④無い胸高鳴る、胸筋尋問。
またそのうち会えるだろうと楽観していたのが阿呆だったらしい。ちょくちょく構ってくれていた美しき筋骨の持ち主は、あれから忙しくなったのか顔を合わせることが難しくなっていた。同じアパートであるのだからいくらでも会う機会はあると思っていたのに。
ならば、あの謎のイベント団体に顔を出せばいいのだろうが、相変わらず胸も精神も矮小な私に、そのような勇気はなかったようだ。サヤから聞く話でもう腹がいっぱいである。胸が一杯にはならない。むしろ虚しくなる。
「なんかねーマッチョ先輩いそがしそーって、チャラい先輩が言ってた」
授業の休み時間に、サヤは話す。チャラい先輩がどれかわからない。全部チャラかったぞ。
「てかチャラ男先輩もカンナに来てほしいって言ってたよー」
「……考えておこう」
私は何度考えておこうと言うつもりなのだろう。このままではいい加減、決心したときにはすでに遅し。タイミングを逃すことは自明の理であるのに。所詮私は、ガリ貧乳の陰キャであるのだ。嗚呼、無情。
◎ ◎ ◎
それゆえ、見かけた途端に全力で立ち向かうことはもはや当然の理であった。先輩を次に見かけたのは、ここいらの大学生御用達のスーパーマーケットであった。大きな体は相も変わらぬジャージ姿。太ましい腕に緑色の買い物カゴをかけ、ウロつく先輩の服の裾をぐっと掴んでみた。
「久しぶりです」
「……お、カンナちゃん」
爽やかな笑顔を浮かべる。先輩の買い物カゴには、大量のカップラーメンが入っていた。先輩は「見るな見るな」と笑う。
「自炊ほとんどしねぇんだわ」
「私もです。最近はキャベツごはんしか食べていません」
「カンナちゃんの食生活どうなってんだよ」
そんなことはどうでもよいのだ。私は先輩を見上げて単刀直入に告げる。
「どうすれば巨乳になれますか」
「……ゲホッ、ゴホッ」
咳き込む先輩。不思議な顔をしながらこちらを眺めて横切るご婦人。
「もう胸筋でいいので巨乳になりたい。そして伴侶を得て、我がDNAを残して死にたい」
「端的に言えばモテてぇんだな」
「モテたい」
大真面目である。先輩は「なるほど」と顎に指を当てた。
「カンナちゃん、普通にモテそうだが」
「残念ながら、全く」
「それによ、」
先輩は新しくカップラーメンをカゴに入れる。
「その、言いにくいが、その…………別に、貧乳が好きな男だっているし……」
「哀れみはいらぬのです」
私もカップラーメンを食うことにした。一番食べごたえのありそうな奴を手に取り、そうだ、と思いつく。
「先輩、ちょうど我が家にお湯があります」
「お湯くらいどの家にもあるだろうよってツッコミはしないでやろう」
「我が家で胸筋についてご指導していただけませんか」
何か諦めたような、心に決めたような表情でため息を吐いた先輩は「……分かったよ」と言ったのであった。勝機。
◎ ◎ ◎
私と先輩は同じ屋根の下に暮らしていると言えば語弊しかない。同アパートの住人であることは、この大学周辺、学生街に住むものとなれば格段珍しいことでもないのだ。ただ少し、木造築何十年かもわからぬ、ところどころのトタンが剥がれたボロ屋……もとい趣のある家屋であることを除けばどこにでもある下宿アパートである。
先輩を招く我が部屋は、相も変わらずろくに片付いていなかった。まだダンボールの中から整理しきれていない服やら雑貨やら食器やら食い物が顔を覗かせている。引っ越したばかりであるのでキレイではあるが、恐らくは、わけのわからぬ内にごちゃつくに違いない。ダンボールから電気ケトルを取り出した私は、水道水をためてちゃぶ台の上にセットする。玄関で困ったように立ち尽くす先輩に「まあ何もないですがよければ」と言って招き、座布団を手渡した。先輩は大きな体を縮こまらせて座る。
「さてごつ盛りか、スーパーカップか、はたまた軟弱なヌードルか」
「カンナちゃん、さてはラーメン相当好きだな」
「無論。この間のところも、とても美味しかったです」
「はは、そりゃよかった……」
お湯がもう沸いたらしい。ボコボコと沸騰する音と共に、ガチッとスイッチが切れた。先輩の目の前で待ち構えるスーパーカップトンコツ味にお湯を注ぐ。続いて私のゴツ盛りワンタンしょうゆ味にも注ぐ。ついでにガラスのティーポットに麦茶パックを入れてそこにも注いだ。出来たてのお茶を、マグカップ二つに注いでちゃぶ台に置く。
