第69話 小さな恋の終わり
「…美咲ちゃん。あの……美幸ちゃんは?」
「ん? …ああ、その声は真知子さんか……。
…何? 美幸に何か用?」
カタカタとパソコンのキーボードを叩きながら、片手間に返事をする美咲。
ただ、真知子にはその視線すら向けることなく、その声も実に平坦なもので……
端的に言うと、とても冷たい態度だった。
「…ごめんなさい」
「…はぁ? ……あぁ、いや……はぁ…………駄目だね、こりゃ。
いや……私こそゴメン、真知子さん。これじゃただの八つ当たりだ。
自分でもわかっちゃいるんだけど……どうも、ね」
「ううん……そんなの、当然よ」
今回の試験では研究所側からは極力干渉してはいけなかったということもあり、
試験中は近い場所で過ごす真知子には、一切の情報の提供はされていなかった。
つまり、真知子は今回の全ての事の顛末を、試験が完全に終了してから、改めて
所長である洋一の口から聞かされたのだ。
…だが、真知子本人が何か美幸に危害を加えたわけではないものの、発端が真知子
の悩み相談だったこともあり、そういった複雑な心境の美咲は、つい冷たい態度を
とってしまったのだ。
先ほどまでの対応を反省した美咲は、キーボ-ドを打つ手を一旦止めると、その
手で今度は自らの目を覆うようにして、自分のこめかみを指で押さえる。
「ああ……そうだ、美幸の居場所だったね。
美幸なら、今は許可を取って、洋一おじさんの家で寝泊りしてるよ。
念の為に、美月も今はそっちで生活してる。
遥ちゃんも、心配して頻繁に泊まりに来てくれてるらしくてね。
今の時間帯なら、由利子おばさんも交えて、4人で仲良く朝食でも食べてるんじゃ
ないかね?」
美幸の試験が中断した日から、既に3日が経過していた。
今の美幸は、本来試験を実施する予定だった期間を長期休暇としてあてがうよう
手配した上で、生活の拠点を夏目家に移すことになっていた。
これは元々は美月の発案で、酷く憔悴した様子の美幸をとてもではないが研究所
に一人にしてはおけなかったというのが、主な理由だ。
本来なら、いくら心を持っているとはいっても、アンドロイドの精神状態を理由
に警備等を動かすのは難しかったのだが……そこはお得意の美咲のゴリ押しで半ば
強引に許可をもぎ取ったのだった。
「…そうなの。
あのね、息子の友達の斉藤愛ちゃんって子から、美幸ちゃんに伝言があって……」
「斉藤愛、ねぇ……」
その名前を聞いた美咲は、すぐに微妙な表情を浮かべた。
彼女が特別悪いことをした……というわけでは、勿論ない。
美幸とも最後まで良好な関係を保っていたし、時折見せる敵愾心も、あくまでも
幼い恋心の発露であって、傍から見れば微笑ましい程度のものだった。
…しかし、美咲には一つだけ引っかかっていることがある。
愛が美幸に心矢の前から去るように促した時のことだ。
基本が純朴な美幸は上手く騙せたようだが、あれはどう考えても個人的に邪魔者
を排除したかっただけだろう。
正直に心の内を話して、それを美幸が受け入れたのならまだしも、心矢の将来を
交えて美幸の良心に訴えかけてきたのは、個人的に少々気に喰わなかった。
「…いいよ、それなら私から美幸に伝えとく。
それで? 彼女は何て言ってたの?」
「…ありがとう、美咲ちゃん。
あの……愛ちゃんからの伝言は、ね?
『ごめんなさい。いつかペンダントを返しに行きます』っていうものなの」
「…は? ペンダントってあの?
おいおい……! 返すって……一体どういうことなのさ!?」
思いもよらない言葉に、思わず顔を真知子に向ける美咲。
今日はまだ一度も顔を向けないで会話していたのだが……本日初めて見た真知子
の表情は……もうこれ以上無いほどに、申し訳なさそうなものだった。
「それが、ね――」
その美咲からの質問に、一層表情を暗くした真知子は、試験が中断したあの日の
その後に自宅で起こった出来事を語り始めた。
平日のこの日、本来なら職場に居るはずの真知子は、美幸からの強い希望で午後
の3時頃から自宅に待機していた。
新型ボディの開発がいよいよ完成間近になり、最終調整の段階に入っている今、
とてもではないが休暇など取っている暇など無い。
…故に、事情など一切知らない真知子は、正直に言うと迷惑に思っていた。
もしかしたら、先日羨ましがったから息子の新しく作ったペンダントでもくれる
つもりなのだろうか?
だとしても、流石に今は勘弁してもらいたい。
そういったサプライズなら、別に後日でもいいのではないだろうか?
