3
深夜の小さな浜辺は静かだった。
波音と砂を踏むささやかな音だけが、栩麗琇那の耳に満ちている。恐らくシェリフが聞き取っている物音もそれだけだろう。さほど広くない海岸の両端から、互いに歩を進め、首飾りを探しているところだ。
片手に持った細い筒の先が、砂地を円形に照らし出す。時折、貝殻を煌めかせたり、蟹の横断を捉えたり、木切れを浮かび上がらせた。
栩麗琇那はこの懐中デントウなる照明具に驚いたが、シェリフは初めて体験した瞬間移動に驚嘆の言を洩らしていた。
『瞬発的に莫大なえねるぎーを出して空間を歪め、出来た隙間を通過しているんだろうな』
そう解釈し、一応、シェリフは納得したような顔をした。
栩麗琇那の方は、つまみを押しただけで火以外の明かりが灯った筒の仕組を、自分なりに解析できずにいる。何やらすっきりできない。
何故、筒の脇に付いたつまみを動かすだけで、その先の硝子球が明るくなったりならなかったりするのだろう。筒は些少の重みがある。中を覗いてみたかった。自分でも意外だったが、今この時は、首飾りより、筒に気持ちが向いている。早く海岸を調べ終え、シェリフに筒の中身を見せて欲しいと頼みたかった。
少年二人の距離は徐々に縮まり、丸い明かりが接した。一際明るくなった光の輪が、最後に海岸の中央付近をひと撫でする。
シェリフは、海に背を向け、岩壁に懐中デントウを向けた。
壁は浜を囲むようにそそり立っている。特に何かを確かめたいわけではないのか、少年はスッスと丸い光を左右に動かしながら言った。
「やっぱり一度来るだけで充分だったみたいだけど、僕は瞬間移動を体感できたから、一概にそうは言えないな」
話を振ってもらえた気分で、栩麗琇那は応じた。
「俺も、昼間だったら懐中デントウが使えなかったから、来て良かったと思ってる」
二人は夕食後に来たのだが、只今の日本は午前三時になる。借り物を返すには非常識な時間だし、シェリフも、君を発見した時に首飾りを見ていないかミツノ婦人に訊いておく必要がある、と言った。だから、時間を改めて今一度来るつもりだ。
懐中デントウが気に入ったのかい、とシェリフが岩から栩麗琇那の手元に明かりを移した。
中が気になる、と栩麗琇那は正直に告げた。筒は、軽く振ると、かたかた音がする。何かからくりが入っているのか。
疑問をそのまま口にすると、家に帰ったら開けて見てみな、とシェリフは筒の底をつついた。多分、又からくりが出て来る。少年はそう言を継いで、闇の中で白い歯をこぼした。
「じゃ、帰るか」
栩麗琇那が言うと、そうだね、と応じながら、シェリフは暗い海へ目をやった。
「んー? 君は、古代の方法とやらで、どうして咄嗟にこの場所へ来たんだろう」
突然の質問だったが、栩麗琇那は察した。
「海が引っ掛かる?」
「人や動物を避けて移動するならば、水辺って結構危険な場所だよな」
「そう、対の輪を置く時も普通は水辺を避ける。古代呪文での移動は思念だけに頼るから尚更だ。あの時も、俺はそうしてた」
栩麗琇那は、懐中デントウのつまみを動かしながら言った。「ここは、俺が知ってる中で一番人けが無い所によく似てたんだ。飛ぶ練習をしていた頃に見つけた、大陸のと或る場所に」
見つけてからは、上手く飛行できない苦しみを、そこで密かに癒していた。上空から地形を見ると、とても常人は踏み込めない場所だった。
そこは、皇子だけの特別な浜になった。人が入っていない所為か美しい砂地が広がっていて、岩壁を背にすればただただ碧い海が見渡せた。栩麗琇那は一人、海を見ながらよく悔し泣きをした。誰も来ない、見られないという安心が、あそこには保証されていたのだ。
「こういうのを奇遇って言うんだろうな」
