7 ルーセット神殿と女神の恩恵
アルファ(ライジード):赤みを帯びた黒髪、黒の瞳。エスリーダ王国の第三王子。
ベータ(レスター):学者。
ガンマ(ザイファス):緑を帯びた黒髪、黒の瞳。盗賊。
デルタ(ファルード):紫みを帯びた長い黒髪、黒の瞳。リベラ女神の神殿に属している。
イプシロン(ロムルス):青みを帯びた黒髪、黒の瞳。アームル帝国の一軍に属している。
松岡美冴:黒髪に茶色の瞳。ストロベリーブロンドの髪と、青や緑にも見える灰色の瞳の姿を与えられ、レイラとして生を受ける。マイオスに拾われ、リリエルと名づけられる。
ロキス:レイラの父親。商売人をしていたが、妻ミザリーと共に殺された。
チェンジン国・リミダ村
マイオス:焦げ茶の髪に青い瞳。がっしりとした大柄な男。妻モイラと娘リリエルを殺された盗賊。
リリエル(レイラ):薄い水色の髪と青い瞳。
ザイ:リミダ村の村長であるロードの長男。濃い緑の髪に灰色の瞳。
ローリー:ロードの次男。
リネア:黄緑色の髪に赤い目をした、マイオスの隣家の奥さん。夫はガンス。
クユル:ミルドの息子。
チェンジン国 ピルッポの街
オードン騎士隊長:騎士や兵士達を束ねる男。末娘シアラを誘拐された。
シアラ:水色の髪。水色の目。
グイン:ミッドナイトブルーの髪に赤い瞳。白い一角獣亭に宿泊。リミダ村出身と言っていた。マンクレー商会のキャラバンの護衛。
ポリーヌ:オードン騎士隊長の屋敷で働くメイド。茶色の髪に茶色の瞳。
ミハス:オードンの家令。
リベラ神国・ルーセット神殿
イディラート:エリート神官。腰までのばした焦げ茶色の巻き毛に緑の瞳。
ソール:イディラートの傍にいる中級神官。若いが苦労人。30代。
ゆっさゆっさと揺られている間に、かなりガクッと首をのけぞらせたり、枝や葉っぱに頭をぶつけたりしていたリリエルは、なんだか変だぞ、お腹が痛いと思いながら目覚めた。
どうやら自分は誰かにおんぶされているらしいと気づけば、ならばザイかと、開けかけた目を再び閉じる。
いつものように、遊び疲れて寝てしまった自分をザイが送り届けてくれているのだろう。
(ザイってば、ホント私のこと大好きよね。ちゃんとおんぶして連れて帰ってくれるし)
ザイが聞いたら呆れた声で、
「リリエルが僕のこと、大好きなんだよ?」
と、訂正するだろうが、リリエルは、ザイが自分を大好きだから自分はザイをかまってあげているのだと認識していた。
異論は受け付けない。
だってリリエルが主張すれば、いつだってザイは、
「そうだね。リリエルの言う通りだよ」
と、認めてくれるのだから。当事者同士の合意があれば、それが真実なのだ。
そんなザイは十五才になっても六つ年下のリリエルの子分だという、ちょっと情けない男の子だ。
(だけとザイってば着やせしてるけど筋肉もあるし、顔もいいし、・・・あと数年したらとってもカッコいい感じになるわよね。ふふふふふ、そんな年下の男の子をメロメロにしている私ってば、魔性の女っ)
リリエルに、いつもザイの所へ押しかけていくのは自分だという自覚は全くない。わざわざ迎えに行かなくても、今のリリエルは何があろうと一番にザイの所へやってくるまでに、ザイはリリエルを手懐けていた。
自分の精神年齢には目をつぶり、顔のいい少年に甘やかされて大事にされるという日々を、リリエルは満喫している。無条件で可愛がられて愛されるというのは、なんて気持ちがいいのだろう。
(まあ、それもこれも、マイオスパパに春が来そうだってのがあるんだけど)
それを考えると、ちょっと落ち込む。だけど自分は大人の女だ。父親が幸せになれるのであれば、笑顔で祝福してあげなくてはならない。
それにザイだって、
「え? ああ、エイリーンさんならいいと思うよ。素敵な人さ」
と、太鼓判を押していた。
エイリーンは金髪に赤茶色の瞳をした、離婚してリミダ村に戻ってきた女性だ。よその村のお祭りに行った時に出会った、その村の男性と恋に落ちて結婚したらしい。なのに結婚してみたら夫の暴力で常に怪我ばかりの新婚生活だったとか。耐えかねて離婚し、村に戻ってきたのだ。
(だけどエイリーンさん、いい人だよね。私にも優しいし。なんか最初の旦那さんの顔が良かったせいで、男の価値は顔じゃないって、マイオスパパの厳つい顔にもびびらないし、「リリエルは幸せね。優しいパパがいてくれて」って、分かってくれる人だし)
マイオスの優しさを見抜くとは、なかなかエイリーンは見どころがある。あれなら許してやってもよかろう。だから何かと二人が同じ時間を過ごせるよう、自分は気を遣うのだ。
そんなことを考えていたリリエルだが、そこで違和感に気づく。
(ザイじゃない。ザイはもっと優しく歩いてくれるし、こんなにがっしりしてない。パパじゃない。パパは背中がもっと大きい)
そこでがばっと勢いよく顔を上げたリリエルは、「おわぁっ」と、叫び声をあげたファルアスにこっぴどく叱られてしまった。
「リリエルッ。いきなり動くんじゃねえっ。こっちまでのけぞっちまったじゃねえかっ。ずっと人の上で寝こけてたんだから、少しは気を遣えよっ」
「・・・ご、ごめん、ファルアスだったんだ。・・・・・・あれ? で、なんで私・・・?」
なにゆえ自分はファルアスにおんぶしてもらっているのだろう。
リリエルは首を傾げた。しかし怒られたので、反省してファルアスが楽なようにとしがみつく。おんぶは思いっきりしがみついた方が、する方も楽なのだ。
「目が覚めたんなら良かったけど、今日はずっとおぶってってやるよ。腹ぶっこまれたんじゃ歩ける状態じゃないだろうしな」
「・・・お腹、殴られた気がする。あれ、ザイがやったの?」
ザイのお気に入りであるリリエルに対し、本気で乱暴する男の子はいない。ザイはおとなしくて優しくて気弱な少年だが、お頭の長男だから皆に一目置かれているのだ。
だからリリエルは、犯人はザイだろうと、すぐに察した。ザイの目の前で、自分の腹を殴るような子供がいる筈などないから。
だが、お腹が痛いと思って目覚めたものの、今ではもう痛みは消えていた。気を失う程に強く殴られたとはとても思えないぐらい、全く腹部に異常はない。
しかし、問題はそこではないだろう。
今まで、それこそ指先でペチッとすら叩かれたこともなかったのに、いきなりあんなにもこっぴどく殴るとはひどくないだろうか。これはちゃんと文句を言わねばなるまい。大体、そんなことをしておいて、肝心のザイはどこにいるのだろう。本来、ここは自分に対して平謝りしてくるところなのに。
「そうだな。ザイがやったな。けど、あれはリリエルが悪い」
「ええっ!?」
皆の危険を減らす為に、わざわざ村へ行って交渉すると志願した自分に対し、その意見はどういうことか。
しかし、周囲にいた他の子供達もうんうんと歩きながら頷いている。
「あのさ。ところで、どこに歩いてってるの?」
正直、山道とも言えない道を歩いている気がしてならない。馬では入ってこられない道を歩いているのは分かるが、リリエルは彼らほど山に明るくない。どこに向かっているかも分からなかった。
「さあ。まずはこの山を越えないと話にならないしな」
「山を越える?」
ファルアスの言葉に、リリエルは改めて周囲を見渡した。ファルアスの前後を歩く、見慣れた顔の子供達。特に女の子が多い。だけど一番見たい、長い緑の髪をした少年はそこにいなくて。
「ザイは? ザイはどこ?」
答えないファルアスに代わり、すぐ後ろを歩いていたアイーナが口を開いた。元々、リリエルが何かと甘ったれた子供なことに対し、アイーナは思うものがあったのだ。そう、ザイは甘やかしすぎだと。
「ザイは残ったわ。リリエル、私達はよその国に保護を求めるの」
「え・・・?」
ファルアスと違い、アイーナは手厳しく伝えた。
