第三の儀「偽死忌」
星の光すらも、息を潜めるような深い夜のこと。
熱帯夜の生ぬるい空気が、ミコネの肌にはりつく。
かだす島――山中にて。
林が裂けたわずかな平場に、
木造の小屋が二棟、並ぶように立っていた。
秋野ビストはバッテリー式のランタンを掲げ、
白い光で小屋を照らした。
「これより、偽死忌を始める……
と、言っておきましょうか」
青みがかった髪は月光に透けて、
ビストの澄んだ声が静かな夜闇に響く。
「巫女の役目を務めるのは、
ミコネさんと、ヨミさん――と言っておられましたね」
「はいッ! よろしくお願いします!」
「……んっ」
ミコネは力強く、
ヨミはわずかに、首を縦に振った。
ビストは布が巻かれた長物を取り出して、
ゆっくりとミコネに向かって差し出す。
受け取ると、しっかりとした重みを感じた。
「これって……本物、なんですよね?」
「そのとおりと言っておきます。
言っておきますが、扱いには注意するように」
「は、はいッ!」
横に立つヨミも、ビストから同じものを受け取る。
ミコネとは異なり、ヨミの方は気負いの無い様子である。
「(流石、ヨミちゃん!)」と、ミコネは感心した。
ビストはゆっくりと、二人に言い含めるように告げる。
「巫女は一人で祭場へ入り、
零時の刻に”偽死”を遂げていただきます。
内部では、声を出してはいけません。
食べることも、眠ることも禁じられています。
加えて、灯りを点けることも許されない……
と、言っておきましょう」
ヨミは空を見上げて、言った。
「……月のある夜で、良かったかも」
「そ、そうだね……ッ!」
木造の小屋の中は、一見して薄暗かった。
観音開きの戸には、灯り取りの小さなスリットがあるが――
月灯りだけが差し込む密室の内で、
これから、一夜を過ごさなくてはならない。
「(怖い……けど)」
死と生が交わる、島。
この島の偽死忌こそが――
科学や論理では説明がつかない神秘かもしれない。
「(あたしの、求めてた怪異……ッ!)」
ミコネは向かって右側の小屋に向かう。
ヨミは反対側へ。
二つの小屋の入り口は、
それぞれが向かい合う作りになっていた。
「あ、そうだ。小屋の中では飲食禁止なんだっけ!」
ポケットの中のキャンディを探る。
個包装の袋を一つ取り出して、ヨミに向けた。
「ヨミちゃん、今のうちにアメ舐めるー?」
「……………」
ヨミは答えない。
反対側の小屋の前に立って、ヨミは呟く。
「……ミコネ」
うつむく表情には、陰が差している。
ミコネは、努めて明るい声で応えた。
「なぁに? ヨミちゃん」
ヨミは振り返らずに、言う。
「『怪異模倣案件』は私が撃滅する――
それが、ミコネの信じたい怪異であっても」
「…………っ!」
小屋の戸をくぐり、闇に消えていくヨミ。
その小さな背中に、
ミコネは声をかけることが出来なかった。
小屋に入り、ミコネは内から戸を閉める。
灯りは戸のスリットから差し込む月光だけ。
室内を見回した。
広さは畳八畳くらいだろうか。
意外と奥行きがあるものの、調度品は少ない。
中央には座布団が一枚。
部屋の奥に、三つ足の机が一つ。
机の上には、何も置かれていなかった。
床はゴツゴツとした木の板が敷かれている。
そのまま座るとお尻を痛めそうなので、
ミコネは座布団の上に座った。
唯一の光源である、戸の光を眺めることにする。
――あとは、時間を待つだけ。
ミコネは、偽死忌のルールを思い出した。
・室内では喋ってはいけない
・室内では灯りを点けてはいけない
・室内では何も食べてはいけない
・室内では決して眠ってはいけない
指を折りながら、数える。
全部で、四つのルール。
「(このルールを守って、小屋の中で夜を過ごす。そうして、この島にいる神様――島神様に、祈りをささげて――0時になったら、死んだフリをする。これで、良かったはずだよね)」
ミコネは布に包まれた長物をほどく。
中身は本物のナイフ――らしい。
かすかな月の光を受けて、刀身がきらめいた。
このナイフを胸に当てて、死ぬ真似をするのだ。
そう、0時になったら――
「(あれっ?)」
ミコネの頬に、冷たい汗が流れた。
「(0時って、どうやって判断すればいいんだろ???)」
スマホの類は、灯りを出してしまう道具である。
小屋に入る前に、秋野ビストに預けていたのだ。
「(あ、やばいやばいやばい!)」
ミコネは時計を持ってない……
これじゃ、0時を判断できない!
