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頑健、強靭と謳われるルウの民も、不死ではない。平均寿命に達せず没す場合、それは突然訪れることが多かった。
父である皇帝、綺沙也もそうだった。勤務中、執務室に座したまま死んでいたそうだ。
島の薬師の診立てでは、疲労が蓄積された挙げ句、心の臓が発作的に停止したのだろうということだった。
すっかり冷たくなった父に栩麗琇那が対面したのは、発見されてから半日後。安置されたラル宮殿の一室で、隣の島から駆けつけた祖父と並んで見下ろした。
『親不孝者が』
祖父の力無い呟きを、栩麗琇那は黙って聞いていた。祖父の大きな手が、栩麗琇那の頭を撫でた。『そなたは、親不孝をせずに済んだな』
慰めてるの……? お祖父様。
栩麗琇那の母は、五年前に風邪をこじらせ先立っている。皇子を産んでからルウの民の体力を完全に手放していた彼女は、大陸の人間のように、ささいな病で逝ってしまった。
急遽、皇帝の具体的な職務内容まで教え込むことになった側役は、何度も諭すように言った。
『解らないことは、誰でも良いのでお訊きください。勿論、泰佐がお傍に居れば、すぐにもお役に立ちとうございます』
そう。泰佐も、ずっと傍に居てくれるとは限らない。父上より年上だもの。泰佐も、俺をおいて逝ってしまう。お祖父様も、そう。皆、俺の傍から居なくなる。
自分は、独りで居ることに慣れなければならないのだ。
でも……
独リニ、シナイデ。
パリ、と乾いた音がした。
「又、セイデンキ」
呟きに、栩麗琇那は熱い瞼を上げた。
すぐ傍に、小柄な老婦人が居た。見たところ、ルウの民ならば七十歳辺り。大陸人ならば六十に差しかかった頃だろう。柔らかな灰色の短髪で、緩く皺の寄った顔が優しい。人の良さそうな黒い瞳が、こちらの視線と出会うと笑った。
「もう大丈夫よ、マサシ」
栩麗琇那は二、三度瞬いた。呼びかけられたのは、どうも自分。けれど、自分はマサシと名乗ったことはない。
内心で首を傾げる栩麗琇那の脇で、老婦人は腰かけていた椅子から立ち上がった。
「お腹空いてないかしら? 何か持って来ましょうね」
「あ、あの――」
人違いでは、と栩麗琇那は続けるつもりだったが、老婦人は言う間を与えてくれなかった。
「おとなしく寝ているんですよ」
そう言うと、部屋を出て行ってしまう。
一人残され、栩麗琇那は深く息を吐き出した。身を起こし、室内を見回す。
広い部屋だった。客間風で、少年には大きめの寝台に、落ち着く調度品。裕福な雰囲気がある。
ふう、と栩麗琇那は枕に身体をあずけた。具合は、大分良くなっている。ルウの民の回復力は並ではない。ただ、衝撃も並ではなかったから、まだ少し肺の辺りが痛む。
贅沢にも布張りされている天井を見上げ、栩麗琇那は独り言を洩らした。
「どうなっているんだ」
瞳に映るあらゆる物に、金色の膜がかかっている。弱りきった身体で張り続けた、結界越しの景色だからだ。
あの邪気だらけの部屋から古代の手法で瞬間移動して、着いた場所は海岸だった。頭に浮かんだ浜辺ではなかったが、似たような砂浜に移動したらしかった。
解らないのはその後だ。もう平気、と結界を解いた途端、急激に息苦しくなった。屋外に在って尚、栩麗琇那は邪気に取り囲まれていた。そうとしか思えない。とにかく慌てて結界を張り直した後、意識が途切れてしまった。
そして今、目覚めても体は結界を張ったままにしている。恐らく、ここにも邪な気が充満しているのだろう。
わけが解らない。ここは、呼び寄せねば集まらない筈の邪気が、大気に溶け込んでいるのか。