「リリエル。ここで我が儘を言わないでちょうだい。あなたが身動き取れない分、ファルアスの背中は埋まってるの。だけどね、あなたより小さい子供だって歩いてるのよ。・・・私達は無事に安全な場所に行かなくちゃいけないの」
そのリリエルよりも小さな子供の方が、リリエルよりもはるかに山道を歩き慣れていることには触れないアイーナだ。正直、リリエルを自分で歩かせようものならすぐに虫だの何だのとキャーキャー叫びだし、皆のペースが落ちることだろう。
「だって、アイーナ。ならどうしてザイは・・・」
「身代わりになる為よ。私達に追手がかかっても、ザイ達が注意を引きつけてくれる。リリエル、私達はね、無事に逃げきらなくちゃいけないの」
こういう時に優しく言えば、リリエルは我が儘を通して戻ろうとするのが分かっていた。だからアイーナはあえてきつい言い方をする。
そんなアイーナもリリエルが嫌いなわけではない。ただ、・・・あまりにもリリエルの物わかりが悪いのは、ひとえに全ての情報をシャットアウトして、猫かわいがりしているザイに責任があるとは思っていた。
「そんな・・・。冗談じゃないわ、ザイはまだ子供なのよっ? そんな馬鹿なことさせられないっ。ファルアス、下ろしてっ。私、戻るっ」
アイーナが思った通り、戻ると言い出したリリエルだったが、その言い分はやはり皆の一般常識を超越していた。
周囲にいた子供達は面食らったかのように一拍おいてから、皆で叫んだ。
「「「「「お前の方が子供だっ」」」」」
そしてその後、リリエルが何を言おうと誰も聞いてはくれず、しかも野営する時にはリリエルの体を毛布でグルグル巻きにして上から紐を結び、ミノムシ状態にされてしまったのである。
「これじゃトイレにも行けないっ」
「行きたい時には解いてあげるわよ、リリエル」
「そうよ、リリエル。我が儘言わないの」
仕方ないので、
「戻ろうとしないって約束する。だから解いて」
と、下手に出てお願いしてみたが、
「どっちにしてもリリエル、邪魔だから。大人しくグルグル巻きにされときなよ」
と、放置されてしまった。
(ザイの馬鹿っ。そんな危ない状況で、ザイが生き残れるわけないじゃないっ。どうしてこっちに来なかったのよっ)
一緒にいるメンバーの中にザイがいたなら、リリエルがちょっとおねだりしたら何でも叶えてくれただろう。しかし、ザイがいない一行では、リリエルのおねだりなど、鼻で笑ってフンである。
(それにパパだって・・・)
安否の知れぬマイオスにしても、そして残ったザイにしても、リリエルは不安しか抱けない。
けれども結局、彼ら一行から逃げ出すことはできず、山から平地に出るまでリリエルはずっとファルアスの背中で揺られ続けたのである。それは、リリエルを歩かせるよりもその方が早いという、単純な理由だった。
リベラ女神を崇拝するリベラ神国。
国のあちこちにリベラ女神の神殿があり、その神殿それぞれに併設された治療院などがある。
リミダ村のアイーナ達が辿り着いた、リベラ女神ルーセット神殿は割合と大きい神殿で、孤児院と学校、そして治療院までもが併設されていた。だが、一度に数多くの子供達が頼ってきた事態に、そのルーセット神殿に属する神官達は頭を抱え、大きく議論する羽目となる。
「我が国ならばともかく、他国の子供達、ですか」
「そんなものを引き受けていては、我が神国が崩壊する。その国の子供達は、その国が庇護すべきであろう。我が国が乗り出すのは越権行為にすぎん」
内政干渉は厄介なことになる。及び腰になるのも無理はなかった。
「その国が守ってくれないから子供達は逃げ出して来たのではありませんか。放り出せとは、むごいことを」
「むごいとおっしゃるが、他国の子供を我が神国の財政で養うことこそ筋違いでしょう。それなら、今いる子供達にもっと食べさせてやりたいと、私は主張します。そんな余裕があるなら、子供達におやつの数だって増やしてやりたいぐらいなんです。最近では、イディラート様がいただいてきたお菓子まで子供達にまわしているぐらいなんですから」
「ですが庇護を求めてきた子供達を見捨てるのはいかがなものでしょうか。我が国の民でないならば、飢え死にしようとかまわないとは、あまりなおっしゃりようです」
それでも非力な子供達をどうして見捨てることができるだろう。神殿の立場上、危険な存在になりかねないと分かっていても保護してやるべきではないかと、そんな意見がやはり出る。
「しかし、子供達を引き受けることで、戦争を仕掛けられる理由づけにされてはたまりません。我が神国を戦火で舐めつくされろと?」
「そうと決まったものでもないでしょう。無力な子供達の命を大事にしてこそ、発展があるのではありませんか」
「その僅かな子供達を救ったばかりに、むざむざと戦で死んでいく人々に向かって、あなたは何とおっしゃるつもりか。他国の子供達を守る代わりに、我が国の年寄りや若い者達に死ねと? 何かを守るというのは、切り捨てる非情さがなくては成し遂げられぬと心得よ」
受け入れて得られる小さなメリットと、受け入れることで起こりうる大きなデメリット。さすがに、子供を保護すべきという意見の旗色は悪かった。
「その通りかもしれませんが、その割り切る非情さの中にわずかな抜け道があればこそ、助かってきた何かがあったのではありませんか。時にはそれこそが、違う形での恩恵をもたらした筈です」
「その通り。そして、その甘さが思いがけぬ災いを招いたこともある。哀れな年寄りを保護してやった神殿が、その年寄りの罠にかかり、町ごと襲われて多数の犠牲を出した、彼の惨劇をもうお忘れか」
喧々囂々とした意見が出尽くすと、やがて誰かがルーセット神殿責任者であるイディラート神官長に目を向ける。やはりトップの意見が気になったからだ。
すると、つられたかのように皆が一斉にイディラートを見た。
まだ若いイディラート神官長は、大神殿のエリートコースを歩いていた神官だったが、都落ちのようにこの田舎にあるルーセット神殿に配属されてきた人物である。本来は、このリベラ神国のトップである大神官すら狙えたらしいエリート神官だったというのに、人生とは哀れなものだ。
しかし、当のイディラート神官長は、
「ルーセット神殿に配属されただなんて、私はなんて幸せな神官なのでしょう」
と、のほほんと過ごしていた。
この無邪気さがトップ争いから真っ先に脱落した理由でもあり、同時に神の恩寵があるとされた理由でもあるのだろうなと、誰もが呆れたものである。
きっと、イディラートの中では栄転と左遷の区別もついていないのだろう。
「イディラート神官長。どうお思いになりますかな?」
ルーセット神殿における神官達のトップでありながら、同時に若年のイディラートである。二十代の最高責任者は、神官達にとってもなかなか気を遣う存在だった。
そんなイディラートは、腰まで伸ばした焦げ茶色の巻き毛を指でくるくると遊びつつ、深い緑色の瞳を伏せがちにして皆の話を聞いていた。
しかし、問われた為に顔を上げ、ゆったりと皆の方へ向き直る。
「そうだな。今日は、・・・髪のキューティクルもバッチリだ」
ピキッと、真面目に議論していた神官達の額に青筋が走った。
(怒鳴りつけていいだろうか。てか、後ろから殴ってやりてえっ)
(新人神官なら蹴飛ばして川で溺れさせてやるのにっ)
(どうしてあなたはこうっ、空気を読めないんですかぁぁぁっ)
(左遷で正解よっ。こんなのが大神官になってたら、この国、崩壊していたわっ)
(男なら髪は短くしときやがれっ)
しかし、全くそれらの表情に気づかないのか、イディラートはくすくすと笑う。そうやっていると無邪気な子供のようだ。
けれども華があるというのか、イディラートには誰もが目を奪われる何かがあった。どこにいても、彼は皆が注目してしまう存在感があるのだ。
