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栩麗琇那の月曜日三講義目は、モグリで受けている経済学である。
十月まで、咲子と共通に受けているのはこの講義だけだった。だが、例の契約をした為、同じ講義は現在三つに増えている。この後の教育学もその一つだった。
次も一緒の教室に行くのだが、栩麗琇那と咲子が並んで歩くのは帰りの時ぐらいだ。ところが今日は、咲子は同じ学科の友人と別れ、こちらにカッカッと靴音を響かせて来た。
「ちょーっといいかしら、加賀君」
栩麗琇那は立ち上がりつつ、無言で疑似恋人を見た。視線を受け、咲子は口紅を塗った口を開く。「どうなってるの、貴方達って」
言わんとするところが解りはしたが、それにしても出し抜けだ。栩麗琇那は眉を上げ、応じるまで間を要した。
「どうと訊かれても、質問の意図が解らないな」
「わたし、今朝、加賀琴巳ちゃんと話したのよ」
名前を耳にした瞬間、動揺し、それを隠せなかった。出かかっていた出入口の角に、強か肩をぶつける。声はあげず、栩麗琇那は打ちつけた肩に手をやった。教室を出て、痛む箇所をさすりながら咲子に目を向ける。
咲子は、上目づかいに見返してきた。
「やぁーっぱり、まだ好きなのね。名前だけで強烈な反応だこと」
「たまたまぶつかっただけだ」
「早口になってる」
咲子はバインダノートを小脇に抱え、わけ解んないわ、と言った。「貴方達、喧嘩別れじゃないでしょ? 琴巳ちゃん、まだ加賀君のコト好きよ? で、加賀君も琴巳ちゃんが好き。わたし、加賀君がフられたんだと思ってたのに、逆みたいね、びっくりしちゃった。琴巳ちゃんは、貴男がホントに好きなコと居ると思ってる。どうなってるの、さっぱりだわ」
栩麗琇那は視線を前に向けた。手を放した肩が、速い鼓動に合わせてずくずく疼く。
「決めつけるなと、何度も言ってる」
「琴巳ちゃん、いーい男と待ち合わせてたわよ?」
思わず目を戻してしまった。見られた咲子は半眼を閉じる。「嘘じゃないわよ。タッパが加賀君と同じぐらいあったかな。それだけでデートする気になっちゃったのかもね」
「コトミはそんな軽はずみなことはしない」
投げるように言って、栩麗琇那は足を速める。名前を口にしただけで、ずきっと肩が痛んだ。咲子はカカッ、とヒールを響かせながら後に続いた。
「そうね、そうやって琴巳ちゃんをよく解ってるのよね、加賀君――これはわたしの決めつけじゃないわ、事実よ――貴男、ずっとずっとあの子のことしか考えてない。今だってそうでしょっ?」
ぐいっと咲子は袖を引いてきた。「今ならまだ間に合う。取り戻せる。今日のカレとは始めたばかりだったみたいだもの――」
「分かった」
栩麗琇那は、立ち止まった。「それだけ聞けば充分だ。手を放せ」
咲子はするっと手を放した。腕に掛かったショールを、肩に掛け直す。
「ふふ。残念だけど、契約社員は簡単に解雇されちゃうのよね。ま、頑張って、また仲良く一緒に登校して」
「何を言ってる。退職したいならやむを得ないが、解雇はしない」
栩麗琇那は袖を正すついでに、肩を押さえた。手の震えも同時に抑え込む。「よりを戻す気は無い。彼女が新しく男を見つけたなら重畳だ」
「……何を言ってるって、こっちの台詞よ……」
咲子は得体の知れないモノを見る目をした。「琴巳ちゃん、加賀君のコトちょっと話しただけで、泣きそうだったわよ……?」
「確かに、俺の方がフったからだろう」
歩き出した栩麗琇那は、肩から胸に激痛を感じた。
望んでいたことなのに。琴巳を包んでくれる人物が現れて欲しいと、切実に思っていた。しかし、泣きながらその人物と付き合う彼女を思うと、身を切られる心地がする。
笑っていてほしいんだ、コトミ。俺は最近、コトミの泣き顔しか浮かんでこない。極上の笑顔を瞼に焼き付けて、この世界から消えたいのに。別の奴に笑いかけてる、明るい顔を見てから……
ソンナノ見タクナイ――
深淵で、本音中の本音が声をあげた。
が、ルウの皇子は心に栓をした。振り返り、半ば茫然としている咲子に声をかける。
「授業始まるぞ」
栩麗琇那は事務的に告げた。「教育学はレポートや試験よりも出席重視だろ。本人が出ないことにはサポートのしようがない」
「わたし、退職する」
ショールの端をくるりと振ると、咲子は首に巻き掛けた。「風の悪戯だったけど、琴巳ちゃんと話しちゃったもの。加賀君と一緒のトコ見せたくないわ。可哀相」
「…………」