忙しさでストレスが溜まっていた真知子は、多少の苛立ちと共に、そんなことを
勝手に考えていた。
「あの……ごめんください」
そうして待機していると、玄関から愛の声が聞こえてきた。
真知子は思考を一旦中断してすぐに玄関に向かうと、訪れた愛を出迎えた。
「あら、愛ちゃん。いらっしゃい。
…でも、今日はどうしたの? もう6時前よ?」
「…心矢君、部屋に居ますか?」
「あ……ええ。出掛けた様子はないから、そのはずよ。
でも、理由は知らないけど、何故か今日は部屋に篭もって出てこないのよ」
「…居るんですね? では、失礼します」
「え? あ……いや、あの…………愛ちゃん?」
真知子の返答を待たずに愛は有無を言わさぬ様子で家に上がってきたかと思うと
真っ直ぐに階段へ向かっていく……。
そのあまりに深刻な表情と態度に違和感を覚えた真知子は、妙な胸騒ぎを覚えて
そんな愛の後に慌ててついて行った。
愛は、今更になって深く反省していた…。何が……“きっと大丈夫”だ。
桜子の背中を見送った愛は、ただそれだけで安心しきってしまっていた。
自分は助けを送れた。これで、もう大丈夫なのだ……と。
そうして暢気に待っていた愛は、美幸がその手に握り締めていた髪束を目にした
時には、ただただ愕然とした。
亮太がそこまでするとは、想像すらしていなかった。
自分の見通しが甘過ぎたのだ。
もし、こんな可能性を想定出来ていたのなら、別に美幸本人に向かわせなくても
問題の解決は出来たはずだった。
何故ならば、“盗まれたペンダントを取り返す”というだけなら、あの空き教室に
他の誰か……例えば、桜子や真知子といった信頼できそうな大人に代わりに現場に
向かってもらっていれば、十分に可能だったはずなのだ。
…子供のした事だとはいえ、亮太のした事は明確な『窃盗』なのだから。
しかし、それが分かっていながら美幸に行かせたのは、単純に愛の都合だった。
…待ち合わせ場所を教える事を条件に、美幸を心矢の前から去らせるための。
そして、その愛の考えの甘さが招いた結果が……きっとあの“髪束”だったのだ。
「心矢君……ペンダント、見つかったから、鍵を開けて?」
「…本当か?」
「うん」
“ガチャリ”と鍵が開いたかと思うと、心矢が部屋の中から顔を覗かせた。
一人で泣いていたのだろう……目の下が少し赤く腫れていた。
「それで……ペンダントは?」
「…これ」
愛からペンダントを手渡された心矢は、みるみる機嫌が良くなってくる。
…どうやら、ついさっきまで本気では信じていなかったらしい。
「す、すげぇ…! ありがとう、愛! これ何処で見つけたんだ!?」
「池崎がまた盗んでたのよ……。それで――」
そこまで言って、愛は一瞬だけ言い淀むと……こう続けた。
「…それで、美幸さんが学校まで行って、池崎から取り返してくれたの。
だから……今日の私は、それをただ届けに来ただけ」
髪が短くなってしまっているのに、自分には優しく微笑んでくれた、美幸。
不意にその姿が頭を過ぎった愛には、とてもではないが『自分が見つけた』とは
言えなかった。
それが、愛なりの……せめてもの罪滅ぼしだった。
「美幸お姉ちゃんが……そ、そっか。
それで? その美幸お姉ちゃんは? 愛は一緒じゃないのか?」
「美幸さんは……もう、ここには戻って来ないの」
「………は? なんだ、それ?」
手元に戻ったペンダントを見つめて満足そうにしていた心矢は、愛の返答が理解
出来ずに、不思議そうに聞き返す。
…ただ、愛の後ろで話を聞いていた真知子だけはその言葉を耳にして、深刻そうな
空気を漂わせていた。
「ペンダントを失くしたら、心矢君はすぐに引きこもっちゃったでしょう?
だから、これ以上一緒に居て、もっと心矢君が美幸さんに頼っていったら、きっと
美幸さんが外国に行った後に、また学校に行けなくなるかもしれない……って」
「……ぇ……?」
徐々に愛の言葉を理解し始めた心矢は、先ほどまで嬉しそうにしていた表情を、
少しずつ硬くしていく。
「だから、そのペンダントだけでも通えるようにしないといけないから……。
それで美幸さん、今日から外国に行く準備するって言って、本当の家の方へ帰って
行っちゃったの」
「…………………」
「あ、あの……でも、安心して?
