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8 ファルードにその名を告げて

アルファ(ライジード):赤みを帯びた黒髪、黒の瞳。エスリーダ王国の第三王子。

ベータ(レスター):学者。

ガンマ(ザイファス):緑を帯びた黒髪、黒の瞳。盗賊。

デルタ(ファルード):紫みを帯びた長い黒髪、黒の瞳。リベラ女神の神殿に属している。

イプシロン(ロムルス):青みを帯びた黒髪、黒の瞳。アームル帝国の一軍に属している。


松岡美冴:黒髪に茶色の瞳。ストロベリーブロンドの髪と、青や緑にも見える灰色の瞳の姿を与えられ、レイラとして生を受ける。マイオスに拾われ、リリエルと名づけられる。


ロキス:レイラの父親。商売人をしていたが、妻ミザリーと共に殺された。


チェンジン国・リミダ村

 マイオス:焦げ茶の髪に青い瞳。がっしりとした大柄な男。妻モイラと娘リリエルを殺された盗賊。

 リリエル(レイラ):薄い水色の髪と青い瞳。

 ザイ:リミダ村の村長であるロードの長男。濃い緑の髪に灰色の瞳。

 ローリー:ロードの次男。

 リネア:黄緑色の髪に赤い目をした、マイオスの隣家の奥さん。夫はガンス。

 クユル:ミルドの息子。


チェンジン国 ピルッポの街

 オードン騎士隊長:騎士や兵士達を束ねる男。末娘シアラを誘拐された。

 シアラ:水色の髪。水色の目。

 グイン:ミッドナイトブルーの髪に赤い瞳。リミダ村出身と言っていた。

 ポリーヌ:オードン騎士隊長の屋敷で働くメイド。茶色の髪に茶色の瞳。

 ミハス:オードンの家令。



リベラ神国・ルーセット神殿

 イディラート:エリート神官。腰までのばした焦げ茶色の巻き毛に緑の瞳。

 ソール:イディラートの傍にいる中級神官。若いが苦労人。30代。

 エリオット:上級神官。神官試験の監督にもあたった。リリエルを可愛がっていて、マンツーマンの授業もしていた。白髪に茶色の瞳。

 レルネーゼ:ファルードの指導にあたる女神官。緑色の髪に緑の瞳をした、二十代後半の女性。

 ロクスーリ:上級神官。

 グンドール:ルーセット神殿の治療院で働く医師兼神官。

 エディオス下級神官:二十代神官。親がルーセットの有力神官。

 サイラーユ上級神官:リリエルの為に自分の一室を空けてあげて提供した。

 あの日、自分を売りつけた時のことを覚えている。

「そりゃお前さんの見かけと頭と物腰なら、これだけ出せるが、・・・あまり勧められるもんじゃない。いい主人に当たりゃ重宝もしてもらえるが、悪い主人に当たったら悲惨ってぇもんだぜ」

と、仲介を行う男に言われた。

 今回の飢饉により、皆が飢えていた。そして抵抗力の弱い小さな子から病気に(かか)る。妹が罹った病気の薬こそ売られていたが、・・・かなり高価だった。

「いいんです。ただ、・・・いい主人に当たるよう配慮してくれると嬉しいですけど。僕は、妹を死なせたくないんです」

と、顔では微笑を浮かべて言いきったものの、足元が震えていたのに気づかれていなかっただろうか。

「ああ、そうか。妹がな・・・。今回のは、軒並み農作物がやられたからな」

と、その男は納得したように頷き、手配してくれると言った。

 そして渡された金を手紙に添え、自分の部屋に置いて、家を出た日のことも覚えている。

 これがもう最後なのかと目を伏せれば、こっそりと家を出る間に聞こえてくる家族の寝息や寝言すら、とても愛しく大切に思えた。

 そうしてまだ夜も明けきらぬ内から、振り返らずに慣れ親しんだ家を出た。

 故郷は遠く、懐かしい両親と姉妹達の夢を見ることも今は少ない。

 自分の顔を鏡で見ては母や姉に似てきたなと、心が揺れぬわけではないけれど。




 しとしとと、静かな雨が降っている。濡れた地面、そして青っぽい草木のにおいが空気に混じっていた。人の声もそんな湿り気を帯びた空気に吸い込まれがちで、どこか閉ざされた静けさがある。

 いつもはガヤガヤとうるさいのになと、ファルードは苦笑した。雨だというだけで、人はいつもよりも少し大人しくなる。

 それでも気分を入れ替えて、元気にいこう。だって、うじうじしていても仕方がないのだから。

 元気に明るく挨拶しよう。一日の始まりは、やはり人と会って挨拶することから始まると思うし。


「おはようございます、レルネーゼ様。今日は何をいたしましょうか」


 いつものように明るいファルードに、指導に当たっている下級の女神官レルネーゼは、知らず微笑んだ。

 奴隷上がりだと馬鹿にされていることも多いファルードだが、やはり彼の指導を引き受けて良かったと思う。毎日が楽しい。


「おはよう、ファルード。今日は雨だから、参拝客も少ないでしょう。試験日も近いし、今日は自習していらっしゃい」

「ですが・・・」

「大丈夫よ。私も今日は図書室で過ごすつもりなの。だからあなたも同じテーブルで好きにしておけばいいわ。誰かに訊かれたら、私の調べものを手伝ってるって答えるのよ?」

「・・・分かりました、レルネーゼ様」


 内心の重苦しくなった気持ちを押し殺し、ファルードはにっこりと笑顔を作り、そう返事した。

 そんな彼の微笑に、相変わらず綺麗な子ねぇと、レルネーゼは感心する。


(紫の髪に、(けぶ)るような灰色の目かぁ。静かなイメージを抱かせる組み合わせよね。いつも明るいからそうでもないけど、石壁を背景に黙って佇んでいる時なんて本当に神秘的な雰囲気が漂ってるし)


 レルネーゼは青緑色の髪に緑の瞳をした、二十代後半の女性だ。お世辞にも美人とは言えないが、物腰が柔らかく、誰にでも丁寧に接するので、目立たないこともあって嫌われにくい。だが、下級神官である為、彼女の指導を希望する見習い神官はまずいなかった。

 やはり、下級よりは中級、中級よりは上級の神官についている方が、出世も早い傾向があるからだ。

 けれどもファルードはレルネーゼを希望し、了承された。

 思った通り、上級神官は一人あたり複数の見習い神官がつくことが多いが、レルネーゼの見習い神官はファルードだけである。

 皆には、

「アホだな。お前、本気でアホだろ」

「そうだよ。なんで下級神官、希望してんだよ」

「人気なのはメイス様って教えてやったろ」

などと言われていたが、ファルード自身はこんなもんだろうなと、そう思っていた。


(奴隷商人の所にいたのは事実だ。・・・そんな噂が先に立っている以上、僕が希望したら不愉快になる神官の方が多いだろうがよ)


 リベラ神国出身ではないファルードは、実家がない分、どうしても立場が弱い。指導にあたる神官への付け届けができる財産もないし、出世を約束できるような権力を持つ親もいない。

 ファルードにあるのは、自分自身だけだ。


(しかし、・・・お稚児さん趣味のある神官の所にだけは行きたくなかったしなぁ)


 そういう趣味のある神官なら、ファルードが何もなくても、いや、ないからこそ喜んで受け入れただろう。しかし、それはファルードこそが遠慮したい。

 だから選択肢は限られた。ファルードに財産や有力神官との繋がりがなくても、それを不満に思わずに受け入れてくれる純朴な女性の神官を希望するしかなかったのだ。

 女神官は数が少なく、出世しにくい。だからだろう、見習い神官を受け入れるにしても、メリットをシビアに判断する傾向があった。

 だからファルードは、出世を諦めていて、そういった付け届けなどを欲しがらなさそうなレルネーゼを希望したのだ。

 だが、レルネーゼはそういったファルードの事情をよく分かっていないようだった。

 下級神官であるレルネーゼをファルードが選んだことに対して疑問を感じたらしく、

「あの、・・・ファルード? どうして私を希望したの?」

と、面接の際に、本当に不思議そうな顔で尋ねてきたからだ。


(・・・・・・・・・一番、薄ぼんやりしていそうだったからです。は、まずいよな)


