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第68話 失くしたもの

 降り続く雨に打たれ、ずぶ濡れのまま無意識に乾家に続く道を歩いていた美幸。


 しかし、愛と交わした約束では、心矢にはもう会わないことになっている。

…冷静に考えてみれば、乾家に戻る必要はなかった。


(ああ、そうか……。

それなら、迎えをお願いしないといけませんね……)


 その前に、まずは独断で試験の打ち切りを決めたことを謝らなければならない。


…今考えれば、随分と勝手なことをしたものだ。

自分で希望した試験を自分で放棄するだなんて……迷惑極まりない行為だろう。


 今回も、護衛を含めて沢山の人がこの試験を支えてくれていたはずだ。

それを思うと……本当に申し訳ない気持ちになる。


(美咲さん達に嫌われてしまわないでしょうか?)


 そこまで考えたところで、そもそもこの試験の様子を研究室メンバー達は自分の

目と耳を通して監視していることを思い出した。


 つい先ほどまでは、そのことを強く意識して行動していたはずなのに……。

今ではなんだか、頭がぼんやりとしている。


(あれ? おかしいですね……。

私が体調不良だなんて……そんなの、ありえないのに)


 いくら人間にしか見えなくても、アンドロイドである美幸が風邪を引くことは

ありえない。


 念の為に自己診断を試みるが……やはり機能に異常は見られなかった。


(とりあえず……電話をしましょうか。

先ずは美咲さん達に、私の口から連絡しないといけませんし……)


 今回の試験では美幸からしない限り、美咲達からは連絡を取ることは出来ない。


 本来なら美幸の側からも連絡を取ることは禁止のはずだったが、事実上は試験を

放棄してしまっている以上、それももう今更の話だった。


 携帯を取り出そうと、()()()ポケットに入れようとした…その時だ。



“…………パサッ……”



 意識せずに手の平を開いたことで、今まで掴んでいた髪束が美幸の手から離れ、

軽い音と共にアスファルトの上に無造作に散らばってしまう。


(ぁ……私の……髪が……)


 美幸はゆっくりとその場にしゃがみこみ、再びそれを拾い集めようとするが……

濡れた髪はアスファルトの隙間に張り付いて、上手く掻き集めることが出来ない。


(…………あぁ、そうか……これは――)


 地面に散らばるその“髪だったモノ”には、もう元の美しさなど微塵も無かった。 

それを見た美幸は――そこでやっと、気が付いた。


 これは――もう拾い集めても、何も意味など無い。

仮に持ち帰ったとしても、もう二度と元には戻らないのだ……と。


「…………っ……」


 美月譲りの美しい髪は、美幸の密かな自慢だった。


 自分がまだまだ精神的に未熟であるということは自覚していたし、周囲の皆から

『綺麗』と評される容姿も、やはり美月に比べれば全然だ。


 背だってそう高くはないし、スタイルだって美月には敵わない。

だが、そんな中で唯一……この“綺麗な黒髪だけ”は、美月と同じ輝きだった。


 そして、長さこそ違ったが、美咲もまた美月と同じく美しい黒髪を持っている。

…だからこそ、その髪は美幸にとって家族の証明であり、同時に誇りでもあった。


 そんな大切なはずの髪が、一部とはいえ埃と雨水にまみれて、汚らしく地面に散ら

ばっている。


 美幸はアンドロイドだ。

特殊な処理でもしない限り、髪や爪などは自然に伸びることはない。


 つまり……美幸は今日、生まれた時から持っていた大切な体の一部を――永遠に

失ってしまったのだ。


(あ、あはは……は…………これは……どうしましょう……かね?)


 拾い集めようとすること自体は、もう諦めたのだが……。

立ち上がった後、何故か散らばった髪から目が離せなくなって、そこから動けなく

なってしまった。


 やはり、どこか故障でもしているのだろうか? 

