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少年は、奥に積まれた飛び箱に寄りかかり、入って来た琴巳に鞄を向けた。受け取る顔を見つめ、やっと会えた、と呟くように言う。
目を落とし、琴巳は鞄を抱き締めた。
「二度と、こんなことしないで」
「あぁ」
本当に栩麗琇那と似た応じ方を、武はした。「悪かった。やり過ぎだと思ってる」
胸が苦しくなった。感じることが叶わなくなった筈の空気を、近くに感じてしまう。
早く離れたかった。琴巳は、半ば踵を返しながら言った。
「それじゃ、わたし――」
「そうやって逃げるから、度を越したんだ。逃げてどうすると言った筈だぞ」
足を止め、琴巳は拳を握り締めた。
「そういうこと言わないでって言った筈よ」
「それは聞けないと言った」
武は不機嫌そうに前髪を払い上げた。「先々週辺りから、加賀がフリーになったって噂が流れてる」
琴巳は不審に眉を寄せた。
「何それ」
「解らないのか」
武はもどかしげに足元を蹴った。「お前に目をつけてる奴は青高だけでもぞろぞろ居る。青大生の後釜を、どいつもこいつも狙ってるんだ。青高祭に一人で来るなよ。野郎共が群がるだろうからな」
ぞっとした琴巳を、武はキッと見た。
「俺一人にも手こずってるくせに、まとめて来た時、逃げ出せると思ってるのか」
「こ、断るもの。わたし、誰とも、付き合う気無い」
その返答に、武は目を見張った。
「本当に別れてたのか」
琴巳はハッとして肩をすくめる。武は身を乗り出した。「話半分だった――なんで――」
「わたしっ、戻るから」
「ちょ――待てっ」
走り出すつもりだったが、琴巳は素早く腕を掴まれた。
「ヤだ、放してっ」
琴巳は懸命に腕を振ったが、武の手はまるで動じなかった。低声が、切々と響いた。
「まだあいつを好きなんだろ。解ってる。そのままでいい。俺はそれでも加賀が好きで、それでも、一緒に居たい」
断る理由が見つけられなかった。琴巳は、崩れそうだった。疲れた心が、傾きかかる。「他の奴は俺が断ってやる。加賀の為なら何でもする。だから、俺の傍に居てくれ」
大きく胸が鳴った。その一言は、ずっと、ずっと、栩麗琇那に言って欲しかった台詞――
目頭が熱くなり、琴巳は少年の胸にうつむきかかった。
校内放送が、流れた。
〔一の五の副級長、朝倉、至急、実行本部まで。繰り返す……〕
琴巳はぴくっと身を引いた。武も思わずか、手を放す。琴巳を受け止めようとしていたらしいもう一方の手が、きゅっと拳になった。
滲みかけた涙と共に、琴巳は顔から血の気が引いた。完全に流された自分に、身体が震えてくる。
執拗に、放送が繰り返された。が、少年は聞いていないようだった。こちらを凝視すると、訊いてくる。
「俺の方に来たな」
「――わ、判ん、ない」
「来た」
断言されて、琴巳は狼狽に後ずさった。何とか話を変えたかった。
「よっ、呼んでる――行かないとっ。し、至急って言ってる」
「どうせ大した用じゃない」
武は、意外なほど優しい笑みを見せた。「覚えてるか、春の交歓会でメアド交換してくれって言って来た先輩」
「う、うん?」
話題が変わったのはいいが、すぐにはついて行けない。寸時きょとんとした琴巳に、武は告げてきた。
「あの先輩が青高祭の実行委員長をしてる。あの時、俺が嘘をついたのが許せないらしい。加賀は例の青大生のモノだったって、すぐ後で知ったようだ」
琴巳は息を呑んで少年を見上げた。
「朝倉君――部長を掛け持ってるって、リっちが言ってた――まさか、そんなことで?」
「聞いたのか」
こちらを見下ろし、武は笑った。「青高生の割に低レベルな話で悪いな」
「そういう問題じゃないよ――誰か、話の通じる先生か先輩にとりなしてもらった方がいいよ。無茶苦茶じゃない」
栩麗琇那が驚いた時と同じように、少年は眉を上げた。そっくりな仕種で、目を細める。
「可愛い奴」
琴巳は、再度胸が高鳴ってしまった。武は、ぽふっとこちらの頭に手を乗せてきた。「ここまで我慢したから最後までやる。加賀に会えたし、最後までやれそうな気がする」
