3 光と闇と、生きるということ
アルファ(ライジード):赤みを帯びた黒髪、黒の瞳。エスリーダ王国の第三王子。
ベータ(レスター):学者。
ガンマ(ザイファス):緑を帯びた黒髪、黒の瞳。盗賊。
デルタ(ファルード):紫みを帯びた長い黒髪、黒の瞳。リベラ女神の神殿に属している。
イプシロン(ロムルス):青みを帯びた黒髪、黒の瞳。アームル帝国の一軍に属している。
松岡美冴:黒髪に茶色の瞳。ストロベリーブロンドの髪と、青や緑にも見える灰色の瞳の姿を与えられる。
ザイファスのキスに陶然としていた彼女は、よろよろとしながら三つ目の扉に向かっていた。
(キスで酔えるって、本当だったんだ・・・)
何でも、彼らは一人一つの部屋らしく、そして他の部屋に彼女を行かせることを止めることはできないのだそうだ。
別れ間際に優しいキスをしてきたザイファスの瞳はとても情熱的で、はっきり言えば腰が砕ける程に陶然とさせられた。
(私、・・・なんかとっても尻軽って奴?)
短大は女性ばかりで、出会いなんて短大近くに出没する変質者しかいなかった。勿論、そういうのは速攻で警察に突き出したが。
だから自分はかなり身持ちが固いと思っていたのに、まさかの二股状態・・・。
(だけど選べないっ。どっちも素敵すぎるのよぉっ)
そんなことを思いながら開けた扉の中には、やはり神谷の姿があった。
「お待ちしておりました、我が姫君。私は何番目でしょう?」
「・・・三番目、です」
「そうでしたか。ちょうど真ん中ですね。どうぞこちらにお座りください。そのドレスもとてもお似合いですし、せっかくですから髪を結って差し上げましょう」
彼はどうやら神職者だと言われていた男のようだった。同じ顔でも、やはり何かが違うのだ。
礼儀正しく節度のある仕草で、彼はそこにある椅子を指し示す。
「ありがとうございます」
「いいえ。昔はよくやってあげたものです。・・・神殿に入るまでは、姉や妹達の髪を」
その言葉に顔を上げれば、知らない男の顔があった。紫を帯びた黒髪に、やはり漆黒の瞳。けれども、ロムルスやザイファスと違い、彼は肩甲骨まで届く長い黒髪だった。
(き、綺麗系っ? うっわぁ、普通に男の人の格好してても、誰もがドキドキしちゃう感じっ)
光の加減で紫にも見える黒髪ストレート。美形でなければ許されない髪型だ。端正な顔なのに、色気がある。
きっと襟の開いた服を着ていたら、男も女も目を奪われるタイプだ。しかし、彼には己に対して厳しそうな、そんなストイックさがあった。
(そこがそそられる感じっ? そこらの女性よりも華があるなんて悩ましすぎるっ)
それはきっと日焼けしていない肌も影響しているのだろう。人形のように美しいのに艶めかしい。ちょっとドキドキしてしまう。
「ファルードと申します。豊穣と繁栄を司るリベラ女神の神殿に属しております。どうぞお見知りおきくださいませ」
「ファルード、さん」
やはり神職者で合っていたようだ。
その深い色合いが神秘的なものを感じさせる。こんなにも丁寧に扱われたのは初めてではないだろうか。ロムルスも丁寧だったが、彼には大らかさがあった。
けれどもファルードにあるのは繊細さだ。ほとんどの女性に同席を嫌がられることがないという、女性に囲まれて育った人間ならではの特徴が、そこにある。
女性の気持ちが分かる人なのだ、多分。
「ええ。できるだけ早くあなたを見つけてお迎えにあがるつもりですが、よろしければリベラ女神を祀る神殿にて私、ファルードをご指名くださいませ。デルタに会いに来たとお伝えくだされば、どんな時でもあなたをお迎えにあがります」
「ファルードさんが、デルタさん」
「ファルードで良いのですよ、姫君」
そんなことを話しながらも、ファルードは真っ白な背もたれのない椅子に彼女を座らせ、髪をブラシで梳きながら器用にまとめあげていった。目の前には鏡があって、その様子がよく分かる。
「ブラッシングすれば柔らかくクセがつきますね。ならばゆったりとまとめたらお似合いですよ。それとも姫君は凝った髪型の方がお好きですか?」
「えーっと、実はこの体、よく分からないの。・・・ファルードの好きな感じにしてって言ったら怒る?」
人へのお任せがすぎると嫌がられると、そう聞いたことがある気がして尋ねたら、ファルードは柔らかく微笑んだ。
(あ。やっぱりこの人、かなり優しい人だ)
ちゃんと相手を見て理解してくれようとするタイプの人だと分かる。
「そんなことで怒ったりしませんよ。そういえば、以前のあなたはあまり髪を長くしてはおられませんでしたね。でしたら、あまりきつく結わない方が良いでしょう」
幾つかに分けていた髪を、ファルードは二つぐらいに分け直してしまう。
「リボンは何色がお好きですか、姫君?」
「えっと・・・。じゃあ、その紫っぽい青色のをお願いします」
ドレスとよく似た青いリボンもあったが、ファルードの髪が紫みを帯びていたので、何となくそれを彼女は選んだ。
ファルードが心得たかのように微笑み、二つに分けてリボンと共に編み込んだ髪をうなじに近い位置でくるりとまとめ、更にリボンを可愛らしい複雑な形に結んでみせた。もう一つの鏡を使い、それを映し出して見せてくる。
「花のように結びましたから、・・・他の男共に乱暴にされそうになったら、『このリボンがほどけたらどうしてくれるのっ。あなた、結い直してくれるんでしょうねっ』と、一喝して差し上げるといいですよ、姫君。大抵の男はそんなリボンなど扱えませんからね。あなたを無理に押し倒したりはしないでしょう」
彼女もくすっと笑う。どうやら彼は、他の男のことも考えて、わざと複雑な結び方にしてくれたらしい。
「ありがとう、ファルード。最初にあなたの所に来たら良かったわ。そうしたらきっと私、どこの部屋に行ってもお高く留まっていられたわよね?」
普段はもっと少し砕けた話し方をするのだが、自分をとても大切にしてくれるファルードが嬉しくて、彼女は鏡に映る彼にそうおどけて尋ねてみせる。
聖職者ならではの穏やかさを持つファルードだったが、その言葉に右眉を上げて応じてみせた。
「その通りですよ、姫君。その際には、ドレスにも立体的な飾りをつけて、半径五十センチには誰も近づくことなどできないようにして差し上げましたものを」