(見た目はいいんだけど、中身が時々、本気でポンコツなのよね)
(どうしてうちのトップがコレなんだろう)
(観賞用、そう、観賞用なんだ。だから怒っちゃいけない、いけないんだ。頑張れ、自分)
(どうして人前だけでもカッコつけてくれないんですかぁっ、イディラート様っ)
(こんな若僧でも上司、そう上司なんだ。耐えろ、耐えるしかない。・・・うちの息子なら平手かましてるがなっ)
それからイディラートは姿勢を正し、皆を見渡した。すると、誰もがはっと気づいた様子で背筋を伸ばす。
「さて、リベラ女神の名の元、私欲に血道をあげる神官が増加する中、神官としての本質を忘れぬ者ばかりで構成されたルーセット神殿を私は誇りに思う」
皆の心に染み渡るような低く落ち着いた声と口調、それはまさに大神官としてどこに出しても恥ずかしくない貫禄がある。
最年少で大神官になると噂されたのもなるほどと思える、一瞬で全ての心を掴む男だった。
「今もまた意見こそ違えどこの国を、この神殿を、そして人の命を守るという誇りを忘れぬ意見で埋め尽くされたこと、・・・素晴らしきことと感じ入った」
着席していた神官達の心が、感動で震えた。
そう、まともな言動をしている時はかなり厳かな雰囲気を持ち、素晴らしい神官長なのだ、イディラートは。・・・まともな言動をしている時だけは。
ただ、・・・長続きはしない。
「我ら神官、神殿に入った時より、その体は女神に捧げしものとなる。さて、皆も自分の体調を振り返ってみるがいい。気づくことがないか?」
そう言われて、皆が自分の髪や肌などに目を落とす。
「そういえば、今日は腰の痛みがありませんな」
「儂の頭が禿げてるのは変わりませんが、今日の肌は、どこか艶々としております」
「いつもより、・・・もち肌?」
「イディラート様。つまり、それは・・・」
先程のふざけたかのようなイディラートの言葉。だが、それには深い意味が隠されていたのか。
当惑の面持ちで、皆がどういうことかを考え始める。
だが、イディラートは皆の問うような視線については沈黙を守った。
「今回の子供達は別枠として受け入れてやれ。どうせ渡り鳥のようなもの。すぐに飛び去っていく。・・・そして、誇るがいい」
自然の恵みを体現したかのような、深い木の葉の色を思わせる瞳が神官達を射抜く。
誰もがその瞳から、もう視線を離せない。
「今、このルーセット神殿にいるということを。我らこそが、未来の大いなる星を育むのだと、それを今一度、己に言い聞かせよ。各自、神官として己に恥じぬよう振る舞うがいい」
その言葉を受けて、その場にいた神官が、一斉にざざっと頭を垂れる。
(もしや、女神の神託が?)
(あの子供達に何かがあると?)
(だが、すぐに飛び去るとおっしゃった。それはどういう意味だ・・・?)
(イディラート様っ。やっぱりあなた、サイコーですっ)
イディラートは、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「先程、出ていた子供達のおやつの話だが、・・・果樹をもう少し増やして植えることにしよう。それから今回の子供達は受け入れるが、前例とする気はない。一年後には、公的書類に『一時保護したが、追い払った』と記載せよ。それまでには片付く筈だ。我らリベラ神国はリベラ女神を祀る国であり、他国とは違う存在である。他国の侵略を許さず、他国を侵略することもない。争いの火種は徹底的に排除するのみ」
「・・・それはっ。どういう意味ですかっ、神官長っ?」
一年後には片付くとはどういう意味か。殺すとでも言うのかと、一人の神官が反射的に問い返す。
(まさか子供達をっ? いや、この方はそんな方ではない。だが・・・)
日頃から昼行燈のようにぼうっとしている神官長だが、今一つその辺りに信用がおけぬのは、かつてイディラートは孤児院の子供達を攫おうとした賊を一人で始末した男だからだ。逃げ出した賊共を敷地外まで追いかけ、全てを皆殺しにした神官長。
しかも、それらの死体は街道にさらしたものの、何度かあったその凶行による死体は常にバラバラに刻まれているとあって、誰もが目を背ける惨たらしさだった。
一時期、ルーセット神殿が他国からも血まみれ神殿と呼ばれたのは、その死体を見た旅人や商人達がその話を様々な国でもしたからである。
――― 何が豊穣と繁栄を司る女神だ。あそこの神殿は、恐ろしい武闘派だぜ。
――― 子供達に手を出そうもんなら皆殺しだとよ。
――― おっかねえ、体がすっぱりやられてバラバラだったってさ
――― ありゃ、よほど人を斬り慣れてねえとできねえよ。
普通の孤児院ではあり得ない程にきちんと学ばせ、礼儀も叩きこむルーセット神殿併設の孤児院出身者は質が高く、ゆえに狙われた子供達も、高値で取り引きできると賊は考えたようだった。
しかし、薄ぼんやりした神官だけと思っていた神殿にはとんでもない手練れがいたわけである。
尚、その際、調理場にあった一番大きな包丁を遠慮なく使ってズタボロにした神官長は、後でこっぴどく料理長に怒られた。
――― 人を斬った包丁で牛を捌けっておっしゃるんですかいっ、神官長様っ! どうしてコレを使ってくれたんですっ!? これは、何十年と使ってきた大切な包丁だったんですよっ!
――― ・・・だが、この中で一番切れ味が良いのがそれだったんだ。
――― ああぁぁっ。もうっ、これからは大事な包丁は毎日持ち帰らせて頂きますからねっ。
――― む・・・。つまり料理長にとっては、子供達が奴隷として売られることよりも、その包丁の方が大事なのだな。
――― そんなこと、言ってないでしょうっ。
――― しかし、子供達を守る包丁を持ち帰ると言っているではないか。
――― 最初っから、武器は武器で調達しろって言ってるんですよっ!
子供達を守った英雄である筈の神官長は、お気に入りの寝間着も血まみれになった上、子供達には恐ろしい暴漢すら切り刻んだ怖い人と怯えられ、それからのご飯も料理長から八つ当たりのようにお肉やお魚の量を減らされ、かなり寂しい思いをした上、謂れのない武闘派などと呼ばれる始末。
(虚しい。善人程、割の合わない思いをするものなのだな)
イディラートは、大神官候補として育てられていただけあって、そこらへんの人情の機微にいささか疎かった。
料理長に対しても、最初から平謝りしておけば許されただろうが、自分は悪くないと思っているイディラートに、その思考そのものがない。
なんにせよ、うまく子供達を攫えれば儲けられるが、失敗すれば惨殺されるという究極の選択に、最近では通常の泥棒すら忍び込むのをためらうルーセット神殿である。
だが、その原因となったイディラート神官長は、大神殿からの叱責にも涼しい顔で、
「我が神殿の未来を担う子供達と、子供達の生き血を啜る賊共と、大神殿はどちらのお味方か?」
と、問い返して終わらせた、厚い面の皮の持ち主だった。
だからだろうか、そんな厚顔無恥な神官長は、自分に問いかけてきた神官に対しても、分かりやすい答えは返さない。
「文字通りの意味だ。しかし、質問は却下する。人に尋ねてばかりで努力を忘れては何にもなるまい。人は悩み苦しみ、その上で自分なりの答えを見つけて生きていく。そんな経験を繰り返し、英知を我が身に具えていくのだ」
そう言って、イディラートはその場から優雅な動きで歩き去った。流れるように床の上を移動していくイディラートの動きは、後ろ姿ですら目を奪われる。
(いや。それならあんた、少しは悩み苦しめよ)
(努力? したことありましたっけ、イディラート様? なら、たまには自分で起きてくださいよ)
(果樹を増やすのはいいんですけど、実が生るまで時間かかるって知ってます?)
