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六月上旬の夕暮れ、栩麗琇那はクラスメイトの一人と市の図書館を後にした。
そこに用があったのは、二人一組で取り組む課題が出た為だった。社会学の授業で、社会学というジャンルに沿えば、テーマ自由の研究発表が内容だ。
期間は長く与えられている。期末テスト前に中間発表が一度あり、最終発表は夏休み明けの九月半ば。といっても、一年生が一斉にやる課題なので、テーマさえ決まれば資料集めは早めにしておくのが賢明だ。
中学の頃と変わらず、皇子は友人を得ようとしていなかった。が、こういう課題が出れば何とかするしかない。
組んだのは、江利哲朗という少年だ。幸い、彼の方から誘ってきた。出席番号順に座っていて、詳細のプリントを前から配ってきたからだった。
はいよ、と廻してきて目が合い、やるか? ――そうするか、というノリである。
成り行き任せに誕生した二人組だったが、課題の進行状況はまず普通。テーマも決まり、資料集めの段階にきている。
そこで、馬安中学の近くにある市立図書館に来てみたわけだ。
無事、めぼしい本は借りられた。通りに出て、歩きながら、後はネットでも探しておく、と哲朗が言った。栩麗琇那は頷く。
九十五里と違い、馬安は街灯も商店も多い。空は黒々となり始めているのに、足元は明るかった。
「加賀んチ、どの辺?」
「水高からは歩きで十分無い」
「なんだ、そんなに近かったのか。いいな、通学楽だな」
鞄の長い肩紐に片手をかけ、哲朗は鼻先をこすった。「俺、最寄りがフナハチ。電車通学って楽しそうだと思ってたけど、朝なんてたまんないよ。都心と逆に来てるからまだマシなんだろうけどさ」
栩麗琇那は顎をひと撫でした。
「俺も本当は電車通学だったかもしれない。家は九十五里だ。運良くこっちに親戚が居たから、下宿させてもらってる」
へぇ、と哲朗は興味深げに相槌を打った。
「確かに通うとなると時間キツそうだな。あ、じゃ、夏休みは帰省するのか」
「課題の進み具合で決めるよ」
「おぅ、じゃ、頑張んないとな」
哲朗は一旦そう応じたが、思い返したように言った。「別に、進みが悪くても気にしないで帰っていいぜ? 何とかなるよ」
ほんの僅か、栩麗琇那は唇の端を上げた。
「そっちこそ気にするな。家は海外にあるわけじゃない」
「けどさ、九十五里で待ってるカノジョがいたりしないのか」
栩麗琇那は低く笑った。
「いないよ」
「あれ、そうなのか。意外だな」
哲朗は頭の後ろで手を組んだ。「女子が、カノジョいるよねやっぱりー、って、加賀のこと話してた。何か加賀って落ち着いてるし、俺もそうだと思ってたよ。フリーだと知れたら狙われるぞ。よく、余所のクラスの女子も見に来てるもんな」
「……そう」
呟くように言って、栩麗琇那は息をつく。中学で繰り返した面倒な対応を、又してもやらなければならないようだ。
哲朗は、軽く唇をすぼめた。
「ストイックってヤツ? 女にまるで興味無しって感じだな」
即座に琴巳の顔が頭をよぎった。
「この歳だ。そんなことはない」
「この歳って……加賀、見た目の割に中身はじじくせーなぁ。ホントに高一だろうな」
「……正真正銘の十五だ」
ははっ、と哲朗は気さくな笑い声をあげた。
「加賀、結構面白い。漫才コンビが組めるぜ」
「立派な社会学だ。発表テーマを変えるか?」
どっちがボケやる? と、哲朗はけらけら笑いながら言う。
無言で隣を指差した時、逆から、あ、と澄んだ声がした。目を流すと、スーパーから出て来たばかりらしい琴巳が立っていた。思わず足が止まる。
たちまち動悸を自覚し、栩麗琇那は少女の顔から目を外した。
ゴールデンウイークが明けてから、栩麗琇那にとっての琴巳は、甚だ緊張を要する存在となっていた。
何故これまで平気だったのか――相手が小学生という、まやかしの枠内に居た所為だとしか思えない。何ら迷いも無く接し、平然と連れ歩いていた。以前の自分は、とんでもなく豪胆だった。
可愛らしい顔を極力見ないようにしつつ、細腕が提げているレジ袋に手を向け、荷物、と栩麗琇那は告げる。ありがと、とおずおず琴巳は委ねてきた。
つと、紹介しろと言いたげに哲朗が肘で小突いてきた。
「親戚だ」
胸中に抵抗があったが、栩麗琇那は続けた。「妹みたいなモノ」
「あー、下宿してるトコの?」
「そう」
「そかそか」
哲朗は鼻先をこすってから、琴巳に笑みを見せた。「こんちは」
「こんにちは」
琴巳も小さく応じる。栩麗琇那が袋の中身から夕飯を推測していると、哲朗が言った。
「ウチにも妹いるよ、生意気なのが」
口調から仲の良さが知れた。ふぅん、と相槌を打ち、栩麗琇那は再び歩き出す。
ウチも、実の妹だったら良かったのに……
浮かんだが、妹じゃないか、と思い直す。そう思っていないと感情の歯止めが利かなくなりそうで、己が恐ろしい。
