第十三章 波が来て、砕けて、引いた
九月の初め、二人は海に行った。
電車とバスを乗り継いで、二時間。透が子供の頃に一度だけ来たことのある、房総の小さな岬だった。
平日の午後で、人はほとんどいなかった。駐車場のアスファルトに雑草が生えていた。売店は閉まっていた。岬の先端まで続く道に、雑木林が両側から迫っていた。
二人は無言で歩いた。
岬の先端の岩場に出ると、海が開けた。灰色がかった青。波が岩に当たって白くなり、砕けた。塩の臭いと、海藻の臭いが混ざっていた。
岩の上に腰を下ろした。
凪が先に話した。
「子供の頃、父に連れられて海に来たことがあります。私が何かを見たと言うたびに、父は黙って、怖い顔をした。怖いというより、困っている顔だったかもしれない。理解できないものに対して、人はああいう顔をするんだと、子供の私はそれを見て学んだ」
「それで孤独だったんですね」
「孤独というより、自分と普通の人間は別の惑星にいると思っていた。それは誇りでもあったし、痛みでもあった。透さんと話し始めて、少しずつその感覚が変わった」
「どう変わりましたか」
「あなたは私が何かを言ったとき、否定も肯定もしなかった。ただ問いを投げ返してきた。それが……こんな言い方が正しいか分からないけど、対等に扱われている、という感じだった。初めての感覚だった」
透は波が砕ける音を聞きながら、
「僕も最初は、凪さんを利用しようとしていたと思います。答えを持っている人から、答えをもらおうとしていた。それが変わったのは……多分、凪さんが怖いと言った夜からかな」
「あの夜」
「あの夜から、僕は凪さんを別の眼で見るようになった。完璧な答えを持つ人間じゃなく、同じ暗闇の中に立っている人間として」
「それは、私にとっていいことでしたか」
「いいことだったと思う。でなければ、今ここにいないでしょう」
波が来て、砕けて、引いた。
また来て、砕けて、引いた。
凪はポケットから小石を出して、海に向けて投げた。小石は弧を描いて落ちて、波に飲み込まれた。
「透さん、私は今でも、たまに見えます」
「知っています」
「でも鶴見先生の問いは、頭から離れない。見えていることと、それが何であるかを知っていることは、別だという問い」
「それで今、どうですか」
「……わからない、と言える。それが今の正直な状態です」
透は岩場の上に手を置いた。岩が温かかった。一日中、太陽に温められていた。
「祖父のことを考えます、まだ」
「そうですか」
「棺の中で、密度が消えていた。何かがなくなっていた。あれが何だったのか、二十七年間わからないままです。凪さんに会って、名前を一度もらった気がした。魂の移行、という名前を。でも今は、その名前が本当に正確かどうかは分からないと思っている」
「それでも、名前はあったほうがいいですか」
「あったほうがいいと思う。間違っているかもしれなくても、問いの形にすることが、問いと共に歩くために必要な気がする。地図が正確じゃなくても、地図がないより歩きやすい」
「地図は地形そのものじゃないですね」
「そうです。地図は地形の記号です。記号と現実は別物だとわかった上で、記号を使う。魂も輪廻も、地形を表す記号として持つことはできる、と思い始めています」
凪は透を見た。
「それは、私が最初に話した内容とは、かなり違います」
「知っています。でもこれが、今の僕が持てる、一番誠実な答えです」
「誠実な答え、か」
「凪さんにとっては、不十分ですか」
「いいえ」
凪は小さく首を振った。
「十分です。多分、十分以上に」
夕陽が傾き始めていた。海の色が金属のように光り始めた。
透の隣に、凪が近づいた。透の手の甲に、凪の手が重なった。
凪の手は冷たかった。冬の水のように冷たかった。透はその手を、両手で包んだ。
波が来て、砕けて、引いた。
また来た。
砕けた。
引いていった。