そんな神官達の内心を、一顧だにせず。
(うん、我ながら今日は神官長らしく、カッコいいこと言った。大体、訊かれても分からないしなぁ)
何となく不穏な気配がして、刃物が必要な気がした。だから料理場に行って包丁を取り、心がざわめく方向へ行けば、子供達を攫おうとしている賊共がいた。
何となく右に避けた方がいいと思ったからそうしたら、ちょうど左側に背後から剣が下ろされていた。
何となく気になった書類を見ていたら、不正の証拠を見つけてしまった。
(それをどう説明しろというのだ。我にとっては当たり前のことを)
どうして自分が大神官にならなかったのか。いや、なれなかったのか。
そんな理由も分かっている。自分が大神官になってしまえば、あの子に順番が回ってこないからだ。
けれどもそんなことはどうでもいい。所詮、それは人が決めた肩書きにすぎないのだから。それに面白いものを特等席で見られる、その方がよほど楽しいではないか。
(だから我は神を讃えよう。人々を愛そう。そしてリベラ女神は更に皆に愛され、人々に愛が巡っていく)
イディラートは空を見上げた。
人よりも多くのことを察知してしまう自分の神経は常に疲れている。けれどもそれを人は神の恩寵と呼ぶのだ。
(もう少し、桃が食べたかったんだ。どさくさに紛れて沢山植えてしまおう。・・・子供達に優先して果物もまわしてやってたからな。余剰が出れば、こっちの食卓にも回ってくるだろう)
今、果樹を植えたらとても美味しい実がなるような気がする。だから沢山植えなくては。
イディラートはそう思った。
数日後、勝手に神官長が注文した果樹の苗木が納められ、
「こんな大量の苗をどこに植える気ですかぁーっ、イディラート様の考えなしーっ」
と、思いっきり叱られることも分かってはいたが、己の欲望に忠実なイディラートは、通りがかった商人にさっさと発注した。
リベラ神国にあるルーセット神殿併設の孤児院。
そこに保護されたリミダ村の子供達は、今までとは全く違う勉強漬けの日々におかれていた。
「きょ、今日も勉強。明日も勉強。・・・せめて、働かせてくれ。その方がいい」
「明後日には縫物の授業もあるから、それまで我慢よ。けど、こんな分厚い本を読めって言われても」
「座ってるだけなのに、どうして腹が減るんだろう。というより、こんなに勉強させられて何になるってんだ。まだ、畑仕事をさせられてる方がいい」
「お料理も教えてくれるのはいいんだけど、・・・座り方まで注意されるって何なの。しかも神官様ばかりか、大人の人にはちゃんとした敬語を使えって、どこまで口うるさいの」
そんな中、リリエルはかなり平気な様子でそれを受け入れていた。
(ふっふっふ。日本の学校生活経験者の私にはちょろいってものよ。たかが算数や国語ごとき、どうして分からずにいられようか)
しかし、あまり目立ってもいけないので適当に手は抜いている。それに勉強ばかりではなく、ちゃんとここでは様々なお仕事が子供達にもあるのだ。
たとえば、ファルアスやロクムは野菜畑や果物畑の世話をしている。ドルーやアイーネは、牛や山羊などの家畜の世話だ。
神殿では、全てではないが、それなりに自分達で食べるものをちゃんと育てているのだ。
「おっきく、おっきく、おっきくなーれっ」
リリエルが歌いながら水をやっていると、枝もぐんぐんと嬉しそうに成長する。
この中庭はルーセット神殿・神官長のプライベート空間で、人はあまり入ってこないそうだが、今まで地面を露出させていただけのそこに、この度、沢山の苗木を植えたばかりなのだとか。
(だけど神官長様って見たことないんだよねぇ。おかげで私専用のお庭になってるけど)
「リリエルには、この中庭のお手入れをしてもらいましょう。一人でも大丈夫かしら?」
「大丈夫っ」
と、そこの草むしりと水やりが、リリエルの仕事に割り当てられた。だからお昼寝もこの中庭を使っている。ちょうどいい具合に木々が枝分かれしてくれて、そこに寝そべるとハンモックみたいでよく眠れるのだ。
他にも子供達はそれぞれ、お掃除やお洗濯、そして配膳など、様々なお手伝い当番が決められていた。
(あ、だけどザイからは、私が水やりすると植物が育つの、人には知られないようにって言われてたんだ。ここの神官長様って見たことないけど、きっと自分の中庭も見に来られないぐらいによぼよぼのお爺ちゃんなんだね)
そう思い返して、リリエルは歌い直す。
「だけど、あんまり大きくならなくてもいいからねっ。おいしくおいしく、おいしくなーれっ」
だが、それも空元気にすぎない。
(パパ、大丈夫かな。ザイ、無事でいる? ちゃんと迎えに来てくれるよね)
何度も抜け出して村に戻ろうとしたが、いつもそれは邪魔されてしまった。長い焦げ茶色の巻き毛をした男性に。
見逃してほしいと頼んだのに、その人は緑色の目を細めて言ったのだ。
「それは駄目。君は台風の目だ。全てを混乱の渦に巻き込みながら、それでも君はさほどの混乱を受けずに動き続けていく。・・・今しばらくここにいなさい。何より、君の大事な人は、今、君に戻ってきてほしくないと思っているよ」
「・・・何を知ってるのっ? 変なこと言わないでっ。私さえ戻ればうまくいくんだからっ」
しかし、その男性はその言葉にぷっと噴き出す。
「お馬鹿な子猫ちゃん。ならばどうして君はここにいる? 君はいない方がいいと、君の大事な人がそう望んだからじゃないのかい? 君一人が世界の全てをまわしているわけじゃない。そうだろう?」
「だけど・・・っ」
「その代わり、約束してあげる。君の大事な人は死んでない。命に係わる大怪我もしていない。・・・それだけは保証してあげよう」
神殿の関係者なのだろうが、この顔は全く見たことがない。リリエルは唇を噛みしめながら睨みつけた。
「まずは一つ。そしてもうすぐ二つ。・・・君はまだ何も知らないのに、もう決めてしまうのかい? 違うだろう? さあ、大人しく部屋へお帰り。そして、少しはまともに針と糸とを使えるようになるんだね」
リリエルの頬がさっと怒りで紅潮する。自分でも縫い物の手際が悪いという自覚はあった。
仕方ないだろう。自分で縫うよりも完成品を買う方が安い世界にいたのだから。
「分かったようなことを言わないでっ。私は帰りたいのっ」
「おやおや。だけど、この孤児院の子は優秀でね。実はここの子供達を攫って売り飛ばせばお金になるって考えてる人達がいるんだよ。その人達は神殿の中には入ってこれないから、この街の外で待ち構えている。・・・そいつらに捕まって、売り飛ばされてみるかい?」
「・・・・・・そんな脅しになんて」
「嘘だと思うなら、他の人にでも尋ねてごらん」
そんなやり取りを思い返すだけでも腹が立ってくるリリエルだ。
しかも、神殿にやってきた一般の人に訊いても、授業をしてくれる神殿の人に訊いても、この孤児院の子供達はお金になると思われていると断言されてしまった。
算数を教えてくれている神官には、本気で心配されたぐらいだ。
「リリエルなら可愛いからきっと高値がつくだろうね。・・・だけど、どうしたんだい? いきなりそんなことを言い出すなんて。まさか自分をお金に換えようだなんて思ってないね?」
「思ってません思ってません」
どうやらここは自分で自分を売るケースがあるらしいと、その口調から気づき、リリエルは慌ててぶるぶると首を横に振る。冗談ではない。
「なら、いいけど。あんな奴らに攫われたら、二度と陽の目は見られないよ」
「・・・はい」
だからリリエルはこの孤児院で待つしかないのだ。
(パパ。パパはちゃんと私を迎えに来てくれる? ちゃんとザイ達は私達のこと、伝えてくれた?)