思考が上手く働かない上に、今度は眼球パーツすら自由に動かせなくなってしまう

なんて……。


 途方に暮れた美幸は、結果的に雨に打たれるまま……呆然とその場に立ち尽くす

ことしか出来なくなってしまう。



“キキーーーッ”


 

 そんな時だ……猛スピードで走って来た車が、けたたましいブレーキ音を立て、

美幸のすぐ傍で停車した。


 そして、完全に停車した瞬間……その車の中から、ついさっきまで頭の中で思い

浮かべていた人物が飛び出してきた。


「美幸ちゃんっ!!」


「……え? あれ? 美月……さん?」


 ここに居るはずの無い人物に美幸が驚いていると、美月はそのままの勢いで美幸

に体当たりするような勢いで抱きついてきた。


「ごめんなさい! 間に合わなくて……本当に、ごめんなさいっ!」


 そもそも、緊急事態が起きた場合には、すぐに駆けつけられるように準備自体は

していた美月達。


 だから、亮太の周囲の生徒が武器を取り出した時点で、美咲の判断で研究所から

小学校まで既に車を走らせていたのだ。


 ただ、今回の試験では単独での行動を重視していたがために、現場まで到着する

のに多少の時間が必要だった。


 結果、それが裏目に出てしまい、美幸がこんな状態になるまで間に合わなかった

のは、美月達にとって痛恨の極みだった。

 

 隆幸の運転する車での移動中にも、電話でリアルタイムに美咲から美幸の状況を

確認していた美月は『髪を自分の手で切らされた』と聞いて、それが小学生が相手

だったとはいえ、明確な殺意を抱くほどの怒りを覚えた。


 そして、ずぶ濡れのままに地面に散らばった髪をじっと見つめる美幸のその姿を

見た時には、もう胸が潰されるような思いだった。


 だからだろう……気付けば、雨に濡れるの構わず、車から飛び出して力いっぱい

美幸を抱き締めていた。


「美月さん、ダメですよ。

これでは、美月さんが風邪を引いてしまいますから……」


「もう良いんです! もう良いんですよ、美幸ちゃん!!

もう試験は終わったんです!!」


「あ……そうでした。今回は私の独断で、こんな――」


「だからっ!! もう良いんです、美幸ちゃん!!

もう泣いて良いんです! もう『良いお姉ちゃん』で居なくても良いんです!!

私達にはどれだけ甘えたって、良いんですよ!!」


 そんな美月の言葉を聞いた瞬間。

それまで曇っていた美幸の思考が、すうっと嘘のように晴れていった。


 機能が正常に戻ったことで、美幸は先ほどまでの思考低下の理由を理解する。

…それは、判ってみればとても単純な理由だった。


 心矢や愛を守るために『良き姉のような存在』であろうとしていた美幸。


 愛を不安にさせないよう、髪を失った悲しみを悟られまいと無理やりにその感情

を無意識に押さえつけていたのだ。


 そして愛と別れた後も、その悲しみを実感してどんどん感情が大きくなる中で、

それでもそれをずっと押さえ続けた結果が、あのぼんやりした状態だったらしい。


…つまり、通常の思考に支障をきたすほど、悲しみの感情の抑止に負荷がかかって

いた……というだけの、単純な話だったのだ。


『甘えても良い』


 そう聞いた美幸は、その無意識の感情制御にやっと気が付けた。


…だが、それを自覚したことで、今度は今まで抑止されていた感情が溢れて――


――やがて、それは一気に決壊を始める。


「…あ……あぁっ…………美月、さん……!

…私っ……私の…………私の髪がっ……!!」


…その時の美幸の浮かべた表情は、今までに誰も見たことが無いものだった。


 『悲しみ』『戸惑い』『悩み』『怒り』『憎しみ』


 様々な感情が入れ替わり、混ざり合い……もう隆幸ですら正確に読みきれない

……そんな、恐ろしく複雑な表情だった。


「美幸ちゃんっ!!」


 そんな美幸の顔を見ていられなくなった美月は、更に強く……頭ごと胸に掻き

(いだ)いた。


 全身ずぶ濡れの美幸は、もう涙を流しているかどうかすら分からない。


 しかし……美月の予想に反して美幸は大きな声を上げて泣き喚くようなことは

無く……。


 されるがままに、美月に無言で抱き締められ続けていた。


 ただ――だらんと下げられた両手には、全体が白く見る程に強い力が込もり、

硬く握り締められた指は、そのまま一度も開かれることはなかった。



――こうして、大きな傷痕を美幸の心に刻んだまま、試験は4度目にして初めて

『中断』という形で、唐突に幕を閉じることとなったのだった……。

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