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八月三日、今日は馬安から子供達がやって来る。
数日前に、今年は姉弟二人だけで来ると知らせてきた。
たまたま電話に出た栩麗琇那に、オレが姉ちゃんを連れてくから、と公士が宣言したものだ。受話器の向こうから、千鶴子が可笑しそうに笑う声が聞こえていた。
午前六時半、九十五里の加賀家では普段より早めの朝食を囲んだ。楽しみにしてる所為か早く目が覚めちゃったのよねぇ、と光乃が言い、亘が頷く。栩麗琇那も同感だった。
一時間後、電話がかかってきた。
一家は、それぞれ何かを洗っていた。
亘は駐車場で車を。光乃は台所で食器を。栩麗琇那は浴室を。
玄関口にある固定電話に最も近かったのは養母だが、栩麗琇那は手を拭って風呂場を出た。丁度、終わったところだったから。
板張りの廊下を小走りに抜け、受話器を取る。名乗ると、元気な少年の高い声が響いた。
〔兄ちゃん、おはよー。オレだよーっ〕
「あぁ、おはよ」
子供だけの旅行だから、出がけに連絡してきたか。歳を経る毎に、弟には如実な成長を感じる。
と、予想外のことを公士は告げてきた。
〔あのね、これからオレだけ出ます。姉ちゃんは一週間ぐらいしてから行くことになった〕
胸が騒いで、栩麗琇那は受話器を持つ手に力が入った。
「琴巳、どうかしたのか」
〔赤ちゃんが産めるんだって〕
「は?」
こっ、コウの馬鹿馬鹿! と妹の声が聞こえてきた。ふぇええん、と泣き声に変わり、栩麗琇那はおたおたしてしまう。「あの、えと、公士――?」
カタカタッと受話器が手から手へ移る物音がした。千鶴子の声が、琇那君? と近づいた。
〔えっとね、えっとー、お義母さんに代わってもらえるかな?〕
「は、はい」
栩麗琇那が急いで踵を返すと、台所から光乃が気づかわしげな顔を覗かせていた。「千鶴子おばさんなんだけど」
まぁ、と言う形に口を開くと、光乃は出て来て受話器を受け取る。
「代わりました。おはよう、千鶴子さん」
何やら緊迫感の無い調子で光乃は挨拶する。日頃から、万事こうである。「――あら、まぁまぁ、おめでとう」
おめでとう?
頭の中で反芻して、栩麗琇那は横手で首を傾げる。
「そうそう。旅行前とか旅行中とか、精神的なモノかしらねぇ。琴巳ちゃんもそれねぇ」
琴巳に代わったのだろうか。よく判らない。「あ、そうしていただけるとありがたいわ。実はね、千鶴子さんにお話があったのよ。今年はコウ君がお姉ちゃんを連れて来るって言ってたから、水を差せなくて。後々に、そちらに伺おうかと思ってたんだけど――え? えぇ、ちょっとお電話やお手紙で済ませるのはどうかしらって、お話なの」
その〝お話〟は栩麗琇那の件だろう。両親は、養子が水晶高校へ行くことに賛成している。
『淋しくなるが、お前にとっては視野が広がるし、いいかもしれない』
亘は、そう言った。
千鶴子が承諾してくれれば、馬安の加賀家に下宿。無理ならば学校の近くで住まいを探そうかという話になっている。栩麗琇那としては、心の安寧の為に、前者を切望しているのだが……
光乃が電話を切り、栩麗琇那は問いかけの眼差しを向けた。養母はふっくらした手を頬にあて、ちょっと微笑んだ。
「琴巳ちゃん、今朝、初めて生理になったんですって。琇那君、解るかしら」
「あぁ――はい」
だから〝赤ちゃんが産める〟だの〝おめでとう〟だのと出て来たわけだ。
「少しナーバスになるのよね。初めてで動揺しているところで、コウ君に言い触らされちゃって、泣いちゃったみたいだわ」
なるほど、と栩麗琇那は納得する。解らないでもない。
元の世界に帰れず困惑していた時、もしシェリフがマーニュ家の面々に何から何まで事情を露呈していたら、皇子は大層プライドを傷つけられたことだろう。
「琴巳、電話切るまで泣いてるみたいだった?」
「コウ君が、怒られたのか、べそをかいてるのは聞こえたわ」
光乃は言って、くすくす笑った。
八月十一日、夏休みに加えて日曜日の九十五里中央図書館は盛況だった。椅子や机は、老若男女で粗方埋まっている。
雑誌が並んだラック近くの柱に寄りかかり、栩麗琇那は学術誌を立ち読みしていた。シェリフが二年間、一体何の実験をしていたのか、些少の興味からだ。
天才児がカナダから葉書を送ってきていた時の住所は、と或る理系大学の寮だった。付属機関の研究チームに入れてもらえたと言っていたから、論文でも出るとしたら、その大学の名前も出るだろう。ずっと探しているのだが、見つけられずにいる。
とはいえ、シェリフの名前は何度か目にした。彼は栩麗琇那に会った時、既に物理学系の博士号を取得していたようだ。柔軟な発想で導き出したのだろう、彼の名前がついた方式だの理論だのが時折、他人の論文に参考として出て来る。
手にしていた冊子からは探し出せず、栩麗琇那は紙面から腕時計に目を移した。もう数分で十一時半になる。約束の時間だった。