 一方。

 もしかして、まさかと思うが、ファルードみたいな綺麗な少年が自分を選ぶだなんて、それこそ・・・と、レルネーゼもドキドキしていた。


(この子の成績、見せてもらったけどかなりいいのよね。私より頭がいいんじゃないかしら。・・・そりゃ神官見習いの仕事は実務経験になっていくけど)


 レルネーゼは初めて指名されたことで、実はかなり舞い上がっていた。


(それでもこれだけの成績なら上級神官でもそれなりの方につくべき、よね? なのに私だなんて、・・・どうして私っ? ファルードって外国出身者だし、私の地元と無関係だし。まさか、この子、私に、・・・・・・いやいやいやっ、そんなこと、あるわけないけどっ)

 

 ファルードもいささか恥ずかしそうな顔で、

「あの、それは・・・」

と、口ごもってしまったからなおさらである。ただ、その後で、

「あの、・・・レルネーゼ様の髪と瞳の色が、母にそっくりなんです。そ、それに初めてお見かけした時、ちょうど転んで泣いてしまった子供を抱き起こして慰めていた様子が、まさに母とそっくりで・・・」

「・・・・・・・・・」

「とても懐かしくて、・・・いえ、失礼だとは分かっているのですが、それでつい・・・」

「・・・いいえ、そんなこと。とても光栄よ」

と、続けられたことで、そのドキドキも霧散してしまったが。


(お、お母さん・・・。ふっ、そうよね。そうでしょうとも)


 そんなファルードは、紫色の髪と灰色の瞳をした、色合いからしても高貴そうな印象を与える少年である。レルネーゼは青緑色の髪に緑色の瞳である。蛇足ながら、ファルードの色合いと顔立ちは母親譲りである。

 レルネーゼは頬を引き攣らせながらも、精一杯、鷹揚に頷いてみせた。

 いいのだ、別に。何も期待などしていなかったし。

 年の差は十才程度だけに、自分に誰かを重ねるなら、せめてお姉さんであってほしかったと思いながらも、レルネーゼはファルードを受け入れた。






 ザイの見送りも、神殿の外までなんて許されなかった。


「どうして私がお見送りしちゃ駄目なのっ」

「リリエルはずっと病気だったでしょう? なら、外に出ちゃいけません」

「あれは仮病っ!」

「どっちにしても、駄目です」


 若いエディオス神官にそう言われ、帰ろうとするザイを見送ろうとしても、リリエルが暮らしている建物から出してもらえなかったのだ。


(何、これ。本気で私を留めようとしてんじゃないっ。今まで、特に出ようと思わなかったから気づかなかった。何なのよ、これ。本当にこの人達・・・)


 今まで気づかなかった自分が間抜けすぎて泣きたい。

 だが、今の自分は九才の子供だ。

 大人の自分ならともかく、子供ならではの聞き分けのなさを全開にしても怪しまれない。

 リリエルは、女優になった。

 いいのだ、もう別に。大人としてのプライドも矜持も、・・・産まれた時から木端微塵(こっぱみじん)なんだし。


「ならザイと帰るっ」

「許しませんっ。あなたはここの神官コースで学んでいる子なんですから。リリエル、我が儘を言うんじゃありませんよ」


 土壇場でザイと離れるなんてやっぱり受け入れがたいと、かなりごねてくるリリエルに、神官であるエディオスもかなり苛立っていた。

 自分達がこんなにも大事にしてあげているのに、リリエルは物わかりが悪すぎる。養い親がいるという、貧しい村に帰りたがるのだ。

 どうして子供というのは、賢く見極めることができないのだろう。

 この神殿にいれば皆から大事にされ、幸せに生きていけるというのに。


「ならザイ、泊まっていってっ」

「それも駄目です。彼は神官コースで学んでいる子供でも何でもありません」


 ザイは、リリエルの背中に片手をまわし、もう片方の手で頭を撫でてあげながらその会話を黙って聞いていた。

 今のリリエルは毛を逆立てて威嚇しているようなものだ。ザイが傍にいて撫で続けているから、まだそこまで喚いていないだけで、本当はかなり怖がっている。


(こんなリリエルを残していかなきゃならねえのかよ・・・!)


 だが、リリエルを連れて逃げるのは不可能だ。ここのエリアを抜けても、一般の人達が入れるエリアを通らねばならない。そして、そこかしこにいる神官達だけではなく、その神官達が協力を頼めば、一般客すら自分達の敵にまわる。

 

「結局、神官様、ザイのこと、嫌いなんじゃないっ。なら、私も神官様なんて大っ嫌いっ。ザイがいないなら、私、お勉強なんてしないっ」

「・・・そんな脅しなんて、誰も困りませんよ、リリエル」


 若いからだろう。リリエルの挑発に乗ってしまったエディオスはせせら笑ってみせた。

 だが、先程から嫉妬に燃えた瞳をザイに向け続けているのだから、本当はかなり悔しいに違いない。

 

(なんか、この神官、贅沢に育ったって雰囲気がぷんぷんしてやがるんだよなぁ。たしかリベラ女神は、神殿関係者も結婚できた筈だ。もしかして、親が有力神官って奴かねぇ)


 ならばリリエルに執着しているのも分かる。恐らく、今の内からリリエルを手懐けようと思っているのだろう。可愛い女の子であるリリエルが、美少女に育つ前に。

 だが、甘い。

 リリエルを手懐けようと思ったら、小手先や口先だけでは駄目なのだ。彼女のハードルはかなり高い。

 マイオスとザイという前例を凌ぐ溺愛ぶりなど、甘ったれて育ったお坊ちゃんには到底できはすまい。


「お勉強しないなら、しないで構いません。あなたを可愛がってくださってお勉強を教えてくださってる方々が嘆くだけですからね」

「知らないもんっ」

 

 ここに必要なのは、リリエルの身柄だけだ。神官にならなくても、リリエルがこの神殿にいさえすればいい。だが、そうなるとリリエルをここに置いておく理由がなくなる。

 何があろうと、リリエルには神官を目指してもらわないと困るのだろう。


(そういうことなんだろうな。だが、・・・問題はリリエルがそれなりに成長してからがヤバイってことか。無理矢理、結婚させられてしまってからでは遅い。今は警戒されているだろうが、いずれ神官見習いになれば、外へも出るだろう。その時に、一気にリリエルを連れ去るしかない)


 そこで、ザイはリリエルに微笑んだ。


「リリエル。僕は来月、また君に会いに来る。あのね、僕は君に神官になってもらいたいけど、君がなりたくないなら、それはそれでかまわないんだ」

「・・・ザイぃ」


 リリエルが、ひしっとザイに抱きつく。

 反射的にそれを引き離そうとしたエディオスだったが、ザイがその手を叩き落とす方が早かった。

 その動作に気づき、リリエルはほくそ笑む。


(やっぱりザイって、こういう時に頼りになるのよね。甘いくせに、私の為なら手厳しいところなんて、本気で胸キュンだわ。・・・ふっふっふ、そんなザイは私のものっ)


 リリエルにしても、いくら何でも檻に入れられたりはしないだろうと、だからいずれ自分でも隙を見て逃げ出そうと考えていた。

 ザイには話を合わせているが、これは自分の失敗だ。ならば自分でどうにかしなくては。どうして十五才の無力な少年に、無茶などさせられるだろう。


(勝算はある。だって、私、自分の見かけは変えられるんだもの。外に出て、一度でも姿を隠してしまえばいい。その後は髪や瞳の色を変えてしまえば見つからない)


