SS-02 貴丸VSお佳 その後のいろいろ
そんなある日だった。
お佳は家事の途中、母屋の奥にある厠へ向かっていた。
この大和田館の厠は、他所とはかなり違う。まず珍しいことに、大和田家の者と奉公人とで厠が分かれていない。横並びに二つの個室があり、空いている方へ入る形になっている。
最初、お佳は「本当に同じものを使って良いのだろうか」と戸惑ったほどだった。
しかも、中の造りまで妙だった。個室には小窓があり、そこを開けて「換気」ということをするらしい。さらに脇には炭が置かれ、壺には灰、そして乾燥した苔まで入っている。
初めて見た時、お佳は本気で「これは何に使うのだろう」と思った。だが、敏が教えてくれた。
「これ、全部貴丸様が考えたのよ」
正直、お佳は耳を疑った。あの昼まで寝ている若様が。だが、実際に使ってみると、その意味はすぐに分かった。
普通の厠は臭気が籠もり、虫が湧き、夏場など地獄である。だが、この厠は違った。窓を開ければ風が抜け、用を足した後に灰を撒けば臭いがかなり抑えられる。下には大きな瓶が埋まっており、そこへ溜めたものを肥にするらしい。そして最後に乾燥した苔で拭き、外の甕水で手を洗う。
最初は「苔で拭くなど」と思ったお佳だったが、これが意外と柔らかい。しかも臭わず、虫も少ない。結果として、驚くほど快適だった。
――この厠だけは、本当にありがたい。
そこだけは、お佳も貴丸へ密かに感謝していた。
そしてその日も、お佳はいつものように個室へ入り、きちんと扉の札を「使用中」へ返した。これはこの館の決まりである。だからこそ、安心しきっていた。
ところが。
がらっ。
突然、扉が開いた。
「ひゃっ!?」
お佳が飛び上がり、慌てて振り返る。そこには貴丸がいた。お佳と目が合い、しばし沈黙が流れる。
貴丸はぽかんとした顔でお佳を見ていたが、やがて、なぜか妙に真剣な顔で呟いた。
「……あ、これって『ラッキースケベ』ってやつなのかなぁ。でも俺、ロリじゃないしなぁ……」
「…………は?」
意味が分からない。お佳の頭が完全に止まった。
しかも貴丸は、お佳の羞恥などまるで気にした様子もなく、「あー、めんごめんご」と軽い調子で謝ると、そのまま扉を閉めてしまった。そして何事もなかったかのように、隣の個室へ入っていく。
がたん、と戸が閉まる音がした。しばらくすると、隣から、
「ふぅー……」
という気の抜けた声が聞こえてきた。
お佳は真っ赤になった。
羞恥、混乱、怒り。色んな感情が一気に込み上げてくる。
ちゃんと札を返していたのに。というか、「ラッキースケベ」とは何なのか。
意味が分からない。
お佳は慌てて身支度を整え、苔で拭いてから手を洗い、厠を飛び出した。
その日一日、お佳の腹の中では、なんとも言えない怒りがぐつぐつと煮え続けていた。そして同時に、心のどこかでこうも思っていた。
――あの若様、絶対いつか罰が当たる。いや、当ててやる、と。
次の日は、暑い昼だった。蝉がうるさいほど鳴き、夏の日差しは容赦なく、館の縁側まで熱を押し込んでいた。
お佳は廊下の雑巾掛けを終え、障子の埃を落としていた。額にはじっとりと汗が浮いている。だが、そんな暑さの中でも、館の奥からのそのそと現れる影があった。
貴丸だった。
「……あっつ」
魂が半分抜けたような声でそう呟きながら、貴丸は縁側へやって来る。そして、いつものようにごろりと横になった。まるでそこへ打ち上げられた海獺のようである。
しかも今日は、肩に布をかけていた。
「今日は日差しが強いなぁ……」
そう言いながら、その布をひょいと持ち上げ、顔へ被せる。
