トトメス3世とハトシェプスト女王のあの話
トトメス3世とハトシェプスト女王のあの話。
一応簡単にその説明しておけば、古代エジプト第18王朝。
トトメス1世の娘でトトメス2世の妃であるハトシェプストが、夫の死後側室の子である次王トトメス3世が幼いことをいいことに摂政から王となり、好き放題やっていたが、成長したトトメス3世に排除された。
もちろんトトメス3世は彼女を排除しただけではおさまらず、彼女の記念建造物や多くの神殿に刻まれた彼女の名前や図像を傷つけ積年の恨みを晴らしたというもので、エジプトを旅行すれば、ルクソール東岸の観光地カルナック神殿でガイドに必ず聞かされる話となります。
今回はこれについて。
最初に言っておけば、私はこの話に批判的な立場にあります。
当然これについて書き出したら収拾がつかなくなるのは最初からわかっているので、今回は「赤い聖堂」に関するものに絞って書きたいと思います。
では、いきましょう。
まずは肝心の「赤い聖堂」について。
これはハトシェプスト女王がカルナックの神殿域に建てた赤色珪岩でつくられた建造物です。
パッケージツアーを利用してエジプト旅行をした人の大部分はこの聖堂を見ていないと思いますが、個人的にはこれは「ルクソールに行ったら見るべきもの」のひとつだと思います。
理由。
歴史的価値以前にとにかく美しい。
この建物に現代人が与えた名である「赤い聖堂」の由来にもなった珪岩の「赤」と基礎部分に使われた閃緑岩の「黒」のコントラストは、塗装された色が落ち砂岩本来の色がむき出しになったカルナックの他の建造物とは一線を画します。
現在は別料金を支払わないと入れない「野外博物館」内に復元展示されていますが、たいしたお金でもないのでカルナック神殿内で放牧(自由時間)されたときには是非見ていただきたいものです。
ついでに、「赤の聖堂」がある野外博物館についても少し書いておきます。
この野外博物館はそれ以外にも復元された多数の小さな祠や、トトメス2世やトトメス4世がつくった塔門や列柱廊もあります。
エジプトのある多くの博物館の展示物同様説明書きはありませんので、ある程度の予習は必要かもしれませんが、「赤い聖堂」をはじめとして、ここにある有名な建造物についてはガイドブックにも軽く載っていますので参考にしてください。
せっかくですから、それ以外のものでおすすめしたいものを三つ挙げておきます。
ひとつはアクエンアテンが装飾した第3塔門。
もちろん例によって図像や名前は削り落とされていますが、彼の名前の後ろにつく独特の言い回しによってそれがアクエンアテンのものだとわかります。
アテン神殿の装飾とは違い、図像が伝統的なモチーフというのがおもしろいです。
次は入ってすぐにある奇妙な建物。
これは比較的最近復元されたアメンヘテプ2世のアラバスター製の祠なのですが、実はこれをラムセス2世がステラとして分解再利用していました。
当然ながら、復元されたそこにその痕跡は見ることができます。
「婚姻ステラ」
有名な「カディシュの戦い」後、歴史上初めてとも言われる平和条約をエジプトと締結したヒッタイトの王女を妃にしたラムセス2世が彼女の輿入れの様子を記録したものとされるのが「婚姻ステラ」と呼ばれるもので、有名なのはアブシンベル神殿にあるものです。
というか、大部分の人はラムセス2世の婚姻ステラはアブシンベルにしかないと思っているので、カルナックで同様のものが見られるというこの情報は自慢できる小ネタでもあります。
具体的にどこにというところを書けば……。
祠に入ったところで天井を見上げ、カルトゥーシュを頼りに丹念に探すと、このヒッタイト王女が妃になってから得た「マートホルネフェルラー」という名を見ることができます。
興味のある方はお試しあれ。
おすすめの最後のものは展示とは少々違いますが、もしかしたら一番興味を持たれるものかもしれません。
墓や博物館以外では簡単に出会うことができないツタンカーメンの名前。
野外博物館隣の広場。
少し丁寧に探す必要はありますが、そこで彼の名前入りのブロックを見ることができます。
ついでに書いてしまえば、カルナック神殿西側にあるブロック置き場でもツタンカーメンの名前入りブロックを見つけることができるほか、カルナック・アメン神殿域からムト神殿へと延びる参道に並ぶスフィンクスにも彼の名前は見ることができます。
残念ながらどこもパッケージツアーでは絶対にいきませんので、時間が許せば冒険のつもりで寄り道してみるというのはどうでしょうか。
内容的には面白かったとは思いますが長々とコースアウトしてしました。
そろそろ本題に戻りましょう。
復元された「赤い聖堂」には多くのレリーフが刻まれているのですが、これが実に興味深い。
なぜなら、ハトシェプスト女王単独のものや、トトメス3世とともに描かれているものを含めて多くの名前や図像が残ります。
消されもせず。
トトメス3世ほどの権力者がその気があるのなら、その威光を示す場所であるカルナック神殿に建つ建造物に忌まわしき人物の図像や名前をあれだけ堂々と残ることなどないです。
例の話を推す専門家が整合性をつけるためにそれらしい意見を述べているのですが、それが正しいのかは怪しい。
いくつか根拠を挙げておけば、再利用されたのであれば誰がどのようにと説明しなければならないし、それによってハトシェプスト女王の名前や図像が消されなかったことが証明されるのかという問題が起きます。
ただし、この祠が解体され再利用されたことについては私も同意します。
私の意見を説明するならば、再利用したのはアメンヘテプ3世。
そして、利用方法は分解して第3塔門の詰め物にした。
つまり、それまでは今と同じ状態で「赤い聖堂」は残っていた。
ついでにいえば、あれだけのものを放っておくはずがないラムセス2世の名前が「赤の聖堂」にまったく見当たらないのは彼の時代には「赤の聖堂」が存在しなかったことを意味すると思われます。
これはこの石材が彼の目に触れぬ場所にあった、つまり塔門の詰め物にされていたこと証拠になりそうです。
そもそも名前の書き換えが元の所有者を抹殺する目的だというこの話が事実なら、ラムセス2世はトトメス3世やアメンヘテプ3世をはじめとした多くの先達を歴史から抹殺しようとしていたということになります。
まあ、そのような意図などなどなく、自己顕示欲を満足させるための手っ取り早く再利用したというがその理由として妥当なものでしょう。
ここで触れたアメンヘテプ3世が塔門の詰め物にした話を詳しくするにはあの一帯の推移について説明をする必要があるのですが、それは別の機会にすることにします。
これ、実は非常におもしろいですし、個人的によくやった部分でもありますのでいつかやりたいです。
ということで、大部分は脱線話でしたが、今回はここまで。




