善く戦う者は人を致して人に致されず
その後、いつも通りゆかなと徐如林は食卓についた。
殺し屋一家の団欒の時間である。
1ミリでも父、率然者にこちらの動きを察知されてはいけない。
それ故に、2人は暗殺同様、自然体で楽にしていた。
孫子の兵法、虚実篇。「善く戦う者は人を致して人に致されず」である。
人を致す、つまり自分が主導権を取るということ。
常に主導権を握り、相手に主導権を渡さないものが戦いを制すのだ。
3日間、徐如林が練りに練った論理武装で、率然者を完全論破するわけだが、暗殺と同じく「今から議論を始めます」などと宣言する必要はない。
急に議論を展開し、率然者が考える間を与えないようにことを展開するのが重要。
同じ物事を話し合うにしても、それについて論理武装した者とそうでない者、それを議論するということを知っている者とそれを予期せず不意をつかれた者、この差はとてつもない差がある。
主導権を握るには先に相手を振り回さないといけない、罠に嵌めないといけない、油断させないといけない、情け無用で徹底的に追い込まなくてはいけない。
それが戦い方の基本であり、どう準備するかでどちらが勝つのか大抵は決まるのだ。
しかし通常の相手であればだ。
相手は血を血で洗い幾万の修羅場を掻い潜ってきた率然者である。
いかなる条件、いかなる裏切り、いかなる想定外の展開にも即対応し、何十年も無傷で生き延びてきた伝説的な殺し屋、代々暗殺を生業とする篠宮家当主篠宮 率然者。
徐如林は徹底してこの3日間、率然者を封じ込める方法を考えてきた。
あらゆるシュミレーションを考えてはいたが、率然者を黙らせることなどできるのだろうかとも考えていた。
即断即決、臨機応変。
ヒンドゥーの神ドゥルガーが、虎にまたがり8本の手であらゆる武器を縦横無尽に使いこなし全てを破壊しながら進撃するように、徐如林は自分が何をしても率然者は全てを打ち砕くのではないかと考えてしまうのだ。
だから最終的にはゆかなの熱意が率然者に届くかどうか、何も知らない母、景都がゆかなの後押しをしてくれるかどうかの方が重要だと考えていた。
徐如林は自分は大局が有利な方向へ流れるようにすることはできるが、それだけでは決め手にかけることを知っていた。
しかしゆかなのためにもやれることは全部やろうと心に誓っていた。
殺し屋一家の晩餐もそろそろ終わりを迎えようとしていた。
篠宮家では食後にデザートを食べお茶を飲みくつろぐのが、決まりというわけではないのだが習慣となっていた。
徐如林はその食事からくつろぐ時間への切り替わりを狙っていた。
恐らくそこが率然者の気が緩む時だと考えていたからである。
ゆかなも自然体を保ちながら、徐如林がいつ動くのか様子をうかがっていた。
そろそろ話を切り出す時間だと徐如林が思い作戦を決行しようとした時であった。
「徐如林、ゆかな、何か話があるのではないですか?」
真っ直ぐ2人を率然者は見つめそう言った。
その顔には怒りも悲しみもなく、ただ淡々としていた。
徐如林もゆかなも、率然者の言葉に凍りついたが、それを表に出すことがどれだけ危険なことか知っていたので自然体を保ち続けた。
2人は率然者がどこまで知っているのか?全く予想できなかったが、それと同時にやはり率然者は只者ではないと感心するのであった。
「はい、お父様。実はゆかなのことで、お父様にご相談しようと思っていたことがあります」
徐如林は優しく微笑みながら率然者に丁寧に伝えると、表情を変えず率然者はゆかなに視線を送った。
「はい。お父様!実はお父様に大切なお話があるのです!」
ゆかなは胸に秘めた熱い思いを弾けださせるように、いつも以上に真剣な面持ちで強く率然者に訴えた。
「徐如林、ゆかな。それが私を怒らせるようなことであれば、あきらめて何も言わずにお茶でも飲んでいなさい。それから徐如林、重要な事をする前はもっと気を静めなさい。何かするたびに相手にその気配を感づかれたら暗殺が失敗する。ゆかなも頑張ろうとしすぎて頭の中がいっぱいになると、すぐにそれが表に出てしまう。平常心を心がけなさい。2人ともまだまだだ」
率然者は冷静にそう言うと、お茶を手に取り1口飲んだ。
それを見ていた景都は全くわけがわかっていないようで、不思議そうに3人の様子を見ていた。
そしていつもなら、この辺りで引き下がる徐如林とゆかなであったが、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。
2人は率然者への畏敬で心の中では震え上がっていたが、この議論の道筋を作るのは自分だということを徐如林はわかっていたので顔は笑顔を保っていたものの、恐怖心を振り払うように話を進めた。
「お父様、ありがとうございます。決してお父様を怒らせるようなことではないのですが、ゆかなが1つの重大な決断をしたようなので、それについてお父様に許可を頂きたいと思いまして…」
すぐにでも殺されるんじゃないかとヒヤヒヤしながらも、徐如林は優しく微笑み続けていた。
もうすでに主導権は率然者に握られていた。
本来的ならば、ここは一旦逃げた方が良いに決まっているのだが、ここで引いたら2度とゆかながアイドルになるという話はできなくなってしまう。
2人は行けるところまで行くしかないと考えていた。
「ゆかな。何を決めたのですか?」
率然者が静かにそう尋ねると、ゆかなのかわいい目に燃兎眼が真っ赤に熱く燃えあがった!!!
「お父様!!!!私!!!アイドルになりたいのです!!!!!!みんなに夢を届けるアイドルになりたいのです!!!!!」
ゆかなは一気に椅子から立ち上がると、真っ赤な正義のオーラを燃え上がらせながら両手を握りしめた。
「ゆ…ゆかな…お前は死にたいのか…」
率然者は今まで見せたことのない驚愕の表情で手にしていたカップを食卓の上に落とした。
全く予想していなかったのであろう。
まさか殺し屋である自分のかわいい娘が、わざわざ殺してくれと言わんばかりにアイドルになりたいと言い出したのが。
どう考えても今まで殺した相手の関係者全員から命を狙われてしまう。
そもそも代々世の中の影の部分を担ってきた篠宮家の人間が、世の中の光の部分に出るアイドルになりたいなどと言い出す事自体が、率然者からすれば非常識過ぎたのだ。
それこそ軍人が病院で医療に従事し、医者や看護婦が戦地へ赴き戦うくらいにわけがわからなかった。
「お父さんは許さない…こんなにかわいいゆかながアイドルなんて…そんな汚れたものにゆかながなるなどあってはいけない…殺す殺す殺す…」
それと同時に率然者の中で幼い時のゆかなの記憶が回想されていた。
こんなにかわいいゆかながアイドルになんてなったら、オタクの気持ち悪い男たちやゆかなを商品として扱う悪い奴らに囲まれてゆかながどうにかされてしまうのでないかと考えていた。
ずっと「お父様、お父様」と自分を追いかけてきたゆかなが、自分の手を離れ見知らぬ男達に蹂躙されるなどあってはならない。
ゆかなに手を出す全ての男達を抹殺しなくてはならない。
率然者の目には多数の黒い縦線が走り我を忘れていた。
徐如林は急にゆかなが馬鹿正直に本題を切り出したので、死ぬかと思うほど震え上がったが、それが功を奏して率然者に隙ができたのを見逃さなかった。
ここで畳み掛けるしかない。
徐如林は、父を致すためにいっき攻勢をかけることにした。