わざと恨みがましげに言ってくれるのだから、ぷっと彼女が噴き出す。
「もうっ。そうしたら、キスできないじゃない」
「いいのですよ。どいつもこいつも、女心を全く分かっていない奴らばかりですからね。それぐらい勿体ぶってやらねば」
お互いにくすくすと笑い合えば、何となく嬉しい。くるりと椅子に座ったまま振り返って、彼女はファルードの腰に抱きついた。
「不思議・・・。どうしてかしら、皆が懐かしい。あなたも、温かい」
自分を包んでくれるファルードの腕を背中に感じる。温もりが、肌だけではなく心にも伝わってくる。
ロムルスとザイファスの時は、その男性的魅力にクラクラしていて感じる余裕がなかったが、こうしてファルードといれば、それがよく分かった。
「さあ。どうしてなんでしょうね。私もあなたを見るまで知らなかった、こんな想いを。誰もがあなたを愛していますよ、姫君。一番愛しているのは私ですが」
「ふふっ。・・・こうして抱きしめていてくれる? 夢のようなの。とても幸せで懐かしい、そんな夢」
そうだ。自分はこうして何もなく、ただ穏やかに彼の腕に包まれていたかったのだと、そう彼女は思う。
(あなたとずっと一緒に・・・)
やがてファルードが呟いた。
「不思議ですね。今、この時間が止まればいいのにと思いました。こうして何もせず、ただ穏やかにあなたとずっと抱き合っていたい。それが幸せということなのだと・・・」
「私もそう感じてるわ、ファルード」
目を閉じて、ファルードの体温を感じているだけで心がゆったりと安らぐ。
満ち足りていく幸せをただ抱きしめあうだけで感じることができるだなんて、今まで知らなかった。
(本当に、このまま時間が止まればいいのに)
恍惚とは、こういう思いをさすのだろうか。この感情だけで時が止まる。
「好き・・・。お願い、このままでいて」
「ええ」
彼女の背中にまわされた手が、優しく背中を撫でていく。そこに愛情を感じずにはいられない。性的なものではなく、ただ与えられる愛がそこにあった。
そこでいささかファルードは自嘲するような口調になる。
「神官失格ですね。我らがリベラ女神は繁栄と豊穣を司る。ゆえに、我らは人々の愛の営みを推奨し、子作りこそ大事なことだと説く立場ですのに。なのに、ただこうして抱き合うことをこの上ない幸せだと思ってしまうとは。・・・姫君、あなたは罪なお方だ」
彼女はそこで、目を閉じたまま唇をとがらせた。
「それって私のせい? 違うわよ、ファルードが悪いの。だって、・・・こんなにも私を抱きしめるだけで幸せにしてくれるんだもの」
「この程度など、いつでも喜んで。勿論、それ以上も喜んでさせていただきますよ、姫君? 我らがリベラ女神は、神官の結婚も推奨しております」
「・・・・・・そーゆーのは、置いといて」
自分はこんなにも可愛い女だっただろうか。
こうやってねだるかのように甘えて、ちょっと抱きしめてもらっただけで有頂天になるような、そんな一途に男に対して好き好き言うタイプだっただろうか。
(だけど、勝手に体が動く。心に、体が引きずられていく)
好きだと思ってしまう心を、どうやって止めればいいのだろう。
そんなことを考えていた彼女の頤に、ファルードの指がかけられた。
「ファルード?」
「可愛らしいですね、姫君。こうやって、ただ抱きしめてほしいと私の腕をねだるあなたはとても愛らしい雛鳥のようです。このまま持ち帰ってしまいたいぐらいですよ。全く、この後の味気ない日々を私にどう過ごせというのか・・・」
責めるようなセリフだったが、顔つきはこれ以上ない程に優しい。
「この後の日々?」
「ええ。この素晴らしい出会いすら、神から私共に与えられた夢の時間にすぎません。あなたに祝福を終えてしまえば、私達は元の生活に戻されます。これは私共にとっても幸せな夢のひとときなのですよ、姫君」
神様なんて本当にいるのだろうか。
彼女はそう思った。
だとしたら、その神様はどうしてこんなことをしているのだろう。自分は、どうしてこんなことになっているのか。
「我、ファルードからの祝福は、彼女が穏やかに暮らせる運命を。どんな悲惨な出来事が起ころうとも、彼女の生活だけは安全と穏やかさが約束され、彼女が寒さやひもじさに泣くことはない」
腰をかがめて近づいてくるファルードの唇を、彼女は大人しく目を閉じて受け入れた。
目を開ければ、ファルードがもう一度抱きしめてくれたことに、彼女は安堵した。
「ファルードは、・・・きっと、寒さやひもじさに泣く辛さを知ってるのね」
「・・・・・・昔のことです。国全体を覆った飢饉で、住んでいた村はかなりひどいことになりました。家族と私も別れ別れになりました。そして私は不思議な運命の巡り合わせにより、神殿へと入ったのです」
ファルードにとって、それはとても辛いことだったから。
だから自分にはそんな思いをさせたくないと、そう思ってくれたのが彼女にも分かった。
「あなたも・・・。あなたも二度と、そんな辛い日々を送ることがないようにって、私、祈るわ。ファルード。これ以上、あなたが飢饉などで辛く眠れない日々を送ることがないようにって」
過去は変えられないけど。けれども自分に何かの力があるのなら、せめて・・・。
(私がもらったその祝福を、あなたにも半分返せるならいいのに)
今度は彼女からファルードへ贈った口づけに、精一杯の祈りをこめて。
(ああ。だけど・・・・・・)
どうしようと、彼女は思った。
誰も彼もが、自分の好みすぎてどうしようもない。
一緒にいるだけで、流されてしまうのだ。
(ま、まさか本当に五人とか・・・・・・)
いやいやいやっ。そんなことはあり得ない。
きっと残り二人にはそんな気持ちを抱かないと・・・・・・信じたい。
信じる者は救われる。そう、きっと。そう、多分。そう、だといいなぁ。
そんな彼女の気持ちを知っていたのだろうか。
ファルードは笑って、
「優しい姫君。それでも最後には私を選んでくださると、・・・信じてお待ちしております」
と、耳元で囁いた。
(最後にはって・・・。う、疑われてます・・・よねっ? そーゆーことですよねっ?)