お佳は洗濯物を畳みながら、何気なくその布を見た。ところが、ふと手が止まる。
――あれ? 見覚えがある。
妙に見覚えのある柄だった。お佳の眉がぴくりと動く。もう一度見ても、間違いない。
あれは――。
「……若様」
「んー?」
布を顔へ乗せたまま、貴丸が気の抜けた返事をする。
お佳は恐る恐るその布の端を摘み、ぺらりとめくった。すると貴丸が片目だけ開ける。
「ああ、それ?」
眠そうな顔で言った。
「俺の洗濯物と一緒に部屋へ積んであった布でな。汗拭くのにちょうどいい大きさなんだよ」
そう言って、さらに追撃する。
「なんか、良い匂いもするしな」
お佳の顔が固まった。次の瞬間、一気に真っ赤になる。
それは、お佳の腰巻だった。
昨日、厠を見られた件で頭がいっぱいだったお佳は、洗濯物を仕分ける際、自分の腰巻を誤って貴丸側へ混ぜてしまっていたらしい。
そして今、その腰巻で顔を拭かれ、しかも匂いまで嗅がれている。
お佳の脳が真っ白になった。
「~~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げるお佳だったが、貴丸はまだ事情を理解していない。
「これ、肌触り良いよなぁ。俺の小袖より――」
そこで、ようやくお佳が爆発した。
「それはわたしのです!!」
ばしっ!!
ものすごい勢いで腰巻をひったくる。貴丸の顔から日除けが消え、真夏の日差しが直撃した。
「うお、まぶしっ」
だが、お佳はもうそれどころではない。顔を真っ赤にしたまま腰巻を胸に抱え、その場から一目散に走り去っていく。
「な、なんなんですかあなたはもうーーーっ!!」
廊下の向こうへ消えていく声を聞きながら、残された貴丸は縁側でしばらく瞬きをしていた。
そして、
「……?」
まるで意味が分からない、という顔をする。だが、今さら起き上がるのも面倒だった。
貴丸は諦めたように再びごろりと寝返りを打つ。今度は直射日光が顔に当たって暑い。しかし、動くのも面倒だ。
「……まぁ、いいか」
そう呟き、そのままごろごろを続行するのだった。
そしてまたまた、そんなある日。
夕餉の後片付けも終わり、館の中がようやく静かになった頃、お佳は蒸し風呂へ向かっていた。
富岡で修平と暮らしていた頃など、風呂といえば濡れ布で体を拭く程度だった。冬などは水そのものが冷たく、歯を食いしばりながら手拭いを絞ったものだ。だが、この大和田館へ来てから生活は一変した。
毎日、蒸し風呂へ入れる。最初は本当に驚いた。
館の裏手に作られた小さな蒸し風呂小屋では、石を焼き、蒸気を満たして汗を流す。しかも順番こそあるものの、奉公人ですら定期的に入れるのだ。
お佳はもともと綺麗好きだった。だから、この蒸し風呂が大好きだった。人によっては数日に一度で済ませる者もいるが、お佳は毎日入る。今ではそれが、一日の密かな楽しみになっていた。
しかも最近は、大和田家の者や奉公人の古株、侍女頭の敏といった者たちが入り終えた後、最後にお佳が入る流れになっている。つまり、ほぼ貸切だった。だからこそ、お佳はその時間を気に入っていた。
誰もいない蒸気の中で、ゆっくり汗を流す。それだけで、張り詰めていた体がほどけていく。
その日も、お佳は一人で蒸し風呂へ入っていた。
熱を含んだ空気が肌を包み、じわりと汗が滲む。小窓の向こうでは秋の夜気が鳴いていた。
お佳は壁にもたれ、小さく息を吐く。
――やっぱり、この時間が一番落ち着く。
そう思った、その時だった。
がらっ。
突然、戸が開いた。冷気が一気に流れ込む。
「ひゃっ!?」
