3
翌日、栩麗琇那は老夫妻と共に階下で朝食をとった。とりはしたが、食べた気がしないまま老人の後ろについて食堂を出る。昨日もそうだったが、驚くことが多過ぎて、落ち着いて食事に専念できなかった。
天井からぶら下がった、日暮れ後も部屋中を明るくできる硝子。鮮明な動く絵の入った箱。或る部分を捻るだけで火の起こる台。四六時中、氷室のように中がひんやりしている箪笥……
老人は、居間の長椅子に座ると、何やらびっしりと書き込まれた大きな紙を開いた。栩麗琇那は、低い長机を挟んだ向かいに腰かけつつ眺める。両面に、緻密な文字や絵がかかれていた。
文章を追う栩麗琇那を、老人は紙越しに見た。
「読めるのかな?」
「所々読めませんが、大半はわたしの世界の公用語と同じ文字です」
ほぅ、と老人は応じた。栩麗琇那は目を落とす。
成り行きで助力を乞うたが、老夫妻は頼れない気がした。二人共、栩麗琇那の居た世界について反応が鈍い。手がかりの〝て〟の字さえ持っていないようだ。
室内で一人の時に精霊の精製を試みたが、失敗に終わった。何度試みても精製に必要な核が作れなかった。恐らく、大気が汚れ過ぎているのだ。
精霊を生み出せれば、老夫妻に頼るまでもなく、必要な情報は得られたのだろうが……
老人が、机上に紙を広げた。
「どれだけ読める。君の居た場所のことは書いてあるかな?」
無意味に思えたが、栩麗琇那はとりわけ大きく書かれている文字を示しながら読み上げた。
「毎朝シンブン? ケイサツ? また不祥事か。審議混迷。贈賄の疑い。容疑者関与否定。天気予報。抜け毛にお悩みの貴方に朗報。今日のてれびバングミ……」
「君、十一にしては難しい字をすらすら読むな」
「……この記号は何ですか」
〝今日のテレビ番組〟と書かれた大きな面に、〝1〟〝2〟〝3〟……と奇妙な文字が並んでいる。
「数字は読めないのか」
「読めます」
多少むっとして、栩麗琇那は横の面に縦書きで書かれている文章を指した。「午後五時頃、でしょう? こっちは、現地時刻二日未明」
「……カン数字は読めるのに、あらびあ数字は知らないわけか」
「あ――これも数字か……」
独語した栩麗琇那の前で、老人は立ち上がった。
「地図を持って来る。あらびあが何処ら辺か教えてあげよう」
栩麗琇那はそれよりも、最初に来てしまった小部屋に見当が無いか、教えてほしかった。が、老人はさっさと居間を出て行く。
入れ代わりに、婦人が盆を手に入って来た。高価そうな硝子の湯呑を三つ、紙の脇に置く。食後の冷茶らしい。
上品に椅子に腰かけると、老婦人は促すように微笑んだ。昨日より、少し落ち着いた感じだ。栩麗琇那は湯呑を手にしながら、小部屋に心当たりが無いか訊いてみた。
婦人は、当惑気味に頬へ手をやった。
「取り敢えず、ウチではなさそうねぇ」
「…………」
「窓から森みたいなお庭が見えて、植木が模様みたいに造園されてたのよね? ニホンではそういうお家、あんまり無さそう……ありそうなのは、よーろっぱとかね」
「そこは、ここから遠そうですね」
えぇ、と婦人が頷くのと同時に、老人が戻って来た。会話が聞こえていたのか、居間に入るなり言う。
「よーろっぱも載っているぞ」
老人は、広げていた紙の上に、上質の別の紙を開いた。細かに、地図が描かれていた。下になった紙に描かれていた物もそうだったが、この世界の絵師の技術は相当なものだ。