私は今まで通り心矢君の傍に居られるから。
だから、明日からまた、私と一緒に手を繋いで学校へ――」
“ガンッ”
すっかり元気を無くした心矢を励まそうとしたのか……殊更明るい声で愛が心矢
に登校を促そうとした――その時だ。
そんな愛の視界の端を何かが通り過ぎて……それが激しく壁にぶつかった。
「………え?」
「そんなのが……そんなのだけがあったって……。
本人が居なきゃ、全然意味なんて無いだろっ!!」
廊下に転がったその小さな影は、ついさっきまで心矢の手の中にあった……あの
ハートのペンダントだった。
…よく見ると、少しばかり矢の先の部分が先ほどの衝撃で歪んでしまっている。
「………は? ……アンタ、何やってんのよ?」
「………ぁ…。……っ……くっ……」
「あっ! ちょ、ちょっと心矢!? 待ちなさい!!」
愛の底冷えするような声で放たれたその台詞で、我に返った心矢は床に転がった
ペンダントを見て、改めて自分のしてしまったことに気が付いたらしい。
…そして、すぐに泣きそうな顔をしながら部屋を飛び出して行ってしまった。
そんな中、走り去った心矢には目もくれず……愛は歪んでしまったペンダントに
近づいて、ゆっくりとそれを拾い上げる。
(…なによ、これ? なんで私、こんな――)
拾い上げたペンダントをぎゅっと握り締めると……代わりにポトリと、一滴の涙
が、床にこぼれ落ちた。
(こんな酷いことするようなヤツ、好きだったんだろ?)
美幸が自らの髪を犠牲にしてまで、無傷で取り返したペンダント。
心矢がその事情を知らなかったとはいえ、自分のために取り返してくれたという
事実は何も変わらない。
それなのに……ただ落ち込んで部屋にこもっていただけの心矢が、ペンダントを
投げつけて良い理由など、何処にも無い。
『百年の恋も一時に冷める』とはよく言ったもので、愛の恋心はたったそれだけの
事で、一瞬にして冷めてしまっていた。
そして、想いが冷めたことで……愛はやっと、我に返ることが出来た。
美幸は、心矢だけでなく、愛にもずっと優しくしてくれていた。
今になって振り返ってみると、自分はただ、心矢を理由に美幸のことを無理やり
敵視していただけで……本当は、優しい美幸が大好きだったのだ。
そんな美幸を傷つけた上に、追い出してしまった事実を、今更ながらに後悔して
愛はやっと……純粋に、美幸と別れてしまったということが悲しくなってきた。
「あの……愛ちゃん、大丈夫?」
「…はい。大丈夫です」
「…そ、そう? それなら、私はちょっと心矢を探してくるわ。
この雨の中、そのまま外に出て行ったみたいだから……」
「…大丈夫ですよ。
どうせ、放っておいてもすぐに戻ってきます。
…それより、おばさん。ちょっと聞いても良いですか?」
「えっ? ええ、それは構わないけど……」
真知子は、その愛の言い回しに密かに驚かされていた。
今までなら、心矢のこととなれば一番に心配して騒いでいたのに……。
その冷めた反応と口調から、愛の中で何かが決定的に変わってしまったことを
真知子は感じ取っていた。
「おばさんにお願いすれば、また美幸さんに会えますか?
確か、ご親戚……なんですよね?」
「それは……多分難しいと思うわ。
詳しくは言えないけど、美幸ちゃんの家は、とても厳しいお家なの。
だから、仮に私や心矢が望んでも……きっと簡単には会えないの」
「そう、ですか……。
それじゃあ、おばさん。
申し訳ないですけど、このペンダントは私が持っておきます。
壁に投げつけるような人には、もう持たせておけないし。
…でも、きっと私にだってこれを持っておく資格はないと思います。
だから、もしいつかまた会える時があったら、その時には必ず私の手で、美幸さん
にお返しします。
…もし、おばさんがこの先、美幸さんに会えることがあったら……私がそう言って
いたってことを、どうか伝えておいてください」
「…え、ええ。わかった。伝えておくわ」
真知子は先ほどとは違う理由で、再び愛に大して驚いていた。
まるで昨日までとは別人のように、酷く大人っぽい物言いだったからだ。
辛い経験すれば、その分だけ人間は成長するとは言うが……。
それなら、いったい愛は今、どれだけ辛い思いをしているというのだろうか。
「……それじゃあ、私はもう帰りますね?」
「…ええ。あの……愛ちゃん?」
「…何ですか?」
「その……明日も心矢のこと、迎えに来てくれるの?」
「…はい。『心矢君の傍に居る』って、美幸さんと約束しましたから」
「…そう、ありがとう。それと……ごめんね」
その愛の言い回しで、真知子は確信した。
これから愛が心矢に会いに来る理由は『義理』以外の何物でもないのだと。
そして、家を飛び出して行った、その心矢はというと……。
愛を見送った後、その愛が言っていた通り、無事に家へと戻って来た。
帰って来た心矢は『どこを探しても、ベルの音が聞こえないよ』と、ずぶ濡れで
泣きじゃくっていたが……。
その時の真知子には、そんな心矢にかける言葉を何も見つけられはしなかった。