お佳が肩を震わせて振り返ると、そこには貴丸がいた。
「おー、やっぱまだ入ってた人がいたのか」
そう言いながら、貴丸はまるで何事でもないかのように、そのまま中へ入ってくる。そして、お佳の隣へどかっと腰を下ろした。
お佳の思考が止まる。
蒸気。汗。距離。近い。近すぎる。
だが、貴丸は全く気にしていなかった。
「いやー、夕餉のあと寝ちまってなぁ」
そう言って、うー、と伸びをする。
「俺、綺麗好きだからさ。やっぱ一日の最後は風呂入りたいんだよ」
さらに、平然と続けた。
「ほんとは湯船にどっぷり浸かりたいんだけどなぁ。蒸し風呂も嫌いじゃないけど」
お佳は硬直していた。なぜ平然としているのか。なぜ隣に座るのか。なぜ普通に会話を始めるのか。
というか、男と女である。
その認識はないのか。
だが、貴丸は本当に何も気にしていない顔だった。悪気も、色気も、からかいも、まるでない。
だから余計に質が悪い。お佳の顔が一気に熱を持つ。蒸気のせいではない。羞恥である。
「な、な、な……っ!」
限界だった。
お佳は勢いよく立ち上がると、そのまま蒸し風呂から飛び出した。
ばたんっ!!
戸が閉まる。外の冷気が、熱くなった顔へ刺さった。
背後では、
「え、なんで!?」
という貴丸の困惑した声が聞こえた。だが、お佳は振り返らなかった。
なんという男だろう。女が入っているのに平然と隣へ座り、世間話まで始めるとは。
その日を境に、お佳は貴丸を見るたび、なんとも言えない疑いの目を向けるようになったという。
貴丸としては、正直なところ、あまり深く考えていなかった。
もちろん、厠の件についてはさすがに悪かったと思っている。あれは札を見落としていた自分の不注意だ。だから一応謝った。だが、蒸し風呂の件については、別になんとも思ってはいなかった。
貴丸の感覚では、お佳はまだ八歳の子供である。小学二年生程度だ。
前世の記憶を持っている貴丸にとって、温泉だの銭湯だの、公衆浴場では、ほんの十年二十年前くらいまでなら、小学校低学年の男児が女湯へ入ることも、女児が男湯へ入ることも、別に珍しい話ではなかった。
だから貴丸の中では、今回のことも「風呂に人がいた」程度の認識でしかない。しかも相手はお佳だ。毎日館で顔を合わせている相手であり、家族、それも妹に近い感覚すらある。
だから、隣へ座って世間話を始めたことにも、そこまで大きな意味はなかった。
だが、この時代は違う。
戦乱の世であり、人の成長は早い。人間五十年。下天のうちを比ぶれば、なのだから。
十にもなれば婚約していてもおかしくなく、十二、十三で嫁ぐことも普通にある。当然、男女の別も早くから叩き込まれる。子供だからといって、無知なままではいられない。奉公へ出る娘など、なおさらだった。
だから、お佳からすれば、男が平然と女の蒸し風呂へ入ってきて隣へ座った。それだけで十分大事件なのである。
だが、貴丸はその辺りをどうも理解しきれていなかった。
結果として、お佳がなぜあんな怪訝そうな目で見てくるのか、貴丸はいまだに、いまいち掴みきれていないのであった。
ということで、貴丸が意図せずに、ラッキースケベ(貴丸的には何とも思っていないが)を連発したので、お佳に嫌われたのでした。他の人には忠実にいうことを聞いてがんばってる子です。
海獺:(うみおそ)中国ではラッコのことだが、東北ではアザラシやオットセイがそう呼ばれたらしい。昔はざっくりしていて、毛があって泳ぎが得意で、顔が細長い水棲生物は獺と呼ばれた。この地に時々流れてくるのはアザラシなので、お佳的にはアザラシのようだと表現したのだろう。




