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「煉獄のパールライト」生き返れるのは、ひとりだけ。死者が織りなす、哀しきデスゲーム。  作者: 志津川 雄治
7日目

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06.無意味な紙切れ

 それからしばらくして、浩輔の隣のベッドにいた痩せっぽっちの男の子が、別の病室へと移っていった。その理由は、聞かずとも察しがつく。体調が悪化し、より手厚い治療を行う必要があったのだろう。


 個室に移った者が、再びここへ戻ってくることは滅多にない。入院歴が長い浩輔にとっては、すでに何度も目にしてきた光景だった。空になったベッドを見つめていると、鬱々とした感情が胸に湧き上がる。


 同室の真那斗もそのことをよく理解しているのか、ここ数日は目に見えて口数が少なかった。お互いのベッドで、それぞれのタブレットを見ながら、その重苦しい空気をやり過ごしている。


 さらに1週間ほどが経過して、看護師たちの落ち着かない様子から、男の子はもう亡くなってしまったのだろうと、浩輔は悟ったのだった。



「正直、死んだ方が楽なのかもな。今のところ、助かる見込みなんてないんだし」


 久しぶりに真那斗のベッドにやって来た浩輔は、そんな言葉を投げつけられた。彼はベッドに座りながら、窓の外をぼんやりと見つめている。死んでしまった男の子に、自分を重ねてしまっているのかもしれない。


「そんなこと……」


 否定しようとした言葉を、最後まで続けることができなかった。浩輔も何年も闘病に耐えていたが、いつ終わるかわからない生活に疲れていた。気休めの言葉は聞きたくないし、口にしたくもない。


 それでも、と浩輔は思った。


「それでも、僕は諦めたくない。死が恐ろしいというのもあるけれど、僕はまだ、この人生に何かを期待してるんだ」


「……そう言えるのは、恵まれている証拠だな」


 真那斗は浩輔を眩しそうに見ながら、そんな言葉を返した。そのどこか冷めた物言いに、浩輔は小さな胸騒ぎを覚えた。


「諦めるの?」


「諦めはしないさ。自殺すると、天国に行けないって言うしな」


 真那斗が冗談めかして言ったその言葉に、浩輔は意外に思って問い返す。


「天国なんて、信じてるんだ?」


「信じてないけど、これだけ苦しんでるんだ。天国か来世で救われないと、やってられねえよ」


 真那斗が、そう言いたくなる気持ちはよくわかった。ただ苦しんで、報われないとしたら悲しすぎる。しかし、浩輔も天国や来世を信じていなかった。


 死後の世界というと、最近読んだ『銀河鉄道の夜』が脳裏に浮かぶ。


 浩輔と真那斗は、まるで死に向かう列車に乗っているかのようだった。列車から降りていく人々を見ながら、死について考えを巡らせる。自分たちもどこかの駅で降りることになるのか、それとも列車から放り出されて、現世に戻ってくることができるのか。


 自分たちにとっての、本当の幸いとは何なのか。


「ひとつ約束しないか」


「何?」


 真那斗が真剣な表情で見つめてきたので、浩輔は少し身構えた。


「俺が死んだら、お前に俺の心臓をやる。その代わり、お前が先に死んだら、お前の腎臓を俺にくれよ」


 予想していなかった提案に、浩輔は驚いて首を振った。


「そんなの、決められるわけないよ。適合の問題もあるんだしさ……」


 移植の順位は緊急性に加え、血液型、体格、組織適合性など、様々な条件を考慮した上で決められる。親族でもなければ、自分の意思で選択できるものではないのだ。


「それでも、可能性はゼロじゃないだろ。意思表示カードは持ってるか? それに加えて、遺書を書こう」


 真那斗は荷物からノートを出してページを切り離し、浩輔に心臓を譲るという文面を書き始めた。ネットで書き方を調べながら、氏名や生年月日を書き加えていく。真那斗の字は下手でとても読みにくかったが、なんとか遺書のようなものが完成した。