「(どうしよ、儀式をやり直さなきゃ……!)」
座布団から立ち上がろうとすると――
コン、コン。
背後の壁板を、小さく叩く音。
思わず、ミコネは肩を跳ねさせる。
音の方向から、落ち着いた声が響いた。
「ダメわよ、返事したら。
言葉は厳禁、でしょ?」
「(セラ先輩!)」
声の主は、セラだ。
「秋野のお母さん、言い忘れてたみたいだけどさァ。巫女に零の刻を告げるために、祭場の外で待機する要員がいるみたいなのよ。アンタの分はアタシが担当するわ。殊能ヨミの方は、無明マツリに任せてる。おわかり? 了解したなら、ノックで答えなさい」
了解――!
ミコネは立ち上がり、近くの壁をトントン、と叩く。
壁の向こうから、セラの声が聞こえた。
「よしよし。どうせ一人でいたら、アンタも眠っちゃいそうだしさァ。アタシで良ければ、儀式の時間が来るまで、話し相手になってあげるわよ。まァ、話し相手っつっても、アタシが一方的に喋るだけか……」
「(いえいえ! 助かりまーすッ!)」
ありがたい話である。
セラは色んなことを知ってて、普段から話が面白い。
少し前にも、古代の魔術の話で盛り上がったばかりだった。
それから、セラは他愛のない話をいくつかしてくれた。
キャトルミューティレーションの正体は、牧草地で病死した牛の身体が血が流れて、地面にしみ込むために、血を抜かれたように見えてしまうとか――昭和初期に神奈川県で発生した、ウイチグス呪法典の写本の一つが原因となった事件で、大活躍した奇妙な名探偵がいたとか――ある漁村で、漁獲を願って魚の如き神と契約した一族がいたとか――そんな興味深く、胡乱で、楽しい話を。
「(そう、あたしはオカルトが好き。ヨミちゃんは、撃滅したくて仕方ないみたいだけど……なんでかな。昔は、お母さんの影響で、そういう話もしてた気がするのに)」
なんて。本当は、ヨミが怪異を撃滅したがる理由には心当たりがあるんだけど。
自分がオカルトに惹かれるようになった方の理由については、最近、はっきりと自覚するようになった――この島に、やって来てからは、特に。
ずっと、この島のような伝説を探していた。
死後の世界を証明する、神秘を。
現代の科学では説明することが出来ない――
誰も否定できない、
世界の外側の法則があることを確かめたかった。
「――ごめんなさい、ミコネ」
「(……えっ?)」
壁の外で、セラは声をひそめた。
「ホントは、ずっと知ってたわ。アンタの母親のこと。オカルティストのあいだでは、有名だものね……」
「(そうだよね。セラ先輩は物知りだから、知ってても当たり前)」
知ってて、知らないふりをしてくれた。
――セラ先輩は、優しいから。
コン、と壁を叩いてミコネは答えた。
セラは絞り出すような声で、続ける。
「玄野アル。一般的には、推理小説作家の『夢野ナコト』って言った方が、通りが良いわよね。作品を読んだのは、つい最近だけど。それ以前から、アタシも作者の名前は知ってたわよ。ほら、有名人だもんね……」
有名人、という響きが皮肉だった。
オカルトマニアのセラが知ってる『夢野ナコト』は、推理小説作家としてじゃなく――筋金入りの神秘主義者として、だろう。
「作品のファンからしたら、意外みたいよね。そりゃそうか。『夢野ナコト』が小説に書いている名探偵はさァ――この世には不思議なことなんてなァんにも無い、って顔の現実主義者で、快刀乱麻の推理で事件を解決しちゃう、冷徹無比な理性と論理の使徒。そんな名探偵の生みの親が、よりにもよって作品外では、オーラだの霊界だのなんて言って、バラエティ番組で占い師みたいな顔して出てるんだもの」
一見して、同じ人間から生まれたキャラクターとは思えないのも無理はない。
もちろん、一般論として――
人間には、いくつもの内面が存在するのだし。
そういったペルソナを使い分けて、
色んな立場の登場人物を描く――
というのは、作家の能力なんだと思う。
もちろん、一般論は一般論で。
『夢野ナコト』の場合にはタネがあったのだが。
★★★
「ミコネ。こわいの?」
「うん……」
「お化けなんて、いないよ。
ミコネは、すぐ、だまされる……かも」
★★★
ごく身近に――実の娘のすぐ近くに、
名探偵というモデルがいた、というタネが。
――その母も、今はもう亡くなっている。
ありふれた不幸。ありふれた病気。
人並みのありふれた最期、けれども。
最期に発した言葉は、有名人の遺した、
ありふれない逸話として、注目を浴びた。
「『夢野ナコト』は死後の世界を信じてた。
だから、自分のファンにこう言い遺したのよね?」
――私が逝ったら、絶対に、どんな方法を使ってでも、現世に私のメッセージを送ってみせる。私の死が、死後の世界の実在を証明する……!