 だが、こんなにも勝手に自分のことを決められたのがムカつく。だから、わざとエディオスが嫌がりそうな、ザイとのいちゃいちゃぶりをアピールしているのである。


「約束して、リリエル。毎月、僕は君に会いに来る。君は、僕が来る限り、お勉強を頑張ろう? ね、それならいいだろう?」

「・・・ザイが言うなら頑張るけど。だけどぉ、ザイがいなきゃヤだ」


 そんな言葉が可愛すぎて、やっぱり持ち帰りたくなったザイだ。

 本当にいてほしいのは父親のマイオスなのだろうが、まだ顔を合わせていない以上、自信が持てないのだろう。

 大体、こんなにも帰りたがっている子供を親元に戻さないとは、どういうことか。


(しかし、こいつら、血の繋がりがないなら他人だろうと、ぬけぬけと言いやがったからな)


 何がリベラ女神だ。ただの強欲集団が。

 けれどもこれは自分の判断ミスだ。


(約束する、リリエル。必ず君を救い出すと)


 まずは逃走経路を考えねば。そして怪しまれずにこの地域に居場所を作ることだ。何故ならすぐ追手がかかるだろうから。わざとこの地に身を(ひそ)めてそれをやり過ごし、それから逃げた方がいい。

 しなくてはならないことは沢山ある。


「リリエル。意地悪な神官様なんて嫌いでいいからさ。だから君はちゃんとご飯を食べて元気に暮らしておいで? ちゃんとお外でも遊んで、お日様の光をたっぷり浴びなきゃ。だって君がしょんぼりしてると、みんなの元気がなくなっちゃう。君が笑ってくれているから、僕達も笑えるんだよ?」


 これは牽制(けんせい)だ。

 せいぜい深読みすればいい。リリエルを悲しませると、彼女の力が弱まるのではないのか、と。

 

(正直、そっちはよく分からねえ。大体リリエルなんて、皆に泣かされたり叫び声はあげさせられたりしてはいたが、本気で悲しみ続けることはなかったしな)


 だが、それは当たり前なのだ。

 誰がリリエルを乳母日傘(おんばひがさ)で可愛がってきていたと・・・。それこそ、こんなかったるい性格を演じ続けてきたのも・・・。

 それを、後から勝手に我が物顔しくさりやがって。

 

「リリエル。君のお部屋に行こう? そろそろお昼寝した方がいい。しばらく、ご飯も食べずにずっと部屋にこもってたんだから、かなり元気がなくなってる筈だからね。僕は、君が寝つくまで傍にいてあげる。・・・ね?」


 さすがのエディオスもそれを止めたりはしなかった。ここでリリエルを泣かせてまでずっと大騒ぎしていたら、本気でザイが泊まっていく羽目になると思ったのだろう。

 ザイとリリエルは、リリエルの部屋へと行き、そこで扉を閉める。

 

「寝つくまで、ちゃんと手を握っていてあげるよ、リリエル」

「ザイぃ、やっぱり帰っちゃうの」

「うーん、そこは仕方ないからね。さ、着替えて横になるといいよ、リリエル」


 さすがに着替える時はよそを向いていたが、その間もザイは脱出方法を考え続けていた。


「さ、リリエル。君が眠るまで傍にいてあげる」

「・・・うん」


 リリエルが横になってから伸ばされた手を握り、その横に自分も寝転がりながら、ザイはその耳元で囁いた。


――― 僕が来ている限り、勉強はするって姿勢を見せておいて、リリエル。そうしたら僕を門前払いしたくても彼らはできない筈だ。

――― うん、分かった。

――― それからお外に出たいアピールをして、なるべく神殿の外に出て。だけど毎回、ちゃんと神殿に戻るんだ。それを繰り返していたら、彼らも油断する。

――― うん。

――― こっそり君を(かくま)える場所を用意してから、一気に君を攫いにくる。リリエル、約束する。絶対に、だ。


 リリエルの瞳が潤んだ。

 美少女にも見えなくもない、十五才の不安定な年頃の少年の顔立ちはとてもシャープで整っている。自分をまっすぐに見据える、決意を宿したグレイの瞳はとてもクールでありながら熱かった。

 こんな特等席で独り占めだなんて、感動的すぎる。


(こ、これ、・・・できれば十年後にっ、ううん、五年後でもいいっ。あと少し男の色気が出てからもう一度言ってっ。かなり有望株ですっ)


 だが、ザイはリリエルがそれだけ不安に襲われているのだろうと思ったらしい。ちょっと反省した顔になって、穏やかな手つきで髪を撫でてくる。

 一気に優しくなった表情が甘すぎて、余計に瞳が潤んだ。


――― 大好きだよ、リリエル。君が大きくなったら、僕のお嫁さんになってね。


 ああ、神様。

 リリエルは思った。

 私、鼻血吹いてもいいですか・・・?






 図書室で勉強している神官や神官見習いはそれなりにいる。神官コースの授業を受けている子供達は、基本的にこの時間は座学である。

 ファルードの年なら、まだ神官コースの授業を受けていたりもするのだが、ファルードはその授業をかなり早く終わらせていた。


(まさかあのイディラート様に教わってて、成績が悪いなんてことになったら目も当てられなかったしなぁ)


 元々、ファルードはそれなりに裕福な大商人へと売られる筈だったのだ。なのに、国境に近い場所で宿泊している際に、まさかの人攫いにあってしまった。しかも、その攫ったのは、人を売り買いしては儲けている(やから)だった。

 隙を見て逃げ出そうとしていたら、よりによってその人攫い達は、顔のいい青年がその国境近くの森の木にもたれて昼寝しているのを見かけ、攫ってきたのだ。

 そう、・・・焦げ茶色の巻き毛に緑色の瞳をした、とても自然に森で安らいでいた青年を。

 ・・・・・・・・・。

 ちなみに、その青年がファルードと同じ(おり)に入れられて、それからのことは思い出したくない。

 それまで行ったことのないリベラ神国に関して、女神を讃える聖なる国だというイメージしかなかったファルードだが、もうそんな幻想は欠片も残っていないぐらいだ。

 その頃はまだ十才だったファルードまで、

「子供でも大人の小指の骨ぐらいは折れるであろう? 助けてもらいたいくせに、我一人に働かせるような横着はせぬよな?」

と、怯えた演技をしながらしっかり攻撃するのだぞと言ってのけた人物が、・・・今ではこのルーセット神殿の神官長である。


(やっぱりイディラート様の傍にいらっしゃる神官様に指導をお願いするべきだったのかなぁ。だけど、そうなるとイディラート様に対してのゴマすりとか、そういった問題に発展しそうだったしなぁ)


 ルーセット神殿のイディラート神官長の傍近くには、何人かの側近神官がいる。だが、彼らは上級神官の中でも別格で、神官見習いの指導などお願いできるものでもない。そして、傍にいる中級神官は、イディラートの世話、いや、・・・補佐で忙しくてそんな余裕がない。

 やってくれると言ってくれた人はいたが、・・・ファルードが彼の養子になっているのを知っているのはその側近神官と大神殿だけとあって、他の人にどんな勘繰りとやっかみを買うかを考えればお願いできなかった。

 コネとは、ほどほどに使えるものでなければ意味がない。なくても困るが、全てを吹き飛ばすような大きなものでも困る。

 そんな理由もあってレルネーゼを選んだのだが、・・・はっきり言えば失敗だったと、ファルードは反省中だ。

 こんなことならば、やっかまれようが、別格の神官を指名したモノ知らずと呆れられようが、あちらにお願いすべきだったのだ。


(イディラート様の、「何なら我がやってやろうか?」は論外としても、だ)


 そんなイディラートは、ファルードがレルネーゼを選んだと知った時、「まあ、良い経験になろう」と、呟いて終わったものだが。

 こうして図書室で自習していても、なるべく向かい合わせに座ってレルネーゼと距離をとるようにしているファルードだ。様々な書物を広げ、スペースも使って両隣の席スペース分まで使う。

 けれどもレルネーゼは、

「何を調べているの、ファルード?」

と、隣に座る。

 できれば図書室でも真ん中近くのテーブルに座りたいファルードだったが、レルネーゼはいつも目立ちにくい外れのテーブルを使わせようとするのだ。


(イディラート様にお願いして、図書室では死角になるテーブルがないようにしてもらったのに)