後について来る存在をなるべく意識の外に追いやって、歩を進めた。
今後の課題の進め方を哲朗と話し合ううち、美容院カガを通り過ぎ、家に着く。ここから高校までの道順は単純だ。覚えた、と哲朗は明るく笑った。またな、と足取りも軽く去って行く。
二人になってしまうと落ち着かなさが膨れ上がった。手早く玄関を開けて家に入る。習慣で、ただいま、と口にすると綺麗にハモった。
無意識に目を投げてしまったら、琴巳のまろい双眸が見上げてきた。はにかんだように桜色の唇がほころび、おかえり、と紡いでくる。
可愛い、と繰り返さなくてもいい確認をする脳に内心で舌打ちしつつ、おかえり、とこちらも告げておいた。
洗面所へ向かいながら、苦々しさを感じる。
この厄介なモノ、早々に断ち切ってしまわないと……
故郷へ帰れることになった時、今の葛藤の程度では済まない。
七月下旬、栩麗琇那は、馬安での夏休みを初体験していた。
当初は、養父母を淋しがらせたくなかったので、琴巳達より一足早く、夏休み初日から九十五里に行くつもりだった。ところが、例の課題の件を亘に話したところ、きちんと一区切りつけてから帰って来なさい、と受話器の向こうから諭された。教師魂は健在らしい。
『ま、終わらせといた方が、すっきり遊びまくれるよな』
そう哲朗も言って、二人は交代で互いの家を行き来し、課題に取り組んでいる。後少しで発表の原稿もまとまる。八月一日の登校日後には帰れそうだった。
「お兄ちゃん、江利さんから電話」
午前十時前、琴巳がコードレスの受話器を部屋まで持って来た。
栩麗琇那は、小首を傾げながら通話ボタンを押した。これから哲朗の家に行こうとしていたのだ。
デニム地のミニスカートを履いた涼しげな後ろ姿を目の端に映しつつ、代わった、と受話器に言った。聞き慣れた声が、あっ加賀、と応じる。
〔悪いんだけどさ、今日もそっちでいい?〕
「構わない」
〔メグミの友達が三人も遊びに来るって言うんだよ。うるさくなりそうなんだよな〕
何よー、と近くから聞こえてくる。哲朗の妹の声だ。言った傍からうるせーじゃんか、と応じるのも聞こえ、栩麗琇那は目を細めた。哲朗の家は団地の三階で、加賀家より狭い。確かに賑やかになりそうだ。
「じゃ、来な」
〔おぅ。すぐ出る。じゃな〕
栩麗琇那は電話を切ると、受話器を戻しに部屋を出る。充電器は、台所にあった。
「江利さん、用事でも出来たの?」
琴巳が、テーブルに砂糖や卵を並べながら問うた。菓子でも作るつもりだろう。
受話器を置き、栩麗琇那は言った。
「家が手狭でこっちに来る」
「あ……じゃ、なるべく静かにする。うるさかったら言ってね」
「部屋の模様替えでも?」
「ヨリちゃんが遊びに来るの」
早稲順子か、と栩麗琇那は思い返す。中学に入ってから琴巳が得られた仲良しの名だ。話に聞くばかりで会ったことはないが……
「大して気にするな、お互い様だ」
硝子ボウルを手にした琴巳は、じゃあお兄ちゃん達もおやつにどう? と笑顔を見せた。
「今日は久しぶりにババロア。ヨリちゃんのリクエストなんだ」
「江利が喜びそうだ」
それで切り上げ、台所を出る。
徹底しきれない自分が腹立たしい。付かず離れずの関係では駄目なのに。慕って来ても、突き放したいのに。できない。
琴巳は、こちらが避けていることに薄々気がついている。気づかれたのだから、その通りだ、と更に避けて見せなければいけなかった。それなのに、戸惑いを含んだ目に見上げられると決心は著しくぐらついた。
拒否をはっきり示せないまま、日々と想いが着実に積み重なっていく。
前髪をかき上げ、栩麗琇那は部屋の扉に手をかけた。そこへ、とたとたと、公士が階段を降りて来た。あれっ、と少年の高い声が言う。
「兄ちゃん、電車の時間ギリギリじゃん? 今日は江利兄の家だろ」
「都合が悪くなって、向こうがウチに来る」
公士は、にたり、と笑みを浮かべた。
「オレ遊びに行くのよそうかな。江利兄、今度裏技教えてくれるって言ってたよね」
「あぁ」
テレビゲームの話だ。哲朗は、すっかり加賀家の姉弟に馴染んでいた。特に公士とウマが合うようで、弟がいたらこんな感じなんだなー、と楽しそうに言ったものだ。
可愛い声が、台所から割って入ってきた。
「コウってば、江利さんは勉強しに来るのよ?」
「解ってるや、地獄耳」
公士は台所に向かって舌を向ける。
「コウの声がおっきいだけですー」
負けじと台詞が返ってきて、ちぇっ、と公士は吐き捨てる。
「姉ちゃん、何か生意気になったなぁ。行き遅れるぞ、そんなコトじゃ」
言いながら公士は台所を覗き込む。
「余計なお世話よ、コウの方がよっぽど生意気になってきてるじゃないっ」
「け、可愛くねー」
不毛な口喧嘩を聞きつつ、栩麗琇那は自室に入る。ちらりと、公士が羨ましかった。心にも無いことをああしてぽんぽん言えたら、自分も苦労しないのだが……