コン、とミコネはノックで応えた。
人は死んだら、終わり……じゃない、と。
玄野アルが遺した呪。
母が死んでから、ミコネの見える世界は一変した。
☆☆☆
「機嫌が悪いときとか、気分が悪いとき、とか……精神がネガティブなときには、何を言われても……何を聞いても……マイナスに捉えてしまうことがある。だから、人を殺したいほど憎んでいるときには……何を見ても……人を殺すための道具に、見えてくるのかも」
☆☆☆
以前に、ヨミが言っていたように。
人に見えるものは、その人の精神状態によって決まる。
「(あたしの、場合は……)」
ミコネは探したのだ。
どこかに、母のメッセージがあるはずだと。
朝、登校するときの電車のベル。
電柱の陰で動くもの。
SNSの書き込み。
友達との何気ない会話。
前に見たはずの景色。
開いた辞書の一番目の言葉。
叫び声。
脚の欠けた昆虫。
川を三度越えても消えない鈴の音。
同じ顔の他人。
技巧呪術書。
晴れの日に降る雨。
四月に降る雪。
尋常ではない出来事――
どこかに、ある。
きっと、あるはず。
目を皿にして一瞥する。
この上なく明瞭で、
読み落としもなく、
世界の外側の法則だとわかる、
アウトサイダーの足跡があるのだ、と。
それから、目につくようになった。
惹かれるようになった。
怪異の痕跡。
夜の灯に集う、蛾のように――
玄野ミコネは怪異の情報を集めるようになった。
ならば、ヨミが怪異を撃滅するのは――?
「殊能ヨミはさァ、アンタのことが大事なのよ」
「(……やっぱり、そうだよね)」
ミコネは言葉を呑み込んで、うなずいた。
「(あたし、ヨミちゃんに守られてる……)」
口で言っても、止まらないから。
☆☆☆
「私、メリーさん。
今、ミコネの後ろにいるの……」
「ひゃあああッ!」
銀色の髪をたなびかせて、ヨミが言う。
「メリーさんというのは、嘘。
私だよ」
「なァんで、ヨミちゃんがここにいるのー!?」
☆☆☆
怪異を求めるミコネを否定せず――
『魔』の危険だけを祓い、見守り続けてくれた。
「いい加減、わかってきたでしょ。怪異みたいな『魔』はさァ、人の心に悪い影響を与えるんだから。それが本物の神秘じゃなくったって、インチキの、まがいものに過ぎない『怪異模倣案件』であっても、人間を凶行に駆り立てる……アンタも、これまでに何度も危ない目に遭ってきたじゃないのよ」
「(わかってます、セラ先輩。だからこそ……あたしが怪異を見る目も、変わってきたんです)」
『魔』とは、世界に空いた陥穽のようなものだ。
ミコネのように、怪異に惹かれるものは、油断すると穴に落ちて、取り返しのつかない悲劇に陥るかもしれない――これまでの怪異撃滅クラブは、そんな人たちを、穴に落ちる一歩手前で引き上げることをしてきた。
「(あたし、もっと、強くならなきゃダメだ。ヨミちゃんみたいに、マツリちゃんみたいに、セラ先輩みたいに……強く、賢く、人に優しくできるようになるんだ)」
ようやく、旅の終着点が見えてきた。
死後の世界の証明。
母の遺した影を追う旅は、きっとここで終わり。
ミコネの目的は変わりつつあった。
今では、そう――
『魔』に苦しめられる人の、力になりたい。
もう、死後の世界があっても無くても関係ないんだ。
偽死忌――
何も起きなければ、それでも良い。
仮に何か起きても、きっとヨミは撃滅してくれる。
これまでも、ずっとそうだったけど。
「(だけど――あたしが、変わらなきゃだよッ!)」
小さく、強く、拳を握る。
コン、と壁を叩くと――セラの方もコン、と答えた。
壁の向こうで、セラが微笑んだ――ような、気がして。
ミコネは、そのことが嬉しかった。
「(……あれっ?)」
室内の暗さが一段と増した。
気づくと、扉から差し込む月光が薄くなっている。
「(月が雲に隠れたのかな……?)」
「おっと。そろそろ、カウントダウンわよ」
「(えっ、もう、そんな時間ッ!?)」
ミコネは慌てて、手元のナイフを確認する。
薄暗いから、距離感に注意しないと!
