第五章 河野の最後
三月の終わり、河野の容態が急変した。
外来での治療では対応できなくなり、入院になった。透は病院に通った。四人部屋の隅のベッド。窓から桜が見えた。透は桜を見る気になれなかったが、河野は窓の外を好んで眺めた。
「透」
「なんだ」
「最近、面白い人に会ってるって言ってたやつ。霊能者?」
「霊能者とは本人は言っていないが、まあ……そういう人だ」
「どんなことを言ってるの」
透は迷った。河野の前で、スピリチュアルな話をすることへの抵抗が、まだ残っていた。しかし河野は透の迷いを先読みするように、
「聞きたいんだよ。本当に」
と言った。
透は話した。凪の世界観を、できるだけ正確に。魂は輪廻転生し、死はひとつの状態から別の状態への移行であること。生きている時間は魂が修行する場であり、終わりは衣替えにすぎないこと。河野が今経験していることは、魂のレベルでは何らかの意味を持っているかもしれないこと。
河野は黙って聞いていた。窓の外の桜を見ながら。
「俺のこと、何か言ってたか? そのひと」
「……魂が、今生でやるべきことを終えようとしている、と」
河野がゆっくり頷いた。
「そうか。それはいいな」
「いいか?」
「だって、完結するってことだろ。意味があって、完結する。それはいい」
透は病院の廊下の消毒薬の臭いを肺に満たしながら、河野の横顔を見た。河野の目が、窓の向こうの桜に向いていた。花びらが数枚、ゆっくりと落ちていった。
「透、お前はどう思ってるんだ。その話を、本当に信じてるか?」
透は答えるまでに時間がかかった。
「わからない。知的には懐疑的だ。でも……凪さんと話しているとき、信じていたいと思う」
「信じたい、と、信じる、は違うな」
「そうだ」
「でも、信じたい、があれば十分かもしれないぞ」
「それはどういう意味だ」
河野は少し笑って、
「俺が、そうだったらいいな、と思えれば、それでいいんだよ。正しいかどうかより、それで眠れるかどうかのほうが大事だ。今は」
と言った。
四月の第二週、金曜日の夜。透は病院にいた。
河野の家族は廊下に出ていた。透と河野だけが部屋にいた。河野の呼吸は浅く、不規則だった。点滴の管が手の甲に刺さっていた。
透は河野の手を握っていた。冷たかった。指先だけ、かすかに温かかった。
河野が一度だけ、強く握り返した。
それから四十分後、河野の呼吸が止まった。
透は手を握ったまま、動かなかった。動けなかった。
棺の中の祖父の顔を、二十七年ぶりに思い出した。密度の喪失。しかし今回は少しだけ違った。あの八歳の夜には名前のなかったものが、今夜は移行という言葉の形をしていた。言葉が正しいかどうかは、透にはまだわからなかった。
だが、空っぽのままよりは、その言葉の形が、今夜だけは必要だった。
廊下に出て、透は凪に電話した。深夜の二時を過ぎていた。三回のコール音の後、凪は出た。
「河野さんですか」
「……うん」
「そうですか」
凪の声は静かだった。何かを問う声でも、慰める声でもなく、ただ静かに透の隣に存在しているような声だった。
透は何も言えなかった。ナースステーションの蛍光灯が、廊下の端まで白く照らしていた。その光の下で、透の肩が小刻みに動いた。
凪は電話を切らなかった。
透が泣き止むまで、ただ呼吸音だけ静かに響いていた。