 そんなおねだりをしなくてはならなかった理由を尋ねもせず、イディラートは叶えてくれた。図書室を管理している神官には重い本棚の移動など、気の毒なことをしたとは思っている。

 だが。

 あえて言おう。

 一番気の毒なのは自分だと。

 どんなに本棚で隠れるテーブルをなくしてもらっても、端にあるテーブルで、皆に背を向けるように座るのであれば意味がない。

 ましてや、神官と神官見習いで恋人同士になるケースは全く無いわけではなかった。その場合は神官が男で、神官見習いが女のケースがほとんどながらも。


(なんだか段々エスカレートしているような気がする。指先で、どうして僕の太腿に触ってくるんだ)


 嫌がろうにも、指の内側ではなく外側を触れさせてくるのだから性質(たち)が悪い。それなら、なんとでも言い逃れができるからだ。

 しかも、ファルードが明るく楽しい話題で健全な空気にしていても、

「あら、まあ」

とか、

「やだ、そうなの」

とか言いながら、ポンと肩を叩こうとしてくるのだが、それはどう見ても肩というよりも胸の範囲だ。


(神官の試験さえ終わってしまえば・・・)


 神官の試験は、その神殿における神官長が執り行う。指導している神官の、内申点も考慮されるが、それが全てではない。

 ただし、指導教官の点数が0点であれば合格するのは難しいだろう。

 

「本当にファルードは頑張り屋さんね」

「レルネーゼ様に指導していただいている以上、受からなくてはレルネーゼ様の恥になりますから」


 だから頑張りますと、ファルードは続けて頭を下げた。


「そんなことないわ。だって見習いから神官になる試験に一発合格する人って少ないのよ。普通は、数回試験を受けてやっと合格するものだもの」


 冗談ではない。

 試験に合格してしまえば、まずは下級神官になれる。そうなれば立場はレルネーゼと同等だ。この苦痛に耐える必要もない。


(たまに、女の子が嫌がってるのに、「女のイヤってのは、本当に嫌がってるわけじゃない」とか言う奴がいるけど、それはないって断言できるね。全く恋愛感情を抱けない相手から性的な触れ合いを求められるのなんて、・・・苦痛なだけだ)


 人としてレルネーゼを嫌いなわけではない。

 勿論、欠点がないわけではないが、それは誰しも同じことだ。ここの神官長なんて欠点だらけなのだから。

 悪い人でもないし、自分に好意を抱いてくれるのも、それだけなら有り難いことだなとも思える。内心では何を考えていようとも、行動として節度を保ってくれれば、自分だって一生、仮に彼女より出世することがあったとしても、敬意を持って応対し続けられるだろう。


(だけど、・・・全ての指導する神官に伝えられていた、見習いだけの試験用特別授業などを、僕には全く教えてくれていなかった。その日は、神殿外における屋外作業を予定に入れて。更に、他の神官との交流もかなり制限するようになってきている)


 今のレルネーゼはファルードの全てを知り、管理しなくては気がすまないという状態になっている。

 そうさせてしまったのは、何だったのか。


(何が悪かったのかなぁ)


 まだ十五才のファルードには全く分からない。今のレルネーゼは、神殿で参拝してくる人達にファルードが対応している時も、相手が老人ならばともかく、若い女の子という時には不機嫌になる有り様だ。


(どうにかやり過ごすしかないんだろうけどさぁ)


 早く試験日が来てほしい。

 今のファルードが願うのはそれだけだ。その為に、睡眠時間を削り、夜遅くまでファルードはせっせと勉強している。

 神殿という隔離された状況で暮らしているファルードは、世間の明るく華やかな色合いのスカートを翻し、笑いさざめく同世代の女の子達に憧れる、そんな普通の少年にすぎなかった。






 本当はおうちに帰りたいけど、幼馴染の少年が言うから勉強してあげてるんだもん。

 そう言わんばかりの態度をし続けるリリエルだ。


(けど、どうしていきなり他の子供達と一緒の授業に戻されたのかなぁ)


 そこの理由が分からない。

 

「リリエルも、お友達を作った方がいい。その方が楽しいだろう?」

「気になる子はいないのかな?」

「カッコいい子も多いだろう?」


 そんなことを尋ねられても、見当違いが過ぎてアホらしいだけだ。大体、どうして子供相手にお友達ごっこなんぞ・・・・・・。かったるくて寝る。

 大人の女というものは、子供のように甘やかされるのは大好きだが、本当の子供扱いなど不愉快になるだけなのだ。

 その違いも分かっていない馬鹿が多すぎて、やっていられない。

 ザイを見習えというのだ。普段はまさに赤ちゃんの面倒をみるかのようにアレしてコレしてと甲斐甲斐しいくせに、それでいて真面目な話になったらきちんと同等の存在として扱ってくるではないか。あのメリハリが、女を離さない魅力なのだ。・・・ああ、数年後が待ち遠しい。


(まあ、いいわ。子供達と一緒の方が、屋外作業とかで外に出るチャンスも多いだろうし)


 リリエルは、お勉強を頑張ってますというスタンスをとりながら、虎視眈々と機会を(うかが)っていた。

 リミダ村に帰れなかったことで不貞腐(ふてくさ)れていても、それでも大人しく勉強し続けるリリエルに、神官達の監視も少しずつ緩んでいく。


(本気で見張ってたのね。単に、偶然そこにいるだけだと思ってたのに・・・。今までの自分がおめでたすぎてやってられない)


 夜になって皆が寝静まったら、トイレに行くフリで様々なところを彷徨(さまよ)うリリエルだ。抜け道はなかなか見つからないが、大事なのは継続して調べ続けることだと思う。


(いざとなったら夢遊病を装えばいいわ。そうよ、私は女優なの)


 高い壁が建物の周囲を囲っているが、その壁の近くに、いい枝ぶりの木がある。その木に登り、それから壁に飛び移ればいい。


(だけど私の体じゃ少しきついかな。縄とか用意した方がいいのかも?)


 よく囚人の脱出方法として有名な、壁を削って穴を開けるだなんてのは、かなり先が長い話すぎて無理だ。だが、あの壁さえ乗り越えれば・・・。

 壁から降りる時が危ないから、木に縄を結び、その縄を手繰(たぐ)りながら降りていけばいい。

 そんなことを思いつつ、こっそり縄などを手に入れて近くに隠しておこうと思って物置などを探検していたリリエルは、深夜だというのに誰かが移動しながら話していることに気づき、はっと持っていた灯りを消し、身を隠した。


「まさか。こんな夜中にいないだなんて」

「だが、本当にいなかったんだ。リリエルも一体どこに行ったのか・・・」

「まあ、まずは見に行って確認してからだ。まさか逃げ出してはいないと思うが」


 リリエルの背中に冷や汗がたらりと流れた。

 やーばーいーでーすーかー、わーたーし。

 リリエルは、どうすればいいのか分からず、硬直するしかない。


(ど、どうしよう、どうしたらいいんだろう。今から、「トイレ行ってた」でもいけるっ?)