だけどその通りだ。自分からファルードに好きと言っておいて、ロムルスやザイファスのことも好きなのだから。
「あ、あのね。ファルード・・・」
「いいのですよ、姫君。私はあなたに仕える身。困らせたいわけではないのですから」
そんな叱られた仔犬のような情けない表情をしている彼女の頬にキスを贈ったファルードは、扉までエスコートしてくれたけど。
「どんな時でも私はあなたのお味方です。何があろうと、まずは私を頼ってくださいませ」
それが本気でいたたまれなくなった彼女だった。
いい人すぎる。きっと自分は、何かあったらどころか、本気で真っ先にファルードの所まで一目散に頼っていきそうだ。
(だってファルードって、私に押しつけてこないし。甘えさせてくれるし)
こんな優しく大事にしてくれる人がいたら、誰だってメロメロにされたいって思ってしまうものだろう。
しかもファルードは、まさに貴公子と言わんばかりの高貴さが漂っているのだ。
自分が浮気人間体質なのではないと、・・・・・・信じたい、切実に。
(そうなると、アルファが王族の人らしくって、ベータは不明、ガンマがザイファスで盗賊をしている、デルタがファルードで神官をしている、イプシロンがロムルスで帝国にいる、なんだよね)
ああ、誰か・・・。気を利かせてペンと紙をください。
四つ目の扉を開けると、ゆっくりと神谷の顔が振り向いた。
自分から寄ってくることはない。けれども、自分の傍に彼女が寄ってくることを疑いもしていない。
その貫禄から彼が、神谷の顔をしていても人々の頂点に立つのが当たり前の日々を送っていることが察せられた。
「やっと来たか、姫君。待ちかねた」
「こ、こんにちは」
その挨拶でいいのだろうか。
(この人が、王族とかいうアルファ・・・だよね)
そんな偉い人にどう挨拶するのが正しいのか、よく分からない。
「そう、身構えないでくれ。あなたに距離を置かれてしまうのは、いささか傷つく」
「あ、ごめんなさい」
つい、ぺこりと頭を下げて、それから顔を上げると、そこにはもう神谷の顔はなかった。
「この顔では、初めまして、だな。この中にあってはアルファと名乗っているが、我が名はライジード。エスリーダ王国の第三王子だ」
柔らかな中にも、ほんの少し厳しさも内包した顔立ち。たしかに王子様と言われて納得する、甘いマスクでもある。
光の加減で赤い光を反射する、緩やかに波打つ黒髪は短くもなく長くもなく、邪魔にならない程度に揃えられており、その瞳は漆黒だった。
「エスリーダ王国のライジード様・・・」
他の人には「さん」でも、ライジードには「様」となってしまう。
何故なら、彼にはそれだけの何かがあるからだ。そう、「身分の違い」というものが。
(む、無理っ。そんな雲の上の人なんて無理ぃっ)
全速力でここから立ち去りたい。自分では近づけないオーラが彼の背後で光っている。ライジードには目に見えぬ後光が射しているのだ。
(きっと、今はかぶっていない王冠が光ってるのよぉっ)
第三王子と言ってはいるが、上に二人も王子がいるとは思えないぐらいの落ち着きぶりである。
「そう。エスリーダは暮らしやすい国だ。私は王城から少し離れた場所にある離宮で生活している。・・・姫君。あなたを誰よりも早く見つける気はあるが、できるならば、エスリーダ王城から少し離れた我が離宮まで私を訪ねてきていただきたい。もしくはエスリーダ王国に庇護を求め、私の名を出していただくか・・・。どうか、約束してもらえないか?」
そう言いながら近づいてくるライジードに、彼女は立ちすくんだ。
「えーっと、私、まだ状況が分かっていないので。大体、国も何も分かってませんし・・・」
ファルードと違って、ライジードは約束したら完全に履行させると言わんばかりの気迫があった。
つい、視線を下の方に這わせて、言い逃れようとしてしまう。
「ふっ。既に他の者も自分達を売りこんだ後、か。だが、姫君。どこに行こうとも、あなたのような姫君を守り通せる男は少ない。あなたは私を選ぶだろう。そして私もあなたをお待ちしていよう。我が妃になる姫君」
「・・・・・・・・・」
彼女は、何か言いたいけれども言えないそれに、口をぱくぱくさせるしかなかった。
ファルードに姫君と呼ばれた時は何だかお姫様扱いで嬉しかったそれが、文字通りの王族から呼ばれると逃げ出したくなる。
(私っ、ただの日本人で姫君じゃないですからぁーーーーっ)
最初のその呼び方を放置してしまったのがまずかったのかもしれない。
けれども自分は一般庶民の人間である。姫君でも何でもないし、日本には貴族制度も残っていない。
(そりゃ誰でも買える爵位が販売されてはいるけどっ、あれはある意味、ネタで買うものだしーっ)
地球でも爵位を持たない人間が貴族としての爵位を買える制度があるのだ。シーランド公国という名前の、大地を持たない「自称国家」があり、その国家における貴族の身分がインターネットで購入できてしまう。
尚、そのシーランド公国を、国家として認めている国はなかった・・・気がする。
(ど、どうして・・・、どうしてこんな役立たないことだけ覚えてるんだろう、私)
そんな、なんちゃって貴族など、まさにネタでしかないというのに・・・。肝心の自分のことは覚えていないくせに、そういうネタ話だけ覚えている自分がとても切ない。
実際、目の前のライジードからは、そんな誰でもお小遣いで買えてしまう身分とは全く違うものに裏打ちされた何かが伝わってくる。
何かとは、産まれた時から銀の匙を咥えて生きてきた、そして皆に傅かれてきた人間だけが当たり前のようにもつ、存在感のことである。
「姫君。まずはこちらへ」
「・・・はい」
逆らうことなどできる筈がない。差し出された手に自分のそれを重ねれば、たかがニメートル程先にある白い椅子に座るのですら、優雅なエスコートがなされる。
(こ、怖いよぉ。不敬罪とかって言われたらどうすればいいのぉっ)
恥をかきたくなくて、出来る限り優雅に座ろうと思うけれども、・・・付け焼刃でどうにかなるのなら誰も苦労はしない。緊張のあまり、とすんと座る羽目になってしまった。
「そう緊張しないでくれ。これでも皆に親しまれている王族のつもりなのだ」
「はあ」
親しみを持つどころか、気後れするばかりだと言ってもいいだろうか。
(カエル。そう、今の私は蛇の前に引きだされたカエルさん・・・)
けれどもそこで、少し困っているような気配をライジードから感じ、彼女は顔を上げた。
(あれ? もしかしてこの人、なんだか戸惑ってる?)