地図には、小さな細い島を中央にして、周りに大陸が五つ程。他にも、たくさんの島々。栩麗琇那の居た世界より、ずっと広く感じる。
老人は中央の島を指さした。
「ここが今居る、日本。で、アラビアはこっちの方。更に、よーろっぱはこの辺の国の総称だ」
指の動きを目で追いながら、栩麗琇那はそれらの位置と名前を記憶する。
「日本からこの、オオ韓タミ国までは、馬と船でどれくらいかかりますか」
「あぁ、それは、大韓民国と言う」
老人は訂正してから眉を寄せた。「馬ねぇ……さぁて……ヒコーキだと一、二時間ほどだと思うんだが」
栩麗琇那が首を傾げると、婦人が説明してくれた。
「空を飛ぶ乗り物があるのよ」
「それは、馬より速い?」
「えぇ。比べ物にならないと思うわ」
老人が口を挟んだ。
「君は、カン国――あぁ、大韓民国の略称なんだが、そこへ行きたいのか」
「いえ、よーろっぱまで」
栩麗琇那は地図に目をやる。「韓国までの日数で、よーろっぱまでの距離を測ろうと思ったんです」
「……まぁ、ヒコーキに一日も乗ってれば、大概の所には行けるよ。で、よーろっぱの何処に行くんだ」
先刻、よーろっぱはこの辺、と説明があった地図上を示して、栩麗琇那は答えた。
「この辺に、例の部屋が無いか探してみます」
えぇ? と老人は声をあげた。
「それは無茶だ。いくらなんでも範囲が広過ぎる。そこまで当ての無い旅には付き合えないな」
「……こちらから申し出ておいて失礼ですが、わたし一人で探します。気になさらないでください」
「ちょっと、待ちなさい」
老人は、制するように片手を上げた。「気にするなと言われても、君みたいな子供を一人旅なんかに出せるわけない。落ち着きなさい。出発は、せめてもっと確信できる場所が見つかってからだ」
あなた、と今度は婦人が言葉を差し込んだ。
「この子には昨日見せてくれた瞬間移動の魔法があるから、近くまで行けば、それで充分なんじゃないんですか?」
あっ、と言いたげに老人が口を開けたが、栩麗琇那は首を振った。
「距離はあまり関係ありません。あの部屋は狭かったので、瞬間移動で行くのは危険なんです。普段どれくらい人の出入りがあるか判っていれば、空白の時間を狙えます。でも、今回はそれが定かじゃない。出会い頭の体当たりを避けるには、誰も居ないという確証が無いと……迂闊に移動できないんです」
だからこそ、瞬間移動術は改良が重ねられ、陣や指輪を使うようになったのだ。古代の移動術は今や殆ど禁術に近い。余程のことで無ければ、栩麗琇那も今一度やる気にはなれない。
老人が一つ息をついた。
「じゃ、やはり足で探すつもりなんだな。となると、ふりだしに戻る。駄目だよ、ここは腰を据えて――」
「あまり、のんびりできないんです」
栩麗琇那は切羽詰まった心情を暴露した。「本当ならわたしはもう、皇帝に就いていなければならない」
老人は苦笑した。
「大丈夫、君が戻るまで皆待っていてくれるさ。お父さんの跡を継いで皇帝になるといっても、君に大層な仕事が廻って来るんでもないだろう?」
「……それが、ラル家で完全な領結界が張れるのは、父が居ない今はわたしだけなんです」
何処までルウの民の秘事を明かしていいものか迷いながら、栩麗琇那はぽつぽつ続けた。「仰るように、恐らくわたしには難しい執務は無理です。けど、領結界の張り方だけは幼少の頃から教えられてきました。皇族にしかまともに張れない結界だからです」
