ツタンカーメンの本来の王墓はアマルナにあった?
古代エジプトで一番有名な王とは誰か?
エジプト好きなら、大ピラミッドの建造者であるクフや、多くの建造物を残したラムセス2世を挙げる人もいることでしょう。
しかし、一般的にはやはりツタンカーメンということになるのでしょう。
彼を有名にした数々の副葬品が発見された墓KV62はルクソールにある王家の谷にあります。
この墓は非常に小さく、とてもエジプトを統治した王のものとは思えません。
これについては、彼の統治期間が10年弱と短かったために、王にふさわしい墓が用意できず、やむをえず貴族の墓が使用されたという内容の話がされます。
これが本当なら、彼の臣下は無能なうえに無礼極まりない奴らだと断言したくなりますが、とりあえずそれが本当の話だとして、今度はどのような理由でそれが起こったのかという疑問が起こります。
これについても、よく聞く話というものがあります。
ツタンカーメンがあまりにも若かったためというものがそれです。
これについては個人的には完全否定したいです。
王がまず若かったから工事に取り掛からなかったなどということは考えにくいからです。
なぜなら、王墓造営とは当時のエジプトの最高ランクに位置する国家プロジェクトだったのですから。
また治世年数がツタンカーメンの治世年数が短かったからという意見もありますが、彼の治世年数である9年よりも短い、またはそれほど変わりがない王であってもかなり大きな墓が王家の谷に造営されてます。
ということで、本来であれば、少なくても最終的にツタンカーメン王墓とされたKV62よりも大きな、それ相応の墓が王の死の時点で存在していなければなりません。
もちろん、こう考えるのは私が初めてと言うわけではなく、同じような考えをもった専門家が、王家の谷にあるその候補となる墓をいくつか挙げています。
まずは、ツタンカーメンの次の王となるアイの墓であるKV23。
さらに、アイの次の王でアクエンアテン一族を闇に葬ったとされるホルエムヘブの墓であるKV57こそがツタンカーメンの墓であると主張している学者もいます。
好き嫌いはありますが、ふたつともその話を聞いていると、なるほどと思わせるものがあります。
ただし、ではなぜそこを利用しなかったのかという疑問は残ります。
少なくても、どの程度の工事進捗状況であっても、最終的に彼の墓となるKV62より見栄えがするものになったでしょうから。
ということで、ここで自説を提示するわけですが、それが、今回のタイトルである「ツタンカーメンの本来の王墓はアマルナにあった」です。
もちろん、そう主張するのには、かなり問題点もあるのを承知しています。
承知のうえで主張することにします。
まず私がそう主張する理由として、まずアマルナのアクエンアテン王墓近くには王墓にふさわしいかない掘削が進んだ未完成墓が存在します。
もちろん、ツタンカーメンの治世の早い段階でアメン神を復活させたうえアマルナを放棄した事実がある以上、そのアテン神の聖地であるアマルナにツタンカーメン王墓が造営されていたと主張するのは困難であるという意見はあるでしょう。
しかし、それに反論できるだけの証拠というものがあります。
何か?
まず、ツタンカーメンが本当にアテン信仰をきっぱりと捨て去ったのかは、アテン神が描かれた副葬品から疑問が残ります。
そして、実はこちらを声高に主張したいのですが、ルクソールには王墓造営に携わる職人たちの村がありましたが、アマルナにも同様なものがありました。
そこでは、ツタンカーメンの名前入りの遺物が大量に発見されています。
その数は膨大で、そこで発見された王の名前が入った遺物の半分以上が彼にものです。
しかも、ツタンカーメンの改名前の名前であるツタンカーテンだけでなく、ツタンカーメンのものも発見されており、かなり長期間に活動していたと思われます。
これについては、ツタンカーメンが王墓解体工事に携わったことを示すものという可能性もありますが、実際にそうであるという証拠がない以上、ツタンカーメン王墓の造営に示す証拠であるという主張もできるでしょう。
最終的にアマルナに王墓造営をあきらめたツタンカーメンと臣下たちですが、ルクソールにあらたな王墓造営をする時間がないまま、王の埋葬をすることになり、王をあわただしくあの小さなKV62に王を埋葬したのではないかと。
そして、アクエンアテンやティイのルクソールへの再埋葬の時期も、アマルナでの自らの王墓造営をあきらめた時期だと考えます。
ということで、今回はここまで。