彼女はまじまじとその顔を見つめ直した。
よくよく見たら、怖くないかもしれない。甘いマスクのくせに表情は厳しい、・・・のだが、その瞳に優しい何かを感じたのだ。
「顔を、もっとよく見てもいいか?」
「あ、はい」
するとライジードは、くいっと彼女の顎に指をかけて上を向かせてくる。
「せっかく黒髪と茶色い瞳だったのに、わざわざこんな弱い色にしなくても良かろうものを。・・・だが、姫君なればそれで良かったのかもしれんな」
「え? ・・・弱い色って、何ですか?」
ライジードは指を離し、彼女の頭をひと撫ですると、優雅な動きで自分も向かいにある椅子に座った。
(頭、・・・撫でられてしまった)
もしかして自分は子供っぽく思われたのだろうか。けれど、優しい手つきだったのでちょっと嬉しくなってしまった。
しかし、さすがは王子様。座る動作すら流れるかのように自然である。
「身体能力の差、というべきだろうな。姫君のいた場所ではあまり関係なさそうだったが、我らが世界では髪や瞳が纏う色の濃さが、生命力に影響する。濃い色であればある程、力が強いということなのだよ。黒に近い色である程、尊ばれる。まあ、あくまで相対的にその傾向があるということであって、弱い色でも強い者はいるし、濃い色でも弱い者もいる。だが、男の魅力は濃い色である方が良しとされる傾向があるな」
なんと。
言われてみれば、彼らはほとんど他の色の気配はあるものの、黒に近い髪の色だった。瞳など、まさに真っ黒だったではないか。
「そうなんですか。・・・女性も?」
「女性においてはそうでもない。強い子供を作りたいから濃い色合いの女性を望むという者もいるが、比較的、女性はその顔立ちなどが重視される。勿論、身分を重視するケースもある」
「それは、どこも一緒なんですね」
そんな相槌を打ちながら、それでも彼女は少し嬉しいと感じていた。
今のこのストロベリーブロンドの髪と、神秘的なブルーにもグリーンにも見えるグレイの瞳、そして文句なしの美少女と言える顔立ちを前に、あの凡庸な自分をライジードが惜しんでくれたから。
(よくよく考えると、私の顔じゃなくて、色合いを惜しんでくれただけなんだけど)
それでも嬉しい。誰もが認めるであろう今の顔は、あくまで借り物でしかないように感じられていたから。
「だが、選ばれて降臨する姫君にとっては、それすら意味なきこと。・・・あなたが誰も知らぬ所に生まれ育つというのも、神の思惑があってのことなのだろう。だが、何をするにしても身分や権力があって困ることはない。・・・どうか姫君、私を選んでいただきたい」
「あのー、・・・すみませんが、私が誰も知らない所に生まれ育つというのは一体?」
「なんだ、そんなことも説明されておらぬのか」
ライジードは、面白そうに笑って説明した。
「これからあなたは我が世界で生まれ育つのだ、姫君。ただ、その場所がどこか、我々は知らない。それこそ王家に生まれるのか、貴族の家に生まれるのか、はたまた商家か農家かすらも不明だ。そしてどの時代に生まれるのかも、私達には知らされない。たとえば今の私は二十一才だが、もしも私が二十才の時にあなたが訪ねてきてくれても、私はあなたを知らないことになってしまうのだ。また、私が五十才の時にあなたが生まれてこようものなら、あなたが成人する頃には私も孫を残して死んでいるかもしれんな」
「・・・えっと、それってどんなギャンブル婿候補、なんでしょう」
まさか年齢すらきちんとすり合わせされていない婿候補とは。
何を考えているのだ、彼らの神様は。
「さてね。神々の考えることは深すぎて理解できない。だが、姫君。あなたが現れてくれるまで、私の正妃の座は空けておくよ。だから来てくれるかい?」
年齢を明かしたからだろうか。いきなり彼は年下の少女に対するかのような口調となった。たしかにこの体は十七才ぐらいに見える。ただ、彼らに合わせるなら十五才ぐらいなのだろうか。
本当の自分は彼よりも少し年上の筈なのだけど。
それがおかしくて、彼女はくすっと笑う。
「そこで、いつまでも私一人を待つとはおっしゃってくれないんですね?」
ちょっとからかうような感じでそう尋ねてしまったのは、堂々と正妃以外の愛妾は持つと宣言されてしまったからだろうか。それとも、少し砕けた調子になってきたライジードが、実はお茶目っぽい感じだったからだろうか。
「それこそ、優しい君の心を痛めてしまいそうだからね。私が年老いていたなら、私の息子にあなたを守らせよう。その時は息子の妻になってくれないか?」
「・・・考えときます」
何とも憎めない王子様である。
けれども、ずっと待っていると言われるよりも気が楽だ。何より、結婚もせずにただ一人の女性を待っていたりするような王子など、王族内の権力闘争からすぐに脱落してしまうだろう。
だからそれはそれで正しいことなのだと、そう彼女は思った。
「ならばその時は、君に気に入ってもらえるようないい息子を作っておくよ。どんな男が好みかな、姫君?」
「えーっと、・・・庶民でも気にしない王子様が好みです」
本人から口説かれるとなると緊張してしまうが、いもしない息子さんの話であれば、そんな軽口も出る。
「おやおや。だが、姫君はどんな親の元に生まれてくるかも不明だ。もしかしたら帝国の姫君に生まれてくるかもしれない。そうなると、うちの王国では小さいと主張するかもしれないのだがな」
「えっ、そうなんですか?」
「さあ。どこに生まれてくるやら、だ」
二人で困ったように向き合えば、落ち着きがあるから年上の殿上人に見えていただけで、実はけっこう若そうだと、彼女は気づいた。
(さっき二十一才って言ってたし、若いのは分かってたけど、・・・なんかそういう年齢とは違う雰囲気がありすぎたのよね)
もしかしたら泰然として見せているだけで、本当の彼は、そこまで傲慢でも何でもないのではないだろうか。
考えてみれば、彼は最初から自分に対してそんなことを伝えていたような気もする。
自分が勝手に彼の雰囲気に飲まれていただけで。
「さて、私の祝福は、と。・・・私とのキスは嫌じゃないかい、姫君?」
「ええ」
ライジードが立ち上がり、まず、彼女の頬にキスする。嫌じゃないと示すかのように、彼女は目を閉じた。
「我、ライジードからの祝福は、彼女が巡りあわせに恵まれる運命を。どんな状況下にあろうとも、彼女に対し、様々な人が手を差し伸べ、苦難を乗り切れるように」
そうして行われたキスは、それまでの穏やかなやりとりが嘘のように荒々しいものだった。
「・・・っ、んんーっ、何っ、すんですかっ!」
やっと解放された時、反射的に流れていた涙もそのままに怒鳴りつけた彼女だったが、ライジードは平然としていた。
「いや、なに。あまりにも姫君が従順すぎたのでな。これはきっと他の奴らに大事にされてきたゆえだろうと思うと、そんな奴らの仲間入りをするのも癪に障る」
「は?」
女に従順であることを望む男は多そうだが、それで不快になる男がいるとは。
意味が分からずに、彼女は目が点になった。
(何ですか、それは一体・・・)
ほけらっと見上げてしまった自分は悪くない筈だが、馬鹿に見えていないといいなと願うばかりだ。
「十把一絡げなど遠慮こうむる。他の誰かと同じなど冗談ではない」
「・・・・・・・・・」
それは、私が悪いんですか・・・?