少なくとも、ルウ三大家が統治を司る地区ではあり得ない。誰もが結界を張ることはできないから、こんな状況では張れない者は生存できない。
しかし世界には、大陸の他はルウの民が住まうメイフェス島と始祖の島、後は無人島が幾つか在るのみだ。
ここはまるで……別世界だ。
浮かんだ考えに、知らず身体を抱き込んだ。そうとしたら、どうして来てしまったのか。
部屋の扉が開き、栩麗琇那は考えを中断した。老人が入って来た。先程の老婦人と同じ歳の程だ。
「起き上がって大丈夫かい」
栩麗琇那が頷くと、老人は灰色の太い眉を撫でた。「ニホン語、解るんだね?」
歩み寄りながらの言に、栩麗琇那は床が抜けた感覚に陥った。老人が使っているのは公用語だ。ニホン語などとは言わない。言わない筈だ、これまで暮らしていた所では。
未知の世界に来ている。不安が裏付けられた気がして、栩麗琇那は瞳に老人を映しながら、言葉が出なかった。
身を固めた栩麗琇那を見やると、老人は少々慌てたように椅子に腰を下ろした。
「気を悪くしないでくれよ? 言葉が通じないと話ができないから、それで訊いてみただけだ。君の顔立ちはニホン人よりオウベイの人に近い」
そう言われても、栩麗琇那には解らなかった。自分の容姿は普通で、髪と目の色はラル家のモノだとしか思っていない。
応えない栩麗琇那を、老人はじっと見た。ためらいがちに、再び口を開く。
「本来ならケイサツに連絡するところなんだろうが、君が倒れているのを見つけたのがミツノだったもんで……いや、まぁ、とにかく早く家の人に知らせないとな。名前とデンワ番号を教えておくれ」
質問攻めに、栩麗琇那はうつむいた。こちらも尋ねたいことが山ほどある。が、助けられた恩に配慮して、皇子は顔を上げた。
「わたしは栩麗琇那・ラル・ルウ。栩麗琇那と、呼び捨ててくださって結構です」
目上への礼を守って名乗ったつもりだったが、老人は奇妙な顔をしてこちらを見た。不自然な間が生まれた中に、扉の開く音が割って入った。老婦人が、盆を手に現れる。寝台脇の小卓に盆を置くと、婦人は目を細めた。
「食べれば元気になれるわよ、マサシ」
呼びかけに栩麗琇那が眉をひそめると、老人も顔の皺を歪めた。
「ミツノ、この子にはこの子の名前がある」
声が重く響くと、老婦人は見る間に表情を曇らせた。切なそうに栩麗琇那を見る。
「違うお名前だった?」
「……すみません」
何となしに栩麗琇那が謝ると、老人が首を振った。
「君が謝ることじゃない」
複雑な心地になる少年の手に、老婦人の痩せた手が重なった。パリと音がする。
「お名前が分からない間だけ呼ばせてもらったの。ごめんなさいね」
老人が、いたわりの眼差しを老婦人に向けた。
「何かあれば起こすから。少し休め」
婦人は、うなだれて踵を返した。
栩麗琇那は見送りながら、ふと目を見張った。頼り無げな後ろ姿に、結界が見えない。
結界に無色はあり得ず、張っていれば周りに色が見える筈だ。
今、老婦人の周囲は色が無い。老人に目を走らせても同じ。二人は、結界を張らずにこの邪気の中に居るということになる。
ぼんやりと悟った。
慣れているのだ、つまり。生まれた時からこの大気状態で、身体が強いに違いない。
部屋の扉が閉まり、栩麗琇那と老人は同時に息をついた。老人の方が、すまない、とくぐもった声で言った。
「マサシは、わたし達の一人息子で、ついひと月前に事故で死んでな。ミツノは日がな一日、マサシと過ごした所を歩き回ってた。一昨日もそうして出かけて行って、君を見つけたんだな。マサシが倒れてたとか何とか、血相変えて戻って来て、ずっと看病してたんだよ。それで、どうも、引き離せなくて……」
