03.心と体が離れてる
人々の多くは部屋の壁に沿って集まり、それぞれの時を過ごしていた。部屋の中央に陣取る人は、数えるほどしかいない。
「壁際に集まるのは、人間の習性なのかな?」
そういう自分も、電車では一番端の席を好んでいるので、人のことは言えない。
相ケ瀬 結衣香はそんなことを考えながら、魅力的な男性を見落としていないかと、部屋をぐるりと回っていた。
127人というと、学校でいえば4クラス程度の人数だろうか。それだけいれば、素敵な人が見つかりそうなものだが、そんな簡単な話ではない。
全体の半分が女性で、残った半分が子供と老人なのだ。そうなると、幅をかなり広めにとっても、適齢の男性は30人にも満たなかった。同年代に絞ると、5人もいない。
選り好みできる状況ではないので、少しでも良さそうな男性がいたら、とにかく話しかけてみることにする。見た目ではわからない、その人柄を知りたいと考えてのことだった。
先ほどはそれを梓に邪魔されたが、怒ってはいない。むしろ、相手の人間性が確認できたので、感謝しているくらいだ。
そして、懲りもせずに、結衣香は新たな男性に声をかける。
「少し、お話ししませんか?」
相手は少し明るめの茶髪で、アメカジ系のラフな服装の男だった。正直、好みのタイプではないが、数少ない同年代で、話しかけやすかったのだ。
彼は19歳のフリーターで、ネットカフェで働いているそうだ。楽な仕事だからお勧め、と彼は言う。
「ネットカフェ難民って、本当にいるんだぜ。うちの店にも、何人か住み着いててさ。外に出る時はスーツ姿なのに、戻ってくるとスウェットに着替える奴がいて。こいつ、めっちゃくつろいでる! ってさ。この話、面白くね?」
すぐに馴れ馴れしい態度になり、そんな話を得意げにされても、結衣香は返答に困ってしまう。
男は隣に座った結衣香の、顔や身体をチラリと盗み見ながら、嬉しそうにニヤついている。ほんの数分で、彼女は話しかけたことを後悔し始めていた。
そうとも知らず、男は結衣香の方にずりずりとすり寄ってくる。離れようと、少し後ろに下がった結衣香に、彼は言った。
「結衣香ちゃん、いろんな男に話しかけてたろ」
少し前から結衣香に気付いて、盗み見ていたらしい。彼女をねっとりとした視線で見ながら、男はささやいた。
「わかるよ。君の気持ち……」
そう言われて、結衣香は少しドキリとする。自分の行動を見て、何かを見透かされたのだろうか? そんなはずはないと思いつつ、少し緊張して彼の次の言葉を待った。
「死ぬ前に、処女を捨てたいんだろ?」
「……は?」
斜め上の返答が来て、男の勝手な妄想に結衣香は絶句する。
「だったら、経験豊富な男を選んだ方がいいぜ。俺だったら、痛くしないで気持ちよくさせてやるよ。知りたいんだろ? 本当のエクスタシー!」
下手な歌詞のような決めセリフを言われ、結衣香の背筋に悪寒が走る。彼女は何も言わず立ち上がり、その場を離れようとした。
「ち、ちょっと待てよ!」
彼は慌てて、結衣香の腕をつかんで引き戻そうとする。
「離してください!」
結衣香は大声を出して、その手を振り払った。
何事かと、周りの注目がふたりに集まる。その視線に男は焦り、言い訳でもするかのようにわめいた。
「何だよ! お前が誘ってきたんだろ!」
「はぁ? お話ししたいって言っただけでしょ!」
「昨日からずっと、男漁りしてただろうが!」
その言葉に、結衣香はショックを受ける。否定したいと思いつつも、そう取られても仕方ないという気がしなくもないので、複雑な心境だった。
結衣香がどう反応しようか逡巡していると、別の男から声がかけられた。
「結衣香ちゃん! そんな男ほっといて、また僕とお話ししようよ!」