彼女は呆気にとられてしまった。
そんなくだらない理由ってあるものなのか。初心者の自分には、かなりハードすぎたのだけれど。
「もしかして、王子様ってば結構子供っぽい?」
あまりの衝撃に、自分でも取り繕っていると自覚している敬語ではなく、普通の言葉で質問してしまった。
「失礼な。男としての誇りがあるのだ」
だけど、少し赤くなった頬が、自分でもちょっと子供っぽいヤキモチだったと認めているかのようで、彼女はクスクスと笑い出してしまった。
「笑うなっ。ここは私に惚れ直すか、ドキドキするところだろうっ」
「何それ・・・っ。もっ、とっても偉そうにしてるからっ、貫禄あるなぁって思ってたのに、それじゃもう本気でっ、・・・っ、んんんーっ」
段々と笑い転げていきそうな彼女の様子に気づいたのか、ライジードがとった笑いを止める手段は再びのキスだった。
(黙らせるのにキスってぇーっ)
否が応でも黙らされてしまった彼女だが、それまで気後れしていたものが、一気に消え失せてしまったのもたしかだ。
(顔は甘いくせに、実はかなり野獣系ですかっ。てか、どこまでキスすんのよぉっ)
だけどその荒々しいキスの合間によく見たら、ライジードの頬は赤くなっていて。
(何、この人っ。王子様っていうからとっても緊張してたのに、・・・本当はとっても可愛い?)
やがて、その唇が離れていく。
互いに呼吸を整えながら、その合間にも軽いついばむようなキスが繰り返される。
「ライジード。親しい者はジードと呼ぶ」
「ジード」
「そうだ。姫君にはそう呼んでもらいたい」
彼女は、ライジードの額に口づけた。
さっきまで自分が彼に築いていた心の壁を謝るかのように。
「王家って何だか大変なイメージがあるけど、やっぱり人と嘘とに囲まれているから、なかなか信頼できる人もできないよね。・・・ありがとう、ジード。私にくれた祝福って、きっとそういう裏表のある人達に私が騙されたり利用されたりしないようにって、そう思ってくれたからなんでしょう? それって、とても嬉しい」
漆黒の瞳が僅かに見開かれ、ライジードが破顔する。
「本当に、なんと素直な。・・・そうだな、姫君にはあんな悲惨な運命は辿ってほしくない。人というのは、誰かを追い落とす為なら、どんな汚いことでもするものだ」
ライジードはきっとそういう汚い手段で追い落とされた人達に心を痛めていたのだろうと、彼女は思った。
不思議なことに、そんな彼の心が流れ込んでくる。どんなに辛くてもそれを顔に出せずに全てを呑み込んできたライジードの苦悩が。そして変節していく人々の心に傷ついてきた、彼の悲しみが。
「私にそんな力はないんだろうけど、それでも私も祈るわ、ジード。あなたが、そうやって良い人に囲まれ、何かあれば助けてくれる信頼できる人と手を取り合い、そして人材に恵まれるようにって。ライジード、あなたは人の上に立つ立場だから、その難しさと、いい人材に巡り合うことの素晴らしさを誰よりも知ってるのね」
「ああ、そうだな。信頼できる人間は宝だ。そして悪しき人々はまがいものの輝きを持つ毒物でしかない。その見分けはとても困難で、・・・時に取り返しのつかぬ悲劇を作り出す」
彼女が腕を伸ばせば、互いに抱きしめあう。
労わり合う気持ちが、そして慰め合う気持ちが、二人の間に通じ合った。
「何故なのか、懐かしさを感じるの。不思議なことに、あなた達が私を案じてくれていることが伝わってくる。初めて会うのに、どうしてこんなにも皆が懐かしいの」
「理屈などどうでもいいだろう。だが、姫君に嫌われてないのは嬉しい。一番愛されているのが私であれば、全く問題はない」
「・・・・・・えーっと、それはまだ、皆さんと会ったばかりでよく分かりません」
ライジードはさすが高貴な身分だけあって、引き際もスマートだった。
「まあ、良い。だが、エスリーダ王国はとても美しい国だ。覚えておいてくれ。さ、次の扉へ行くがよい。姫君」
その言葉に、次が最後なのだと、彼女も改めて思う。
(えーっと、このアルファがエスリーダ王国第三王子のライジード。ベータが最後の男なんだよね。で、ガンマが盗賊をしているザイファス、デルタがリベラ女神の神官でファルード、イプシロンが帝国軍にいるロムルス)
しかし、よくよく考えたら最後に待っているベータは、さっき自分の両手を押さえつけてシーツを剥ぎ取った張本人ではないのか。
(い、行きたくない。てか、問答無用で警察に突き出してやりたい)
しかし、行かないと、きっとミッションは完了しないのだ。諦めの境地で、最後の扉へと彼女は向かうことにした。
だが、扉を出る前に、くるっと振り返ってライジードに抱きついてみる。
思った通り、すかさず力強く抱きしめられた。
(ああ、そうだ。この人、自分の心を見せないようにしているだけで、本当は私のこと・・・)
愛妾がどうとか、息子がどうとか、そんなことを言ってはいたけれど、・・・きっとそういうことを諦めて受け入れるのが、彼の置かれた立場だからなのだろう。
まるで大切な恋人との別れのように、ただ狂おしく抱きしめてくる。
「ジード。・・・多分、私、あなたに会いに行くわ。あなたがおじいちゃんになっていても。たとえ私がおばあちゃんの時にあなたが赤ちゃん王子だったとしても」
「・・・いいな。その時は五十才年上の正妃を私は迎えてみせよう」
そう言いきってくれるライジードに、彼の本心を見た気がした。
「たとえその時、あなたにお妃様がいたとしても、別に恨んだりしないわ、ジード」
「あり得ない」
「ううん、いいの。だって、・・・今、この時だけはそうなんだって、分かるから」
何をと言わなくても、それが分かりあえる。
「愛してる」「好きよ、ジード」
重なった言葉はそのまま互いの唇へと消えていき、別れの口づけは先程とは全く違う、とても柔らかく優しいものだった。
最後の扉を開けると、部屋に置かれたベッドの上で、神谷の姿をした男が寝ていた。
(何、この私に対する放置っぷり。本気で最低。このまま警察に通報できないわけ?)
