第35話 帰途
結局あの後、盛胤は静かに言い切った。
「銭は取らせる。だがそれよりも――働きに見合う機会を与えよう」
その言葉どおり、褒美の五貫文と、彦法師丸の発言を踏まえたうえでの“城取り許可”が、貴丸に下された。
そして――相馬中村城を出る。
背後で、内門が静かに閉じられる音がした。重々しくはない。だが、やけに耳に残る音だった。
開け放たれた通用口を抜け、外の空気に触れた瞬間、張り詰めていたものがわずかに緩む。
春の風はやわらかいはずなのに、胸の内だけが妙にざらついている。
供の者たちも距離を取り、誰もが口を慎んだまま、しばし沈黙の中で歩が進んだ。
やがて――数歩。
慶久が、ぴたりと足を止める。
ゆっくりと振り返り、そのまま、じろりと貴丸を睨んだ。
「貴丸〜〜〜、〜お前はな〜」言い終えるより早く、手が伸びる。
首根っこをがしりと掴まれた貴丸の体が、ふわりと持ち上がった。
一騎当百(千まではいかないはず。※貴丸評価による)の腕を持つ男の手である。
加減などあってないようなものだった。貴丸の体は、まるで軽い猫の子のように、ぶらんと宙にぶら下がる。
抵抗する様子もなく、足をだらりと揺らしながら、貴丸は首だけをこちらへ向けた。
「メンゴメンゴ――いや、ごめんなさい。なんかさぁ、俺と同じ歳くらいなのに兵法を語るなとか、小領の地侍風情とか言うしさ、城を奪ってみせろとか、あんな上から言われたら、ちょっとだけ頭にきちゃってさ。しかも眠かったし。親父様も知ってるでしょ、俺、寝起きだと不機嫌になるの」
反省の色は、見事なほどにない。むしろ、言い訳の精度がやけに高い。
慶久はしばし、その顔を見下ろしたまま、深く息を吐いた。
怒るべきか。
叱り飛ばすべきか。
――だが、そのどちらも、どうにも噛み合わない。
ぶら下げられたままの貴丸は、ふと視線を泳がせる。
その目は、どこか遠く――畳でも梁でもない、もっと別の「楽だったはずの未来」を見ているようだった。
(本当は……ごろごろしてたかったんだけどなぁ……)
胸の奥で、ため息がひとつ落ちる。
(昼寝して、飯食って、また寝て……それで一日終わるくらいがちょうどいいのに)
だが、あの場面を思い返す。
鼻で笑われるような視線。軽く扱われる言葉。あの響き。(……あそこまで言われたらさぁ……)
わずかに口が歪む。(そりゃ、ギャフンって言わせたくなるだろ……普通)
結果――こうなった。
(で、結局、俺がやることになったしなぁ……)
現実に引き戻される。
忙しさと責任の塊が、目の前に積み上がっていくようだ。
(……言わなきゃよかった……)ぽつり、と心の中で呟いた。
しばし沈黙。
やがて貴丸は、ふっと思いついたように顔を上げる。
「ねぇ、親父様」
まだぶら下げられたまま、妙に真剣な声を出す。
「俺の代わりにさ、敦丸か希丸を“貴丸”ってことにして、城取りやらせるってのはどう?」
親父様は、ぽかんと口を開ける。
「俺、裏方で指示だけ出す感じでさ。ほら、実質俺ってそういうキャラだべ?」
真顔だった。
慶久の表情が、ぴたりと止まる。低い声。
「……お前な、それは駄目だろう。それに”きゃら”ってなんだ?」
一刀両断だった。
「えー、名前なんてどうでもいいじゃん、結果が同じならさぁ……」
即座に不満の声が漏れる。
重ねて断じる。その声音には、今度こそ迷いがない。
「駄目だ。お前が言ったことだ。お前がやれ。それにあの二人にそんな馬鹿げたことができると思うか?」
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
貴丸は、しばし宙にぶら下がったまま沈黙し――やがて、力なく肩を落とす。
「……ですよねー」
気の抜けた声。足がぶらりと揺れる。
(あーあ……完全に自分で仕事増やしちまった……完全に、八街市だよ…)
内心で頭を抱えながらも、顔にはどこか諦めたような色が浮かぶ。
慶久はもう一度、深く息を吐いた。
その手に掴まれたままの息子は、相変わらず締まりがない。
だが、その軽さの奥に、妙に外さない何かがあることも、もう分かっている。
怒りきれない理由が、そこにあった。
そして慶久はようやく絞り出すように言葉が出る。
「そもそもな、彦法師丸様はお前よりも明らかに身分が上だろうに……あちらはこの相馬領の嫡男で、跡取りなのだぞ」
筋としては、それで終わる話だった。だが。
「でも、まだ、ただの子供でしょ。それに俺は戦に出たっていうのは微妙だけど、今回武功があるから呼ばれたのにさぁ……」
ぶら下がったまま、ぶつぶつと返してくる。
慶久は、そこで言葉を切った。
(……ああ、やはりな)内心で、苦く呟く。
この息子なら、やらかす。
それは分かっていた。
分かってはいたのだ。
それでも――ほんの一寸、期待してしまった自分がいた。