「ほらほら、いくわよー。
きゅー、はち、なな、ろく……」
ミコネは、ナイフの柄を手に取る。
布越しに、胸の中心へと刃先を向けた。
事前に受けた、指示通りに。
「……よん、さん、にー」
震えが刃に伝わる。
触れる真似をするだけ、真似をするだけ――
大丈夫。
胸元に手を当てると、心強い感触があった。
「(きっと、何があっても、守ってくれる)」
「いち……ゼロ!」
セラが零時を告げると同時に、
ミコネは動いた。
触れるか、触れないか。
ちょん、と当てる真似をして――
「(よし……!)」
当てたら、ナイフを床に置く!
座布団の横。これも指示通りだ。
「(これで、大丈夫のはず……)」
一時的な仮の死を迎える儀式。
死後の世界へと行く手順は完了した。
果たして、何が起きるのだろう。
高鳴る心臓。
ミコネが、緊張を高めた瞬間――
ドォン!
扉の向こうから、轟音がした。
方角は――ヨミのいる小屋の方だ。
「(な、なにッ!?)」
奇怪な音は、一度では終わらない。
続けて、
ガァン! ガァン! と、何度も床に打ちつける音がする。
ヨミの身に、何かが起きた?
小屋の中では声を出してはならない――
そんなルールは、ミコネの頭の中から消えていた。
「――ヨミちゃんッ!」
ミコネは立ち上がり、外に声をかける。
「セラ先輩! 何かあったんですか!?」
禁を破った叫び――しかし、返事はない。
何かが起きている。
不測の事態に、呼吸が浅くなった。
怖気が背骨の方から上がってきて、喉が詰まる。
もう、こうなったら儀式どころではない。
ヨミの安全を、確かめるしかない。
ミコネは嫌な予感を振り払うように、扉を開けた。
「…………え?」
扉の向こうの光景が信じられない。
ミコネは自分が見ているものを疑った。
まず、感じたのは異臭。
生臭い、鉄の匂い。
扉を開けた真正面では、反対側の小屋が見える。
ヨミの小屋は、同じように扉が開いていた。
闇に慣れた目が、室内を見据える。
何が、あるのか、理解して、
ミコネは息をするのも吐くのも忘れた。
床の一面に、黒色の液体が広がっている。
裂けた白い布の正体がワンピースだと気づいたのは、
布切れにつけられていた刺繍のおかげだろうか。
触れば折れそうと思っていた細い足は、
赤黒い血に汚れて、
ほっそりとした太ももから切断されて転がっていた。
すぐ横にあるのが切断された腕だと気づいたのは、
幾度も絡めた指の形に、見覚えがあったからだろう。
「あ……あ……?」
乱れた足取りで、小屋の外に出る。
反対側の小屋へと足を進める。
何かがある。見たくもないものが。
ヨミがいた小屋は、
ミコネのいた小屋と同じ構造になっているらしい。
小屋の奥には机が一つ。
異なる点はというと――
机の上には、瞳を閉じた顔があった。
長い銀色の睫毛を伏して、眠っているように。
口元からは一筋の血をこぼして。
銀色の髪を机いっぱいに広げて。
首から上だけの、少女が置かれていた。
人ではなく、モノのように、だ。
胃が収縮する。
黄色い味が喉元までせり上がってきた。
机の上にあったのは――
「い……いやァああああぁ!」
殊能ヨミ。
ミコネの大切な人は、物言わぬ首となっていた。




