第225話 油の辻売り
道を少し進んだところで、貴丸は通りの端に立つ一人の若い男に気づいた。
藍色の衣服に渋染めの胸当てと前垂れを着け、傍らには天秤棒。その両端には油の入った桶が吊るされ、腰には小さな漏斗が差してある。どうやら油売りらしい。
男は身体が大きく、肩幅も広い。まだ若いというのに顔つきは険しく、黙って立っているだけで、どこか人を寄せつけない雰囲気があった。そんな男が、道端に置いた一文銭をじっと見つめている。
やがて腰から漏斗を取り出すと、油桶からほんの少しだけ油を汲み上げた。
「……よし」
男は漏斗を慎重に傾け、一文銭の中央に空いた穴へ油を垂らそうとする。しかし――ぽたり、と油は銭の穴ではなく、その脇へ落ちた。
「……くそ」
男は眉間に皺を寄せ、もう一度漏斗を傾ける。だが、今度もぽたりと音を立てて油が外れた。
「うまくいかんな……」
その様子をしばらく眺めていた貴丸が、とうとう我慢できなくなって声をかけた。
「何してるんすか?」
男が顔を上げる。
「……見ての通り、油を売っている」
「いや、それは分かるんすけど……ってか、売ってなくない?」
貴丸は一文銭と漏斗を交互に見ながら尋ねた。
「なんで銭に油を垂らしてるんすか?」
男は苦い顔をした。
「私は油売りなのだがな……どうにも客が寄ってこんのだ」
「ほえー」
男は自分の大きな身体を見下ろし、それから貴丸へ視線を戻した。
「この身体つきに、この顔だ。黙って立っているだけで、客が怖がって離れていくのだ」
「なるへそ……確かに、ちょっと怖いすね」
「おい。お前、初めて会ったのに正直すぎるぞ」
男は顔をしかめた。その横で、元伯が思わず視線を逸らす。
男は気を取り直すように咳払いをした。
「だからな、何か客の目を引くような芸でも覚えたらどうだと、友人の日運という者に言われてな」
「芸?」
「うむ。油売りの中には、客の目を引くために、いろいろなことをして見せる者もいるそうだ。それならば、私も何かできぬものかと思ってな」
男は足元の一文銭を指差した。
「そこで日運が考えたのが、これだ。油をこの穴へ通して見せれば、面白がって人が集まるのではないかとな」
男はそう言って、再び漏斗を構えた。
「売れ残った油なら、少しくらい使っても構わん。そう思って試しているのだが……これが、どうにも難しい」
「そりゃ、難しいしょうよ」
貴丸はしゃがみ込み、足元の一文銭を拾い上げた。
「漏斗から油を一滴だけ落として、こんな小さな穴に入れるんよ? しかも油って、水みたいに狙ったところへ真っ直ぐ落ちてくれないしょ」
そう言いながら一文銭を指先で回し、穴を覗き込む。
「それに、普通の一文銭じゃなくてさ。選別して、広穿の一文銭を使うといいんでないの?」
男が目を見開いた。
「広穿……?」
「うん。穴が大きいほうが、ずっとやりやすいから」
男は一文銭を覗き込み、何度か頷いた。
「なるほど……確かに、一文銭でも穴の大きなものを見たことがある。そこまで考えていなかったな」
「でしょ?」
貴丸は一文銭を返すと、今度は男の漏斗へ目を向けた。そして、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「……これ、できるかもしれないよ」
「本当か?」男が身を乗り出してくる。
貴丸はにっこり笑った。「俺なら、できると思うけんど」
「では、教えてくれ!」男が勢いよく迫る。
すると貴丸は、少しだけ首を傾げた。
「夕餉をごちそうしてくれるなら、頭の動きも良くなって、思い出すかもしれないし……教えてもいいかもしれないと思うかもしれないような気がする今日この頃だけど……どする?」
「…………」
男の顔が固まった。
その横で、元伯が貴丸を見る。その顔には、はっきりと――
――また余計なことを。と書いてあった。
しぶしぶ油売りの男が頷くと、貴丸は途端に機嫌を直したように、嬉々として周囲を見回した。
すると、少し来た道を戻ったところに、こぢんまりとした飯屋が目に入った。表構えもなかなか洒落ており、店先からは食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「あ、あそこがいい!」
貴丸はそう言うなり、飯屋へ向かって歩き出した。
庄五郎が慌てて貴丸の肩を掴む。
