12 黒い毛の犬③
ようやく気分も落ち着いてグズグズと鼻を鳴らしながら、起き上がった。本当に最悪だった。
運命の番という努力でも何しても敵わない存在に、私はやっと出来た恋人を奪われてしまった。
それに、居なくなった彼を匿うという、謂れもない罪も着せられるところだったし、本当に体も気持ちも疲れてしまった。
壁に掛けられた時計を見ると、もう陽も高くてお昼過ぎだった。怒りと悲しみと良くわからない激しい感情を吐き出すような激しい勢いで泣いた。
今まで考えもしなかったけど、流石に喉も渇くしお腹も空いてきた。
「ごめんね……何の関係もないのに。私に付き合わせちゃった」
私は黒い犬の頭を、そっと撫でた。大きな獣耳はピンと立っていてかわいらしい。
黒い犬は、ずっと泣いている私のそばを離れなかった。この子もお腹も空いたろうし、お水も飲みたかっただろう。
気を使わせてしまって、本当に可哀想なことをした。
「僕の方こそ……ごめんね。リィナ」
何故かその時、シュー様の声がした。
「え?」
私は慌てて部屋を見回すけど、もちろん誰もいない。色々と重なり過ぎて、幻聴が聞こえたのかもしれない。深刻な状況にある自分を思って、肩を落としてしまった。
「……リィナ。僕だよ。これまでずっと黙っていてごめん。君に一目会いたくて、この家の近くまで来たんだ……今日この姿のまま、君の前から消えるつもりだった」
黒い犬が人の言葉を、流暢に話している。私は目を疑った。え。でも、そういえば獣人って、獣化出来るって聞いたことあった……。
「もしかして……シュー様なの?」
シュー様こと、黒い犬がこくりと私の間近で頷いた。
「カリンのことも、ごめん……彼女はその前から気が強いし、自分のものだと思ったものに対し執着が強い人なんだ。僕が彼女の前から急に居なくなったから……夜通し、ずっと探していたんだと思う。嫌な思いをさせて、本当にごめん」
そっか。シュー様はカリンさんから、あの逃げていたんだ……。
「ううん。シュー様は、悪くない……です。だって、私の家に来たのはあの人の勝手だし」
カリンさんが深夜に喚いたのは、別にシュー様のせいじゃない。彼の誤解を正したくてそう言えば、黒い犬のシュー様はふるふると首を振った。
「僕が、いけないんだ。リィナに出会えて、運命の番の呪縛からも逃れられたと浮かれていて、カリンの現在も調べていなくて……何も考えていなかった。何もかもが中途半端で……リィナのことをこんなに傷つけて、本当に悪かったと思っているんだ」
大きな黒い目から大粒の涙をはらはらとこぼしながら、シュー様は言った。
これはシュー様本人にも、どうしようもないことだ。それに、私は出会ったばかりの彼と今すぐに蜜月に入れるかと言われたら、そこまでの覚悟は出来ない。
「誰だって……お腹がすいたら、何か食べるし。喉が渇いたら、何か飲むわ。だから、シュー様が運命の番を求めるのは、当たり前のことで、何も悪いことじゃないと思う。獣人だから……そういう習性があるというのは、自然なことだもの。仕方ないことだわ」
「リィナ……」
彼はうなだれて、頭を器用に前足で掻いた。それには、白い包帯が痛々しく巻かれている。
「……あの……その手の怪我は、どうしたの。何があったの?」
落ち込んでいる様子のシュー様は、一度大きなため息をついて言った。
「僕が、自分でやったんだ。運命の番のカリンと……一度番ってしまえば彼女のことしか、考えられなくなってしまう。それは、どうしても嫌だった。だから、自分で手を縛ったんだ。でも……本能が邪魔して、彼女が傍に居ると外そうとしてしまう自分が心の中に居て、それが嫌になって、獣化してここまで来たんだ。リィナの顔が、どうしても見たくて。獣化してしまったら、本来の体じゃないせいか、本能が遠く感じられるんだ……彼女じゃない。リィナと……君の、そばに居られる」
「シュー様……」
自傷してまで、本能に逆らおうとするなんて……ううん。彼が言った。一度番えば、カリンのことしか考えられなくなるって……そうすれば、私のことなんて忘れてしまうだろう。
ぐっと手を強く握って、私はここ一番で女を見せることにした。
「やだ。シュー様。もしかして……求婚を受けたことを、本気にしたんですか? 私。こう見えても、男性にモテるんですよ。彼氏だって常時三人は居ます。それに、シュー様よりもリード様の方が、好みのタイプなんです。彼、格好良いですよね。銀の髪に青い目、シュー様の傍に居て近づくチャンスを伺うつもりだったんだけど、……とても、残念だわ」
私は出来るだけ明るく、からりと笑ってポンポンと黒い背中を叩いた。
「リィナ……」
「だって、シュー様。私と傍に居るのなら。ずっと、犬の姿のままなんでしょう? せっかく騎士様になれたのに……職業もなくして、どうやってこの先、生きていくつもりなんですか?」
「……リィナ」
シュー様は自分をじっと見つめる私に、気まずそうにして俯いた。
「もう帰ってくれます? 今日は彼氏の一人と、会う約束してるんです……ちょっとだけ付き合った女と、別の男性とのラブシーンが見たいのなら。別に見学しても良いですよ?」
私は微笑みながら、窓を開いて指差した。
窓に向けて歩み出したシュー様は、一度だけ迷ったように振り向いた。けれど、するりとしなやかな身のこなしで、屋根からトントンと音をさせて降りていった。
「今度こそ……本当に、さようなら。シュー様」
きっちりと窓を閉じると、また涙が溢れて止まらなくなった。