その気配を感じたのか、男が目を開ける。
「ああ、来たのか。俺は最後でいいから。先に、他ん所、まわってきてもらえる?」
「・・・!! あんたが最後よっ」
「なんだ。じゃあ、仕方ない。まあ、お姫さん、気を楽にして好きなところにお掛けくださいよっと」
最後の「よっと」の部分で腹に力を入れて、男は上半身を起こす。神谷の顔なのに、どうしてこんなにもぞんざいな言動なのか。
「あんたが、まずは礼儀正しく人を迎えたらどうなのっ」
一気に怒りが沸騰して怒鳴りつけてしまった彼女は、既に男に対して「あんた」扱いになっていた。
(なんで、あんなにも素敵な人達の後に、コレなの)
更に言うなら、彼女の中では、「コレ」扱いともなっている。
「えー。だけど、俺、お姫さんに対して、あいつらと違ってそこまで機嫌取りする必要ないしなぁ」
「・・・どういう意味?」
「まあ、聞きたければ近くに来なよ。そこで立っていられても、こっちもうまく話せない」
むっとしたが、情報は大事だ。だから彼女が渋々と近寄っていくと、手が届く範囲に来たところで、神谷の顔をした男は彼女の体に手を伸ばして引き寄せた。
「うぎゃっ」
バランスを崩し、彼女が男の上に倒れ込む。
「何すんのっ」
「いや。せめて体だけでも抱っこしてみようかな、と。俺、あいつらと違って、そういう程度にしか、お姫さんの価値、見出せないし」
「だからどういう意味なのってっ」
寝台の上に座る男に抱きしめられても、それまでの男達と違ってどうも何かが違うという印象が否めない。
彼らに感じていたドキドキやキュンッというときめきが全くないのだ。
「お姫さんをモノにすれば得られるメリットがあるかないかってことさ」
「・・・私を手に入れるメリット?」
「そう。まあ、お姫さんは魅力的さ。顔は可愛いし、体もさっき見たけど最高品。男としてはそそられるね。だが、お姫さんの魅力はそれだけじゃない」
「え?」
神谷の顔で、なのに神谷ではあり得ぬ表情で、男は皮肉っぽい笑みを洩らした。
「さっき、やめてと叫んだ途端、お姫さんは俺達をブッ飛ばしただろ? お姫さんはこの世界に愛されている。あんたが強く願えば、様々なことが叶うだろう。そして、人の上に立つ人間にとって、それはとても有り難い神の御業だ」
「・・・どんな風に?」
慎重に彼女は尋ねた。
「たとえば世界中を飢饉が訪れても、お姫様が暮らす王国だけは飢饉を免れ、王族への敬意は高まる。たとえばお姫さんが暮らす神殿の庭には自然豊かな実りが尽きることはなく、神殿に詣でた人々の病は治り、女神への信仰心を高めさせることができる。たとえばお姫さんが暮らす集団は常に盗めない物などなく、ついには国をも乗っ取る力をつけてしまう。たとえばお姫さんの愛しい男がいる軍隊は常勝するばかりでなく死者は出ず、最後には無敵軍隊となる。・・・そういうこともあるわけだ。ただ、ねえ」
「ただ、・・・何よ?」
そこで溜め息をつかれてもムカつくだけである。しかし、彼女の中で何かが、重苦しく凍りついた。
(それって・・・。じゃあ、彼らのあれは・・・)
まさか自分にそんな価値があったとは。
では、彼らが囁いてくれた愛は、自分ではなくそういった恩恵に向けられたものだったのか。
「俺、学者だから。そういう世俗とは無縁で、建物にこもって人付き合いも最低限で、ただひたすら机に向かってる人間なわけだ。はっきり言って、そんなの関係なく貧乏でかつかつ生活なの。正直、お姫さんの顔と体は魅力的だが、こうなるとまさに、色男金と力はなかりけりって奴で、最初からエントリー不参加するしかないんだよな」
自分で自分を色男とか言う馬鹿が実在するとは思わなかった。
(そのまま本に埋もれて窒息死してまえっ)
先程の恨みを忘れていない彼女はそんなことを思う。
「そこで頑張ろうって気にはならないのね?」
「無駄なことはしない主義」
なんという男だろう。しかし、それはそれでいい。こんな男にターゲット・ロックオンされても困るだけだ。
(私自身にそんな利用価値があっただなんて)
さすがに誰もそんな話などしてくれなかったから分からなかった。だから、女神の娘、なのか。
「そういうわけで、俺はお姫様の愛を乞う必要もないわけさ。だけど、このメンバーに選ばれている以上、祝福をあげることはできる。さて、お姫様。俺の祝福が欲しいなら、俺の好奇心を満足させてくれないか?」
「いらないわ。だって、あなた、関係ないわけでしょ? なら、そこで無理矢理してもらわなくても、祝福なら十分もらったもの。もう不要よ」
だが、神谷の顔をした男はニヤッと笑った。
「そうかな? けど、君は俺に祝福をくださいってお願いすると思うよ? 俺が君に用意する祝福内容を知ったらね」
「知っても知らなくてもお願いなんてしないわ」
大体、こんな人の気に障るような男にどうしてお願いなどしなくてはならないのか。
馬鹿馬鹿しいと、彼女は思った。
「俺、君が一番欲しいと思うであろう祝福をあげられるけど? たとえば、・・・そうだな。君の外見を人に誤認識させるって祝福とかをね」
「え・・・?」
神谷の顔をした男は、にやりと笑った。
「誰もが認める美貌、明るく輝くストロベリーブロンド、その特徴的な瞳。誰がどう見ても、すぐに君って一発でバレるよな。彼らが君の外見的特徴を示して探索し始めたら、すぐに見つかっちまう。だけどお姫さんに、もしも周囲に対してその外見を違って見えさせる祝福が与えられていたら? 君は人に対してたとえば茶色の髪に茶色い瞳だと思わせることもできる。薄い黄緑色の髪に、黄色の瞳だとかでもね。そんな綺麗な顔じゃなく、もっとありふれた顔だと思わせることもできてしまう」
腕の中にいる彼女の動きが止まったことを、男も知った。
ごくりと、彼女が唾を飲みこむ。
「欲しくない? その外見を誤魔化せる祝福」
返事はしばらくの間、なかった。男も急かさなかった。
長い間考え込んでいたらしい彼女が、小さな声で問いかける。
「その祝福の代わりに何をしろと?」
男はそこで少し考え込んだ。