「お、おい、待て! 先に教えぬか。それで納得がいったら、飯を奢ってやろう」
貴丸は振り返ると、少し不満そうに頬を膨らませた。
「吝嗇だなぁ」
「何が吝嗇だ! 俺は、お前をよく知らぬ!」
庄五郎は呆れたように眉を寄せる。
「お互い、まだほんの少ししか話しておらぬのだぞ。そもそも、今日初めて会ったばかりではないか」
そう言ってから、庄五郎は改めて居住まいを正した。
「私は山崎屋庄五郎と申す」
貴丸は少し考えるように庄五郎の顔を見たあと、にっと笑った。
「おっす! オラ、貴丸! よろしくな!」
「……」
あまりに気の抜けた名乗り方に、庄五郎は一瞬言葉を失った。
その後ろから、元伯が小さく頭を下げる。
「わしは、この童の祖父の元伯と申す」
「これはご丁寧に」
庄五郎は元伯へ軽く会釈すると、改めて貴丸へ向き直った。
「それで、どうやるのだ? 一文銭に油を通す方法を教えてくれ」
貴丸は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「奢ってくれそうにない……あーー! そうだ! 腹減ったからなぁ。なんか、教える気が失せたかも」
やがて、盛大に声を上げる。
「俺、やっぱり、そろそろ夕餉を食べに家へ帰るよ」
そう言って、貴丸はくるりと踵を返した。
庄五郎は慌てて、再び貴丸の肩を掴む。
「おい、待て! 少し待て。奢ってやろうと言っているのだぞ。教えてくれたらな!」
しかし、貴丸は庄五郎の言葉には答えず、自分の腹をさすってみせた。
「でも、お腹減ったんだよねぇ」
「だから、飯を奢ると言っておるではないか!」
「今すぐ食べたい」
「教えた後に行けばよいではないか!」
「うーん……」
貴丸はしばらく悩むような顔をした。そして、やがて首を横に振る。
「やっぱ、待てないや。じゃあね、庄五郎さん。頑張って練習するといいよ。きっといつかはできるさ! いつかはね! ふふっ」
「なにぃ……? 待て! それでは何のためにここまで話したのだ!」
貴丸はひらひらと手を振りながら、そのまま歩き出した。
「じゃーねー!」
「ぐぬぬぬぬ……!」
庄五郎は拳を握りしめ、遠ざかっていく貴丸の背中を睨みつけた。
しかし、貴丸が数歩進んだところで、ふと何かを思いついたように庄五郎が顔を上げる。
「……分かった! 飯を先に奢ろう!」
貴丸が振り返る。庄五郎は悔しそうに顔をしかめながらも、指を一本立てた。
「だが、一文銭に油を通す方法が嘘であったなら、今から食べる食事の倍の銭をいただくからな!」
貴丸は少し考える。
「へぇ。じゃあ、うまくいったら、その褒美に、また今度飯を奢ってよ」
「……また?」
「うーんと……あと四回で良いかな?」
「なぜ四回も奢らねばならんのだ!」
庄五郎が思わず声を荒らげる。貴丸はきょとんとした顔で庄五郎を見返した。
「え? だって、これができれば、庄五郎さん、これからの稼ぎが何倍にもなるんだよ?」
貴丸は指を折りながら続ける。
「それも一度だけじゃなくて、毎日。それが、飯を四回余分に出してもらうだけでできるんだから、かなりお得でしょ?」
「……」庄五郎は口を開きかけたが、何も言えなかった。
確かに、そう考えれば安い。今後の商売で得られる利益を思えば、食事四回など、ほとんど問題にならない。
しばらく黙って貴丸を見つめていた庄五郎は、とうとう観念したように肩を落とした。
「……分かった」
「やたっ!」貴丸が嬉しそうに笑う。
庄五郎はそんな貴丸をじろりと睨んだ。
「まったく……商人を強請るとは、とんでもない童だな」
そう言って、庄五郎は元伯へ視線を向ける。
元伯は困ったように苦笑するしかなかった。
「……わしからは、何とも言えぬのう」
「お祖父殿も、もう少し叱ってくだされ、とんでもない童だ…」
「叱ってどうにかなる童なら、わしも苦労はしておらぬ」
「……なるほど」
庄五郎は妙に納得したように頷いた。
その横で、貴丸はすでに料理屋の方へ向かっている。
「ほら、早く行こうよ! お腹ぺこぺこ、ぺこりーの!」
「お前という童は……」
庄五郎はため息をつきながらも、結局その後を追って歩き出した。
この物語は、フィクションですからね?
史実とは多少異なることをご了承いただき、お読みください。
この庄五郎さん。わかっている方はスルーしてお読みくださいませ。