シェリフはこちらを見て、口の端を上げた。「在りそうなようで、こういう地形は少ない。たまたま言葉が通じる国に、数少ないこんな所が在ったんだ。君は不運なようで、ツイてる面もある。このノリで、エドモンが首飾りごとオーモンを押さえてくれるといいな。僕もさっさと実験ができる」
デントウの明滅と一緒にほろ苦い思い出を浮き沈みさせていた栩麗琇那は、明かりを消した。
「実験って、俺が帰れるかどうかの?」
「君には不服な表現かもしれないけど、それは付随してくる結果だ。僕の興味は、首飾りが確かに媒体として作用し、空間の穴が広がるかどうかに尽きる」
シェリフにとって、栩麗琇那は実験台なのだ。向こうの世界に送れるかどうかが判るなら、モノは栩麗琇那でなくてもいいのだろう。
間接的にそう言われたようなものだったが、皇子は文句を口に出来る立場ではなかった。
首飾りのことを、栩麗琇那はすっかり忘れていたのだから。それが帰還に必要かもしれないとは、考えついたとしても、相当の時間を要しただろう。早々に気づいたというのに盗まれていたのだし、途方に暮れるしかなかった筈だ。頼りはこの天才だけだった。
エドモンがめーるという便りを送って来ているかもしれないとのことで、栩麗琇那は結界を寸時解いてシェリフの手を取る。二人は、日の出が近づく日本からフランスへ発った。
八月五日、前日の夕食同様に、栩麗琇那はシェリフと客間で朝食をとっていた。
大気に邪気が蔓延している所為か、この世界の食事はあまり美味ではない。父の綺沙也は大層料理が下手で、宮殿付きの料理人が休暇を取る年末年始になると、栩麗琇那は父製の変てこりんな味のする物を食べさせられていた。その味加減に少々似ていた。
昨夜、エドモンという使用人からの連絡は届いていなかった。今日は食後に今一度確認して、それから日本に行こうとシェリフは言っている。栩麗琇那には勿論、否やは無い。
食事が終わった頃、機を見計らったかのように、イザベルが二杯目の珈琲を運んで来た。少年二人の前に新しいカップを置くと、ワゴンを押して速やかに扉へ向かう。
シェリフが陶器の白い持ち手に手をかけ、栩麗琇那も自分のカップに手をのばした。メイドが立ち去るのを横に見ながら、一口含む。苦かった。故郷にも珈琲は在るが、成人前の皇子は、果汁や茶を飲むことの方が多かった。
慣れない苦さに、栩麗琇那は脇に置かれた銀の容器を取る。小さな小さな代物で、申し訳程度に牛乳が入っている。もっとたくさん入れたいのだが、器は客の分一つきりしか無い。しょうがないので、それだけで我慢する。
匙でかき混ぜていると、扉が軽く叩かれた。イザベルはまだ部屋に居て、ワゴンを急いで横手に移す。シェリフは顔を向けて移動を見届け、どうぞ、という意味合いだろう、フランス語を発した。扉がすいっと開く。
カップが、カチッと音を響かせた。栩麗琇那は慌てて匙を外に出す。
三十そこそこの男が、響きのいい低声で何かフランス語を言った。シェリフより色の濃い、銀の髪と緑の目をしている。メイドが頭を下げたところからして、屋敷の主人だろう。つまりは、シェリフの父親。
客の方は一瞥しただけで、発言は息子のみに向けられたようだった。それでも栩麗琇那は、震える手を卓の下に隠して握り締めた。
シェリフは、無言で席を立った。メイドを先に促してから、自分も部屋を出て行く。
しばし小さく話し声が聞こえた後、しんとなった。
客間だけでなく、廊下だけでなく、広大な庭も含め、この豪邸全てがひしひしとした静寂に包まれている錯覚があった。心細さに身を固め、栩麗琇那はシェリフが戻って来るまで、そのまま動けなかった。
叩くのと同時に扉が開き、シェリフが一人で入って来た。栩麗琇那は、一日の終わりに感じるべき、安堵と疲労に襲われた。
気分直しのつもりで珈琲を飲む。既に生ぬるく、牛乳の臭いが鼻についた。味もへったくれもない。