針と糸もろくに扱えないと揶揄されたのが悔しくて、軽い軽いと、授業をさくさく進めていたら、見どころがあるというので、リリエルだけリミダ村の皆とは違うカリキュラムのクラスに入れられてしまった。
元の世界の知識があるばかりでなく、ザイにも勉強を教わっていたのだから、リリエルはかなり良い成績をとれる子だったのだ。
(リベラ神官コースの授業らしいけど。別に神官なんてなりたくないし)
だけど、神官の称号を持っていると、リベラ神国内ではどこに行っても神殿の庇護が受けられるらしい。つまり宿屋と食堂には困らないことになる。それは魅力的だ。
だからリリエルは、嫌だと言い出せずにその授業を受けていた。そのリベラ神官コースの授業は、他の子供達と違って立ち居振る舞いや教養も含まれており、シンプルではあるが上質な衣類まで与えられる。
そのせいだろう。リミダ村の子供達が暮らしている孤児院ではなく、神殿内の神官見習いや神官コースの授業を受けている子供達が暮らす寮に、部屋も移された。
(お話する人もできたけど。・・・会いたいよ、パパ)
男手ひとつで自分を育ててくれたマイオス。
本当の父と娘ではないけれど、それでも本当は血が繋がっていないことをリリエルにひたすら隠し通すマイオスの優しさに、どれ程救われていただろう。
(どうか無事でいて、パパ)
その祈りが届くようにと、リリエルは目を閉じた。迎えに来てくれたら、ザイには思いっきり文句を言うのだと、決意しながら。
きっとザイは自分を迎えに来てくれる。そして謝る筈だ。だって、いつだって自分をザイが、ザイを自分が迎えに行っていたのだから。
あの兵士達がリミダ村からいなくなったら、ちゃんとザイはここまで迎えに来て、そしてこんな所で一人にしてごめんねって、自分を抱きしめてくれるだろう。
(帰りたいよ、ザイ。パパ、本当に無事なんだよね)
どんなに美冴の意識があっても、自分は無力な女の子にすぎない。
緑の長い髪をした少年と、そして最近は髭もじゃをやめて髪も髭も整えているマイオスの姿を思い描き、リリエルは空を仰いだ。
リミダ村の子供達は、リリエルだけ違うカリキュラムに行ってしまったものだから、少しよそよそしい。
だからだろう。今は無性に寂しかった。
ルーセット神殿の神官コースといっても、リリエルは初級コースだ。というのも、適性を見ながらカリキュラムを変更していくかららしい。そして脱落した子は普通の授業へと戻されたりもする。
神官になりたくても誰もがなれるものではないそうだ。
リリエルはちょっと独特な子というので、今となってはほとんどマンツーマンの授業に近くなっていた。
神官でも年寄りばかりがリリエルの講師になっているというのは、年老いて役立たずな神官だからリリエルにまわしておこうという、そんな落ちこぼれ扱いなのだろうか。
(いいけどね、別に落ちこぼれでも。神官になんてなりたいわけじゃないし)
考えてみれば、このリベラ国内で宿屋や食堂とかが無料になっても、ずっと旅してまわるわけではないのだ。それに外国では通じないなら意味がない。
別に落ちこぼれ扱いされたからっていう負け惜しみではない、断じてっ。
「じゃが、リリエルは小さいのに賢いのう。頑張っとるではないか」
「そうなんだけどぉ、お友達も欲しいよぉ」
だけどそんな授業は、若い神官よりも世間話とかが多くて楽しい。それもあって文句は言わないリリエルだ。
今日も、髪は白髪交じりの象牙色、そして白い髭を蓄えた高齢神官が相手をしてくれている。
「お友達とな。しかし寮でも可愛がられとると聞いたぞ」
「あれはお友達じゃないと思う。何てゆーか、何かが違うと思う」
できれば二十代ぐらいのお友達が欲しいのだ。
やはり十才ぐらいの子供では話が合わない。ザイとうまくやれていたのは、彼がリリエルを甘やかして大事にしてくれていたからだと、ひしひしと感じていた。
(てか、どいつもこいつもっ。ザイを見習えっつーのっ)
同じ神官コースの十五才くらいの少年達は、リリエルのことなど子供だと小馬鹿にするか、ペットか何かと間違えているような扱いしか、してこないのだ。いきなりひょいっと後ろから抱き上げては、バタバタと暴れて嫌がるリリエルを、
「あー、泣かない泣かない」
「狡いぞ、俺にも抱っこさせろよ」
「うーん、まだ馴れないなぁ」
とか言って、好き勝手に撫でまわしたりする。おかげで髪もぐしゃぐしゃになるのだ。
何ということだろう。
淑女に対する礼儀というものを、まずは神官コースの授業に取り入れるべきだと、自分は主張したい。
「別に抱っこされたりするぐらい、良いではないか」
「良くないっ。私を抱っこしていいのは、パパとザイだけなのっ」
「しかし友達とは困った。どうしても神官になろうとする女の子は少ないしのう。女神を祀るがゆえに、女神官は少ないのじゃ」
「どうして?」
たしかに女の子は少ない。リリエルが皆にペット扱いで遊ばれてしまうのも、女の子がほとんどいないからだ。
リリエルが首を傾げると、その老神官は説明してくれた。
「リベラ女神は豊穣と繁栄を司る。ゆえに、神官も結婚は推奨されておる。じゃが、結婚せぬ神官も少なくはない。だがのう、そういう中で女神官は、やはり女神の僕として自らが積極的に子供をつくる必要があると、有形無形の思惑を押しつけられてしまうのじゃ。しかし、女神官の結婚相手となるとのう・・・」
「何か問題があるの?」
「ふむ・・・。リリエルは賢いから分かるかのう? この国において神官というのはエリートみたいなものじゃ。誰もが結婚相手に良いとみなす。じゃが、女神官とて人間じゃ。稼ぐ妻だと思われての結婚などしたくないじゃろうしの」
「・・・そっか。じゃあさ、神官の男の人と結婚したらいいんじゃないの?」
「神官にしても、自分を『神官様』と尊敬してくれる妻と、同じ神官の立場で特に敬ってくれるわけでもない妻と、どちらと結婚したいか、であろうの。勿論、神官同士の結婚も多いんじゃが」
なるほどと、リリエルは思う。
しかし老神官は、肝心な理由を言わなかった。
神官が女神官と結婚したがらないのは、そういう理由ではない。このルーセット神殿は、あれでかなり克己心の強いイディラートが取り仕切る神殿だからそういうこともないが、よその神殿では立場を利用して、女神官を手当たり次第につまみ食いする高位神官も多いのだ。そんな誰かのお手付き、もしくは現在進行形で愛人をしている女神官を娶りたいと思う神官は少ない。
そして、そんな事情を知らずに神官を目指していた少女がいたとしても、その神官コースで学んでいる間に、美しければ神官に目をつけられてしまうことがある。真面目であればある程、そこで悩み、そして神官の道を自らが諦めてしまうのだ。
だが、それを言う必要はないだろう。
「つまり、家庭円満のコツは、夫婦でもキャバクラ並に女が持ち上げてあげることが大事だってことね」
「キャバクラとは何ぞい?」
「・・・酒場の綺麗なお姉さん」
「ふむ。そうかもしれんが、・・・子供のくせにリリエルは耳年増じゃの」
「大人の女なのっ」
「・・・そうか」
そんなリリエルは、まだ九才だ。
背伸びしたい年頃なんじゃのうと、老神官は口中で独り言ちた。
そうして数ヶ月がたったある日、リミダ村の男達が子供達を迎えにやってきた。
「この度はご迷惑をおかけしました。うちの村の子供達を保護してくださってありがとうございます。これは僅かばかりですが・・・」
そう言って、孤児院にお金や小麦や野菜などを持ってやってきたのは、リミダ村のガンス達だった。
見知った顔を見つけた子供達も、喜んで群がる。
「父さんっ」
「良かった。無事で良かったよ、ファルアス。アイーナもよく頑張ったな」
「お兄ちゃんっ」
「ラネアッ。ああ、本当に良くしてもらってたんだなっ。ドルーも元気そうじゃないか」
どんなに衣食住を保証されていても、やはり一番恋しいのは自分の家だ。子供達は迎えに来てくれた村の男達に抱きつく。産まれた時からの顔見知りなのだ。今更、家族がどうこうなどではない。誰もが家族のような仲間だ。
そんな一行を出迎えた孤児院の院長達も、
「前例にはできませんので、二度とお引き受けは致しかねますが・・・。けれども、みんなとてもいい子達でしたよ」
と、小麦や野菜は受け取ったものの、お金は受け取らなかった。
「いえ。この程度の僅かなお礼では到底足りぬとは分かっておりますが、・・・受け取っていただかなくては」
「いいえ。こちらでは子供達にも働いてもらっておりました。ですからお金は不要です。今後の子供達の生活費に充てて差し上げてください」