 だが、彼らはどうして自分の部屋を見に来たというのか。二人の内、一人はあのエディオスだった。そう、ガンスやザイに対して非友好的な対応をし続けた、若い神官である。


「しっかし、どうしてこんな夜中にリリエルの部屋を見に行ってんだ。まさか変なこと考えてないよな、エディオス?」

「悪いか」

「・・・アホか。あんな子供に何を考えてやがる。一応、本人の部屋とトイレとは見に行くが、そうじゃなかったら、誰か女神官の部屋かどこかで眠っちまっただけだろ。そこまでは付き合うが、その後はお前も帰って寝ろよ」

「・・・分かった」

「大体さぁ、お前、自分の親のこと、考えろよ。あんな子供に何かしようなんて考えるなんざ、ただの変態だぞ」

「・・・・・・数年後にはちゃんと育つさ。今から懐かせておけば問題ない」

「そういう冗談は、寝言だけにしておいてくれ」


 そこでリリエルの中で、何かがすぅっと冷めていった。

 どうやらエディオスが自分の部屋に入ってきて、いないことに気づき、友人に協力を頼んだらしい。


(何、それ。・・・深夜にこっそりって。子供なら、あんたの好きにしてもいいと? ふざけんじゃないわよ)


 冗談ではない。それぐらいなら・・・。

 いくら何でもそれが神殿全員の総意とは思い難いが、・・・それでも今日は部屋に帰るべきではないと、リリエルは思った。

 彼らが去った自分の部屋とは反対の方向へとこっそり足早に歩き出す。だが、角を曲がったところで誰かにぶつかった。


「おや、危ない。廊下はちゃんとよく見て歩くものだよ」

「・・・・・・」


 暗いので分かりにくかったが、その声は自分の夜逃げを邪魔し、更には鼻水をなすりつけてやった男のものだった。


「ちょうど眠れなくて、お茶でも淹れようと思ってたところだ。一杯お付き合いしてくれるかい、子ネズミちゃん?」

「私、子ネズミなんかじゃないんだけど」

「こんな夜にこそこそ歩き回ってるのなんて、ネズミだけだよ」


 そんな男は、リリエルが行くとも言わない内から、くるりと違う方向へ歩き出した。しばし考え、リリエルはその後をついていく。

 どうせ、今、自分の部屋に帰るのは危険すぎる。この男も怪しすぎるが、どうせもう見つかったなら逃げ出すのも愚かしいことだろう。

 その男は、リリエルが世話をしている神官長の中庭へと進んでいった。


「ここ、勝手に入っちゃいけないんじゃないの?」

「大丈夫。こんな夜中に、この中庭になんて誰も来ない。月見しながらティータイムというのもいいだろう?」

「そう言いながら、あんたも私が眠っている隙に、勝手に添い寝とかしようって腹じゃないでしょうね?」


 かなりムカムカしていたリリエルは、刺々しい言葉で問い詰めた。いつもなら子供らしい言葉やしぐさを心がけるリリエルだが、なぜかこの男にはそんな気になれない。

 だが、男は「まさか」と、答える。


「我はそこまで命知らずではない。大体、我はのんびりと気持ちよく眠りたい。そなたのような子供と一緒に寝て、どんな得がこちらにあると?」

「・・・なら、いいけど」


 その男は、中庭から勝手に室内に入り、リリエルを手招く。


「この窓際が、月も見えるし、室内でゆったりとくつろげるのだ」

「ここ、どう考えても神官長様のお部屋だと思うんだけど、勝手に入っていいわけ?」

「ああ」


 やはり、この男は神官長の身内なのだろう。神官長は独身だと、何かの時に聞いた覚えがあるのだが。


「リリエル。ここに湯沸しがある。そして茶葉はこちらだ。ポットはこれ。・・・美味しく淹れられたら、今夜はここに泊めてあげよう」

「やっぱりあんたも、それが目的なわけ?」

「ああ。今、君に部屋に戻られて、あんな馬鹿共とかち合われても困る。ここなら朝になるまで誰も入ってこない。・・・これから夜、心配な時にはここに来なさい。この部屋の物は好きに使っていい」


 言われて見渡せば、その部屋はシンプルだが上質なもので揃えられていた。生活感がないところを見ると、どうやら客室らしい。


「勝手に入りこんでたって怒られたら、責任とってくれるんでしょうね?」

「怒る人はおらぬ。それより、そなたが寝ている隙に部屋へ押し入ろうとした神官が出たことの方が問題であろう」


 なるほど。彼もあの会話を聞いていたらしい。

 リリエルはおっかなびっくりながらも、その茶葉を使って茶を淹れた。自分でも少しずつ味見をしながら、ちょうどいいかなと思ったところで、それをカップに注ぐ。


「はい、どーぞ」

「うむ」


 同じ月を見上げながらカップを口に運べば、悲しみが心に満ちてくる。


「あんな風に、・・・勝手に私の気持ちなんて無視してするもんなのかな」

「一部だけだ。どこにでもそういう者はいる。だが、そうではない者もいる。・・・大事なのは、リリエルの気持ちがどこを向いているか、であろう」

「あんたは、・・・ああいうの、取り締まったりしないわけ?」


 そこで男は少し苦笑したようだった。


「何でもかんでもすぐに制限をすると、人は自分で考えることを止めてしまうからな。だが、天罰は下るであろう。リリエルはここを使用すればいい。神官長の持つ一室で寝起きするなら、誰も文句は言えぬ」


 やはり彼は神官長の隠し子なのだろう。そう断言できる立場にあるなら。

 ほっとしたからか、リリエルの瞼が閉じていく。


「眠るがいい。朝までゆっくりと。子供はきちんと寝ないと成長に響く」


 そう言って、リリエルを抱きかかえて寝台に運んだ男は、そこで出て行こうとしたようだった。しかし、その袖をリリエルが眠さに耐えてガシッと掴む。


「どうした?」

「逃がさないわよ。どうせこのベッド、二つ並んでるんだもの。あんたはそっちで寝るの」

「・・・我は、寝相の悪い子供の添い寝などしたくないのだが」

「朝になって、勝手に入ってきたとか言われて怒られたらどうすんのっ。絶対に逃がさないからねっ」

「別に怒られたりはせぬと言っておるのに。信用のないことだ」


 諦めたような顔になり、男は、リリエルが使っているのとは違う方の寝台に潜り込んだ。


「どうせなら、もっとメリハリのある美女と同衾(どうきん)したかった」

「るさいわよっ。未来の美女じゃないのっ」

「人生、今が全てだ。それに我は世界の女が死に絶えても、リリエルにだけは手を出したくない」


 なかなか失礼な男だ。だけど、だからこそ信用できたのかもしれない。

 しかし、朝になって小鳥の声と明るい日差しで目覚めたリリエルは、男の寝起きの悪さにげんなりとする羽目になった。

 ゆさゆさと揺さぶって、「起きてっ、起きてっ」と、声をかけても起きないのだ。

 ましてや、起こしに来た神官のソールが、

「あー。寝室にいらっしゃらないと思ったらこちらでしたか。・・・ところでリリエル、どうしてここで寝てるんだい? もしかして可愛いからってお持ち帰りされちゃったのかい? 本当に困った方だからね。可愛いとすぐ、男の子でも女の子でも連れてきちゃうんだから。あ、悪いけど、神官長様、起こしておいてくれる?」

と、丸投げしてくれたから尚更である。

 ソールは、若いながらも中級神官としてあちこち走り回っている苦労人だ。たまにリリエルとバッタリ出会うと、お菓子をくれたりもする。

「だけど神官長様、なかなか起きないから頑張ってね。朝ごはんはちゃんと用意しておいてあげるから」

「・・・・・・・・・」


 どこに神官長様がいると言うのだろう?