「十分も話さなかったけど、可愛くて妹みたいな気がしちゃった。機会があったらまた話そって約束したの。次に会った時も落ち込んでるようなら言ってあげなきゃ、別れて良かったのよ、って」
言葉の刃に、栩麗琇那は鋭く胸をえぐられた。
僅かに目を落とし、皇子は感情のこもらない台詞を紡いだ。
「それでいい」
とったばかりの経済学のノートを出し、栩麗琇那は放った。「解約手形だ。後期は追試にならないことを祈る」
受け取った咲子が眉をひそめたのを最後に見て、栩麗琇那は背を向けた。四講義目の予定が無くなり、校舎を出る。
教育学の講義が行われる教室の窓から、咲子は淡い茶色の髪を見た。スクールバスの中に消えて行く姿に、独り言を洩らす。
「どうなってるのよ……」
孤独感をいだき、栩麗琇那は車窓から流れる景色を目に映していた。
誰も居なくなってしまった。傍に居てくれる人が。
窓硝子に、隣に座る見知らぬ女性が映っている。もはや、咲子をこうして見ることもないだろう。
咲子でもいいから、隣に居て欲しくなった。彼女の話も、思えば風変わりで面白かった。落ち着かない心を、少し紛らせてくれていた。
これから、どうするか……帰る度に誰かに声をかけ、途中まで歩いてもらうしかないか……
はっきり言って、気乗りがしなかった。そもそも柄じゃない。
琴巳は未だ栩麗琇那の嘘を真に受けているようだから、今後はとにかく、一人のところを見られないようにして切り抜けよう。
そうしよう、と心の内で頷く。
スクールバスは歩道橋の下を通り過ぎ、少し行った停車地で停まった。プシュー、と空気の抜ける音と共にドアが開く。隣の娘も席を立ち、栩麗琇那はスムーズに降りられた。今日は、日曜にあった文化祭の振替休日だから、琴巳の姿を捜す必要は無い。歩道に出て、家路へ足を向ける。
ふと前方に目をやった栩麗琇那は、足を射抜かれたように立ち止まった。
忘れようのない後ろ姿が、先を歩いている。見覚えのあるトートバッグを、見覚えのあるコートを着た肩に掛け……細い足が動く度に、綺麗に編み込んだ漆黒の髪の先が、背の中程で揺れている。
そして、栩麗琇那は足の他に胸も射抜かれた錯覚に陥っていた。華奢な姿と手をつないで、自分以外が歩いている。短髪で長身。服装や肩幅からしても、男。
先程打ちつけた肩が痛んだ。
栩麗琇那は、ふらりと踵を返した。当ても無く歩き出す。
消えてしまいたい……
そのまま、のろのろと恋人達から遠ざかった。何歩か歩いた後に、ふっと姿を消す。
さり気なく青年の後を追っていた女子大生が、声をあげた。
「あれ――?」
「ちょ、ちょっと、彼、何処!?」
今一人が走り寄って問う。先の娘はぼうとした口ぶりで応じた。
「珍しく一人だったから……声かけてみようかと……」
「あたしも……思ったんだけど……」
二人は顔を見合わせる。
「……一緒に白昼夢見たってこと……?」
「そんな馬鹿な――」
彼女達には、それ以上の説明がつけられなかった。加賀琇那が瞬間移動を会得しているなど、正気の沙汰では思いつけない。
二人の女子大生が茫然としている遥か後方で、漆黒の髪の少女は己が横を走ったスクールバスに気がついた。僅かに身を固くして、うつむく。
隣の少年は、無言で振り返った。微かに唇を噛んで、少女に目を落とす。
「居ないよ」
少女は肩をすくめた。
「っご、ごめん、なさい」
「あぁ」
少年は穏やかな顔になった。「俺は、加賀が離れずにいてくれただけで充分だ」
少女は、気持ち寄り添った。寄り添われた少年は、つと鼻を動かした。
「加賀って、いい匂いがする。今まで嗅いだことない匂いだけど、シャンプー? 香水?」
少女はぽっと頬を染め、はにかみ顔で応えた。
「多分、石鹸の匂い。ハーブ製で防虫効果もあるらしくて、箪笥とかにも入れてるから」
「へぇ。普通の防虫剤よか、ずっといいな」
少年が言うと、少女は笑顔を見せた。
「何か嬉し。友達は、好きって言ってくれたんだけど、公士には、女臭い、って一言で片づけられちゃった。男の人はあんまり好きじゃない臭いなのかな、って思ってた」
くっ、と少年は喉を鳴らした。
「コーシは本心を言ってない。俺も姉貴がいたら同じ反応をしたかもな」
少女は少年を見上げ、ナルホド、と笑みを浮かべた。
それは、栩麗琇那が、他の男に向けて欲しくなかった顔。
恋人達が笑みを交わしている頃、青年は九十五里の海岸に座り込んでいた。ぼうっと、寄せ返す波を目に映す。
赤い日が傾き、やがて辺りが闇に包まれ。
それに溶け込んだかのように、長いこと、青年は身動きさえしなかった。