途中から眉をさすり出した老人は、難しい顔つきで栩麗琇那を見た。
「その領結界というのは、君が今、周りに張ってるヤツとは違う訳か」
「規模がまるで――地区全体を包むんです。破損が無くても強度が弱まるので、ひと月に一度は張り直します。父も毎月、陣を使って――」
閃いて、栩麗琇那は思わず立ち上がった。「そうだ! 領結界を張った時に術力を追えるかもしれないっ」
栩麗琇那は急いで座り直すと、思いつきを老夫妻に話し始めた。
満天の星空だった。
真夜中に近づく時刻、栩麗琇那は老夫婦と海岸に出た。領結界を張る為の、陣を描くのだ。
夫妻の家の裏庭から石造りの階段を降りて行くと、小さな浜に出る。ここも私有地だそうだ。
栩麗琇那は、並んで立ち止まった夫妻に頭を下げた。
「もし又この世界に来れたなら、必ずお礼させていただきます」
「孫の年頃の子供から、そんな堅苦しいモノは要らないよ」
老人がのんびりした口調で応じると、婦人も頷いた。夜空を見上げ、独り言らしきことを言う。
「こんな夜に、孫と花火をやってみたいわねぇ」
老人は闇の中で、微かに表情を固めた。
「この子がこれから、花火みたいなことをやってくれるだろう」
えぇ、と婦人の白い歯がほんの少し覗いた。
「夏場で良かったわね」
「夏場でなくても、この辺は人通りが無いから気にすることも無いけどな」
素っ気無く言ったが、老人は付け足した。「まぁ、花火はやはり夏だが」
「わたしの世界にも花火の職人が居ます。わたしは、花火を見たことが無いけど」
言いながら、栩麗琇那は手頃な貝を見つけた。早速、それで砂上に線を描き出す。
領結界の陣は、普段は堅牢な陣舎内に描いてある。張る度に描く必要は無い。不幸中の幸いか、今回の帝位継承に際し、たまたま栩麗琇那の名を入れて新たに陣を作成せねばならなかった。だから皇子は何度も練習したばかりだった。
夫妻が黙って見守る中、栩麗琇那は小一時間かけて陣を完成させた。
一つ深呼吸して、皇子は老夫婦を見た。
「始めます。もう少し、下がっていてください」
連れ立って二人が離れるのを目の端に映しつつ、栩麗琇那は中央、円内に片膝をついて屈んだ。
片手の掌を軽く砂地に置く。徐々に術力を陣に流し込む。
陣が閃光を発した。掌から、黄金色の光が放たれる。キィインと張り詰めた音が響き、栩麗琇那は古語を迸らせた。
バシュッと術力の詰まった巨大な光球が天高く打ち上がり、西の方角へ流星のように消えていった。
光の筋を見送った栩麗琇那は、ぺたんと座り込んだ。
成功した。西の何処かに、元の世界への入口が在る――
「早く――追っかけるんじゃなかったのか!?」
老人に叫ぶように言われて、栩麗琇那は慌てて立ち上がった。大きく頷くと飛び立つ。
高く砂煙が舞い上がり、夫妻は額に手をかざして少年を見送った。しかし既に、小柄な姿は夜空の彼方に見えなくなっている。
「本当に、別の世界から来ていたのか」
「……えぇ……」
寄せ返す波音だけになった浜辺で、二人はしばし黙っていた。少年が砂に描いていた物は、彼が飛び立った反動で跡形も無く消えてしまっている。残っているのは陥没した跡だ。
老人が、黒い海を見ながら問うた。
「孫は、幾つだったかな」
婦人はぱっと夫を見ると、弾んだ声で答えた。
「コトミちゃんが八つで、コウシ君が五つになる筈よ」