シェリフはカップに何も混ぜていなかったが、中身の温度はさほど変わらないだろう。同じように一口飲むと、やはりすっきりしない顔になった。それは、飲んだ物の所為だけではなく、これから口にする内容の所為もあったかもしれない。
「例の写真を送信してきた」
どうやらエドモンは泥棒メイドを捕まえたらしい。しかし――
「首飾り、持ってなかったのか」
「取り敢えず、ミツノ婦人に見かけなかったか訊く必要が無くなった。鎖だけ、売った先で見つけたから」
「それって――先に付いてた緑石を外されてしまったってこと?」
「そういうこと」
シェリフは中身の残っているカップを中央に押しやった。「よっぽど曰く付きとして知られている品物にはそんなことしないけど、二流品なら分解した方が足が付きにくい」
「……分、解……」
栩麗琇那は間の抜けた口ぶりで繰り返してしまう。シェリフは苦笑気味の笑みを見せた。
「まぁ、昨夜の懐中電灯ほどにはバラバラにされないと思う」
台詞には冗談の雰囲気があったが、栩麗琇那は反応できずに沈黙する。
あの首飾りは、帰還の為に必要かもしれないし、必要で無くても、皇子は持ち帰らなければならない物だ。私物ではなく、知り合ったばかりだった他人の物。しかも、持ち主にとっては多分、母親と呼べる人の、ただ一つの形見。
返すのは、鎖だけでなく、完全な形としてが当然だ。
その心理を察しているだろうに、シェリフは告げた。
「午後には、エドモンが鎖を持って一旦戻って来る。鎖だけで穴が開くかどうか、試そう」
「石も見つかってからでないと、俺は――」
「あのね、鎖だけで帰れるとしたら、また来ることも可能なんだ。君はともかく帰って、ありのままを説明すればいい。蒼杜にあわせる顔が無いって言うなら、会わなきゃいいのさ。石が見つかってから、きちんと返せば済む。大体、こんな事情を抱えた相手に、返却が少々遅れたぐらいで憤る奴が居るなら、そっちが間違ってる」
「……うん」
良心の呵責があったが、栩麗琇那はシェリフの言に則するしかない一面があった。ルウの皇帝としての務めを、一日も早く始めなければならない……
シェリフは卓上で両手を組むと、呟くように言った。
「問題は、鎖だけだと駄目だった場合だ」
どきんとして、栩麗琇那は向かいを見る。
シェリフは、やや乱暴に髪をかき上げた。
「何とか石を取り戻せても、流して行く過程で石や周りを加工されて、媒体の効力を消されていたら困る。僕の仮説が正しかったのかどうかさえ判らなくなる。あの写真では二次元状態しか判らないから、完全な複製品を作るのはとても難しい。どうしようもなかったら、試みるしかないけど」
一言発せられる毎に、心に灯っていた希望の火が萎んでいく。栩麗琇那は知らず、己が身体を抱き込んだ。
シェリフは、ふと小首を傾げた。
「そういえば、君、僕の父さんに怯えてたな。父さんも気にしてたよ、怖い顔してたかなって」
些少のためらいがあったが、栩麗琇那は打ち明けた。
「一昨日、あの部屋を逃げ出す寸前……殺気を滲ませていたのは、君の父上だったみたいだ」
少年は鼻を鳴らした。片手で頬杖をつきつつ言う。
「気取られるなんて父さんもまだまだってコトかな」
「……その……もう一人もそうだった」
「あれ、エドモンも察知されてたのか。じゃ、どっちかって言うと、君を褒めるべきだな」
栩麗琇那は卓の一点を見つめる。シェリフの父とエドモンといえば、屋敷の主と腕利きの人材。二人には、間接的に世話になっている。とはいえ、殺気を向けられた恐怖も拭いきれない。心中、複雑だ。
シェリフは少しだけ、目を眇めた。
「メイドに限らず、君、ちょっとした対人恐怖症になってるな。軽度の、心的外傷後すとれす障害ってヤツだ」
よく解らなかったこともあって、皇子は沈黙を続ける。天才児は、卓上に両手をついて立ち上がった。「このテの傷は時間と環境にしか治せない。当初の予定でもあったし、日本へ観光に行くとしよう」