どき、とした琴巳に武は悪戯っぽく言った。
「少しは惚れたか」
「え――」
再び、呼び出しの放送が流れた。武は、ようやくそれを聞き入れた。出入口へ足を向け、動けずにいる琴巳を振り返る。
「一緒に居て、もっと惚れさせてやる」
とどめのように言葉を放ち、少年は出て行った。
キャンパスの一角にある公孫樹の大木から、はらはらと葉が落ちる。
四講義目も終わると、食堂のカフェも閑散としてくる。窓際に座る栩麗琇那は一人、止めどない黄色の乱舞を、ぼんやり眺めていた。
かたん、と隣で椅子を引く音がした。窓に、咲子の姿が映って見えた。横に座り、こちらを見ながら頬杖をつく。
「お待たせ」
「あぁ」
応じて、栩麗琇那は腕時計に目を落とした。「半ので帰るか」
そね、と軽く頷いてから、咲子は探るような目を向けてきた。
「ね、週末どうするの?」
「月曜に、もう週末のことを考えているのか」
「とぼけてるの?」
咲子は頬杖をついた指先で、食堂の出入口を指した。「それともボケてるの?」
栩麗琇那は無言で不愉快そうな顔をして見せる。咲子は、あら、と口をすぼめた。
「行きたいんじゃないかと思ったのに、梛女の学祭」
「勘違いだな」
ぶっきらぼうに言うと、栩麗琇那は席を立つ。「黒沢は明後日、行きたいのか」
「明後日ぇ? あー、青高の方?」
咲子はバッグを肩に掛けつつ立ち上がった。「加賀君との契約、一つだけ問題があるのよね」
栩麗琇那はささやかに当惑して咲子を見た。眼差しの問いかけに気づいたのか、咲子は理由を口にする。
「貴男、ランクが高過ぎるの」
「…………」
「次のカレは確実に格下になっちゃう。当分作れないわ、きっと」
コトミはどうなんだろう。
歩き出しながら、栩麗琇那は思った。
数日前、華奢な姿が男子校へ駆けて行った。見てしまった。狂おしくなる姿を。
一人だった。
押し殺した息をつき、栩麗琇那は咲子と出入口の硝子戸を通り過ぎる。
硝子戸には、様々なポスターが貼り出されていた。青葉大学ももうすぐ学祭がある。気の早いクラブの出し物宣伝もあるが、十一月一日現在、一番目立つ所に貼り出されているのは、兄弟校とその交流校の、文化祭開催を知らせるモノだった。
咲子はポスターを振り返り、青高かぁ、と呟いた。
「わたし、高校の時は青高生のカレが欲しかったのよねー」
咲子の出身は県内の公立校で、ヘイヨウ高校だそうだ。栩麗琇那と違い、まともな学校生活と進路決定をしたのだろう。幾つかの高校や大学の名が、時折話に出てくる。「頭の良さでは水高に負けてたけど、何て言うのかなぁ、ブレザーの制服の所為か、紳士っぽくて、お洒落なイメージがあって」
栩麗琇那は短い笑声をこぼした。
「付き合ってもいいぞ、明後日」
「どーしよ。加賀君がこんなにカッコ良くなかったら、年下の男の子を誘惑しに行ってもいいんだけどなー」
ぼやくように言われ、栩麗琇那は僅かに口を曲げる。こちらの所為にされても困る。
十六時三十分発のスクールバスに乗り込むと、よし、と咲子は拳を握った。
「付き合って。青高生狙いで集まった女子高生達の間を闊歩しちゃお。うふふー」
「俺は見世物か」
「せいかーい」
けろりと肯定され、栩麗琇那は額に手をあてる。
コトミは、二人だけの方が幸せそうだったが……
又も焦がれる少女を思い出し、栩麗琇那は髪をかき上げた。かき上げた半ばで止め、バスの天井を仰ぐ。些少の不安が湧いた。
コトミ、明後日、青高に居たりしないだろうな。
この頃は食事の時間をずらしたので、朝の挨拶さえしていない。彼女がどんな学校生活をしているのか、皆目分からない。
栩麗琇那がつけてしまった心の傷は、癒えただろうか。
あの青高に駆けて行く一瞬前、目が合ったような気がした。こちらに気づき、ショックを受けて走り去ったのだとしたら……
何度も傷つける気は無い。ただ、忘れて欲しいだけだ。
切ない思いを抱え、栩麗琇那は窓にもたれて瞼を閉じる。
己にもついた巨大な傷を慰める術は、あの笑顔を思い浮かべるしかなかった。