「素晴らしきかな、この光景。ラーメンと雄っぱいリターンズ」
「カンナちゃん、真面目な口調でそれはマジでずるい笑うわそんなん」
「して、先輩。先輩はどのようにしてその、嫁の名を叫ぶ芸人の相方マッスルもビックリな筋肉を手に入れたのでございましょうか」
先輩は割り箸を口に咥え、片方の手でボキンと折るように箸を割った。ワイルド。
「元々体はでかかったんだけどな、運動も好きだし」
「初っぱなから気持ちがわかりませんな。わたしも女にしては高いほうですが、かといって運動ができるわけではないので、バレーボールやバスケットボールなどこの世から無くなってしまえと思っておりました」
「あー、背が高いと色々言われるよな、期待されるし。俺、中学高校はバスケしてたんだよ」
「なるほど」
先輩のバスケ姿。さぞかし素晴らしいものであろうと感心した。おっと、もう三分たった。ふたを開けるとチープな汁の香りに腹が鳴る。
「カップ麺を私は愛しています。汁まで飲んでいたらサヤに怒られましたが」
「あの子はなんか女子大生って感じだな」
「いえ、最近化けの皮が剥がれていますよ。やつは恐らく猫被ってますね」
サヤの話はどうでもいいのだ。
私はズズズと麺を啜る。細くて力ないチープな麺はまさにカップ麺ならでは。熱々の汁をよい程度に吸ったそれは口のなかに不健康そうな油っぽい味わいをもたらす。水分を取り戻した、この一見カスのような「かやく」もなかなかの味わい。麺に絡み付く。貧相なワンタンも汁を吸ってうまい。このチープさ、背徳感がたまらぬ。
「今しているのは、な○やまきんに君もビックラなマッスルの話です」
「まあ、あれだな、ずっと筋トレはやってたさ。ジムにも一時行ってたな……受験のストレスとかでますます筋トレばっかしてた」
「ほうほう」
「まあもう、日課みたいになってんからな。部屋にもいくつか筋トレ用の色々があるし、朝は気が向いたら走りに行くし」
なんというストイックさ。そして先輩はもう早くも食い終わったようで、ハンカチで口をふいていた。
「プロイテンは飲みますか」
「プロイテンじゃなくてプロテインな……! はは、飲む飲む。 とりあえず飲んどけばいいだろって感じで飲むな」
なんと。
「ではその……世の貧乳を全力で敵に回しそうなほどのクオリティを誇る胸筋は如何様にして」
「あー……」
先輩は考え込む。
「やっぱジムのベンチプレスが効いたかもしれねぇな」
「それやったら巨乳になれますか!」
「待て待て待てカンナちゃんの折れそうな腕じゃ無理だ。まずは腕立て伏せぐらいからやらねえと」
「ぐぬぬ」
汁をすすって、唇を噛む。
「というか、その……なんで胸筋にこだわる? もっと、なんていうかその、正当法があるんじゃないのか、よく分からんが」
「正当法……」
私はああ、と相分かった。
「バストアップ体操も試しましたし、生活習慣も一度も乱したことがありません。一時は朝昼晩と大豆を接種し、水分は豆乳しか飲まず、もはや私が大豆なのか大豆が私なのか、畑の肉は大豆なのか何なのか分からなくなりました」
「涙ぐましいな……でもその気概、良いと思うぞ」
先輩は笑顔を見せてくれた。うむ、さっきから表情が固かったのは何故なのか分からなかったが、緊張がほぐれたのなら良かった。
「しかしついには我が乳房が十分に育つことはありませんでした。わたしの計画がモロ崩れであります。私のパーフェクトなプランでは、ボッキュンボンのエッロイ女子大生としてモテにモテまくること必須でありましたのに」
普通に悔しい。私はため息をつく。このままでは我がDNAは、私の代であとかたもなく煤塵と帰すだろう。
「カンナちゃん、あの、前も言ったけどな」
先輩の目が泳ぐ。私の顔を見ようともしてくれぬ。そして、心なしか顔が赤らんでいた。この部屋はそこまで暑かっただろうか。
「別に、その、胸が大きくなくてもな」
「うーむ……うーん……うーーーん、本当にそうでしょうか…………」
「カンナちゃんはその、可愛いから」
何かブツブツ言ったが、語尾は聞こえて全く聞こえなかった。私が怪訝にしていると、先輩は「あっ、あ、わ、悪い、そろそろ帰るわ、またな! あ、またサークルにも遊びに来てくれ!」と言ったかと思うと突然立ち上がり、慌ててこの部屋を後にしてしまった。
私は取り残されてポカンとする。
……………私、また何かやらかしたのだろうか。