ここには、公士と来た。今年の自由課題は植物標本にしたとかで、図鑑を見に訪れたのだ。運良く百科事典の書架脇の席が空いていて、弟はそこで調べ物をしている。
空席は一つだけだった。栩麗琇那は借りていた本をついでに返しに来ただけだったので、すまなそうな顔の弟に、気にするな、と告げ、待ち合わせの場所と時間を約束し、別れた。そうして、後はひたすら友人の参画した実験報告を探していたのだ。
途中で会えるだろうが、一応決めた場所は出入口前だ。
栩麗琇那は雑誌をラックに戻し、出入口へ足を向けかけた。
「あの、加賀君?」
若い女性の声に、視線を流す。同い年くらいの少女が二人、互いに寄り添うように立っていた。どちらも知らない顔だ。
足を止めたが、面倒だな、と栩麗琇那は目線を逸らせた。
彼女達には、或る種の緊張を含んだ風情がある。栩麗琇那は今年に入ってから、異様なほど頻繁に、この手合いの異性と向き合うようになった。お蔭で、察知できてしまう。
「わたし達、北中の三年なんだけど、塾で南中の子達から貴男のこと聞いてて……」
俺の毛色は目立つんだな。
げんなりした気分で、ラル家の皇子は薄い色の髪に指をうずめる。
ぽーん、と云う音が館内に響いた。十一時半の合図だ。
栩麗琇那が無言であるにも関わらず、少女の一人が続けた。
「それで、ずっと、話してみたかったの。この後、お昼御飯とか、一緒にどう?」
「俺は、全て断ってるんだ」
ラックを挟んだ陰で立ち尽くしている弟に気づき、栩麗琇那は残りの台詞を口早に紡いだ。「それは聞いてなかった?」
二人が口ごもった隙に、栩麗琇那はちょいと指先をしゃくって歩き出す。
公士はすぐさま横に並んで、抱えていた栩麗琇那の鞄を手渡しながら、訊いてきた。
「フっちゃって良かったの?」
「あぁ」
「他に好きなコがいるんだ?」
「いないよ」
「じゃ、一緒に御飯食べてやったら良かったのに。オレ、一人で家まで帰れたよ?」
あぁ、と応じつつ、栩麗琇那は肩から鞄を掛ける。
「この季節にナンだけど、雪だるま式、って言葉を知ってる?」
「知ってる」
「意味も?」
「どんどん量が増してくって意味でしょ?」
「そういうコトだ」
自動ドアを通り抜け、館内と外との温度差に、栩麗琇那は寸時、間を置いた。「あの二人だけじゃ済まない。大体、好きでもない人と食事しても楽しくないだろ?」
敷地を横切り、渋い金文字の嵌められた石の脇を通過して、公士はやっと言った。
「兄ちゃん、オレと御飯食べてて――」
「楽しいよ」
栩麗琇那は短く喉を鳴らした。「いつもより賑やかになる。今年は何だか、控えめだけどな」
理由は、推測できている。
陽光の下で青々とした稲が揺れる田んぼの畦道を歩きながら、公士は小石を蹴った。てんてんと先に転がって行くのを凝視し、一言一言、吟味するように言う。
「オレ、兄ちゃんや祖父ちゃん、祖母ちゃんが嫌いじゃないんだよ。でも、何か、今年は、御飯食べてる時、あんまり、楽しくない」
「一人、欠けてる所為かな」
延々線路の方まで続く青田は、緑色の絹布がはためくようにも、さざ波のようにも見えた。眺めたまま、栩麗琇那は問うた。「琴巳と、気まずいまま来てしまったな?」
「……オレが家を出る時、部屋にこもったまま出て来てくんなかった」
公士は先程の石を蹴る。石は、畦から田の隅に転がり落ちてしまった。
「今はもう、喧嘩したこと自体、忘れてるよ」
「でも姉ちゃんて、つまんないこと、いつまでも覚えてるんだよ」
「公士にはつまらないことでも、琴巳には大事だからかもしれない」
栩麗琇那は足元からオオバコを摘むと、これは薬草だ、と公士に向けた。受け取る手を見て告げる。「覚えてるからって、根に持ってるわけじゃないだろ? それは、公士の姉さんらしくない」
「じゃ、なんでこっちに来ないんだろ」
「明日頃には、来るよ」
「母さん、一週間くらいって言ったんだ。過ぎちゃった」
潤んできている丸い瞳が、不安そうに見上げてきた。「姉ちゃん、病気だったらどうしよう」
難しいことを訊くようになってきたよな。
踏み切りを渡って、栩麗琇那は尋ねた。
「琴巳は赤ちゃんが産めるようになったって、聞いたわけ?」
「準備できるようになったんだって」
「そうだな。間違ってない」
「病気じゃないよね?」
「女の人の体は、少し大人になると、毎月、お腹にある赤ん坊の為の部屋を掃除するようになるんだ」
知識を咀嚼して、栩麗琇那はぽつぽつと語った。「ぴかぴかにするには、平均で一週間かかるらしい。今月の琴巳は、初めての掃除だから少し念入りにやってるんだろうな」
ふーん、と公士はオオバコの葉を指先でくるくる回しながら言った。
「一週間も掃除するなんて、大変だね」
「疲れるだろうな」
「今日ぐらいには終わるかなぁ」
「今晩辺り、電話が来るんじゃないか」
栩麗琇那は、ぽふっと弟の頭に手を乗せた。「そしたら、一緒に迎えに行こう」
掌の下で、小さな頭がこくりと頷いた。




