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「実はな、先日、領結界を張った後に、過労で床に臥した者が一人おるのだ」
円卓を挟んで蒼杜の向かいに座る初老の男は、重苦しい表情と口調で言った。「四十に入ったばかりの者ぞ。大陸の者ならいざ知らず、ルウの民が働き盛りで床に臥すなど信じられぬこと。真、領結界は過酷な業よ」
蒼杜は、そのようですね、と相槌を打つ。領結界は大陸に伝わっていない魔術なので、確かな同調はしかねた。
「医事者には、お診せになりましたか」
「なに、それしきのことで、そなたらの手は煩わせぬ。曲がりなりにもルウの民ぞ。一日で回復した」
愚痴なのか自慢なのか図りかねる。そうですか、とだけ蒼杜は言う。
男は、ルウのラル家とその管轄である皇領アル地区を、今現在、必死に支えている。六名の老の一人だ。
一昨年、碧界との交信が実現し、栩麗琇那の無事も知れ、大君は即時、正式に依頼してきた。異世界と繋がる出入口の管理をするようにと。
ルウの民の中には異論が出たようだ。が、交信を可能にする首飾りは蒼杜の私物だった。又、初めてシェリフが送って来た便りには〝蒼杜・マーニュ・アリク氏へ〟と書かれていた。
加えて、ルウの民も含めた全人類の中で、碧界の事物を最も理解できるのは知神の申し子だ、と大君は論説をぶったらしい。
断る理由も無く、蒼杜は世界間の窓口役を引き受けた。異世界からの手紙を受け取るのも、異世界へ連絡するのも、全て蒼杜を通すこととなった。
やり取りを希望する者は、リィリ共和国北方に在る小さな医療所へやって来る。
今のところ、それはルウのラル家の者ばかり。当然といえば当然のことだ。
「皇子は、お元気であらせられるだろうか」
老は不安そうに続けた。「邪界の悪しき大気に長々と蝕まれ、御存命とはいえ、お身体具合はいか程のものか。一刻も早くお戻りになり領結界を張っていただきたいのだが、お一人で張れるかが気懸かりだ。御健康状態は如何かと、それとなく文に添えておいてくれぬか」
「承知しました」
蒼杜は、机上の書類に目をやりつつ言った。「今日中に、記録共々あちらにお送りします」
「うむ。頼む」
「ですが、皇子はあちらで、難解にして高度な学業に専念されているとか。お返事の確約はできませんこと、御理解ください」
「うむ……致し方あるまい」
老は歯がゆそうな顔をしたが、これ以上を単なる仲介役に望んでも詮無いと悟ったか、辞去する。
空になった湯呑を厨房へ運びながら、蒼杜は緩く首を振った。
栩麗琇那が学問の為に碧界にとどまっているとは思えない。
学ぶという行為は、生涯するものだ。究めたいなら尚更で、大学なる最高位の学舎を卒業するまでと区切ること自体、その世界を立ち去る者には意味が無い。心から勉学をしたいと考えているなら、碧界に骨をうずめると言い出して然るべきだ。
大学を卒業したらと言うのは、何か別の感情にケリをつける気でいるからだろう。その何かに見当をつけるのは、比較的容易だ。栩麗琇那はこれまで、独りで生きていたわけがないから。
しかし果たして、卒業を機に切り捨てられる類なのか……
〈吾が君〉
氷の精霊女王の声が響いた。〈枸紗名が参っております〉
大君が? と聞き返し、蒼杜は厨房から広間へ戻る。ルウの民最高峰の姿は無く、視線を巡らせると、すうと玄関扉が開いた。窺うように、漆黒の髪の美丈夫が顔を見せる。
「老は皆、帰ったかな」
「お帰りになりましたよ」
蒼杜はほんの少し失笑してしまう。「何処からか見ていたのではないんですか」
「小津が去ったのは見た。されど、他が残っている可能性があろう」
安堵したような顔で大君は椅子に腰を下ろし、続けた。「わたしの所には二人以上で連れ立って来るのだ。主家の根気強さには頭が下がる」
蒼杜は、再び厨房へ足を向けながら言った。
「御健在を知りつつこの先二年半も手をこまねくは、ラル家のみならずルウ全体の損失。ひいては大陸に事態起こりし時、帝不在は世界にとっても大いなる痛手――といった辺りですか」
枸紗名は問うた。
「メイフェスにシャトリを寄越しておったのか」
〈主お得意の推測であろう。吾はここ四年ばかり大陸から出ておらぬ〉
冰清玉潤が的確に応じると、枸紗名は可笑しそうに述べた。
「シャトリ、すっかり守護が板についたな。まぁ、ヴィンラ・タイディアに居た頃から子守役みたいなものだったが」
〈今も子守のようなものじゃ〉
嘆息の冷気を辺りにまいて冰清が言う。〈吾がおらなんだら、主は万年病持ちのハイ・エストになりかねぬ。仕方の無い青二才じゃ〉
蒼杜は肩をすくめて茶を淹れる。広間から、枸紗名の甘い低声が笑った。
「されば、千歳の所におったのは、老が来ていたので、守護を任せて一服つけておったのかな」
〈まぁ、そのようなものだ。連中の話は誰も毎度毎度似たり寄ったりで面白うない。いい加減飽きてしもうたので、守護者を豪語しておる輩なのを幸い、吾は抜け出す〉
「ははは。そうかそうか。解る解る」
大君は手を叩いて言った。「お蔭でわたしは、かち合わずに済んだ」
蒼杜は、茶を乗せた盆を手に広間へ戻った。