「そうだなぁ。じゃあ、お姫様。今、君が何をしてほしいのか、教えてよ。興味があるね。違う世界から何も説明されずにこんな所に放り込まれ、これから全く違う人生を歩まなくちゃいけないって女が、今、一番何を望むのか。それを俺は知りたい」
「私の、してほしいこと・・・」
「そう。君の願いは何? 元の世界に帰りたい? それとも、元の世界にいるこの顔の男に会いたい? 何が今、君の望みなんだろう? いい本が書けそうだ」
そういえば、彼は学者だと言っていたか。だから、そんなどうでもいいことに興味を持つのだろう。同時に彼は冷静に考慮した上で、自分にとって魅力的な祝福を提示してきている。
(最初から私が乗るって見抜いてたんだ、この人)
彼女は考えた。
元の世界、・・・思い出せないそこに帰りたくないわけじゃない。けれど、なぜか彼らに引きずられる心がある。彼らが見ているのは、自分ではなく自分に付属してくる利用価値なのだとしても。
神谷に会いたいかと言えば、・・・もちろん婚約者である彼を嫌いではないが、ここまで他の男に心を奪われてしまったと自覚している今、何が何でも会いたいという程ではない。
(私の願い・・・)
自分は今、何を望んでいるのだろう。
「名前・・・」
「ん?」
「名前を、呼んでほしい。だけど、思い出せないの。私、ほとんど何も覚えてない」
「・・・ああ。どうしても無茶な歪みが生じた分、記憶に影響が出たんだな。だけど、少しだけだが君の前の姿を見ていたから、なんと呼ばれていたかぐらいは覚えてる」
ぐいっと更に強く抱きしめられる。
「美冴って呼ばれてた。君を松岡さんって呼ぶ人もいたね。だが、君の親御さんとお兄さんは、君を美冴って呼んでいたよ。大きな箱型の建物の中、幾つかの居住スペースがあり、そこに君達一家四人が暮らしていた。だけど、途中でお兄さんは出て行って、違う場所で生活していたね」
ほろりと、涙が零れる。
自分がちゃんと存在していたのだと、そこで実感できた。
「松岡、美冴」
「そう。この顔の持ち主は、君を美冴さんって呼んでたけど、友達は君を美冴ちゃんって呼んでた」
一方的に緩やかながらも強い力で寝台に押し倒される。
「美冴ちゃん、目をつぶってくれる? キスする時に、この男の顔を見られながらだなんて、ムカつくだけだからね」
「え?」
そうか、祝福する時はキスするから・・・。
そう思い、彼女は目を閉じた。
「我、レスターからの祝福は、彼女が周囲に対し、その外見を誤って認識される運命を。彼女は周囲の自分に対する視覚を惑わすことができる」
そうしてもたらされたキスは思ったよりも優しかった。「美冴、力を抜いて」などと囁かれるものだから余計に泣きたくなる。
自分でも忘れていた名前。だけど、呼ばれたらそれが自分の名だと分かる。思い出す。
(そうだ、お兄ちゃんもいつだってそう呼んでた。お父さんも、お母さんも)
どうして忘れていたのだろう。自分を示す、その名前を。
自分へ何度も繰り返された、その呼びかけを。
(最初は「松岡さん」って呼んでたけど、神谷さんも二回目のデートの時から「美冴さん」に変わったんだった)
婚約者といっても自分達はまだ手探りで付き合い始めたばかりで、・・・きっとあの旅行で初めてのキスをするのだろうと思っていた。
「好きだよ、美冴」
その時は、神谷もこうして自分の名を呼んでくれたのだろうか。愛してると言ってくれたのだろうか。
恋愛からではなかったけれど、穏やかに出会って、それからゆっくりと育み、結婚と共に始まる恋愛階段を自分達は一緒に上がっていけたのかもしれない。
(声は一緒だけど、神谷さんはもっとおどおどとした話し方だったのよね、多分。なんか、そんな気がする)
だけど。
今の自分は、名前すら呼んでもらわないと思い出せないのだ。こうして教えてもらって名前こそ思い出せたけれど、両親と兄の顔も未だにおぼろげだ。
(もっと呼んで。二度と忘れないように)
瞼にも鼻筋にも、顔のあらゆる場所に落とされていくキスの雨は、「美冴、愛してる」と、何度も呼びかけてくれる言葉と一緒だった。
「可愛いね、美冴ちゃん。そのまま眠ってしまってもいいよ」
その言葉と、頬に落とされるキスはいい。問題は、だ。
「やっ、何すんのよーっ」
「俺、ここで君に嫌われようと、どう思われようと全く困らないし。なら、ここでお姫さんの体、堪能しておかなきゃ損ってもんだろ?」
名前を呼ばれるという、心を絞られるかのように切なくも苦しい感傷は長く続かず、・・・目を閉じていたのをいいことに、ドレスの上からさわさわと体を触られていたことに気づいて怒鳴りつけた頃には、レスターによって体の様々な部分を手で計測されていた。
「やっぱり平均値よりも少し手が長いか。胸は少し小さいな。なるほどね」
「何がっ、なるほどなのよぉっ」
殴ろうとした手が、レスターの手でバシッと止められる。
だが、レスターは彼女の下半身にも興味があるのか、その手を放すと、ウェストを両手で触ってきた。どうやら彼の特定の指と指との距離で、長さの目安としているらしい。
「お腹が引っこみすぎだな。もう少し腹が出っ張ってる方がセクシーと見なされるんだが。裕福な証拠だからね。あの、たぷっとした肉付きがたまらないっていう感じで。・・・だけど、ドレスを着て細い腰をアピールするならこれでもいいのかな。あと、やっぱりお尻はもっと大きい方が・・・っぶっ」
「勝手に人のお尻を触るんじゃないわよっ」
「って、痛えってっ」
レスターの鼻と頬を両手の親指と人差し指でぐいぐいと摘まみ、ねじりあげながら、彼女は怒鳴りつけた。
「このっサイテー男っ。こんな可愛い美少女の姿を見て、贅肉つけろってどーゆーことっ!? この変態がっ」
「変態じゃないっ。言っておくがなあっ、これはちゃんと根拠あって言ってんだっ。男ってのは柔らかいもんと丸っこいものに癒されるっつー本能があんだよっ」
こんな男なんぞ癒される権利はないと、心の底から彼女は思った。
初対面から人を裸にひん剥いて、更に今度は遠慮なく人の体を測るような男なんて、即座に牢屋行きこそふさわしい権利だろう。
「だからって人の体を勝手に触んじゃないわよっ」