そう言ったのは、昨日話したWebデザイナーを名乗る男性だった。カジュアルな高級ブランドに身を包んだ男は、軽い印象が若く見えたが、年齢は38歳と想像よりも年上だった。
「俺の方が、いい物件だと思うよ?」
「既婚者なのにですか?」
男の発言に、結衣香はそう冷たく言い放つ。
彼は結婚指輪をしていなかったが、妻の前以外では外していると、自慢げに語ったのだ。そんなのありえないと、結衣香は彼との会話を早々に切り上げていた。
「え? この状況で、気にすることかな?」
こだわる意味がわからないと、彼は困った顔で笑う。
この男といい、ネカフェの男といい、結衣香は男運のない自分を嘆いた。
「人間性の問題です。誠実でない人と恋なんてできません!」
男たちをにらんでそれだけ言うと、結衣香は逃げるようにその場を立ち去った。
「あの人たちは、いったい私の何を見てるの!」
まるで、自分がモニターに映る虚像にでもなったかのようだ。自分の内面というものが、全く求められていないような気がする。
相手のことを知ろうと努力していただけに、結衣香はどうしようもない虚しさを感じるのだった。
結衣香が都築たちの元に帰ってきたかと思うと、怒りを露わにしながら、それまでの経緯を語り始めた。
素敵と思った人には恋人がいて、そんな人ほど誠実な対応だったこと。ダメな男からは、都合の良い女としか見られないという苛立ち。
「私、そんな軽い女に見えるかな? 女から話しかけるのって、そんなに変?」
セクハラ発言した男は論外として、結衣香に声をかけられて舞い上がってしまった男たちには、都築は少し同情的だった。
「変とは言わないけど、ほとんどの男はそんな経験がないんだよ」
そして、お節介だと知りつつも、結衣香の行為を軽率だと思い苦言を呈する。
「あまり、思わせぶりな態度はしない方がいいよ。あとで、後悔することになるかもしれない」
都築の言葉に、彼女は心外だという顔をする。
「そんなのしてないよ! 少しお話ししただけでしょ!?」
結衣香にそういうつもりはなくても、相手は勘違いするだろう。彼女は、自分の魅力を明らかに見誤っているのだ。
「男っていうのは、可愛い女の子と目が合って、微笑みかけられるだけで、惚れてしまうものなんだよ。ましてや、お話ししましょうなんて声をかけられたら、なおさらね」
「そんなこと、言われても……」
真剣な表情で都築に言われ、結衣香は口ごもる。彼女は納得いかない顔をしつつも、都築に質問を返した。
「都築君も……そうなの?」
「え?」
「目が合ったら、惚れちゃうの?」
上目遣いの結衣香から視線をそらし、都築は平静を装いながら返答する。
「一般的な傾向としてね」
まさに今、都築は危ないと思ったのだが、肯定など出来ずに誤魔化した。結衣香は考え込んでいたのだが、ハッと別の何かに気付いて、こちらに身を乗り出してきた。
「というか、私のこと可愛いって言った?」
言葉尻を捉えて、そんな確認をされても困ってしまう。都築は動揺が悟られないように、素っ気なく答える。
「一般的に見て、という話だよ」
「それって、かわいいって思ってるってことじゃん!」
結衣香はそう言って、無邪気に笑う。否定をする訳にもいかず、今度は都築が口ごもる番だった。
都築は話題を変えるつもりで、結衣香に気になっていたことをたずねてみた。
「君は恋がしたいと言うけれど、恋人がほしいとは言わないんだ?」
「うーん。別に付き合わなくても、いいんだよね……」
結衣香がさらりと、意外すぎることを言う。
「恋をしたら、その相手と付き合いたいと思うのが普通だよね?」
「まあ、そうだと思うけど……」
都築は結衣香の言う恋について、奇妙なズレを感じていた。肉体的な関係を、無意識に避けたいと思っているのだろうか?
