を緩める。
「これ以上の名はあるまい」どこか愉しむような声音だった。
その一言で、場の空気が弛緩する。やがて、誰からともなく――小さく「おお…」と息が漏れる。
標葉衆の老人たちは無言で頷き、敦丸と希丸は顔を見合わせて目を細めた。敦丸と希丸は顔を見合わせ、素直に笑っていた。
修平は、その音の中でただ頭を下げ続けるしかなかった。
その時――すっ、と襖が開いた。場の流れを、まるで読まぬように。
そこに現れたのは――
寝癖で髪が四方八方に跳ね、まるで爆ぜたように広がった貴丸だった。足元では、あの“すずちゃん”がずるずると引きずられている。場の空気とはまるで無縁の姿。
一歩、二歩と入り込み、きょとんと周囲を見渡す。
「……あれ? みんなどうしたん?」
間の抜けた声。そして、まだ残る騒めきを見て首を傾げる。
「なんで皆喜んでんの?」
――その一言で。すべてが、止まった。あれほど満ちていた感動が、一瞬で霧散する。
琴の眉が、すっと吊り上がった。
「……この晴れの座にて、何たる体たらくか、貴丸」
低く、しかし鋭く刺さる声。
そこに妙に明るい希丸の声だけが、場に浮いた。
「おい貴丸! 聞いてねえのかよ! 修平が――今日からホウキになったんだってさ!」
そこで――貴丸が、ようやく反応する。
「ほうき……?」
首を傾げる。少し考えるように目を細める。
「箒……掃くやつ? それとも鳥取のほう? 投げ捨てるとか……? 彗星じゃ……ないよね? それになったの? どゆこと?」
ぽつり、ぽつりと、思いつくままを並べる。
誰も、何も言えない。貴丸は、軽く肩をすくめた。
「……どっちにしろ、なんか変な言葉だな」
――その瞬間だった。空気が、裂けた。
「たぁぁかぁぁまぁぁるぅぅぅ!!」
怒声が広間を震わせる。その声の主は琴だった。整った顔立ちが、かえって異様に見えた。
吊り上がる眉、引き結ばれた口元、細められた目。
形は崩れていない。だが、その奥から溢れ出る怒気だけが、どうしようもなく剥き出しになっている。
まさしく――怒髪天。誰かが、小さく息を呑んだ。この日、この時。琴はひとつの境に触れたのだと、後に語られる。
――夜叉・アスラ(阿修羅)。もっとも、当人にその自覚はない。広間の空気は、きれいに砕けた。
元伯は肩を震わせ、銀四郎は露骨に目を逸らし、標葉衆の老人たちは口元を押さえて堪える。慶久でさえ、わずかに額へ手を当て、深く息を吐いた。
そして――その夜。
敦丸は、厠へ向かうことができなかった。闇に浮かぶのは、母のあの声と、あの顔。布団の中で身を固めたまま、朝を迎える。
翌朝。その布団には、見事な“大きな地図”が残されていた。
細長く伸びた帯のように広がり、先端がわずかに膨らむ――どこか、子犬が伏せたような輪郭。
やがてこの地では、言うことを聞かぬ子を諫めるとき、こう囁かれるようになる。
――夜叉が来るぞ。
いうことを違えれば、夜叉が降り立ち、七日の間その子を追い続け、ついには喰らうのだ、と。
*****************
後の世、この日の本における養蜂の祖として、一人の名が広く刻まれることとなる。
蜂起修平典薬頭尊慶。
幼くして親を亡くし、妹と共に苦労した末、大和田家に拾われた男である。
若き日に養蜂へ携わると、その才を大きく開花させ、後には薬学・漢方にも通じ、この日の本における医薬発展の礎を築いた人物として広く知られることとなった。
その妹――蜂起佳もまた、後に天下へ名を轟かせる者へ嫁ぎ、数奇な運命を辿った女性として名を残している。
だが奇妙なことに、その始まりを作ったはずの大和田貴丸の名は、後世の記録にはほとんど現れない。
残されているのは、虚実入り混じる軍記物や古い書状ばかりである。
ただ、その中の一つには、こんな一文だけが残されていたという。
――天下の中ほどに、いつも眠たげなる御仁あり。
――戦を好まず、政も嫌うて、日がな一日ごろごろしておれど、されどその御仁の前にては、誰も皆、いつしか声を潜めたという。
――後に、人々は笑うともなく、こう語り合った。
『天下に“戦国不精”などと呼ばれし御仁、後にも先にもあれ一人よ――』
それが誰を指した言葉だったのか、今となっては定かではない。
*****************
ちょっと今回は情報量が多すぎましたかね。。
何度も書きすぎたら、てんこ盛りになってしまって。。
今後、どうしようかなぁ。。あまりにも、貴丸がはっちゃけすぎるのもなぁ。。
ほどほどが良いのか、今の路線が良いのか、、
とりあえず、物語を進めないとな。。
鳥取県のシルエットって、一時期は龍に見えるとかいうキャンペーン? をしてましたよね。
他にカニやイルカ、ブーメランという声もありました。自分にはシュナウザーに見えますね。。
ちなみに、福島県は、、小さなオーストラリア大陸に見えるのは、、自分だけですかね。。




