第39話 触礼全手意尊
朝の空気はまだ冷たさを残しており、庭先に差し込む光もどこか薄く、静かな張りを帯びていた。
その中で修平は、胸の奥に小さな熱を抱えたまま、きっちりと束ねた紙束を抱えて歩いていた。
昨夜はほとんど眠れていない。それでも足取りは軽い。今日こそは――そう思っていた。
前日、貴丸に「明日、話をしたい」と言われたとき、修平の頭に浮かんだのはただ一つ、養蜂であった。
これまでの試行錯誤、失敗と成功、そのすべてをきちんと伝えたい。
そう思い、彼は空然と共に記録を洗い直し、数字を整え、分かりやすく絵図を描き、朝までかかって、漸く資料を仕上げた。
養蜂は順調だった。むしろ、予想以上に。
丸太をくり抜いた巣箱はすでにいくつも用意され、請戸川沿いに植えられていた菜の花の傍に置かれている。
蕎麦の花の時期は夏だ。その時期を待てぬ以上、試しに置いてみたのだが――結果は見事であった。
分蜂した蜜蜂が自然と巣に入り、定着したのである。
その光景を見たときの胸の高鳴りを、修平はまだ覚えている。
空然はといえば、それ以上に熱心であった。もともと寺で経と学問に囲まれていた身が、実際に手を動かし、結果が目に見えるこの営みに触れ、完全に夢中になっている。
修平は朝は文字と算術、昼から夜までは養蜂。二人で膝を突き合わせ、蜂の動きや巣の状態を語り合う日々は、確かな手応えを伴って積み上がっていた。
だからこそ――今日の「説明」は重要だったのだ。
ただの報告ではない。貴丸に見せるための“触礼全手意尊”である。(通称:触礼全)そういう言葉と手法を、貴丸から教わった。
資料とは、あくまでそのために用意したものだった。空然の手を借り、要点ごとに絵を添え、文字も見やすく整えてある。
本来ならば、もう少し余白を取り、ゆとりをもって書き記したかったが――なぜか用いる和紙の寸法は、横七寸縦十寸(二百十糎、二百九十七糎)ときっちり定められていた。
貴丸の言によれば、「書類様式って言ったら“A4”だろう。ニヒャクトウカケルニーキュウナナな」とのことだったが、その“えーよん”とやらの意味は、結局誰にも分からない。
とはいえ貴丸がそう言い切る以上、従わぬわけにもいかず、言われた通りの寸法で仕立てることになった。
結果として、その和紙は思いのほか小さい。限られた大きさの中に文字と絵図の双方を収めるのは骨が折れ、筆先を進めるたびに、余白とのせめぎ合いを強いられることになった。
そして誰が見ても分かるように。空然と議論しながら、何度も書き直した。
あれは、間違いなく自分たちの成果の結晶だった。
だから、修平も空然も昨日は一睡もしておらず、今日の触礼全に臨んでいるのだ。
その期待を抱えたまま、修平は貴丸の部屋の前に立つ。
一呼吸。襖を開ける。
中にはすでに人が揃っていた。
貴丸は奥に座し、その横に空然、そして元伯がいる。銀四郎も控えていた。背後には敦丸と希丸が興味津々といった顔で覗き込んでいる。空然と目が合いお互いが軽く頷いた。
そして――見慣れぬ男が一人。
身なりの整った壮年の男で、衣の質も所作も、ただの農や下人とは明らかに違う。商いに携わる者特有の、無駄のない落ち着きがあった。
修平が一瞬だけ戸惑っていると、その男が静かに一歩進み、丁寧に頭を下げる。
「手前、八田屋孝之助と申します。商いを生業としております。山田龍長様よりご紹介にあずかりました」
穏やかな声だった。
修平も慌てて頭を下げる。だが、胸の中では別の思いが渦巻いていた。商人? なぜここに?
だが、それよりも先にやるべきことがある。
修平はぐっと腕まくりをし、抱えていた資料を前に差し出そうとした。
「では――養蜂の成果の触礼全を――」
その瞬間だった。
「そんなことはいいからさ」
あまりにも軽い声音が、場を横から断ち切った。
修平の動きが止まる。
貴丸は、いつもの気の抜けた顔のまま、しかし妙にはっきりとした口調で続ける。
「今日から修平は商人な。だから商人の作法を八田屋から学んでくれ。十日間くらいかな?」
言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
一瞬、意味が分からない。
「……は?」
声にならない声が漏れる。
その背後で、同じく徹夜明けの空然も、目の下に隈を作ったそれを向けて、ぽかんと口を開けていた。
修平は慌てて言葉を繋ぐ。
「そ、それよりも……養蜂の成果の、触礼全を……」
縋るような声だった。
だが貴丸は、肩をすくめる。
「うまくいってんだろ? じゃあ聞くまでもないジャマイカ(じゃないか、だと思われる)」
ばっさりだった。
そこで空然が呟く。「じゃまいかとは?」
貴丸は無視だ。しかし、修平の喉が詰まる。
「で、でも……養蜂の触礼全をしないと……」
食い下がる。
だが貴丸は、面倒くさそうに指を一本立てた。
「一日のうち一刻くらい良いだろ? それに空然さんもいるし、ちょっと抜けても大丈夫大丈夫」
軽い。あまりにも軽い。
しかし、その軽さのまま――視線だけが、すっと鋭くなる。
「それよりさ、修平」
言葉の調子が、わずかに変わる。
「蜂蜜を作ったあと、どうするんだ?」
修平が言葉を失う。
「その蜂蜜や蜜蝋で加工したもの、それを売らなきゃ意味ないだろ?」
静かに、しかし逃げ場を塞ぐように続ける。
「一人で養蜂だけして、はい終わり――それ、面白いのか?」
返す言葉が出ない。
「これをさ、領のみんなにやってもらうんだよ。それをお前が束ねる。そう考えるとさ、商人の知識、必要だよな? だったら、早く覚えた方がいいだろ?」
正論だった。あまりにも、正論すぎた。
修平は、しばし沈黙したのち、ゆっくりと頷くしかなかった。
胸の中には、悔しさと納得が入り混じった重いものが残る。
だが――否定はできない。
その様子を見て、貴丸は満足そうに小さく頷いた。
「よし、じゃあ決まりな。あとは、よろしく〜」
すべてが、決まってしまう。
修平は、力なく抱えていた触礼全資料に目を落とす。
その紙束を、そっと差し出した。
「……これだけは……見てください」
かすかな抵抗だった。
貴丸はそれを受け取り、ぱらりとめくる。
「お、いいじゃん。ちゃんと作ってるな」
軽く笑う。しかし、資料はすぐに敦丸と希丸に渡した。
その一言で、ほんの少しだけ救われた気がした。
部屋の空気はすでに次へと動き始めている。
修平の中でも、何かが切り替わりつつあった。
養蜂だけでは終わらない。
その先へ。
静かに、だが確実に、流れは変わっていくのだった。
触礼全手意尊:プレゼンテーション。通称プレゼン。提案をより分かりやすく伝え、相手の理解や納得を得る手法。
と、某民明書房に書いてありました。。