「恋というのは、一方的に出来てしまう。自分の理想を相手に重ねて、妄想で好きという感情を、自ら高めることができる……。確かに、それが一番楽しい時期かもしれないけれど、ずっとその状態でいたいということ?」
言葉遊びが過ぎると思いつつも、都築は彼女の本心が知りたくなってそう聞いた。
「都築君は、リアリストだね。正しいけど、夢のない言い方だな……」
結衣香は、少し困った顔でそう答える。
「でも、そうだね。そんな状態が、理想なのかな……」
彼女の視線が、ふっと宙を見て彷徨った。そんな彼女の表情を見て、胸の辺りがざわつくような感覚を覚えつつも、都築は言葉を続ける。
「一方通行の恋じゃなく、見返りがある愛がほしい。というのが、普通だと思うけど?」
「愛かぁ。愛は重いな……」
恋はしたいが、愛はいらない。それだけ聞くと、本当に貞操観念の薄い女の発言に聞こえてしまう。
都築の困惑した表情に気づき、結衣香は慌てて補足する。
「別に、愛を否定する訳じゃないの! でも、そこまでは必要としてないというか……」
その反応から、都築は彼女が何かしらの葛藤を抱えているのだと悟った。その理由が気になり、彼はためらいながらも、さらに踏み込んだ質問をする。
「そう思うのは、昔の恋が原因?」
結衣香は、ハッとして都築の顔を見る。しかし、都築がその表情を読み取る間もなく、彼女は朗らかに笑って言った。
「そんな、大恋愛なんかしてないよ!」
そう言って彼女は立ち上がり、軽く背伸びをする。
「普通で、つまらない。そんな恋しかしてない……」
都築に背を向けていたので、そう言った彼女の表情は見ることはできない。だが、振り返った結衣香は、いつもの明るい笑顔に戻っていた。
「もう少し年上の人にも、声をかけてみようかな! また、お話ししてくるね」
結衣香はそう言うと、再び男たちのいる方に去ってしまった。
結衣香の後ろ姿を見送りながら、都築は先ほどの会話の意味を考えていた。
「夢のない言い方か……」
都築がポツリとつぶやくと、隣にいたみことが話しかけてくる。
「おねえちゃんは、たぶん心と体がくっついていないんだと思う」
みことの発言に、都築は少し驚いた。彼女が、自ら話しかけてくるのは珍しい。
「どういう意味?」
都築が質問すると、少女は頭をかしげて難しい顔をしている。それ以上の、上手い言葉が出てこないらしい。
そんなみことを見て、都築はその言葉の意味を読み解こうと思考する。
「自分で自分の感情を、よく理解できていないということ?」
ニュアンス的には近かったようで、みことは小さくうなずいた。
結衣香は恋することには積極的だが、それ以上の関係は求めていない。そのちぐはぐさは、結衣香の前の恋が関係している。そこまでは、間違いなさそうだ。
少しモヤモヤする感情を持て余しながら、都築はみことを見た。先ほどの発言からも、彼女は年齢以上に大人びているように感じる。
いや、もともと子どもというのは、大人の想像以上に、周りを良く見ているのかもしれない。
「心と体が、離れているか……」
その意味を考えながら、都築は気になっていたことをみことに聞いた。
「君も、そう感じることがある?」
しかし、その問いに少女は何も答えなかった。
古寺 正和、23歳。
実家が小さな洋食屋を営んでおり、調理専門学校を卒業して、今はその手伝いをしているという。
短く切り揃えられた髪や身なりが、料理人らしい清潔感を感じさせた。顔はイケメンとまでは言えないが、少し話しただけで、素朴で優しそうな人柄が感じられる。
こんな人と、将来お店を持つというのもいいかもしれない。結衣香は彼と話しながら、そんなことを考えていた。
派手さは無くとも、確かな幸せが、そこにはあるような気がする。しかし、自分自身をそのイメージの中に描くことが、どうしてもうまくできない。
「実は、俺には好きな人がいるんだ……」
しばらく話した後に、古寺はそう切り出した。その言葉をすんなりと受け入れて、結衣香は質問する。
「相手は、どんな人なんですか?」
「幼なじみだよ。今週末に、初デートする予定だったんだ」
その淡々と答える彼の様子に、結衣香の胸がきゅっと軋んだ。
その約束は、多分もう叶わない。
「付き合いが長いから、切り出すのが恥ずかしくってね。2人で遊んだことは何度かあったけど、今度のはデートだからって言って誘ったんだ。彼女は、いいよって言ってくれた。だから……」
結衣香の想像していた洋食店の中に、彼女のイメージが現れた。活発そうで、笑顔が可愛らしい人だ。言葉少ない彼の代わりに、お客さんと談笑しながら、一緒にお店を切り盛りしている。
彼女のことは、実際には何ひとつ知らない。結衣香の勝手な想像だった。しかし、そのイメージは妙にしっくりとして、変えようがないものに感じられた。
だから、会話のお礼を言いつつ、結衣香は古寺と別れた。
彼女は歩きながら、何もないこの部屋の天井を見上げた。目をつむると、幼い頃描いていた理想のイメージが目に浮かぶ。
それはもう、かなうことはない。
たとえ、珠をすべて集めて結衣香が生き返れたとしても……。