院長を務めるマザーはかなり気が強い性格らしく、それを毅然と押し返した。さすがのガンスもお金を引っ込めるしかない。だが、それも当然だったのかもしれない。実際、ガンス達一行のくたびれ具合を見れば、リミダ村がまだ落ち着いていないことは、明白だった。
「ところで、リリエルはどこです? あの子だけがいないようですが」
ガンスが問うと、マザーはそこで口ごもる。
「あの子は、・・・神殿の方へ預けられましたから。神官の方に言えば会わせてもらえると思いますけど」
併設されてはいるが、孤児院は神殿とはまた違うルールで動いている。その為、マザーはそちらに口出しできる立場ではなかったのだ。
なぜリリエルだけ別なのかと怪訝に思いながらも、折角みんなが涙を流して再会を喜び合っているのを邪魔すまいと思い、ガンスだけが隣家の子供を引き取りに神殿へと出向いた。
マザーが案内に立つ。
本当に豪華な神殿だと、ガンスは思った。
ルーセット神殿は敷地も広く、大規模な神殿だった。孤児院もしっかりしている建物だったが、神殿に至っては様々な建物で構成されており、一般人が入れるエリアとそうでないエリアもくっきり分かれている。
「リリエルは神官になるお勉強をしている筈ですから、こちらの裏側からまわりましょう」
「はあ」
どうやら院長であるマザーが案内に立ったのも、そうでなければ一般人のエリアにしかガンスは辿りつけずに時間がかかるからという理由だったらしい。
だが、出迎えた神官は取りつく島もない対応だった。
「リリエルを迎えに? どうせ捨てた子でしょう。なら、今更返せと言われても困ります。どうぞお引き取りを」
「そんなっ。どうしてリリエルだけっ」
ガンスは、予想外の事態に当惑した。迷惑だからさっさと連れて帰れと言われることはあったとしても、まさか返さないと言われるとは。
「そうですわ、神官様。こちらの方は、ちゃんと礼を尽くして迎えに来てくださったのです。何より、リリエルにはちゃんとお父様がいらっしゃるとのことではありませんか。それを返さないとは、それこそ神殿が人攫いの汚名を被ることとなりましょう」
意外なことに、ガンスに加勢してくれたのは、院長のマザーだった。
さすがに若い神官も、そこでたじろぐ。すると、ちょうどリリエルがそこを通りがかった。
「リリエルっ」
「あっ! ガンスさんっ!」
リリエルにしてみれば、リミダ村にやってきた当初から良くしてくれた隣家のご主人である。
顔を見るなり駆け寄ってきた。
「パパはっ!? パパも来てくれたのっ!? ザイはっ!? ・・・・・・どうして、パパもザイもいないの?」
勢いよく質問攻めにしながら、もしかしたらと不安になったらしい。言葉の後半で、リリエルはとても心細そうな顔になった。
だが、そこでその若い神官が口を出す。
「リリエル。そんな危ない村に戻るよりも、神殿で暮らす方がいいでしょう? ここにいれば、綺麗なお洋服も着られるし、美味しいものも食べられますよ。それに、みんなが君を可愛がってくれているでしょう?」
ガンスは、自分の汚れた服装が恥ずかしくなった。こんな立派な建物の中にいるのは綺麗な格好をした人ばかりだ。土埃のついた自分の服装は貧相としか言いようがない。
そして、たしかにリミダ村は豊かとは言い難かった。だが、こちらも早く迎えに行かねばと、山を越えてやってきたのだ。どうしても汚れはする。
だが、身なりを整えたりもせずに孤児院まで押し掛けたのは、紛れもない事実だった。せめて着替えてから来るべきだったのだ。こんな恥をかかない為にも。
見れば、リリエルも可愛らしい服を着ていた。
「そんなのっ。大事なのはパパとザイがいるってことなんだからっ。神官様の馬鹿っ」
しかし、リリエルは全く取り合わない。
「早く帰ろうっ? パパは大丈夫なのっ? ザイはっ?」
そこで口ごもるガンスの様子を見てとったか、若いその神官は、ガンスを促した。
「どちらにしても、リリエルは今、神殿で学んでいる途中です。勝手に連れ帰られても困ります。お話ならば、一室を提供しますから、そこでどうぞ」
リリエルを手放したくないという気持ちが見て取れる若い神官の意のままになるのは癪だったが、そこはガンスも強く出られない立場である。
どうやら応接室らしい部屋に通されれば、その豪華さに気後れした。さすがにマザーもそこまできたら、「では私は先に孤児院に戻ってますから」と、帰ってしまう。
「リリエル。マイオスは無事だ。ザイも」
「ほんとっ、良かったぁ。パパは一緒に来てないのっ? ザイは?」
二人が無事だと知って喜ぶリリエルの顔はとても嬉しそうだ。けれどガンスには、伝えなくてはならないことがあった。
いつもは寡黙なガンスだが、今度ばかりは状況が異なる。一生懸命、分かりやすく伝えようとした。
「マイオスはちょうどエイリーンといたらしくてな。そこへ、いきなり馬でやってきた奴らがエイリーンを馬で蹴りそうになったらしい。マイオスはそれを庇って、馬に蹴られ、・・・いや、怪我は大したことはなかったんだ。もう傷痕すらない」
そこで言いにくそうにガンスは続けた。
「だが、どうやら地面に打ちつけられた時に頭を打ったらしくてな。記憶が少しなくなってしまったんだ」
「・・・え?」
リリエルの、先程まで喜びに輝いていた顔が一気に曇る。
(記憶が少しなくなった・・・?)
それは、どういう意味なのだろう。
「どうやら、マイオスは奥さんが殺されたところからの記憶をなくしてしまったようで・・・。ただ、まだ記憶が混乱しているらしいんだ。何でもリリエルまで奥さんと一緒に殺されたと思い込んでる」
「・・・・・・」
リリエルの頭の中は、真っ白になった。
「ここはリミダ村で、マイオスはリリエルを連れてやってきたんだよと話して、本人もそれは納得したんだが、どうもリリエルの年まで分からなくなってるらしいんだ。本当にリリエルが生きているならもっと大きい筈だとか言って・・・」
「・・・・・・」
「いや。心配するな、リリエル。ちゃんとお前さんが戻れば、マイオスも思い出す。それにあんなにマイオスはリリエルを可愛がってたじゃないか。今だってエイリーンが看病していたおかげで、いい感じになってきてるしな。大丈夫、覚えてなくても二人は親子だ。うまくいくさ」
リリエルの、感情が抜け落ちた顔に、子供にはショックな話だったかと、ガンスは必死で言葉を重ねた。
けれども、リリエルの心は縛りつけられたかのように苦しくて。
つぅーっと、リリエルの頬を涙が伝う。
(ああ、そうだ。私は郭公の雛)
どうして忘れていたのだろう。
本当は自分を育てる義理など、マイオスにはないのだということを。
マイオスと二人で積み重ねた歴史を失ってしまえば、自分達には何も残らないのだということを。
「リッ、リリエルッ? だから心配しなくてもっ」
慌ててガンスがそう慰めてくるが、リリエルはかぶりを振った。
そう、本当のリリエルが生きていたら、自分よりも年上だった筈だ。
色合いこそそっくりでも、本当のリリエルと自分は顔も全く違う。・・・見た途端、マイオスはリリエルを、「これはうちの子じゃない」と、言うだろう。
「ガンスさん・・・。私、神殿に残る」
「はぁっ? リリエル、何を言ってるんだっ。別に忘れてたって問題ないっ。二人が親子なのは変わらないんだからっ」
ガンスは、自分の説明が悪かったのだろうかと、そこでリリエルの小さな両肩を掴み、揺さぶった。
「馬鹿なことを考えるんじゃない、リリエルッ。お前はマイオスの子だっ、ちゃんとおじさんが保証してやるっ」
「・・・・・・だって、違うもの」
ガンスの気持ちは嬉しい。
だけどそれはあり得ないことなのだ。
「だって、パパ、私を拾ってくれただけなんだもの。私もパパとママを殺されたからって、そして殺されたリリエルちゃんの名前を私につけて、・・・だから私を見ても、パパ、私をリリエルだって・・・・・・認める筈ないものっ」
耐えきれずに、リリエルはその部屋を飛び出した。
「リリエルッ! 待つんだ、リリエルッ!!」
追いかけてくるガンスだが、この建物の中ならリリエルの方が詳しい。
誰も入ってこない神官長だけの専用中庭へと、リリエルは駆け込んだ。
「うっ、うっ、うっ、・・・うわぁぁぁぁっ」
拾われたあの夜から、ずっと一緒だった。
共に家族を奪われ、そして互いに手を取り合って自分達は親子になった。
(パパ、パパ、・・・パパぁっ)
覚えてる、慣れない手つきで赤ちゃん用の柔らかいご飯を作ろうとしてくれたこと。
トイレもさせてくれようとしたけれど、さすがにそれは自分で草むらに行ってしてみせてからは、手伝おうとはしなくなったこと。
最初のリボンを照れ臭そうに買って、そして結んでくれたこと。
リリエルのできることが増える度、ぼさぼさの髪と髭に隠れている青い瞳を細めて喜んでくれたこと。