「……そうですか」
それしか言えずに、栩麗琇那は口をつぐんだ。
普段の場面なら、もっと他にも言葉が出たかもしれない。しかし栩麗琇那は未熟な一少年に過ぎなかった。自分が立たされている、信じられないような現状を把握するだけで精一杯だった。
栩麗琇那はこれまでの事もこれからの事も思案しかけたが、胃が空腹を訴え、呆気なくやめる羽目になった。
腹を鳴らした少年の傍らで、老人は微かに笑った。小卓に手をのばし、湯気が上る碗を取る。
「粥とはいっても、かっこまないようにな。丸一日は胃が空だったんだ」
「いただきます」
言いながら手を出した時、小さな音がした。そして、碗を持った老人の手が近づくと――
パチッと云う音と、あつっ、と言う老人の声が重なった。老人の手から碗が離れ、栩麗琇那は慌てて受け止める。
そうか、と栩麗琇那は口の中で呟いた。さっきから、どうも妙な音がすると思っていた。ここで生活している人は、そういうつもりが無くても、常に邪気を纏っている。結界を張った者に触れようとすれば、当然、はじかれるわけだ。邪気を退けるのが結界の役目なのだから。
新たな難題が浮上してきて、心理的に頭が痛かった。ここに居る間、結界を張っている以上、誰とも接触できない。接触すれば、今し方の老人のように、相手の方が結界にはじかれてしまう。相手を傷つけない為には、結界を解くしかない。
「又か」
老人の台詞に、栩麗琇那は我に返った。指先をさすっている老人を窺う。
「怪我を」
「いや、ちょっとビリッとしたんだ」
軽く手を振り、老人は首を傾げた。「君に触れかかるとセイデンキが起きる。そういう体質なのかな」
「これからはなるべく結界を解きます」
何気無く言ってしまってから、しまった、と思った。案の定、老人は訝しげな顔をした。結界を解く? と繰り返す。
一般人は結界など知らない。この大気状態で平然としていられる人種なら、尚更だろう。ぎごちない笑みを浮かべた栩麗琇那に、老人は肩をすくめて見せた。
「結界とやらを君が解いたら、セイデンキが起きないってのかい」
「……はぁ、多分」
まずい予感をいだきつつ、応じる。老人は裏切らなかった。
「ひとつ、解いてみないか」
栩麗琇那は軽はずみな己が口を呪った。呪ったところで仕方無かったが。
後には退けず、栩麗琇那は粥の碗を盆に戻すと、解いたら頷くので、と告げた。二度ばかり深呼吸してから、息を止めて結界を解く。素早く頷くと、老人はそろそろと手をのばした。おや、と声が洩れる。
「平気だな」
ぺたぺたと少年の腕や肩に触ってから、老人は眉を撫でた。栩麗琇那は結界を再び張り、呼吸を整えてから老人を見た。
「もう結界を張ってます。触れてみますか」
「あ、あぁ、そうだな」
老人は警戒を見せずにひょいと手を出した。勢いの良さに栩麗琇那が目を丸くした前で、パリッと火花が散った。わっ、と老人は手を引っ込める。「何だ、何だ!?」
「あの、だから結界が反応したんです」
答えた少年に、老人は軽く口を曲げた。ちょっと待ってくれよ、と言いたげに、手で合図する。床の一点を見つめ、何とか状況を飲み込もうとしているらしかった。
ややして、訊きたい、と老人が顔を向けた。
「わたしの目には見えないが、君の周りに結界というのが在るとしよう。なんで君はそんなモノを……?」
「大気が合わないようで、呼吸が困難なんです」
「大気? はは。さっきは平気だったじゃないか」
「息を止めていたので」
栩麗琇那の澱み無い返答に、老人は再度眉を撫でた。どうも、考え事をする時の癖らしい。口を結んで、何度も太い眉をさする。