 リリエルは考え込んだ。

 いや、本当は分かっている。というか、この流れで指し示す人は一人だけだ。そして、それなら全ての辻褄(つじつま)が合う。


(い、今更・・・、敬語でなんて話せないっ)


 だが、男の寝起きはかなり悪かった。神官長様というのは偉い人だという認識が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 結局、朝食の用意をしてから戻ってきたソールに手伝ってもらってどうにかなったぐらいだ。

 ちなみに、出された朝食はとても美味しかった。出されたオムレツとウィンナーをはぐはぐと口に運びながら、リリエルは巻き毛の男を睨みつける。


「神官長様ってことは、・・・あんたが私を拉致監禁していた親玉だったのねっ」

「人聞きの悪い。我は拉致も監禁もしたことはない。・・・まあ、ここにいる以上、勉強はすべきだと思うが、その程度だ。好きにすればよかろう。それに、ちゃんと定例行事に出ていたなら、我の顔ぐらい見知っておった筈だ」


 その定例行事は、早朝から行われている。勿論、リリエルはすやすやと寝ていて、出たことはない。


「嘘ばっかりっ。私をここから出さないくせに」


だが、そこでソールが首を傾げる。彼はとっくに朝食はすませているとか。


「おかしいですね。リリエルに関しては、神官長様は、全ての神官にリリエルが学びたいことを学ばせ、様々なことを教えてやるようにと、そうお伝えになっていた筈ですが。・・・本当に外に出してもらえなかったのかい、リリエル?」

「うん・・・」


 泣きたい気持ちになりながらリリエルが頷くと、ソールは眉根を寄せた。

 どうやら本気でいぶかしがっているらしい。


「どこかで勝手に暴走した人間が出たのかもしれませんね。・・・イディラート様、申し訳ありませんが、今日一日、私はリリエルと行動を共にしても?」

「許す。どうせなら色々と案内してやるがいい」

「かしこまりました」


 リリエルはキツネにつままれたような気分になった。

 だが、ソールは笑って話しかけてくる。


「じゃあ、今日は一緒にお外に出よう? 案内もするよ。リリエルは何が好きかな?」


 尚、ソールに案内されてあちこち行ったお店での買い物や買い食いは、かなり・・・楽しかった。

 様々な国から信者達がやってきたりもするせいか、リベラ神国ならではのものも売られている。ソールはリリエルが逃げ出そうとするなんて全く思っていないらしく隙だらけだったが、いい人なのが分かっていたので、リリエルも大人しく一緒の買い物を楽しんだ。


「おや。あの後、またリミダ村の男の子が迎えに来てくれたのかい?」

「そうよ。なのに、私は出てっちゃ駄目って見送りもさせてくれなかったの」


 ソールが目を見開く。それから苦々しい顔になった。

 お詫びにその少年が喜んでくれそうな物を買おうと言われ、リリエルはザイに似合いそうなチョーカーを選んだ。

 お金を出してくれるソールに悪いので、一番安かった革紐に緑の石を通したものを選んだが、うちの神官が失礼なことをしたお詫びだからと言われ、銀細工の首に嵌めるタイプのものにする。緑の石が中央に入っているから、きっと彼に似合うだろう。

 そう、五年後ぐらいの彼がしていたら、かなりワイルドな魅力も醸し出される筈だ。


「・・・こちらに、そんな話はきていなかったが。次回、その男の子が来たら、こっちにまず話をしにきてくれないか、リリエル? 君一人を外に出すと危ないから、今、帰るのは止めざるを得ないけど、その村の人達が何人かで迎えに来てくれるなら安心だからね。帰りたいなら帰らせてあげるよ」

「ほんとっ?」

「勿論だよ。・・・君の安全だけは守るように、しかし自由にさせるようにと、神官長様はおっしゃっていたからね」


 もしかしたらあの巻き毛の男はかなりいい人なのかもしれない。

 リリエルはそう思った。

 けれども、神官と言っても一枚岩ではないのだ。結局、そういうことなのだろう。

 その日から、ずっと寝る時は、最初に案内された神官長の客室まで行った。二度目からはイディラートも一緒に眠りはしなかったが、毎朝、ソールがついでに起こしてくれる。

 だけど、そういうイディラートとソールも自分を騙しているのかもしれない。だから、夜中の探検と脱走経路の探索は欠かさないリリエルだった。






 試験も終わり、後は発表を待つだけだ。

 どこか清々しい気分で、ファルードはせっせと神殿に併設されている治療院でその手伝いをしていた。色々と微妙なお年頃である。疲れきるまで体を動かしている方がいい。そしてこういう場所で働いていると、瞬く間に時間が過ぎていく。


「最近、体が少しずつ楽になってきてね。やはり、この治療院に来て良かったわぁ」

「そうですか。だけど無理はなさらないでくださいね」


 そう微笑み返しながらも、どんどんと患者が増えてきていることに気づいているファルードだ。何でも、この治療院にやってくると体が良くなるという噂があるらしい。


(いわし)の頭も信心から、か。まあ、それで生きる気力が湧いてくるならいいことだ)


 それはこのルーセット神殿がリベラ女神の恩寵を受けているからと、そんな話まで出ているかららしい。

 馬鹿馬鹿しい限りだ。

 頑張っているのは、患者本人の治ろうとする気力、そしてそれを支える治療院の人々ではないか。

 けれどもファルードは、優しく微笑むように心がけていた。


(けど、どう考えてもこの地方以外の奴らまで来てるよな。自分の所にある治療院に行きやがれっつーのっ)


 仕事が増えるだけだ。

 何ともムカつく。しかし、笑顔を絶やさない。不機嫌さは伝染するからだ。

 そう、笑顔、笑顔。スマイルは全ての潤滑油だ。


「ファルード殿。すまないが、ミシシーリをもらってきてもらえないだろうか? これが書類だ」

「分かりました、グンドール様。急いで行って参ります」


 ミシシーリはかなり扱いが限られる特殊な薬だ。その管理は厳重にされており、必要な時は上級神官であるロクスーリ神官に書類を提出し、その量もきちんと明記しておかねばならない。

 ざっと書類に目を通し、記入漏れがないことを確認すると、ファルードは神殿へと向かった。特殊なものだけに、誰もが出入りする治療院に、その薬は置かれていないのだ。

 もうほとんど手の施しようのない患者に出されるミシシーリは、一つ間違えると人を廃人にしてしまう特殊な薬でもあった。


(えーっと、グンドール様の部屋は三階、っと)


 上級神官は、広々とした部屋を複数与えられている。

 最近、神官コースで授業を受けている女の子が、なぜかその上級神官達に気に入られているらしいと、噂になっていた。部屋も神官コースで学んでいる子供達とは違う、神官達の部屋がある建物内に用意されているぐらいだ。

 どんな特別扱いかと思ったが、遠目に顔を確認して納得した。たしかに、女の子の少ない、しかも十代の少年達が多い建物に部屋を与えるわけにはいかないだろう。

 そんな彼女は、大神殿の有力神官の隠し子ではないかとも噂されている。

 といっても、食堂などは他の子供達と特に変わらない。だが、何でも授業は上級神官ばかりでマンツーマンという、破格の特別待遇なのだとか。

 何度か通りすがりに近くで見ても、水色の髪に青い瞳をした可愛らしい女の子だった。たまに廊下を歩きながら鼻歌を歌っている。走っちゃいけない廊下もたまにパタパタ走っているが、それを見かけた神官達も苦笑して見逃してあげているところを見ると、上級ばかりか中級や下級神官からも愛されているようだ。

 本人はその特別待遇を分かっていないようだが。

 よりによって上級神官、しかもこのルーセット神殿のナンバー4と一緒に歩きながら、

「あのね、窓際族って言ってね、若い人達よりも働けなくなったからって、どうでもいい仕事をまわされて窓の外しか見ていることしかないって状況に置かれちゃう人達がいるの。だけどね、そういう人達って、かつてはそのお仕事をリードして引っ張っていた、すっごくすっごく有能な人達なのよ。・・・だからね、私みたいな子供の相手にまわされたからって、人生を投げ出しちゃいけないの。自分の人生に誇りを持つべきなのよ」

などと、力説していたからだ。

 かなり、こまっしゃくれた性格の女の子らしい。

 通りすがりにそれを聞いてしまった神官達も、ぎょっとした顔になっていたが、

「そうかのう。まあ、この老いぼれの相手をリリエルがしてくれるなら、それが何よりじゃ」

と、言われた当人が怒らずに合わせていたことを思うと、孫か曾孫の気分なのだろう。

 窓際どころか、その老人神官は現役でかなり人生をブイブイ言わせている。そもそも、そんな子供相手の授業なんて下級神官の仕事だ。本人がやると言わない限り、まわってくる筈もない。

 何かの際、イディラートに、

「あの女の子は特別な子なんですか? 失礼のないようにしておいた方がいいのでしょうか?」

と、尋ねたが、

「気になるなら話しかければ良かろう。別にお友達になっても、我は怒らぬぞ。まあ、親は、・・・普通だな。あの子は外国の子だから」

と、有力神官の隠し子という線を否定されてしまった。

 しかし、その女の子に話しかけたことはない。レルネーゼはファルードが、女性だけでなく小さな女の子とお喋りしているだけでも不機嫌になり、そんな場面を見られようものならかなり面倒なことになるからだ。


(あれ、レルネーゼ様?)