 そして、真那斗がもう一枚の紙をノートから破り、浩輔に差し出した。


「どうする? やめとくか?」


「いや、書くよ」


 浩輔は真那斗が書いた文を、名前などを変えて書き写していった。判子の代わりに、赤いマジックを指に塗りたくり、お互いの紙に母印を押し合う。


「よし。これを、一枚ずつ持ってようぜ」


 受け取った遺書のような紙を眺めながら、浩輔は思った。


 正直、これにどれだけの効力があるかは分からない。この場限りの気休めに過ぎないと思ったが、何か心惹かれるものがあった。


「どっちが長生きできるか競争だな」


 真那斗はそう言って、出会ったときよりも深いくまを浮かべて笑った。以前よりも、顔色が黄色みを帯びているような気がする。きっと自分も、同じくらい酷い顔をしているのだろう。そんなことを考えつつ、浩輔も小さく笑顔を返した。


 この法的に何の力も持たないはずの紙切れが、二人の関係を壊すことになるとも知らずに。




 それから、浩輔も真那斗も体調が思わしくない日々が続いた。ベッドが向かい合っていながらも、顔を合わせる時間は少なくなっていく。自分のことに精一杯で、他人を気にする余裕などなかった。


 変わったことといえば、浩輔の父が以前より頻繁に見舞いに来るようになったことだ。仕事がひと段落したのだと聞いたが、両親が普段よりも自分に対して優しい気がする。それを嬉しいと思いつつも、自分の容体が悪化している証拠だと思うと複雑だった。


 真那斗の両親は離婚しているそうなので、父親が見舞いにきたことはない。自分は恵まれていると真那斗によく言われていたが、本当にその通りだと思った。


 真那斗のベッドを見るが、カーテンが引かれていて、彼の様子をうかがうことはできない。


 タブレットで小説を読む気力もなく、浩輔はベッドで横になっていた。少しうとうとしていると、急に女性から声をかけられた。


「浩輔くん! 浩輔くん!!」


 重い体を起こしてそちらを見ると、真那斗の母親がベッド横の椅子に座り、笑顔で浩輔を覗き込んでいる。


「こんにちは、浩輔くん。いつも、真那斗と遊んでくれてありがとうね」


「い、いえ……」


 少しぼんやりとしながら、浩輔はそう答えた。真那斗の母親が、ひとりで浩輔に話しかけてくるなど初めてのことだった。


「日頃お世話になっているから、今日はお礼を持って来たの」


 そう言って、彼女はバッグからポテトチップスやチョコレートのお菓子を取り出した。


「いや、僕は……」


 浩輔は血液量が増えると心臓に負担がかかるため、医師から塩分を取り過ぎないように指導されていた。浩輔が断ろうとするその前に、彼女はポテトチップスの袋を開けて差し出してくる。


「さあ、遠慮しないで食べて、食べて。これは、お礼だから!」


 真那斗もお菓子を制限されていたので、入院中の子供に許可なく食べ物を与えてはならないということを、彼女も知っているはずだ。それなのに、こうして無理やり勧めてくるのは、異常なことと言えた。


「これ、新製品で美味しいらしいわよ?」


 真那斗の母親の笑顔は固く、言葉には有無を言わさない圧力があった。浩輔は真那斗のベッドを見ようとするが、お互いのカーテンが引かれていて、向こうを見ることはできない。


「じゃ、じゃあ。少しだけ……」


 浩輔は断り切ることができずに、そろそろと袋に手を伸ばした。乾いた手先に、ぬるりとした油を感じつつ、それを口に運ぶ。あれほどお菓子を食べたいと思っていたのに、妙にしょっぱくて美味しいとは思えなかった。