エイリーンを意識しているのが分かったから、髭は剃った方がいいんじゃないかなと言ったら、すぐに剃るようになったこと。
いつだって、自分達は一緒に手を繋いで暮らしてきたのだ。
(どうして、どうして・・・っ)
そんなリリエルの頭に誰かの手が置かれた。
「泣くな。・・・ちゃんと話したら分かってくれる。そういう優しい男だっただろう?」
その声は、リリエルが夜逃げしようとする度に邪魔してくれた男のものだった。茶色い巻き毛に緑の瞳をした、・・・自分が村に帰ろうとする度に現れて、裁縫がヘタクソだと言ってのけた礼儀知らず。
こんな奴、大っ嫌いだ、人の邪魔ばかりして。
しかも悔しいから勉強を頑張ってみたら、今度は全く顔を見せないし。
(・・・だけど今は他に誰もいないから)
リリエルは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をその男の腹に押しつけた。本来なら自分が抱きつくのは、マイオスとザイだけだ。
だけどこの男は人間ではない。そう、ただのハンカチだ。自分はハンカチをぐしゃぐしゃにしているだけなのだ。
(嘘つきっ、嘘つき嘘つきっ。パパは大丈夫だって言ったくせにっ)
だが、男はリリエルが鼻水を自分の服で拭いても怒らずに、優しくリリエルの頭を撫でてくる。その手つきはマイオスを、そしてザイを思い出させた。
「さっきの男はお前をまだ捜しているよ? 行ってやらないのかい? そろそろ出発しないといけない時刻のようだ」
リリエルは顔をその手触りの良い服に埋めたまま、首を横に振った。
マイオスは分かってくれる、かもしれない。だけど、拒絶されたら?
話せば納得してくれる、かもしれない。だけど、それまで見知らぬ子供を見るような目で見られたら?
・・・耐えられるわけがないっ。
「後悔、しないね?」
こくんと、そのまま顔を深く埋める。
どうやら溜め息をついたらしいが、男は誰かに
「丁重に見送りを。土産も持たせてやるがいい」
と、命じた。
若いくせに、実は偉い人だったのだろうか。ここは神官長の庭なのに。
もしかしたら神官長の隠し子だったりするのかもしれない。
だけど、そんなこともどうでもいい。
「うっ、うっ、うっ、・・・ひっ、ひっく、・・・うっ・・・」
「馬鹿な子だね。どうしてそこで自分の本当の気持ちに顔を背けるんだい?」
説教なんて聞きたくない。
あんたに自分の気持なんか分かる筈がない。
リリエルは、ぽかぽかと男の胸を叩く。だが、男は怒らなかった。
やがて泣き疲れて眠ってしまうまで、リリエルはその男にしがみついていた。
次の日から、リリエルは授業にも行かずに部屋でぼうっとしていた。
食事もとりたくないし、お腹も空かないのだ。何もやる気が起きなかった。
毛布をかぶって、ずっと部屋にこもっている自分は登校拒否児のようだ。けれども、そんな日数を数えることすら面倒臭い。
(ガンスさんだって、とっくに報告しちゃってるよね。私がパパの子供じゃないってこと)
マイオスはどう思っただろう。知らない間に、他人の子供を育てていたと知ったマイオスは。
「リリエル。また今日も泣いているのかい? そろそろ出てこないと、そのまま黒カビになっちゃうよ?」
「・・・具合が悪いの」
仮病だと誰もが分かっているだろう。
寝台の上で、頭から毛布をかぶってめそめそしているリリエルの目の周りは真っ赤で、扉を開けて入ってきた若い神官も、呆れた顔になった。
「しょうがないなあ。落ち着くまでは好きにさせてやれと言われてるから、いいけど。ほら、少しは食べないと病気になっちゃうよ」
トレイの上のご飯は美味しそうな匂いを漂わせている。
「はい、ちゃんと起きて」
寝台横の机にトレイを置き、神官はリリエルの体を起こさせた。こんな時、子供の体は不便だ。簡単にひょいっと持ち上げられてしまう。
「あとで食べる」
「嘘だね。昨日もほとんど手をつけなかっただろう」
だって食べたくないのだ。食べようとしても、気持ち悪くなる。
しかし神官は、煮込んだスープ粥をひと匙すくって差し出してきた。
「はい、口を開けて?」
「やだっ」
思わず、手で払いのけてしまい、スプーンがカラーンと床に転がった。
神官もびっくりした顔でリリエルを見る。
「あ。ご、ごめん・・・なさい」
自分でもまさかそんな乱暴なことをするとは思わなかったリリエルだ。
事態を把握すると、すぐに慌てて寝台から降りる。
「ごめんなさいっ、すぐ拾うからっ。ちゃんと拭くしっ。ごめんなさいっ」
だけど嫌だったのだ。
だって自分に食べさせてもいいのはマイオスとザイだけだ。他の人なんて冗談じゃない。
そこへ、少年の声が響いた。
「困った赤ちゃんだね、リリエル。ずっと泣いてたの?」
驚いて神官とリリエルが振り返ると、そこには苦々しい顔をした壮年の神官と、案内されてきたらしい少年が立っていた。
その少年の髪は長く、緑色をしていて・・・。
「・・・ザイッ」
「おいで、リリエル。僕のベイビー」
何も考えず、リリエルはザイの腕の中へと飛びこんだ。いつものように、ザイがそれを受け止める。
「ザイぃーっ」
わんわんと泣きだしたリリエルは、ひしっとザイにしがみついた。
「うん。リリエル、ごめんね。一人で寂しかっただろう?」
普段から老若問わず、男に抱きしめられたり抱っこされたりするのを、かなり嫌がって暴れるリリエルだ。
なのに今は自分から抱きついた上、緑の髪をした少年も当然のように受け入れている。
どう見てもリリエルが特別に懐いていると分かるその行動に、ザイを案内してきた神官と、そして若い神官が不穏な表情になった。
抜け目なくそれを目の端で確認しながら、ザイはリリエルを強く抱きしめる。
さて、何も分かっていないリリエルをどうするべきかと考えながら。
リリエルの部屋でいいと何度も主張したのに、案内されたのはとても豪勢な応接室だった。
「ご飯、全然食べてなかったんだって? ちゃんと出されたら食べなくちゃ大きくなれないよ、リリエル。はい、あーんして?」
ザイの膝の上に座りながら、リリエルはそれをぱくりと食べる。やっぱりザイに甘やかされているのはとても気持ちがいい。
「別に血が繋がってなくても、自分の娘の名前をつけるぐらいなら、とても特別だったんだってすぐ分かるじゃないか。マイオスさんだってリリエルに会いたがってたよ。みんなも口々に、二人はとても仲良く暮らしてたって言うものだからさ。大体、血が繋がってなくてもあれだけ一緒に暮らしてたんだ。自分が可愛がられてたって自覚はないわけ、リリエル?」
「う。・・・ごめんなさい」
そう落ち着いて言われてしまうと、自分が悪いような気がするリリエルだ。
「だけど、打ったのが頭だからね。一年ぐらいは無理しない方がいいって言うんで、マイオスさんは来れなかったんだ」
「そっか。そうだよね」
だからザイが迎えに来てくれたのだろうか。
ザイは、リリエルの頭を撫でながら、次の匙をリリエルに差し出した。ぱくっと食べるリリエルを褒めるかのように、そのこめかみにキスしながら小さな声で囁く。
――― 黙って聞いて、リリエル。この部屋は見張られている。
バッと顔を上げ、自分の顔を凝視してくるリリエルに、ザイは微笑んだ。
「久しぶりのキスだから驚いちゃった? それともご飯が熱かった? ・・・ここで暮らしている間に恥ずかしがり屋さんになったのかな、リリエル?」
大人しく物静かで優しいザイ。けれども、いざという時には誰よりも頼りになるのだ。
リリエルはぎゅっとザイに抱きついた。
スプーンを置いて、ザイがその背中や肩を撫でながらその頭にキスを繰り返す。
――― 君に会わせないと、君はこの国の人間じゃないことを触れ回るって脅したのさ。そうしたらチェンジン国との争いになるんじゃないかってね。だから入ってこれた。・・・だけど、君を手放す気はないみたいだね、この神殿。
何故だろうと思い、リリエルは顔を上げた。
「そろそろお肉も食べようか。ちゃんと一口大に切ってあげる。良い子で食べたら、また頭を撫でてキスしてあげるよ、リリエル」
そう言ってザイが煮込まれていた肉を切り分け、「はい、口開けて」と、差し出してくる。
ぱくっと食べてもぐもぐしていると、「いい子だね」と、その額にキスされた。
(これ、まだ少年と子供だから許されるけど、あと十年たってたら、・・・・・・是非っ、その時はこんな感じでゲロ甘にもう一度お願いしますっ)
その頃にはかなりいい男になっていそうなザイだ。色気たっぷりにやってほしい。おひねりを結ぶ気はないが、そこは幼馴染特権ということで、タダでやってもらおうと、リリエルは思った。
いや、そんなことを考えている場合ではないのだが。
けれど、・・・どうして自分を手放す気がないと、ザイは言うのだろう?