老人は、ちらっと妻を見た。
「こんな夢みたいな話を喜んで聞くとしたら、コトミはぎりぎりの歳かな」
「えぇ、きっとそう」
嬉々とした声で応じる婦人の横で、老人は短い笑声をこぼした。
「マサシの相手と、連絡をとろう」
栩麗琇那は、生まれた時点で相当の術力を持っていた。
強大過ぎる力は制御しにくい。元の世界で、やっと人並に飛べるようになったばかりだった。
この世界では邪気が溢れている。そんな中では精神集中が難しい。加減を誤って飛び立った栩麗琇那は、物凄い勢いで垂直に上昇した。あっと言う間に大気が薄れる地点まで到達し、咳き込みながら高度を下げる。
もはや光の軌跡は追えない。元より、光の速度について行ける筈がない。
初めから、栩麗琇那は自分の放った術力の痕跡を追うつもりだった。老人の言葉に煽られてしまったのだ。老人は、口下手な少年の話で、光そのものを追うつもりだと思ってしまったのだろう。
こんな邪悪な世界に在るというのに、気持ちのいい人達だった。もし本当に再び訪れられるなら、口先だけでなく礼がしたい。だから念の為、瞬間移動の対の輪を浜辺の隅に置いておいた。
今度は慎重に、栩麗琇那は痕跡を辿って飛んだ。
時折、とてつもなく巨大で不気味な鳥を見た。恐らくヒコーキというヤツ。
本物の鳥も見かけつつ、何時間飛行しただろう。やがて、夜を遡ったのか夕暮れに近い景色の中で、覚えのある植え込みを捉えた。相当に広い敷地と、その一角に佇む城のような屋敷。術力の筋は、屋敷の二階のひと部屋に入って、途絶えている。
外からその室内を覗き、栩麗琇那は一人頷いた。
縦長の窓。木肌色の壁紙。布張りの長椅子。小さな花瓶の乗った小卓。例の小部屋に間違いない。
この世界で最初に来た場所へ辿り着けた。
小部屋は無人だった。確認し、密やかに古代呪文を唱え、栩麗琇那はその中に移動した。
領結界の術力は、窓から向かって右側の、壁の一点から消えている。隣室へ通過していない。ここが終着点だ。
判ったが、栩麗琇那は近づくのをためらった。そこは、ヴィンラ・タイディアへ戻ろうとして叩きつけられた場所のような気がした。
薄暗くなりつつある中、壁の前で屈み込む。さほどせずに、絨毯に血痕を見つけた。他でもない皇子の口から滴った血だ。
やはりここか……
しかし、二の足を踏んでいても仕方が無かった。この部屋に、いつ誰が入って来るかも判らない。何より、一刻も早く元の世界に帰りたい。自分とその周りを知っている人々の、居る場所に。
恐る恐る手をのばし、壁に触れた。何も起こらない。
勇気を出し、一歩踏み出す。何も変わらない。
壁にへばりついた。小さな部屋で少年が壁にはりつく奇妙な光景を、夕日が朱に染めている。
栩麗琇那は壁の前を、うろうろと歩き回った。術力が吸い込まれている一点は勿論、その周りも、あちこち触ってみる。少しだけ勢いをつけて、壁に当たってもみた。
「なんで……っ」
次第に焦りが生じ、栩麗琇那は呻くように洩らした。「なんで、術力だけ……っ」
泣きそうになって、唇を噛んでこらえた。考えろ、と自己を叱咤する。
この世界では精製できなかったが、精霊ならば壁をすり抜けることも可能だ。栩麗琇那の放った領結界は術力の塊であって、根本は精霊に近い。故に、壁を通り抜けたのかもしれない。
では、肉体を持っている栩麗琇那はどうすればいいだろう?