栩麗琇那も考えていた。この老夫妻は、これまでの経緯を全て話せば、ラル宮殿に帰る手助けをしてくれるだろうか。助けてくれないなら、早々に立ち去らねばならない。
これ以上いらぬことを暴露しては、守護者を名乗っているルウの民の名折れだ。栩麗琇那の漏らしたことが原因となって、元の世界に災いが降りかかっては目も当てられない。
老人がこちらを見た。
「率直に答えてくれ」
言われて、栩麗琇那は表情を引き締める。老人は続けた。「君は何処から来たんだ」
「わたしが帰る手助けをしてくださるなら、答えます」
「勿論」
ふっと愉快そうな顔をして、老人は両腕を組んだ。「この際、わたし達が家まで送るよ」
栩麗琇那は老人の黒い双眸を見つめた。今の言葉を信じる以外に、今後についての保証は無い。賭けのようなものだ。
「では、契約神パクトの名の下に、貴男の約定を信じ、お話しします」
不審そうにする老人の前で、栩麗琇那は契約の証に指を鳴らした。
その日、老夫妻は困惑の夜を過ごしていた。行き倒れ少年は、長時間話し続けて疲れたのだろう、客間で眠りに就いている。
光乃は、麦茶を持って居間に入った。夫に硝子の湯呑を渡し、自分のを持ってソファに腰かける。
冷たい麦茶を飲んでから、光乃は夫を見やった。老人は、灰色の眉をゆっくりと撫でている。
「どうするつもりなの、あなた」
ややの間、沈黙があって、夫は呟くように答えた。
「どうするもこうするもない。家に帰さないと」
老人は麦茶をあおった。「届け出が遅れた理由を理解してくれるか判らんが、しょうがない。明日、駐在に行ってくる。捜索願いが出ているだろう」
「あの子の話を信じてないの?」
光乃は僅かに身を乗り出した。「あの子がやって見せてくれたのは、手品とは思えないわ」
クリシュウナ少年は事情を説明しながら、夫妻の前で、瞬間的に別の場所に移動して見せたり、離れた所から遠くにある物を動かしたりしたのだ。
「あれは本物じゃないかと思う。直に見たし、場所が自宅だ。テレビなんかに出てる超能力者だの何だのより、ずっと信じられる」
「異世界から来てしまったみたいだって話は嘘だと思ってるの?」
老人は、斜めに妻を見た。
「信じたのか、いかにも子供の考えそうな話を。自分は神に創られた一族だなんて言ったぞ。で、超能力を持ってる? は!」
「作り話だとしたら、あんなに大人びた子にしては子供っぽいじゃない。あの子がでっち上げるなら、もっと上手に作りそう――」
「あの子は漫画の読み過ぎかゲームのやり過ぎだ。結果、自分の作り出した夢の世界に閉じこもっている。家か病院で療養中に逃げ出したに違いないぞ。そうだ、そういえば、初めに着ていた服に血が付いていたんだろ? お前、看護師だったのに何も気づくところが無いのか」
「看護師がどんな傷病にも通じてると思い込まないでちょうだい!」
光乃は声を荒げたが、すぐに自制した。麦茶を一口含む。老人は、自分の湯呑にちらっと目をやり、空と見ると眉に指をのばした。
「あの歳からああも法螺話が得意では、先が思いやられる」
「法螺だなんて決めつけないで。信じたつもりで接してちょうだいよ」
光乃は真摯な口調で言った。「だってあの子、わたし達に、家に連れてって欲しいとは言わなかったわ。帰り方を見つける為に、世界を教えて欲しいだけなのよ」
「お前に言われなくても解ってる。子供が知りたいことは、可能な限り教えてやりたい。追い出すつもりも無い。ただ、なるべく早く家族の元に帰すべきだ。あんな状態の子だ、親はさぞ心配してるぞ」
苦虫を噛み潰したような顔で、老人は両腕を組んだ。「光乃、あの子を雅士の代わりにしてるだろう」
老婦人は、小さく微笑んだ。
「いいえ。雅士が、あの子を連れて来たのよ」