「どう? さあ、もっと食べて、食べて」


 浩輔の態度など気にせずに、彼女はさらにお菓子を押し付けてきた。食べないと終わらなさそうな雰囲気に、浩輔は仕方なく小さなかけらを探して、それを口に入れた。


 真那斗の母親の笑顔が、能面のように固まって見えた。その瞳が暗く濁っているようで、浩輔は背筋が寒くなった。


「すいません。お腹が空いてなくて……もう大丈夫です」


 たまらず、浩輔はそう拒絶した。


「少ししか食べてないじゃない! せっかく開けたのに、まだこんなに残ってる」


「すいません……」


 そう言いつつ、浩輔はベッドに横たわった。


「もう寝るの? 遠慮しないで、もっと食べてよ。ねえ?」


 彼女の声が耳元に聞こえたが、浩輔は目を閉じたまま何も答えなかった。こちらを見つめる気配を肌で感じつつ堪えていると、やがて彼女は病室から出ていった。


 浩輔は、手に残る油をすぐに洗い流したかった。しかし、再び真那斗の母親と鉢合わせるのが恐ろしくて、動くことができない。


 幸いなことに、ポテトチップスを数切れ食べた程度では、体調を崩すことはなかった。しかし、それからというもの、真那斗の母親から常に奇妙な視線を感じるようになった。


 前回のようなことがないよう、浩輔はベッドのカーテンをできる限り開けておき、二人きりにならないように注意した。それでも、彼女に強引に近づかれそうになったときは、すかさずナースコールを押してやり過ごす。


 真那斗の母親は、常にひきつったような笑顔をたたえ、何を考えているのか分からなかった。彼女がなぜそのようなことをするのか、原因はひとつしか考えられない。



 その日の面会時間が終わると、浩輔は意を決して真那斗のベッドに向かった。


「真那斗くん。ちょっといい?」


「どうした?」


 真那斗は、体をベッドに横たえたままそう答えた。彼の顔色はさらに悪くなっており、体調の悪化が見てとれる。ゲームをやる元気もないのか、最近は貸してくれというお願いもされなくなっていた。


 浩輔はそのことを気にしつつも、言いにくそうに質問する。


「あのさ、あの遺言って今どこにある?」


「あれか。意思表示カードと一緒に、財布の中に入れてあるよ」


 真那斗は視線を合わせずに、抑揚のない言葉で答えた。


「誰にも見せてない?」


「どうして、そんなこと聞くんだ?」


「いや、どこに隠そうか考えてて。ちゃんと見つけてもらえるところでないと、ダメだと思うし……」


 もしかしたら、真那斗の母親はあの遺書のことを知っているのではないか。


 だから、自分の体調を悪化させようと、あんなに強引にお菓子を勧めてきた。しかし、真那斗の遺書で分かるのは、浩輔に心臓を譲るという部分だけだ。自分が持っている遺書を見なければ、真那斗に腎臓を譲るという約束を、知ることはできない。


 そもそも、あれは気休め程度のもので、本当に効力などないはずなのだ。


「遺書の話は、親にも言わない方がいいよね?」


「そうだな。言っても面倒になるだけさ」


 真那斗も、あの話を自分の母親に伝えてはいないようだった。であれば、彼女はどうしてあの約束を知っているのだろう? 遺書を書いているところを、見られていたわけではないはずだが。


「どうした? 俺が死にそうだから、約束が気になって仕方ないんだろ?」


「そんなわけないよ」


 真那斗は少し機嫌が悪いようで、浩輔と目線を合わせようとしなかった。


「調子が悪いの?」


「いつものことさ……いつも通りだよ」


 そう言う真那斗には、明らかに翳りがさしていた。彼から余裕のない人間特有の、苛立ちのようなものを感じる。浩輔はそれを敏感に感じ取り、それ以上話しかけることができなかった。



 その翌週、真那斗は個室へと移動していった。


 空になったベッドが増えたせいで、浩輔は嫌な考えに囚われ続けていた。横になりながら電子書籍を読もうとするが、内容が全く頭に入ってこない。考えないようにすればするほど、何度もそれが頭に浮かんでは心をかき乱した。


 真那斗はもう、この部屋に戻ってこれないかもしれない。そして自分も、この部屋から出ていくことになるのだろう。


 今までにないくらい、死の影が色濃く自分にまとわりついている。それを振り払おうとすればするほど、自分から冷静さが失われていくようだった。

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