瞬間移動した時は、それなりに、向こうへ行く力が働いていた。瞬間移動は、闇に力を与えて亜空間を開かせる術だ。受け取った力を闇が移動先に流したから、栩麗琇那も引き寄せられたのだろう。が、この身体が引っ掛かった。力の通り道は、ごくごく小さな穴に違いない。
その小穴が、どうしてここに来た時だけ、少年が通れる程に開いてしまったのか。
あの首飾りを受け止めた時、無意識に、制御できない力を放ってしまったのだろうか。
瞬間移動の時に別の術力も放ったら、穴を大きくできるかもしれない。
あの時、何の術を咄嗟に仕掛けてしまっただろう。
考えずにやってしまえる術なんて、限られている。
栩麗琇那は壁を見据えた。ラル宮殿への指輪を嵌め、精神を集中させる。
ゆらっと身体が浮く。足が床から離れると同時に、瞬間移動の合言葉を念じた。浮力が加わる。
バンッ! と、耳の奥で音がはじけた。
壁から絨毯に跳ね返された少年は、ごろごろっと二度回転して止まった。
頭が、朦朧とする。
「っ、ぐっ……っ」
全身の痛みを征して呼吸困難が警告を始め、結界が壊れたと察した。何とか張り直したが、後は横たわったまま何もできない。脈動に合わせ、後頭部がガンガン痛んだ。
何が違った? あの時より、まともにぶつかってしまった。
ややの間、栩麗琇那は虚ろな目に壁を映していたが、必死に身を起こした。乱れる息を懸命に整える。
頭痛に顔をしかめながらも、意識を飛行に集結させる。乾いた喉を動かし、息を止めると結界を解く。
思いつく違いは、それだけだった。あちらの世界で、栩麗琇那は結界を張って生活していなかった。光範囲術の結界と闇範囲術の瞬間移動が反発し、帰路を塞いでいる。もう、そうとしか考えられない。
身体が浮いた機を逃さず、栩麗琇那は、行け! と念じた。
凄絶な衝撃音が起こり、少年の身体は絨毯の上に投げ飛ばされ、跳ねた。ピピッと辺りに鮮血が散る。
切れた口中から溢れた血が、絨毯に滲んでいく。うつ伏せに転がった栩麗琇那は、弱々しい結界を張ると、近くにあった小卓の足を掴んで立とうとした。手をのばしかけて、悲鳴を洩らす。打ちつけてしまった肩に、激痛が走った。あまりの痛みに、とうとう涙がこぼれた。
「く……っ、ひ……っ……」
お祖父様、俺、もう立てない……泰佐、助けて……誰でもいいから――
ひくっと栩麗琇那は息を呑んだ。ひたひたと、気配が迫ってくる。物音はしない。聞こえるのは自分の目茶苦茶な鼓動。だが、間近まで来ている、或る種の気配が。
殺気――?
かたかたと震えが起こった。残された余力は僅かだ。後一回、古代呪文で瞬間移動ができるかどうか。
ルウの皇子が、こんな所で死ねるか――っ!
涙で歪んだ床を睨んで、栩麗琇那は力を振り絞った。
忽然、少年の姿は消える。
音をたてず、しかし速やかに扉が開いた。
茶色の髪と髭の男が、初老の歳を感じさせない柔軟さで部屋に踏み込んで来た。鋭い青の視線を周囲に放ったが、ふっと肩の力を抜く。
今一人、銀髪で三十代ほどの男が入口に立った。
「気配が無い」
「はい」
初老の男は尚も室内を見回す。「手負いの獣を近くに感じていましたが」
「うん。そんなトコロだった」
若い方は同意し、部屋に入った。「ここから感じた」
「はい」
「何故ここかな」
男は深い緑の目に、何処となく切なそうな色を宿した。「フローラが言ってた。シェリフを産んだのは別の世界だったとか……」
「……はぁ。この部屋に居たら行ってしまったと、仰っていました」
「この部屋辺りで、もっと真面目に聞いてやるんだった……」
男は自嘲気味に笑った。「フローラが拗ねているなら、この際、歓迎するんだが」
初老の男は黙って床に目を落とす。つと、屈み込んだ。絨毯をなぞり、指に付着した物に眉根を寄せる。
若い方が、壁を凝視しながら言った。
「血だな」
男が目を上げると、若い方は壁を指の背でつついた。「ここにも付いている。真新しい」
初老の男は、窓辺に寄った。窓には鍵が掛かっている。
若い男は両腕を組んで天井を見上げる。一つ吊られた明かりは丸い形の小さな物で、何かが隠れる隙間も余裕も無い。
「手負いの何かが、別世界に消えたかな」
「……すぐに、他の部屋も調べます」
初老の男がきびきびした動きで入口へ足を向ける。若い方は悠然とした風情で続きながら、小首を傾げた。
「親父のツテで来たらしい使用人が辞めたと聞いた。親父絡みだし、理由も気にしていなかったけど……」
初老の男は足を止めて振り返る。屋敷の若い主は、何かの合図のように指先を動かした。「先日、似たような物音がした時はまだ居たのか」
二十年以上彼に仕えている男は、目で頷いた。