だが、結果はこれである。
しかも、ただ外すのではない。
毎度、予想の斜め上を軽々と越えてくる。
貴丸のやることは、常に周囲を振り回す。迷惑で、面倒で、頭が痛くなる。だが――不思議と、決定的に失敗した話を、慶久はまだ知らない。
だからこそ、誰も完全には止めきれないのだ。頭の片隅では期待している自分がいるのだから。
あの貴丸には厳しい母の琴でさえ、表には出さぬものの、どこかでほんのわずかに楽しみにしている節があるほどだ。
(……まこと、厄介な)
心の内で吐き捨てながらも、結局、慶久の口から出たのは別の言葉だった。
「……うむ、まぁな」
低く唸るように返す。だが、それ以上は続かない。
言うべきことは山ほどあるはずなのに、どこから手をつければよいのか分からない。
「だがな、城を奪うなど、なんと大それた約束をするのだ」
ようやく本題に戻す。
「成り行きかな?」
間髪入れずに返ってくる。
「成り行きでそんな約束など……」
言いながら、慶久は視線を空へと向ける。
頭を抱えたい衝動を、どうにか押し留めた。
その様子を見上げながら、ぶら下がったままの貴丸が、けろりと言う。
「でも親父様、切り取り次第に近いべ? これ、引き出せたの、すごくない?」
春の光がわずかに揺れ、影が地に落ちる。
ぴくり、と慶久の眉が動いた。
「なんだ、その口の利き方は……この頃どんどん口調が適当になっておるな………まぁ、よい」
吐き出すように言い捨てる。だが、言葉はそこで終わらない。
わずかに間を置き、声を低く落とした。
「確かに魅力はある。だが、そもそも城を奪うなど――無理だろうに」
現実を押しつけるような声音だった。
乾いた土の上を風が撫で、足元の草をかすかに揺らす。
だが貴丸は、ぶら下がったまま首を傾げる。
「銀ちゃん(銀四郎)に調べてもらってるんだけどさ。日向館の富岡なんちゃら隆時?――岩城九郎って人、岩城の殿様の盛隆さんと兄弟なのに仲が悪いらしいんだよ。それに『誰かが』米倉も燃やしちゃったから、兵糧も足りてないっぽいの。そこをなんとかすれば、案外いけると思うんだよね」
あまりにも軽い口調で、事もなげに言い切る。
まるで、城ひとつを落とす話が、畑仕事の延長であるかのように。
「だから、親父様。あとはよろしくね。がーんばっ! テヘペロ!」
丸投げだった。
その一言で、空気がわずかに軋む。
慶久のこめかみに、ぴしりと筋が浮かんだ。
「……盛胤様はな、“お前が率いる戦にて”と言っておっただろうが!」
低く、押し殺した声。
その言葉に、貴丸の表情が一瞬だけ固まる。
「……ちっ……覚えてたのか……」
小さく舌打ちが漏れた。
慶久は空を仰ぐ。
雲は流れ、春の空はやけに澄んでいる。
「ただでさえ、津島の方(請戸大和田館の西にある山側方面)では、伊達の重臣、桜田がうちの領にちょっかいをかけてきておる。今は戦寸前の状態だ。だから小野田の嫡男である希丸を万が一を考えて、こちらの館で預かっておるのだ。そのうえ富岡に攻め、城取りなど……無理な話だ」
ため息が、長く尾を引いた。
その吐息に混じって、言い切れぬ重さが滲む。
しばしの沈黙。遠くで、風が草を撫でる音だけが響いた。
だが――その空気を、貴丸があっさりと崩す。
「そっか。だったらさ、いっそのこと出立前に踊ったあの踊り、盛胤様の前で披露すれば驚いてもらえたかな?」
「貴丸、それだけはお願いだからやめてくれ」
間髪入れず、即答だった。珍しく、迷いがない。
「あの踊りは門外不出とせよ」
本気である。
ぶら下がったままの貴丸は、頬を膨らませる。
「えぇ〜、踊りたかったのにぃ」
その軽さに、慶久はもう一度、深く息を吐いた。
やがて――手を離す。
地に足がついた貴丸は、何事もなかったかのように背を伸ばし、ぐっと体をほぐす。空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「あ〜あ、せっかくゴロゴロしたかったのになぁ」
ぼやく声は、どこまでも気楽だ。
「俺がゴロゴロしてさ、請戸の道をゴロゴロ転がってロードローラーのように地慣らししようと思ってたのになぁ……」
「また訳のわからぬことを……」
呆れ混じりの声が返る。だが、それ以上は続かない。
言うべきことは山ほどあるはずなのに、もはやどこから手をつければよいのか分からない。
風が、二人の間を抜けていく。
遠くで草が擦れ、どこかで鳥が短く鳴いた。
貴丸は、その音にふと目を細める。
――仕方がない。
胸の内で、あっさりと結論を出す。
早く城取りして終わらせるか。
そして、またゴロゴロと過ごす日々に戻ればいい。
戦など、ほんのひと手間に過ぎぬとでも言うような軽さで――貴丸は、静かにそう誓っていた。
褒美五貫文:約50万円〜75万円程度。