 グンドールに書類を提出し、その患者の様子なども報告しつつ、最近の治療院の様子を問われた為、患者数が増えていることと、そういう噂が立っていることと、そして明るい顔の患者が増えたと、そんなことを報告していたら遅くなってしまったファルードである。

 ミシシーリの小瓶を所定の箱に入れて運びつつ、そこで自分の指導に当たっている下級神官を見かけ、さっと壁に身を隠した。


(いや、隠れる必要はないんだけど。・・・なんか今日もベタベタ触られるのが嫌で治療院に逃げ出したわけだしなぁ)


 試験の後から、余計にレルネーゼはファルードと一緒にいようとする傾向が強くなった。廊下を歩く時でも隣を歩こうとするし、後ろからそっとファルードの腕に手をかけて背中に顔を寄り添わせようとしたりもする。

 嫌いなわけじゃないが、・・・節度ある距離を保ったまま、互いを尊重する関係でいたいファルードだ。

 治療院なら忙しくてそんな余裕もなかろうと、今日も逃げ出したわけである。だが、段々とそれを見送るレルネーゼの表情が険のあるものばかりか、刺々(とげとげ)しさを増していることには気づいていた。


(その内、沈静化してくれたらいいんだけど)


 どうすればいいのか、ファルードには分からない。しかも、そんなファルードだが、周囲からは指導神官とうまくやっている見習い神官にしか見えないらしい。レルネーゼと一緒にいる時は、明るい話題を心がけ、笑顔を絶やさないよう、努力していたから当然なのだろうが。

 

(だけど、何の用事でここに・・・? 今日は、部屋で静かに祈りを捧げるつもりだとかおっしゃっていた筈なのに)


 そうっと、レルネーゼが入っていった扉に近寄ると、何人かの話し声が聞こえてくる。

 この一階の部屋は講義や集会の際に使用され、使われる頻度が高い分、蝶番(ちょうつがい)(ゆる)み、きちんと扉が閉まらなくなっていた。


『まさか、指導する教官が0点を出してくるというのは、思いがけないことだったからね。それはファルードに問題があるということか? それとも、レルネーゼ神官に対して、ファルードが男ということを利用して何らかの行為をしたということか? そのあたりをきちんと尋ねておこうと思って呼び立てた次第だ』


 ファルードは、頭の中が真っ白になった。


――― きっと受かるわ、ファルード。ふふ、内緒よ? あなたの点数はほとんど満点にしてあるの。だから、あなたの神官適正は大丈夫よ。

――― それは・・・。買いかぶりすぎです、レルネーゼ様。

――― いいのよ。ファルードが頑張ってることは、ちゃんと私、見ていたもの。後は筆記だけよ。大丈夫、緊張せずに全力を出せばいいの。


 ぐるぐると、頭の中で答えの出ない感情が渦巻く。

 ああ、これは現実のことなのだろうか。・・・本当に? 悪夢じゃないのか・・・?

 あの言葉は、・・・何だったのだろう。


『そういうことであれば、男の神官に彼の指導を任せよう。問題があるのであれば、それが当然のこと。見習いは、指導神官を先に指名できるが、神官は拒否もできる。レルネーゼ神官の手に余る問題児というのであれば、他の神官が彼を引き受けよう』

『いいえ、今回の試験結果がどうであれ、私はファルードの指導を引き続きやっていくつもりです。それが、神官としてあるべき姿だと考えております』


 しかし、室内の会話は進んでいく。

 その会話を、ファルードの耳は拾い続けていた。


『だが、レルネーゼ神官は、彼の点数を0点とした。これは神官として彼の資質を0と見なしたということ。それはいかなる理由が?』

『・・・・・・彼は、神官になるには傲慢なところが見受けられた為、もう少しきちんと優しさを覚えさせる必要があると考えました。聞けば、彼は故郷を離れてこのリベラ神国へやってきたとのこと。まともな家庭を知らずに過ごしていたが為の、一般常識に欠けるところがあるのです。ですが、・・・それを指導できるのは私だけだと自負しております』


 傲慢?

 誰が?

 自分がか?

 ファルードは笑い出したくなった。いや、下を向いて小さく笑っていたかもしれない。


(ああ。・・・やってらんないよ)


 もう、何もかもを投げ出したくなる。


『その根拠は?』

『私は、ファルードの母君と同じ色の髪と瞳をしており、彼は私に家族の面影を見ています。彼の誤った考えを導き、神官として正しき道に進ませることができるのは私以外におりません』


 あれは適当な言い逃れだった。

 ファルードの母は、彼と同じ紫色の髪に灰色の瞳をしている。そして父も。姉や妹達も。・・・あの辺りは、皆がそういった色合いの傾向があるのだ。外国の一部地方における特色とあって、レルネーゼは知らないことだろうが。


『だが、他の神官から、彼が傲慢だと、そんな意見は出ていない。それどころか授業にあたった神官からも、また彼が手伝いをしている他の神官からも、ファルードは常に笑顔を絶やさず、明るく人々を励まそうとする人間であると、そういった評価が出ている』

『・・・彼らは、僅かな時間しかファルードと接しておりません。私は指導する神官として、常に彼と共にいました。だからこそ、知り得たことだったのです』


 ふらりと、ファルードはそこを離れた。


(やってらんねえ。・・・もう、いい。やっかまれようが、何しようが。今回の試験は諦めるしかないが、指導の神官をイディラート様の傍にいるどなたかにお願いしよう)


 治療院へと戻りながらも、思わず悔し涙が頬を流れた。

 ・・・ねえ、知ってましたか、レルネーゼ様?

 僕はあなたを嫌いじゃなかった。

 そりゃ、お世辞にも綺麗とはいえないあなただったけど、・・・辛い恋もしてきたのも分かったけど、それでも僕が慰めたら笑ってくれるあなただったから、そんなあなたの心は美しいのだと、いつかそれを分かってくれる人も出るだろうって思ってたんです。

 聞こえよがしにブスとか言われても、それでも微笑を絶やさずに頑張るあなたを立派だと思ってました。あんな威張りくさってる中級神官より、はるかにあなたの方が人として上なのだと。

 そんなあなただから、僕はあなたで良かったと・・・。

 そう、あなたで・・・・・・・・・。

 思わず、ファルードはドンッと壁を殴った。石壁には何のダメージも与えられず、ただファルードの指が傷ついただけだったが。

 

(ちくしょうっ)


 全てが、汚されたような気になった。自分の心すら、そして美しかった思い出までも。

 血が滲む指をそのままに治療院へ戻ると、やはり戻りが遅かったことで心配されたようだった。


「どうした、ファルード殿。・・・指も、怪我してるじゃないか」

「すみません。ちょっと、転んで」


 ファルードの腫れあがった目の縁に気づいたらしく、グンドールは痛ましげな表情になった。

 きっと、また奴隷上がりだと馬鹿にされて、変なトラブルに巻き込まれてしまったんだなと、考えたのだろう。


「来なさい。まずは手当てしなくては」

「自分でやれます」

「いいから」


 グンドールは中級神官ながら、治療院で医師として働いている方が性に合うらしく、あまり神殿にはいない。気にせず呼び捨てにしてくださいと言っても、見習い神官にも「殿」をつけて呼ぶ、穏やかで礼儀正しい人だ。

 衝立(ついたて)の裏側で、グンドールに指を手当てされていると、他の患者達が話している声が聞こえてきた。


「へえ。帝国軍がナリス王国まで」

「そうさ。なんでもリーングの街はガタガタらしい」

「おっかねえなぁ。けどよ、このリベラ神国もヤバイのかねえ」

「いやぁ。リベラ神国はまた特別だかんなあ」


 ファルードの心が、一気に凍りつく。

 ナリス王国の地方都市リーング。それは、ファルードの故郷の名前だった。

 顔が蒼白になったファルードに気づき、グンドールが、

「ファルード殿?」

と、小さな声で問いかける。

「あ、すみません。ちょっと、ぼうっとしておりました。申し訳ありません、グンドール様」

と、ファルードは笑顔を作り直したが、それはとても引き攣ったものだった。


(まさか、リーングが・・・。いや、うちはリーングの市街地よりも少し離れた場所にあるから。だけど父さん、母さん、姉さん達・・・!)