「大君は、栩麗琇那の意思に準じるお考えなんですね」
「帰って来ると言うのだから、それで良いではないか?」
言って、枸紗名は表情を改めた。「いや、今宵は、それをちと話してみようと、こちらにも足をのばしたのだ」
ここ大陸は只今正午過ぎだが、ルウの民の住まうメイフェス・コートは日付の変わった真夜中だ。
一日の勤めを終え、就寝前に訪れたのだろう大君は茶を一口含んだ。優雅な所作で椅子の背にもたれる。
「智に名高きユタ・カーの申し子よ、栩麗琇那は翠界に戻って来るべきなのだろうか」
蒼杜は苦笑した。向かいに腰かけ、応じる。
「翠界の誉れ高き守護者、ルウを束ねし大君のお考えと同じかと」
本当のところ、束ねの役目は皇帝にあり、大君は最終権限を持つのみらしいが。帝が不在の現在は、恐らく全てが大君の双肩にかかっている。
枸紗名は、少年のように不貞腐れた顔をした。あい分かった、と片手をひと振りする。
「蒼杜・マーニュ・アリクの意見は如何に」
「わたしは謝罪が済んでおりませんので、願わくはお目にかかりたいです」
ふぅむ、と一見二十代前半の美サージは顎を撫でる。蒼杜は言を継いだ。「それは、可能ならば、ひそやかに」
ふむ、と枸紗名は口の端を上げる。蒼杜は更に続けた。
「直に本意を伺い、場合によっては御帰還の件を無かったことに謀るのもやぶさかではありません」
くっくっく、と枸紗名は喉を鳴らした。
「そなたなら、なせるであろうな」
「ですが、取り敢えず、栩麗琇那は帰還を決断されているようです」
蒼杜は卓上で両手を組んだ。「なれば、老方と同意見に帰結します」
「……つまりは、知神及びルウの隠居の結論とも同じくなる、か」
言ってから、枸紗名は茶をあおる。蒼杜は、茶托に椀が触れる音を合図に、問うた。
「千歳の父御としてのお考えは如何に」
「わたしの引っ掛かりはソレだ」
枸紗名は真っ直ぐな黒髪を、無造作にかき上げた。「腹違いの姉の子だったこともあるし、わたしが栩麗琇那とまみえたのは一度きりだ。だが血の繋がった甥には変わりない。千歳も、会ったことさえ無いアレを従兄殿と呼ぶ」
「はい」
「しかして、今の栩麗琇那にはそれよりも余程深く、父よ兄よと呼べる相手が居よう」
「シェリフの便りによれば、加賀なる一族の養子になっているようです」
「されば、もはやあ奴の家族は碧界に在り。事実、翠界にラル家直系は皆無。翠界に在るは、両親や祖先の遺骨と重い肩書だけぞ」
枸紗名は、物憂げに卓の一点を見つめた。「そう思うとなぁ、栩麗琇那はまるでルウの血に縛されているが為に戻って来ると感じられる。日夜故郷に焦がれ平和を懸念しているに違いないとラルの老は熱弁を奮うが、実状は、単に呪縛に掛かっているだけではないのか」
黙って聞いている傍らの守護精霊が、同意を示すように宙で足を組む。氷の精だのに情に厚いから、この件も親身に考えているのだろう。
「ラル家の方々には、どう仰っているのですか」
「正直に、わたしの本音を白状しておる」
大君は真顔で言った。「邪気溢れる世界になど怖いので行きとうない、とな」
吹き出しそうになって、蒼杜は口許を覆う。
困っておるのだ、と枸紗名は口を尖らせた。
「老達は、大君が出向かねば話にならぬと言う。しかしだ、別に老が赴いても構わぬと思わぬか?」
〝大陸の守護を司りしルウの大君が、一介の医事者に相談事〟という、おかしな構図に気づいたが、蒼杜は真面目に答えた。
「老方の体力と術力では、碧界の大気に耐えられますかどうか……よしんば、出向いて、否、と言われれば、老方の立場では引き下がるしかありますまい。ですが、大君のお言葉となれば、仰るように、栩麗琇那はルウの民として帰郷を決断された御様子、従わざるを得ないかと」
「うーむ。又しても同じところに到達してしまうか……嫌だなぁ。物珍しがっている千歳に代わってやりたいが、大事な我が子を邪気まみれの地へ送り出すわけにはいかぬし……」
枸紗名は両腕を組み、長めの髪を微かに揺らした。「そなたの片割れは、この事態をどう見ておろう?」
「事後処理の手筈は幾通りか蓄えているようです」
自分そっくりの姿と頭脳を持つという不可思議な存在に、蒼杜は目を細めた。「栩麗琇那が中等学校なる学舎に通い始めた頃に、こうなると予測していたようで」
枸紗名は、口を曲げた。
「では、後はわたしが高台から飛び降りる踏ん切りをつけるだけではないか。それを先に申せば良いものを」
「わたしも、ルウ最高峰のお考えを知っておきたかったので」
「ほぅ。知ったこれより、何かするつもりかな?」
「わたしができることはシェリフと同じです」
蒼杜は曖昧に微笑んだ。「栩麗琇那の件が済んでも、世界間の出入口は残ります。いずれにしろ二人で守り役を続けていくしかないと、先日確かめ合いました」
「それ以前に、そなたの方もこうなることを見越し、わたしが碧界に行くであろうことを俎上に乗せていたのだろう?」
「一つの仮定として」
「ぬかしおる」
渋味のある笑みを枸紗名は漂わせた。「そなたらの掌の上で踊るなら、せいぜい華麗に舞わせておくれ」
静かに、蒼杜は黙礼した。