「減るもんじゃねえだろっ」
「減るわっ、私の自尊心がっ。ガリガリと音を立ててねっ。あんたなんて、あんたなんてねえっ。そんなに脂肪のついた体が好きなら、体重もあんたの倍あるような、どすこいオバちゃんに襲われてくりゃいいのよっ。良かったわねっ、あんたの大好きな贅肉まみれでっ」
「俺にだって好みはあるんだっ。姫さんみたいに、口説いてくれりゃ誰でもいいってわけじゃねえんだよっ」
「私にだって好みはあんのよっ。少なくともあんたじゃないけどねっ」
先程までの雰囲気は完全に消え去り、二人はぜえはあと荒い息をつきながら罵り合っていた。
「このクソ姫がぁっ。あれほど気持ちよさそうにうっとりしてたくせにっ」
「自惚れんじゃないわよっ。あれは退屈すぎて寝てただけよっ」
「人のキスを、よりによって退屈なんざぬかすかっ」
「ええっ、ぬかしてみせるわよっ」
やがて一通り罵倒し合うとバカバカしくなって互いに同じ呼吸で目を見交わしてから、フンッとそっぽを向く。
そこで彼女は気づいた。
「そういえば、あんた、いつまでその神谷さんの顔でいるのよ。いいかげん、自分の顔をさらしなさいよ」
「やなこった。・・・大体、姫さんは自分の姿を誤魔化せるっつーのに、どうして俺が自分の姿をさらさにゃならんのだ。冗談じゃねえ。こっちにも分かんないなら、お姫さんだって分からんようにしておかなきゃ不公平ってもんだろうがよ」
そう言われてみれば、そのような気もして、彼女は黙った。
「まあ、いいや。さ、この部屋を出ていきな。お姫さんが行くべき場所が現れるからよ」
「行くべき場所?」
「ああ」
レスターは手を差し出して、彼女を寝台から立ち上がらせた。
「お姫さんが望もうと望むまいと、もう賽は投げられた。お姫さんはその顔と体、そして俺達から贈られた祝福をもってこの世界に降り立つ。・・・さあ、行くんだ。再び、出会う為に」
「・・・そうなんだ? さようなら、レスター・・・さん?」
「なんでそこで眉間に皺寄せて、『さん?』なんだよ。・・・レスターでいい」
扉までの場所までは一緒に歩いていっても、その先をレスターは踏み出そうとしなかった。
「さようなら、美冴。幸せな人生を」
「ありがとう。あなたもね」
そうして廊下に出れば、そこで振り返っても彼らがいた部屋の扉は全て消え失せていることに気づく。
「オ、オカルト・・・?」
それはもう、戻れないということを示しているかのようだった。
結局、意味が分からないまま白い廊下を歩いていくと、金色の扉が現れる。
(何だか、とても開けたくない。無駄に豪華な金の扉って何?)
だけど、ここで開けるしかないのだろう。恐らく、全ては決まっているのだ。
その扉を開けると、室内は真っ暗だった。
「す、すみません? 誰か、いますか?」
おずおずとそこへ足を踏み入れると、いきなり背後の扉が閉まる。
「ええっ!?」
閉じ込められた完全な闇。
しかもいきなり床がなくなり、まるで滑り台のように何かに向かって自分が滑り落ちていく。
「きゃあああっ」
そうして、真っ暗闇のそこを落ちていく中、様々な色合いの光と彼らの声を見聞きしたような気がした。
「あなたにとって、この世界が優しいものでありますように」
――― ああ、ロムルス。この深い青色。礼儀正しく思いやりのあるあなたらしいわ。私の唇を奪った、素敵な騎士様。
「イプシロン。あなたもたまには自分に優しくしてあげて。会えて良かった」
「無事に生きてくれ。願うのはそれだけだ」
――― そうね、ザイファス。きっと森に暮らすあなたは、この緑色にいつも囲まれているんだわ。嫌味っぽいのに本当はとても優しい大泥棒さん。
「ガンマ。あなただって生きなきゃ駄目なんだからね、無茶はしないで」
「あなたの歩む日々に光あらんことを」
――― ありがとう、ファルード。高貴な紫色ってファルードにぴったり。ふふっ、神官様の特別なお祈りつきだなんてご利益あるわよね。
「デルタ。頑張ってみる、あなたに恥じないように生きてみせるわ」
「そなたにとって楽しい世界であるといいのだが」
――― 大丈夫、ライジード。やっぱりあなた、言うこともそうだけど、この赤色もリーダーって感じだわ。心配しないで、ちゃんとみんなの祝福があるもの。
「アルファ。ちょっとワクワクしてるの。あなたの国もきっと素敵よね」
「美冴。また会おう」
――― そうね、レスター。黄色い光が溢れてるけど、もしかしてあんた、黄色を帯びた黒髪なわけ? これ、まさに黄色いカレー色よ。何の具が入ってるか食べてみないと分からないところも、あんた、カレーそっくり。大体、他の人達は私のことを心配してくれてる言葉ばかりだってのに、どうしてあんた、一人でスパイシーに突っ走ってんのよ。
「ベータ。その前にあんたの顔、私、知らないんだけど」
この落ちていく先に自分が行くべき場所があるのだろうと、何となく分かっていた。
それでも離れがたい気持ちが湧いてくる。
(やっぱり、やだっ)
必死で手を伸ばしても、彼らに手は届かない。
自分は落ちていくだけだ。この暗闇の奥深くへと。
(嫌よっ。やっとあなたと会えたのに・・・っ)
けれども苦しくて、言葉が出ない。何かが自分の全身を締めつけてくるかのようだ。
(何かが締めつけてくるっ!? く、苦しいっ、苦しい苦しい苦しいーーっ)
そこでぱあっと明るい光が飛びこんでくる。
眩しくて、ひどい場所に引き摺り出された気分になった。
しかも、それだけではない。
(たっ、叩いたっ! 私を叩いたぁっ)
いきなり誰かに顔をぐしゃっと何かで擦られたばかりか、頬を叩かれたのだ。
「おっぎゃあぁぁぁっ」
泣き叫んだ彼女は、まだ視界もぼんやりしていて周囲が分からない。
産まれたばかりの赤ん坊に呼吸させる為、羊水に濡れた鼻を拭かれたことも、泣かせることで死産ではないことを確認されたのだということも分からなかった。
「産まれましたよっ。女の子ですっ」
「うぎゃあああっ、わあああぁっ、ほぎゃあああっ」
あまりにも痛くて、辛くて、寒くて、悲しくて、ただ泣き叫んだ。
それが生きることだと、その時は知らないままに。