 これが神官ならば、一身上の都合という理由で、その地を離れることができる。勿論、離れている間は仕事をしていないわけだから給料は発生しないが、それは仕方ない。

 だが、今のファルードは神官見習いの身。

 指導神官であるレルネーゼの許可がなければ、この神殿を離れることはできない。


(さっきのことは聞かなかったことにしよう。そして、一度ナリス王国に戻りたいと話して・・・)


 だが、ファルードとてずっとレルネーゼといたのである。

 指導をお願いした時のレルネーゼならばともかく、今のレルネーゼがどんな理由にせよ、自分がこの地を離れることを許すかどうかを考えると、・・・かえって邪魔してくるのではないかと予想せずにはいられなかった。






 リリエルは、神官長の客室で寝起きするようになったことを誰にも言わなかった。

 というのも、イディラートはあまりにも一度寝たら起きなさすぎる。神官長のプライベートエリア内とはいえ、あそこで自分が襲われても、悲鳴で起きてくれないのでは役立たずすぎるではないか。

 隠れ家とは、人に教えないから隠れ家なのだ。


「リリエル。昨日、部屋にいなかったんじゃないのかい?」

「え? そんなことない。そりゃ、・・・トイレには行ったけど」

「・・・・・・そう? だけど、トイレにはいなかったみたいだけど?」


 かなり、しつこい神官である。ザイを追い返した時のことといい、リリエルはエディオスを嫌いになっていた。


「別にいいじゃない。ついでに、トイレでばったり会った神官様と一緒にお休みしてただけだもんっ」


 べーっだと、舌を出して逃げていくリリエルに、エディオスはムッとした顔になる。


(九才の子供に何考えてんのよっ。あんた、二十代でしょうがっ)


 自分が二十代だった時、九才なんて子供すぎて「いい子ね。キャンディ、あげる」程度だったものだ。十代の子供に対してですら、「いい子ね。チョコレート食べる?」である。

 そんな自分がザイをお気に入りなのは、将来性、それに尽きるのだが。

 まあ、それはそれ。これはこれだ。

 少なくともこの若い神官、エディオスに好意は抱けなかった。


(なんか、やばい感じ・・・?)


 リリエルも、かつては成人した女性だったから分かる。

 人間、フラれたら諦める男もいる。しかし、フラれたことで余計に執着し、可愛さ余って憎さ百倍になる男もいるのだ。

 リリエルは、絶対にエディオスと二人きりになってはいけないと、自らに言い聞かせていた。




 自分が望んだものは何だったのか・・・。

 この世に神などいやしない。いるのは、優しい人と、醜悪な人だけだ。

 ファルードは、短く手紙をしたため、それを自室の机の上に置いた。全てはもう片付けてある。


『祖国が、帝国に攻められたと聞き、家族への思いを断ち切れませんでした。何もできずとも、それでも助けられるものなら助けてあげたいのです。指導に当たってくださっているレルネーゼ様に相談もせず、出奔するご迷惑をお詫び申し上げます。また、どうぞ神官長様にも、私のような不出来な見習い神官なぞお見捨てくださいますようお願い申し上げます』


 おそらくこれを見たら、皆はこの神殿の責任者がイディラート様だから彼の名前を出して書いたのだと思うことだろう。だが、意味することはイディラートにも伝わる筈だ。


(イディラート様が僕を養子にしているのは、ほとんど知られていないし、それはイディラート様の気持ち一つですぐ解消できる。だから、ご迷惑はかからない筈だ)


 こんな自分との養子縁組など破棄してくれていい。

 それでも手紙には、レルネーゼに対する恨み言など書かなかった。

 自分がいなくなったことで、周囲から指導にあたる教官として責められるかもしれないレルネーゼだ。まさか戦火に巻き込まれた故郷の家族が心配だからと、この地を離れることを希望した見習いのそれを許さなかったとなれば、今度はレルネーゼが責められるだろう。


(僕一人で責任をとればいい)


 今となっては、レルネーゼに対する恨みはかなりある。

 夜が明ければ、神官見習いから神官になれた人間の合格発表だ。だが、もう見るまでもない。

 不合格ということなど分かりきっている。

 指導における神官が0点を出してくるなど、前代未聞の話だろう。指導に当たった神官が、

「この見習いは、神官としての資質を全く持たない」

と、言いきったも同然なのだから。

 だが、今はともかく、最初はかなり親切だったレルネーゼだ。この手紙は、その頃の彼女に対する感謝の気持ちなのだと、・・・伝わるのだろうか。

 イディラートに言えば、どうにかしてくれただろう。だが、そうなるとレルネーゼは叱責だけではすまない。ひと一人の人生を滅茶苦茶にするのは気が引けて、・・・それはする気になれなかった。

 結局、自分は甘いのだろう。


(いいや、もう。考えても仕方ない)


 寝静まった深夜。

 ファルードはまとめた荷物を抱え、そうして部屋を抜け出した。


――― あの時と似ている。あの時は明け方近くだったけど。


 闇にまぎれて出て行くというのは、どこか物悲しい寂しさがつきまとうものなのだと、ファルードは感じていた。

 あらかじめ目をつけていた位置から壁を乗り越えていくつもりだ。

 だが、そんなファルードに声が掛けられる。 


「何やってるの? もしかして泥棒?」


 ファルードは、慌てて振り向いた。

 子供の声、・・・それも女の子だ。

 木の陰にいた子供は、頭から茶色い毛布をかぶっているようだった。


「あのさぁ、ここを抜け出すなら私も連れていってくれる? そうじゃないなら、・・・今、この場で大きく叫ぶわよ」


 なんという脅しだろう。

 だが、ここで女性の数はかなり限られている。そして女の子となれば本気で少ない。


「ここを、君も抜け出したいのかい?」

「ええ、そうよ」


 強い意思が感じられる返事だった。

 ファルードは考え込む。


「叫ばれるのは困るけど、・・・君、もしかしてあの特別扱いされてる子じゃないだろうね? まだ神官コースの女の子なら一緒に連れ出してあげても問題にはならないだろうけど、あの子なら駄目。皆に迷惑をおかけするどころじゃない」

「・・・夜逃げするヘタレかと思ったら、かなり真面目?」

「言ってくれるね。・・・色々と事情があるのさ」


 普通の神官コースで授業を受けている女の子なら、この辺りの子だろう。ついでに家まで送っていってやればいい。

 だが、あの水色の髪をした女の子だったら話は別だ。あれ程に特別扱いされていた女の子を連れ出そうものなら、神官長であるイディラートに迷惑がかかる。

 自分の人生の恩人を、どうして裏切れるだろう。


「悪いけど、その毛布を取って顔を見せてくれる?」


 ゆっくりと、その毛布が外され、月明かりに顔の輪郭がぼんやり浮かぶ。持っていた灯りを近づければ、それはどこか少年にすら見える顔立ちの、緑色の髪をした女の子だった。


(知らない顔だな)


 もしかして、入ったばかりで、やっぱり授業についていけないと思って逃げ出したくなった子なのだろうか。

 ならば、問題あるまい。


「おいで。家までは送り届けてあげるよ」


 そう言って、ファルードは手を差し出した。

 

「名前は?」

「レイラ」


 ファルードの手に自分のそれを重ねながら、リリエルはロキスとミザリーから贈られた名を告げた。

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