何度も髪に口づけながら、ザイが囁く。
――― リリエル。君、もしかして植物を育てたり、家畜の世話したりとかした? 君の力、バレてるんじゃないの?
はっと、リリエルはそこで気づく。
もしかして・・・。
目を合わせた途端、ザイが頷いた。
「そうだよ、リリエル。・・・お肉を一口だけですませるのは駄目。もうちょっと食べなきゃ」
そうして次のお肉が差し出される。
それを食べながら、リリエルは考えた。
たしかに自分は中庭の水やりをしている。だけど普通に生る程度の数しか実もつけていない筈だ。どうしてばれたのだろう。
「あのね、ザイ。私ね、神官長様の中庭の水やりのお仕事してるの。今年、その苗木を植えたばかりだっていうから、ちゃんと毎日お水をあげたの」
「そうか。頑張ってお仕事してたんだね、リリエル」
「うんっ。だけどね、どの木もあまり実は生らない感じなの。だって、二つか三つしか、どの木も青い実をつけてないの」
「・・・・・・それは寂しいね」
「うん」
ザイは小さく溜め息をついたようだった。
「ほら。お喋りで誤魔化しても駄目だよ、リリエル。ちゃんと野菜も食べなきゃ」
そう言って、ザイは人参を突き刺してリリエルの口元に運ぶ。ぱくっとリリエルが食べてから、ザイは囁いた。
――― お馬鹿さん。普通、苗木が実をつけるまではね、数年かかるものなんだよ。植えた年に実がなることはまずあり得ないのさ。
なんですとっ?
リリエルがザイの顔をまじまじと見やる。
苦笑しているザイは、ツンとリリエルの額を突っついた。
「可愛い顔をしても駄目。玉葱も食べよう?」
肉と一緒に煮込まれていた玉葱が口に放り込まれる。
「よく食べたね、リリエル。偉い偉い」
そう言ってリリエルの頭を撫でながら、ザイがキスする。
――― この神殿、詣でると体が楽になり、難病の人も病状が悪化しないってんで、今、リベラ女神の恩恵があるって噂されてるの、知ってる? 併設の治療院で長く入院していた人も、退院できるぐらいになったって。君だけ孤児院から隔離されたのも、君をこの神殿から出さない為だろうね。僕も会わせてはもらえたけど、連れ帰るのは許さないって言われたよ。
リリエルの目が大きく見開かれる。
(そんな・・・。ううん、だって、あの時、茶色の巻き毛の人は、ガンスさんと帰らないのかいって言ってくれた。ここに留めるつもりがあるなら、あんなこと、言わない筈)
けれど、本当にそうだろうか。
自分があの時、帰ろうとしたらどうなっていたのだろう。
――― リリエル。恐らく君を連れ出そうとしたら、僕を殺してでも君を取り戻すだろうね。だから、・・・君はここで神官になるんだ。
え? と、リリエルの頭が凍りつく。
ザイは、今、何と言ったのだろう。
「はい、リリエル。今度はジャガイモ」
ザイがにこやかに差し出してくるが、リリエルの頭は今の話を受け入れていなかった。
――― リリエル。いつか君を盗み出しに来る。だからまずは神殿の外に出られる身分を手に入れてくれ。こんな建物の中にいられたんでは手の打ちようがない。
リリエルはザイの胸に顔を埋めて抱きついた。
「もうお腹ぱんぱんっ。あまり入らないのっ。ザイが来てくれなかったからっ」
「ごめんね、リリエル」
これで自分の口が動いているかどうかも見えない筈だ。リリエルは、小さな声で問いかけた。
――― 夜になってこっそり抜け出したら駄目?
ザイが俯いてリリエルの後頭部にキスしながら囁く。
――― 多分、見張られていると思う。僕にしても、追跡されるだろうしね。そしてリミダ村まで君を取り返しにくるぐらいすると思うよ。何といっても、今、この神殿にはリベラ女神の特別な恩恵があるって噂がかなり出回ってる。君の人相まではバレてないみたいだけど。
リリエルはぶるっと身震いした。
そうだ、リベラ女神の娘。
自分はその名で呼ばれるのだと、そう言われなかっただろうか。
遠いあの日、あの不思議な部屋の中で。
――― リリエル。君をリミダ村ではない場所に、全く違う場所に連れていって暮らす力を僕はつけてみせる。だから、・・・すまない。待っていてくれ。今の僕では、・・・この街の人全員を敵にまわして君を連れ出すのは無理だ。
――― ううん。・・・私が悪かったの。ザイ、ごめんなさい。
自分が考えなしにやってしまったのだ。目をつけられてしまうようなことを。
どちらにしても、そうなるとザイと一緒に出て行くのは論外だ。泣いて喚いて叫んで、そうして無理に出て行っても、今度はどこかで襲われてザイが殺されかねない。
(女神の恩恵だとか、病気が治るとか、・・・そんな話が出回ってるなら、絶対に逃がすわけがない。だって、ここはその女神を祀るリベラ国なんだから)
場合によっては、ザイはこの国一つを相手に戦わねばならなくなる。
それこそ無茶だ。
「ねえ、リリエル。僕はまた君に会いに来るよ。だから、ちゃんとご飯は食べて待っててくれる?」
「・・・うん」
優しいザイ。
だけど、どうしてこんな彼を危険に巻き込むことができるだろう。
「リリエルは立派な神官になる素質があるんだって。僕はリリエルが素敵な神官になった姿、見てみたいよ」
「ほんと? ザイがそう言うなら、・・・頑張ってみようかな」
だから自分は笑ってみせる。
どこからこの部屋を見ているのかは分からないけど、怪しまれないように。
ザイが帰り道で危ない目に遭わないように。
「マイオスさんも、体が危なくない状態になったら君に会いに来ると思うよ」
「うん。楽しみ。・・・パパ、リリエルのこと、いつもみたいに大好きだよって言ってくれるかなぁ」
「当たり前だろ。リリエル程、可愛い子は存在しないよ」
けれどもそのザイの爪が、悔しさをこらえて手のひらを傷つけていることに、リリエルも気づいていた。
誰よりもザイは自分を大事にしてくれているから。
だから一番悔しい思いをしているのは自分じゃない、ザイなのだと、リリエルは目を伏せた。